黒豹のしっぽ
翌朝。王都討祓軍本部、総隊長室。第二部隊隊長ヴァルムは、机の前で報告を終えた。
「以上です」
ローグレスは、机上に置かれた報告書へ目を落としていた。紙面には、ガルツ村周辺で確認された大級夜骸の残骸について記されている。討祓済み。討祓者不明。村人は夜間、村長の指示により外へ出ていない。村長も討祓者の所在を知らない。宿屋に確証なし。そして、現場には異常な戦闘痕。
「大級が、何者かに討たれたと」
「はい」
ヴァルムは背筋を伸ばしたまま答えた。
「我々が到着した時点で、大級はすでに討祓されていました」
「痕跡は」
「最後の一撃は、相当な威力だったようです」
ヴァルムの声には、感情よりも報告の硬さがあった。
「大級の胴体は左右に断たれ、その下の地面まで深く裂けていました。それに、切断面には焼け焦げた跡もあります」
ローグレスの指が、報告書の端に触れた。薄い紙が、わずかに鳴る。
「アルドか?」
短い問いだった。ヴァルムは一拍だけ置いた。
「断定はできません」
「だろうな」
「ですが、大級を討祓できる戦力。剣による強力な切断痕。さらに炎を伴う攻撃となれば、可能性は限りなく高いかと」
ローグレスは目を伏せた。沈黙が落ちる。長い沈黙ではなかった。だが、ヴァルムはその間、一切動かなかった。
「そうか」
ローグレスが呟く。
「生きていたか……」
「その可能性が高いと判断します」
ヴァルムは続けた。
「加えて、ガルツ村の被害はありません。大級は村の外で討祓されていました。村人の証言から見ても、何者かが意図的に村から引き離して戦ったものと思われます」
「追われる身になっても、人助けをしているようです」
ヴァルムの言葉は、淡々としていた。ローグレスは報告書を閉じた。
「少し…安心した」
ヴァルムは一礼する。
「失礼します」
ローグレスは短く頷いた。
「ああ。ご苦労だった」
ヴァルムが退出する。扉が閉まる。総隊長室には、しばらく紙の匂いと静けさだけが残った。同じ頃。第三部隊の隊長室では、クライスがロザリアへ報告を行っていた。机の上には、数枚の記録紙が並べられている。宿帳の写し。ガルツ村で確認された商人の名。その中に、ハインの名があった。
「だそうです」
クライスは最後の紙を置いた。ロザリアは椅子に深く座り、指先で机を軽く叩いた。
「ハイン……ねぇ」
唇の端が、わずかに上がる。
「あの時の商人が、随分立派になったようね」
「彼の商圏では、それなりに名が通っているようです」
「そう」
ロザリアは紙を一枚持ち上げた。
「ハインと行動している可能性が高いわね」
「ハインを連行しますか」
クライスの声に感情はない。必要な手段を、ただ提示しただけだった。ロザリアは軽く鼻で笑った。
「無理だわ」
「なぜですか」
「今、私たちは黒豹を犯罪者として追っているわけではないもの」
ロザリアは頬杖をつく。
「表向きには、消息不明の第一部隊。あるいは、重要参考人。そんなところでしょう? ハイン商会に踏み込んで、商人を連行する名目がない」
「こちらが内密に動いていることが、裏目に出ているということですか」
「ええ」
ロザリアは目を細めた。
「堂々と指名手配していれば、もっと楽なのだけれど」
少しだけ声が低くなる。
「上は、なぜそうしないのかしらね」
「私には分かりかねます」
「私もよ」
ロザリアは立ち上がった。椅子が小さく軋む。
「とにかく、黒豹のしっぽが出たわ」
「はい」
クライスはすぐに紙をまとめる。ロザリアは窓の外を見た。王都の空は、よく晴れていた。晴れているほど、人の影は見えやすい。同じ朝。王城の奥、灰冠の一室。そこには、陽の光がほとんど入らなかった。壁も床も冷たい色で統一され、机の上には必要最低限の書類しかない。飾りはない。余白すら、余計なものとして切り落とされたような部屋だった。
その机の向こうに、白髪の男が座っていた。年は五十を越えている。短く刈られた側頭部と、後ろへ流された銀白の髪には乱れがない。鋭い眉の下にある細い目は、報告者を見ているようで、その奥の情報だけを見ているようでもあった。灰冠隊長、イグレス。男の前に、灰冠の隊員が膝をつく。
「隊長。黒豹と思われる一団がガルツ村に現れました」
「そうか」
イグレスの声は低かった。驚きも、喜びも、苛立ちもない。
「追いますか」
隊員が問う。イグレスはすぐには答えなかった。
「情報は、相変わらず途絶えたままか」
「はい」
隊員は頭を下げる。
「音沙汰ありません」
「分かった」
イグレスは机に置かれた書類へ視線を落とす。黒豹。ガルツ村。大級討祓。それらの文字を、ただ順に見た。
「追え」
「はっ」
隊員が返事をする。イグレスはそこで一度だけ、間を置いた。
「ただし、状況が変わった」
隊員の背筋がわずかに強張る。
「殺すな。連行しろ」
「動けない状態にしてもよろしいでしょうか」
「生きていて、口がきければいい」
「はっ」
短い返答が、冷たい部屋に落ちた。昼過ぎ。林の中を、荷馬車が進んでいた。二頭の馬がゆっくりと土道を踏む。車輪が小石を噛み、乾いた音を立てる。木々の隙間から差し込む光は柔らかく、外套の赤茶色を淡く照らしていた。先頭を歩くのは、アルドとエディンだった。二人は並んで歩いている。少し離れて、ハインの荷馬車。その左右を、それぞれノルとセレス。
後方を、レイスとルシアンが囲む。見た目だけなら、商人と護衛の旅だった。だが、先頭の二人は別のものを見ていた。アルドは目を瞑る。空気中に漂う、薄い魔力を感知する。
「二時の方向、十一メートル」
アルドが言った。
「猪が二頭」
エディンは前を見たまま、楽しそうに笑う。
「親子?それとも大人が二頭?」
「大きさから見て、親子だと思う」
「正解」
エディンが少しだけ頷く。
「他には?」
アルドは眉を寄せた。さらに意識を広げる。木の形から葉の形まで、情報を拾っていく。
「……いない」
「残念」
エディンが軽く指を立てた。
「鳥が二羽いるわぁ」
「え?」
「上よ」
アルドは意識を上に集中し直す。枝の上。葉の影。そこに、小さな鳥が二羽止まっていた。
「……本当だ」
「上にも気を払わないと意味ないわぁ」
エディンは歩調を変えない。
「ちゃんと空間全体を掴まないと、面じゃダメよぉ」
「疲れるな、これ」
「慣れるまでは神経を使うものよぉ」
「簡単そうに言うな」
「簡単じゃないもの」
「腹立つな」
「ふふっ」
後方では、レイスがルシアンの隣で目を閉じていた。歩きながら、静かに集中する。呼吸を整える。空気中の魔力を探る。だが、何も掴めない。しばらくして、レイスは目を開けた。小さく息を吐く。
「出来ない?」
ルシアンが聞いた。
「ああ」
レイスは眉間に皺を寄せる。
「駄目だ。俺には向いていないのかもな」
「アルドとエディンが得意ってことは、きっと感覚が大事なんだよ」
ルシアンは柔らかく言った。
「だから、理論派のレイスは、掴むまでは長いのかもね」
「なるほどな」
レイスは少しだけ目を伏せた。
「でも、きっと掴みさえすれば、どんどん上達するんじゃない?」
「だといいが」
「きっとそうだよ。がんばれ」
「ああ」
レイスは再び目を閉じた。荷馬車の左側では、サクサクという小さな音がした。セレスが横を見る。ノルは翠穿を抱え、何食わぬ顔で前を見ていた。
「なんかサクサク音がするんだけど、何かな。ノル、分かる?」
「……知らない」
「お菓子食べてない?」
「……食べてない」
ノルの口元に、小さな欠片がついていた。セレスは荷馬車をじっと見つめる。
「……食べてない」
「まだ何も言ってないよ」
「言いそうだった」
ハインが荷馬車の上で笑った。
「危険な道なはずなんですけどねぇ」
手綱を握ったまま、少し肩を揺らす。
「ハイキングかと思うくらいの空気です」
その瞬間。アルドが目を開けた。
「全員止まれ」
声が低くなる。
「ハイキング終了だ」
荷馬車が止まった。ハインが手綱を引き、馬が鼻を鳴らす。林の中から、男たちが現れた。一人。二人。三人。その後ろにも、木の陰から次々と姿が出る。荒れた服。汚れた剣。獣の皮を雑に巻いた肩。腰に赤い短鎖はない。アルドは緋喰刃に手をかけた。
「赤鎖じゃないな」
「そうねぇ」
エディンは目を細める。
「何人?」
アルドは周囲へ意識を広げる。前方。左。右。木の裏。低い茂み。
「……十四?」
「残念。十七よ」
「あーあ!」
アルドが天を仰ぐ。
「もう嫌になっちゃうなぁ!」
エディンが楽しそうに笑った。
「ふふっ。残念でしたぁ」
盗賊の一人が剣を抜いた。
「何をごちゃごちゃ言ってやがる!」
別の男も続く。
「荷を置いていけ! 抵抗するなら、まとめてぶった斬るぞ!」
アルドは感情的に言い返す。
「お前ら、ぶった斬ってやる!」
レイスが一歩動きかける。エディンが笑いながらアルドを見る。
「手伝いましょうかぁ?」
「いらない!」
アルドは緋喰刃を抜いた。
「一人でやる。お前らは荷馬車を守れ」
盗賊の男が顔を歪める。
「舐めてんのかァ!」
剣を振り上げ、周囲へ怒鳴った。
「おい、テメェら! このガキぶち殺せ!」
盗賊たちが一斉に動いた。アルドは低く笑った。
「行くぞ、盗人共ォ!」
緋喰刃の刃に、蒼い火が走る。
「八つ当たりだァ!」
最初の一人が踏み込む。アルドは真正面から受けなかった。半歩ずれて、剣を弾く。同時に足元へ蒼炎が散った。
「蒼炎壱式 乱火」
アルドの前方で、蒼い火球が不規則に弾けた。一つは盗賊の足元を焼き、一つは剣を持つ手の近くを掠め、一つは背後の木に叩きつけられる。熱と光に、盗賊の列が崩れた。
「うわっ!?」
「何だ、この火!」
アルドはその隙間へ入る。緋喰刃が一人の剣を跳ね上げる。返す刃で、もう一人の肩口を浅く裂く。踏み込んできた三人目の腹へ、柄頭を叩き込む。男が膝から崩れるより早く、アルドは指先を払った。
「蒼炎壱式 蒼火球」
蒼い火球が横から迫っていた男の足元へ落ちる。爆ぜた火に煽られ、男が悲鳴を上げて転がった。林の左側から、三人が回り込む。ノルが翠穿を構えかけた。
「放っておけ、俺たちは荷馬車を守るだけでいい」
レイスが止める。
「分かった」
ノルは翠穿を下ろす。アルドは左の気配へ振り向き盗賊に向かって指をさす。口元だけで笑う。
「蒼炎弐式 蒼炎蛇」
アルドの指先から生まれた蒼い炎が地面を這った。蛇の形を取った炎が、三本。落ち葉の上を滑るように走り、回り込もうとした盗賊たちの体へ巻きつく。
「ぎゃあっ!」
「熱っ、熱い!」
「取れねぇ!」
炎の蛇は盗賊の全身を締め、燃やしながら動きを奪う。アルドはそこへ踏み込まない。正面の敵だけを見た。四人が同時にかかってくる。剣。斧。短槍。棍棒。アルドは一歩下がった。蒼炎が、緋喰刃の軌跡に沿って散る。一人目の剣を受け流す。二人目の斧をかわす。三人目の短槍を刃で滑らせ、手元を蹴り上げる。四人目の棍棒が迫った瞬間、アルドの足元で蒼炎が弾けた。踏み込みが跳ねる。
アルドの体が一瞬で懐へ入った。棍棒の男の顎へ、剣の柄が入る。男が崩れる。
「次」
アルドは振り向く。盗賊の顔から、勢いが消え始めていた。
「囲め! 囲めば――」
「遅い」
アルドの声が重なる。乱火が再び散った。火球が左右に跳ね、盗賊たちの足を止める。アルドはその中心を抜けた。斬る。払う。蹴る。焼く。蒼炎が林の中を走り、緋喰刃がその光を裂いた。盗賊たちは、斬られているのか、焼かれているのか、転ばされているのかも分からないまま、次々と地面へ転がった。最後に残った大柄な男が、震える手で斧を構えた。
「く、来るな……」
「お前らが来たんだろ」
アルドは一歩で距離を詰める。斧が振り下ろされる。緋喰刃がそれを横から弾いた。男の体勢が崩れる。アルドの膝が腹へ入る。男が息を詰まらせ、前のめりになったところへ、剣の背が首筋を叩いた。巨体が地面へ落ちる。蒼炎蛇に拘束されジタバタしている盗賊に向かってアルドが指を鳴らす。パチンッ蒼炎蛇が爆発した。静かになった。蒼炎が消える。焦げた草の匂いだけが残った。
アルドは緋喰刃を振って、刃についた土を払う。それから鞘へ戻した。
「はい、終わり」
肩を回す。
「すっきりした」
レイスが倒れた盗賊たちを見た。
「八つ当たりにしては、手際がよかったな」
「それ、褒めてるのか」
ルシアンが少し笑う。
「でも、荷馬車には近づけなかったね」
「当然だ」
アルドは前を向く。
「行くぞ。こいつらが起きる前に離れる」
「はい」
ハインは手綱を握り直した。
「本当に、危険な道なんですね」
ノルが袋からお菓子を一つ取り出す。
「今さら」
セレスがそれを見る。
「やっぱり食べてる」
荷馬車は再び動き出した。林道は長かった。盗賊の襲撃で少し足は止まったが、日が傾く頃には木々の間隔が少しずつ広がり始める。夕暮れの光が、幹の向こうに赤く滲む。風が変わった。湿った林の匂いが薄れ、代わりに広い土と草の匂いが入ってくる。やがて、一行は林を抜けた。目の前に、広大な平原が広がっていた。空はすでに夜へ傾いている。
月は雲の奥に隠れ、遠くの地平線だけが薄く明るい。平原の向こうで、黒い影が動いていた。三つ。四つ。いや、それ以上。遠すぎて、正確な数は分からない。等級も分からない。ただ、夜骸の姿であることだけは分かった。レイスが前方を見る。
「アルド」
「なんだ」
「また一人でやるか?」
「数次第だな」
アルドは目を細める。だが、遠い。自分の感知範囲の外だった。
「エディン、分かるか。俺の範囲外だから分からない」
エディンは平原の先を見ていた。いつもの笑みが、少しだけ薄くなる。
「やめた方がいいわねぇ」
「なんで?」
ノルが短く聞く。
「一旦、林に引き返しましょう」
エディンの声は柔らかい。けれど、軽くはなかった。
「前の大行進を思い出す数よぉ」
ルシアンの表情が強張る。セレスも荷馬車の脇で足を止めた。ハインが手綱を握る手に力を込める。
「勝てないわけじゃないでしょうけど」
エディンは続ける。
「わざわざ無理する必要はないわ」
アルドは平原の向こうを見た。黒い影の群れは、こちらへ向かっているわけではない。ただ、同じ方角へ進んでいる。ゆっくりと。止まらずに。
「そうだな」
アルドは短く言った。
「戻るぞ」
誰も反論しなかった。ハインが馬を静かに返す。荷馬車の車輪が、林の方へ向きを変えた。一行は音を抑えながら、来た道を戻る。背後の平原では、夜骸の大群が進んでいた。どこへ向かっているのか。何に引かれているのか。それは、まだ分からない。ただ、黒い影の群れは、夜の平原をゆっくりと行進し続けていた。
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