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峡谷の夜

 荷馬車は、峡谷の中へ入った。左右の岩壁が、すぐに空を狭める。馬の蹄が乾いた土を踏むたび、音が岩に当たって返ってきた。車輪の軋みも、ハインが手綱を握る音も、いつもより近く聞こえる。道幅は狭い。荷馬車一台が通るだけで、左右に余裕はほとんどなかった。岩壁の上は高く、ところどころで張り出した岩が道を覆っている。アルドは先頭を歩いていた。


 緋喰刃《ひくいじん》にはまだ触れていない。だが、意識は前方へ伸ばしている。荷馬車の上では、ノルが翠穿《すいせん》を抱えて座っていた。行儀は悪い。本人も分かっているらしく、少しだけ不満そうな顔をしていたが、視線はずっと岩壁の上を見ている。右にレイス。左にセレス。ハインの横にルシアン。後方にはエディン。峡谷の中では、その配置が必要だった。


「静かすぎるな」


 アルドが言った。


「静かな道は嫌い?」


 ルシアンが荷馬車の横から聞く。


「嫌いだな。だいたい、ろくなことがない」


「同感」


 ノルが短く言った。その瞬間だった。上から、石が落ちてきた。いや、石ではない。人の胴ほどもある岩塊だった。


「上!」


 ノルの声と同時に、翠穿が火を吹いた。三つの銃声が、ほとんど一つに重なる。三発が風をまとって一点へ集まり、落下してくる岩塊を真下から撃ち抜いた。岩が砕ける。無数の破片が降る前に、ルシアンが手を掲げた。


「水流弐式 水壁《すいへき》」


 薄い水の壁が荷馬車の上を覆い、石片を弾いた。破片が左右へ散る。その雨の向こうから、男たちの声が降ってきた。


「外したぞ!」


「なら次だ! 落とせ、落とせ!」


 岩壁の上に、盗賊たちがいた。さらに正面。道の先を塞ぐように、六人の男が現れる。後方からも足音。エディンが振り返る。


「あらぁ、早速ねぇ」


「最初は俺たちの番だ!」


 正面の盗賊が笑った。


「落とした団の総取りだ、遠慮すんな!」


 レイスの目が細くなる。


「交代制か」


「みたいだな」


 アルドは緋喰刃を抜いた。刃に蒼い炎が走る。


「荷馬車には近づけるな」


「分かってる」


 レイスが右へ動く。正面の盗賊が一斉に走った。アルドは真正面から迎えた。


「蒼炎壱式 蒼火球《そうかきゅう》」


 蒼い火球が前方へ飛ぶ。先頭の男が慌てて横へ跳ぶ。その動きで、盗賊の列が割れた。アルドはその隙間へ入る。緋喰刃が一人の剣を跳ね上げ、返す刃で二人目の脚を浅く裂く。三人目が斧を振り下ろした瞬間、アルドの足元で風が弾けた。


「旋風壱式 踏風《とうふう》」


 体が半歩分、横へ滑る。斧が土を叩く。アルドは低く踏み込み、柄頭を男の鳩尾へ叩き込んだ。右側では、レイスが岩壁を蹴って降りてきた盗賊を見上げていた。


「雷流弐式 絡縛《らくばく》」


 細い雷が水気を拾うように空気を走り、男の脚へ絡みつく。落下の勢いを失った盗賊が壁にぶつかり、そのまま地面へ落ちた。セレスは左の岩壁を見ていた。壁を走るように、二人の盗賊が横から来る。足裏に旋風の魔力をまとわせている。


「面倒なことするね」


 セレスは流涙《るるい》を抜き、左手の地咬《ちがみ》で岩肌を軽く突いた。


「水地弐式 滑床《かっしょう》」


 壁面の一部が、濡れた泥のように滑る。壁を走っていた盗賊の足が流れた。


「うわっ!」


 横から来るはずだった二人が、揃って地面へ転がる。そこへノルの弾が飛んだ。風をまとった弾丸が一人の剣を弾き、もう一発がもう一人の肩を撃つ。後方では、エディンが大剣を一振りしていた。それだけで、後ろから来た三人が足を止める。


「おねぇさん、あまり後ろを騒がせたくないのよぉ」


 笑う声は柔らかい。だが、大剣は重い。盗賊が槍を突き出す。エディンはそれを大剣の腹で受け、軽く押し返した。男の体が後ろへ浮く。その足元から岩が盛り上がった。


「大地弐式 岩枷《いわかせ》」


 岩が足首を挟む。男が転ぶより先に、エディンの大剣が槍を叩き折った。最初の襲撃は、すぐに終わった。盗賊たちは何人かを引きずりながら、岩壁の隙間へ逃げていく。


「引け! 次だ!」


「まだ荷を落としてねぇぞ!」


「知るか、決まりだろ!」


 その声が遠ざかる。代わりに、別の声が上がった。


「次は俺たちだ!」


 アルドは緋喰刃を下ろしたまま、顔をしかめた。


「冗談だろ」


「冗談ではなさそうだな」


 レイスが言った。次の盗賊団は、前から来なかった。上からだった。岩壁の斜面を滑るように、五人が降りてくる。二人は縄を使い、三人は壁を蹴っている。さらに後方から、弓を持った男が馬を狙った。


「ルシアさん! 馬です!」


 ハインの声が飛ぶ。ルシアンは即座に馬の横へ手を出した。


「水流参式 護水壁《ごすいへき》」


 水の膜が馬の側面を包み、飛んできた矢を弾く。馬が怯えて足を乱した。ハインが手綱を強く引く。


「大丈夫です。大丈夫、進んでください」


 声は震えていた。だが、手は離さなかった。その隙を狙って、後方の盗賊が荷馬車へ走る。


「レイさん! 後ろ!」


 ハインの声が再び飛んだ。レイスは振り向きもせず、右手を後ろへ払う。


「雷風弐式 迅閃《じんせん》」


 雷を帯びた風が後方へ抜けた。走っていた盗賊の足が止まり、次の瞬間、体が横へ弾かれる。


「助かった」


 レイスが短く言う。


「いえ!」


 ハインはそれだけ返し、すぐに前を見る。岩壁から降りてきた盗賊の一人が、荷馬車の上のノルへ飛びかかった。ノルは翠穿を動かさない。銃身が近すぎる。代わりに、空いた片手を上げた。ノルの指先に黄色い雷が走る。そのまま盗賊の腕へ触れると、男の体が硬直した。ノルはそのまま足で蹴り落とした。


「行儀悪いのは、そっち」


 セレスが左から飛び込んできた二人を流涙で受ける。短剣同士がぶつかり、火花が散った。一人は力で押してくる。もう一人は低く回り込む。セレスは足元へ魔力を流した。


「大流参式 泥鎖《でいさ》」


 湿った土が鎖のように伸び、低く回り込んだ男の膝に絡む。動きが止まった瞬間、セレスは体をひねり、もう一人の剣を流した。そこへアルドが来る。蒼炎が横から走った。


「蒼炎壱式 乱火《らんか》!」


 不規則に弾けた火球が、盗賊たちの足元を焼く。悲鳴と怒号が峡谷に響いた。だが、終わらない。次の団が来る。その次も来る。時間で区切られているのか、合図で区切られているのか、盗賊たちは一定の間隔で引き、別の集団が入ってきた。


「おい、まだ俺たちの番だろ!」


「時間だ! 次に回せ!」


「ふざけんな、あの荷は俺たちが落とす!」


「落としてから言え!」


 そんな声が、岩の上から何度も降った。黒豹は勝っていた。一戦ずつなら、苦戦ではない。正面から来るならアルドが斬る。後ろから来るならエディンが潰す。右はレイスが絡め取り、左はセレスが足場を奪う。上はノルが撃ち抜き、ハインと馬はルシアンが守る。だが、峡谷は嫌な場所だった。前か後ろにしか進めない。荷馬車は止まれば狙われる。岩壁の上からは石が降る。


 横からは壁を走る盗賊が来る。弓は馬を狙う。魔法使いは車輪を狙う。何度目か分からない襲撃で、地面が大きく揺れた。


「車輪!」


 セレスが叫ぶ。左側の岩陰から、大地魔法を使う盗賊が手を地面につけていた。


「大地弐式 砕岩拳《さいがんけん》!」


 地面から突き上がった岩が、荷馬車の左前輪を掠めた。車輪が嫌な音を立てる。木が裂ける音。軸がわずかに曲がる音。荷馬車が大きく傾いた。


「止めるな!」


 レイスが叫んだ。


「止まったら囲まれる!」


 セレスがすぐに車輪の横へ走る。


「水地弐式 滑床《かっしょう》!」


 車輪の下の土が一瞬だけ滑り、引っかかりを逃がす。ルシアンは馬へ風を送る。


「旋風壱式 追風《おいかぜ》」


 馬の脚に風が沿い、荷馬車が傾いたまま前へ出た。軋む。だが、動く。


「まだいけます!」


 ハインが叫ぶ。額に汗が浮いていた。


「少し左へ寄せます!」


「寄せすぎるな、岩に当たる!」


 レイスが返す。


「分かっています!」


 アルドは大地魔法の盗賊へ走った。前方から二人が割り込む。アルドは足を止めない。


「雷荷壱式 閃打《せんだ》」


 左手に走った雷を、一人目の剣へ叩きつける。男の腕が跳ねた。もう一人が短槍を突く。アルドは緋喰刃で短槍を弾き、踏み込む。


「水流弐式 断波《だんぱ》」


 薄い水の刃が地面すれすれを走り、男の足元を払う。倒れた男を越えて、アルドは術者へ迫った。


「蒼炎弐式 蒼炎蛇《そうえんじゃ》」


 蒼い炎の蛇が二本、地面を這う。盗賊の両腕へ巻きつき、魔法の発動を止めた。


「ぎゃあっ!」


「車輪狙ったのはお前か」


 アルドは低く言い、剣の背で男の顎を打った。男はそのまま沈む。荷馬車は、軋みながら進んだ。それでも進んだ。昼が過ぎた。光が岩壁の片側へ寄る。影が深くなる。盗賊の襲撃は止まらなかった。どこから出てくるのか分からない。どれほどの団がいるのかも分からない。


「次は俺たちだ!」


「おい、前の連中がまだ倒れてるぞ!」


「踏んでいけ!」


「荷を落とした団の総取りだ! 遅れるな!」


 声だけは元気だった。それが、余計に腹立たしかった。


「もう何団目だ」


 アルドが蒼炎を散らしながら言った。


「数えるな」


 レイスが岩壁から降りてきた男を絡縛で落としながら返す。


「数えると腹が立つ」


「もう立ってる」


「なら十分だ」


 ノルの翠穿が吠えた。また落石。また三発。大岩が砕け、破片が水壁に散る。


「岩、もう飽きた」


 ノルが低く言う。


「撃つ前に言うな」


 セレスが車輪の横で泥を払う。


「撃った後ならいい?」


「どっちでも同じだよ」


 ルシアンはハインの横で、馬の首筋へ手を添えた。


「落ち着いて。大丈夫」


 指輪に淡い魔力が灯る。水流の魔力が、馬の擦り傷を薄く塞ぐ。馬は息を荒くしていたが、まだ走れる。ハインは唇を噛みながら前を見ていた。彼は戦えない。だが、全体を見ていた。


「セラさん! 左上!」


 セレスが顔を上げる。壁を走る盗賊が、頭上から短剣を落とそうとしていた。セレスは流涙を逆手に持ち替える。落ちてきた刃を受け、体を横へずらす。同時に地咬が男の足を切った。盗賊が地面へ落ちる。


「ありがとう、ハインさん!」


「見えていただけです!」


「それが助かる!」


 エディンが後方で笑った。


「ハインちゃん、いい目ねぇ」


「褒められる場面ですか、これ!」


「もちろんよぉ」


 その声にかぶさるように、また笛が鳴った。今度は短く、鋭い音だった。盗賊たちの動きが変わった。


「笛だ!」


「引け、引け!」


「まだ荷を落としてねぇ!」


「馬鹿、夜の番だ! 欲張って食われる気か!」


「生き残ってたら朝に分け前だ!」


 盗賊たちは、潮が引くように散っていった。岩壁の上へ。横道の影へ。狭い裂け目の奥へ。峡谷に、急な静けさが落ちる。アルドは緋喰刃を構えたまま、息を吐いた。


「終わりか」


「違う」


 エディンが言った。その声に、全員が反応した。岩壁の影。前方の暗がり。後方の道。黒いものが、ゆっくりと這い出してくる。夜骸《やがい》。まず、雑級が来た。歪んだ小さな獣の群れが、地面を掻いて迫る。


「来るぞ」


 レイスが言う。アルドはすぐに前へ出た。


「進め! 止まるな!」


 ハインが手綱を鳴らす。荷馬車が動く。雑級が正面から飛びかかる。蒼炎が走った。アルドが一体目を焼き斬り、二体目を蹴り飛ばす。三体目が車輪へ噛みつこうとした瞬間、ノルの弾が頭部を撃ち抜いた。左から低級が来る。大きな狼のような輪郭。骨が歪み、肩が不自然に膨らんでいる。


「セラ!」


「分かってる!」


 セレスは流涙と地咬を交差させる。


「大流参式 泥鎖《でいさ》」


 泥の鎖が低級の前脚へ絡む。夜骸が倒れ込む。そこへルシアンの風が飛ぶ。


「旋風弐式 風槍《ふうそう》」


 圧縮された風が低級の首を貫いた。右から来た低級を、レイスが雷流で止める。


「雷流参式 鳴瀑《めいばく》」


 雷を帯びた水流が地面を走り、夜骸の脚をまとめて打った。動きが止まる。アルドの蒼炎が、その首を断つ。後方では、エディンが大剣を振っていた。雑級を一体、二体、三体とまとめて払う。刃の軌道に風が巻き、倒れた夜骸の残骸を後ろへ押し返した。だが、数が増える。盗賊とは違う。夜骸は引かない。痛みを恐れない。荷を狙うのではなく、生きているものへ向かってくる。


 戦いながら進む。進みながら戦う。それだけでもきつい。なのに、前方の暗がりから、さらに大きな影が現れた。同時に、後方からも。レイスの顔が険しくなる。


「前後に中級」


「形は」


 アルドが問う。


「知能はなさそうだが。厄介だ」


 前の中級は、長い胴を持つ獣だった。肋骨のような突起が背に並び、口が左右に裂けている。後ろの中級は、脚の多い獣だった。蜘蛛にも犬にも見える。どちらでもない。エディンが大剣を構える。


「後ろは任せてぇ」


「前は俺がやる」


 アルドが言う。


「レイス、足を止めろ」


「三秒でいいか」


「十分だ」


 レイスは前方へ手を伸ばす。


「雷流弐式 絡縛《らくばく》」


 雷を帯びた水が地面を走り、中級の脚へ絡みついた。中級が吠える。力任せに引きちぎろうとする。アルドは踏み込んだ。足元に旋風。刃に蒼炎。


「蒼炎壱式 蒼火球《そうかきゅう》」


 まず火球を顔面へ叩き込む。中級の頭が逸れた。次の瞬間、アルドは懐へ入っていた。緋喰刃が下から斜めに走る。蒼炎が肉を裂き、黒い骨を焼く。中級は倒れない。尾のように伸びた骨が、横からアルドを狙う。


「アル!」


 ルシアンの声。水壁が間に滑り込み、骨の一撃を受ける。壁が割れた。だが、勢いは死んだ。アルドはその骨を左手で掴む。


「雷荷弐式 迅雷《じんらい》」


 雷が走る。中級の体が強張った。その一瞬で、アルドは首へ刃を入れた。後方では、エディンが中級の脚を一本ずつ潰していた。大剣で受け、流し、切る。さらに足元の岩を隆起させる。


「大地参式 岩杭《がんこう》」


 地面から突き出た岩杭が、中級の腹を持ち上げた。動きが浮く。セレスが左から走り込む。毒の魔力を込めた短剣が、関節の薄い部分へ入る。ノルの三発が、同時に撃たれた。三発が別々に曲がり、三本の脚を撃ち抜く。エディンの大剣が、最後に頭部を断った。中級二体が崩れる。息をつく暇はなかった。また笛が鳴った。今度は盗賊の声が戻ってくる。


「夜骸は抜けたぞ!」


「今だ、荷を落とせ!」


「倒したら山分けじゃねぇ、俺たちの総取りだ!」


 アルドは一瞬だけ空を仰いだ。


「本当に、いい加減にしろ」


 盗賊が来る。夜骸の残骸を踏み越えて。疲れた黒豹を見て、今度こそ落とせると判断した顔で。蒼炎が、静かに燃えた。そこから先は、時間の感覚が崩れた。盗賊。夜骸。盗賊。夜骸。笛が鳴る。引く。来る。斬る。焼く。撃つ。防ぐ。治す。進む。止まる。また進む。何度目かの盗賊団は、鎖付きの鉤を投げて荷台を引こうとした。


 レイスが雷風で鉤を弾き、アルドが蒼炎蛇で投げ手をまとめて拘束した。次の盗賊団は、岩壁の上から火炎魔法を落とした。ルシアンが護水壁を広げ、ノルが術者の足場を撃ち抜いた。その次は、大地魔法で道を歪めた。セレスが滑床で車輪を逃がし、エディンが後方から岩を砕いた。夜骸は低級が多かった。だが、時折中級が混じった。


 一体だけでも面倒なものが、疲労の底に落ちた体へ食らいついてくる。アルドの蒼炎は何度も峡谷を照らした。レイスの雷流は何度も地面を走った。ノルの翠穿は、何度も弾倉を差し替えた。セレスの短剣は泥と血と黒い粘液で汚れた。ルシアンの指輪は、何度も淡く光った。エディンの大剣は、最後まで鈍らなかった。それでも、疲れは消えない。魔力も、息も、筋肉も、少しずつ削れていく。


 ハインは声を枯らしながら、何度も叫んだ。


「ノーラさん、上です!」


「セラさん、車輪!」


「レイさん、後ろ!」


「ルシアさん、馬が!」


 戦えない。だが、見ていた。見えているものを、叫び続けた。夜が深くなった。星は見えない。峡谷の空は細すぎた。岩壁の上から、盗賊の声も少なくなっていく。それでも襲撃は止まらない。最後の中級は、夜明け前に来た。低級の群れを連れて、前方から。疲れきった馬が怯えて足を止めかける。ハインが手綱を握り直した。


「進め……進んでください……!」


 ルシアンが馬の横へ手を伸ばす。


「旋風壱式 追風《おいかぜ》!」


 風が馬の脚に添う。馬が一歩出る。その前で、アルドがふらついた。だが、倒れない。蒼炎が刃に灯る。


「レイ」


「分かってる」


 レイスも限界に近かった。それでも、手を地面へ向ける。


「雷流参式 鳴瀑《めいばく》」


 雷を帯びた水流が、中級の脚を打つ。いつもより細い。だが、届いた。セレスが地面へ短剣を突き立てる。


「大流参式 泥鎖《でいさ》」


 泥の鎖が絡む。ノルが翠穿を構える。三つの銃口が揺れた。それでも狙いは外さない。銃声。中級の片目が潰れる。ルシアンの風槍が首元へ入る。エディンが後方の低級を斬り捨て、振り向いた。


「アルちゃん」


「分かってる」


 アルドは踏み込んだ。


「蒼炎弐式 蒼炎蛇《そうえんじゃ》」


 蒼い蛇が中級の首と前脚へ絡む。焼きながら、引き倒す。中級が暴れた。岩壁へ尾を叩きつける。破片が落ちる。ノルが撃つ。破片が砕ける。アルドはその下を抜けた。緋喰刃が、蒼炎を引いて走る。中級の首が落ちた。朝の光が、峡谷の上に差し始めた。波が止まった。最初は、誰もそれを信じなかった。次が来る。また笛が鳴る。また岩が落ちる。また夜骸が這い出す。


 そう思って、全員がしばらく構えていた。だが、来なかった。風だけが、峡谷を抜けていく。乾いた砂が、足元を撫でた。レイスが膝をついた。セレスが荷馬車の横で座り込む。ノルは荷台の上で翠穿を抱えたまま、横へ倒れた。ルシアンは馬に手を添えた姿勢のまま、糸が切れたように崩れた。ハインが息を呑む。


「皆さん!」


「寝てるだけだ」


 アルドが言った。声は掠れていた。


「たぶんな」


「たぶんって言わないでください」


 ハインの顔は真っ青だった。エディンですら息を上げていた。額に汗が滲み、肩が上下している。それでも立っている。


「大怪我は、なさそうねぇ」


 エディンはルシアンの様子を見て、次にセレス、レイス、ノルを見る。


「でも、限界ねぇ」


「ああ」


 アルドも緋喰刃を鞘へ戻すのに、少し時間がかかった。指に力が入りきらない。荷馬車はひどい状態だった。左前輪はひび割れ、車軸は軋んでいる。荷台の片側には大きな傷があり、布で縛った応急処置が何本も走っていた。それでも、まだ動く。


「寝かせるぞ」


 アルドが言った。エディンは頷き、手を上げた。


「旋風弐式 浮羽《ふう》」


 弱い風が四人の体を包む。完全に浮かせるほどではない。重さを少しだけ軽くする。アルドが一人ずつ受け、荷馬車の屋根へ上げていく。浮羽に支えられた身体は驚くほど軽いが、意識のない手足はそれでも不安定だった。レイス。セレス。ルシアン。ノル。


 屋根へ布を敷き、四人を並べる。アルドが身体の向きを整えている間も、エディンは浮羽を解かなかった。弱い風が四人の重さを受け続け、揺れた拍子に屋根から滑らないよう身体の下を撫でている。それでも傷んだ車体は、四人を載せた瞬間に低く軋んだ。ハインの顔が引きつる。


「積載が……」


「分かってるわぁ」


 エディンが荷馬車の横に立つ。片手を車輪へ向ける。


「大地参式 岩鎧《がんがい》」


 車輪と車軸に、大地の魔力が薄くまとわりつく。木と金具の継ぎ目が、土色の魔力で補強された。軋みが少しだけ低くなる。


「それだけだと重くなるわねぇ」


 エディンは次に馬へ手を向けた。


「旋風弐式 追駆《ついく》」


 風が馬の脚と体へ沿う。疲れ切った馬が、わずかに首を上げた。


「馬の力を無理に引き出してるわけじゃないわぁ。重さを流してるだけよぉ」


「十分だ」


 アルドは荷馬車の後方へ回った。


「エディは前を頼む」


「ええ」


 エディンは荷馬車の前へ立つ。魔法を維持しながら、馬と車輪の動きを見る。ハインは震える手で手綱を握り直した。


「まだ……行けます」


「無理はするな」


 アルドが後ろから言った。


「無理をしないと進めません」


 ハインはかすかに笑った。


「商人ですので」


 その言葉に、アルドも少しだけ笑った。荷馬車は、再び動き出した。朝の峡谷を進む。前にはエディン。後ろにはアルド。屋根には、浮羽に支えられたまま眠るように倒れた四人。手綱を握るハイン。車輪は軋む。馬の息は荒い。それでも、一歩ずつ進む。どれほど進んだのか、分からなくなった頃。岩壁が、少しずつ低くなり始めた。空が広がる。風の匂いが変わる。


 乾いた石の匂いに、湿った土と葉の匂いが混じる。峡谷を抜けた。目の前には、森が広がっていた。ハインは手綱を握ったまま、しばらく何も言えなかった。


「……抜けました」


 声が震える。アルドは後方を見た。峡谷の裂け目は、まだそこにある。だが、もう中ではない。


「目的地までは」


 アルドが聞く。


「まだ、一日ほどかかります」


 ハインは答えた。


「ですが、この森の中なら、少し進めば休める場所があります」


「そこまで行くぞ」


 エディンが言った。


「ここで止まるより、その方がいいわぁ」


「ああ」


 アルドは頷いた。荷馬車は森へ入った。木々の影が、朝の光を柔らかく遮る。鳥の声が聞こえた。それが、ひどく遠いものに感じられた。しばらく進んだところで、ようやく少し開けた場所があった。ハインが馬を止める。エディンは浮羽を維持したまま、屋根の四人を確認した。車輪が、低く軋んだ。アルドはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。そして、ゆっくり息を吐く。


「休むぞ」


 短い言葉だった。誰も返事はしなかった。返事をする力が、もう残っていなかった。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き明日の20時頃更新予定です。

第4章佳境です!お楽しみください〜〜

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