残された報告書
翌朝、王都討祓軍本部には、雨の匂いが残っていた。夜のうちに軽く降ったらしい。石造りの廊下はところどころ湿っていて、窓の外では兵士たちが訓練場の水たまりを避けながら走っている。王都の空は白く曇り、白祈塔の頂も霞んで見えた。アルドは欠伸を噛み殺しながら、総隊長室へ向かっていた。隣を歩くレイスは、いつも通り留帳を抱えている。
いつも通り。少なくとも、見た目は。
「寝たか?」
アルドが聞いた。
「寝た」
「何時間」
「必要な分」
「質問に答えてないぞ」
「必要な分だ」
「それ、絶対足りてないやつだろ」
レイスは返事をしなかった。アルドはため息をつく。
「ミリナには怒られなかったのか?」
「怒られた」
「じゃあ守れよ」
「努力はしている」
「努力じゃなくて寝ろって言われただろ」
レイスは眼鏡の位置を直した。
「お前に生活習慣を指摘される日が来るとはな」
「俺だって寝る時は寝る」
「寝すぎる時がある」
「健康的だろ」
「限度がある」
いつものやり取りだった。それでも、アルドは少し安心した。レイスは疲れている。カワ村の件で頭を使いすぎた。だが、妹に会えたことで、どこか張り詰めすぎていた糸が少しだけ緩んでいるようにも見える。緩んだというより、切れずに済んだというべきかもしれない。総隊長室の前に着く。
レイスが扉を叩いた。
「レイスです。アルドもいます」
「入れ」
ローグレスの声が返る。中に入ると、昨夜と同じように書類の山があった。いや、昨夜より増えている。机の端にはカワ村の地図、棺の破片を包んだ布、根状異常体の報告書、国軍からの照会文、白天還教へ送る予定の文案が並んでいた。部屋の隅では、ジークが静かに書類を整理している。
黒に近い灰色の髪を後ろで束ね、地味な文官服を着た男。相変わらず、いるのが当たり前のようでいて、いないもののように気配が薄い。彼はアルドたちに一礼すると、何事もなかったように紙束へ視線を戻した。
「昨日の正式報告書です」
レイスが書類を差し出した。ローグレスは受け取り、椅子に座ったまま目を通す。読み進めるにつれ、その眉間の皺が深くなっていった。アルドは黙って待った。こういう時、口を挟んでも仕方がない。
レイスの報告書は長い。アルドが書くものの三倍は長い。だが、ローグレスはそれを面倒がらずに読む。読み飛ばすこともしない。必要なら一行戻り、地図と照らし合わせ、時折短く息を吐く。部屋の中には、紙をめくる音だけが続いた。やがて、ローグレスは報告書を机に置いた。
「墓地は、夜骸を呼ぶ場所になり得る可能性あり……か」
最後の一文を、低く読み上げる。レイスは背筋を伸ばした。
「現時点では仮説です」
「分かっている」
「断定する材料はありません。ただ、カワ村の異常体は、地上に現れた夜骸を討祓する通常の案件とは異なりました。墓地の下、棺、柳の根、土中の残留物。複数の要素が絡んでいた可能性があります」
「残留物という表現にした理由は」
「正体が不明だからです」
レイスは迷わず答えた。
「遺体、遺骨、棺材、土、植物根、湿気。あるいは、それ以外のもの。俺たちはまだ、墓地の下で何がどう混ざっていたのか分かっていません」
「ふむ」
ローグレスは椅子に背を預けた。
「第二部隊の調査報告と矛盾は?」
「ありません。むしろ、第二部隊が見つけられなかったこと自体が今回の異常体の特徴を示しています。表層に出ていない時は、通常の巡回や目視確認では発見できない」
「夜間、月が出ている時に活性化する傾向」
「はい。ただし、曇天でも一度発生しています。月光だけが条件ではありません」
「葬儀との関連は」
「不明です」
レイスは少しだけ間を置いた。
「ですが、あの日に新しい埋葬があったことは無視できません」
ローグレスの目が細くなる。
「新しい死者が、異常体を刺激した可能性か」
「可能性の一つです。新しい墓が震えたのも、棺内部からの動きではなく、墓地全体へ伝わった微弱振動だと判断しています」
「遺族への説明は」
「棺から何かが出たわけではないこと、墓を掘り返す必要は現時点でないこと、夜間警戒を強化することを伝えました」
「正しい」
ローグレスは短く言った。それから、昨日レイスから受け取った布に包まれた古い棺の破片へ視線を移す。
「白天還教側には、墓地異常として照会を出す。ただし、棺の破片に関する記述は……」
ジークが遮るように静かに口を開いた。
「昨日のお話ですね、文案はすでに整えております。『柳根に絡まった古い葬送具の一部』という表現にしています」
ローグレスは疲れた顔で笑った。
「さすがだ」
しかし、アルドはその言い方に少しだけ眉を上げた。
「葬送具、ですか」
「棺と書くより角が立ちません」
ジークは穏やかに答えた。
「白天還教にとって、棺は単なる物品ではありませんから」
「まあ、それはそうですね」
アルドは納得したように頷く。レイスは文案へ目を落とした。棺と書くより、確かに余計な摩擦は少ない。
「レイス」
ローグレスの声で、レイスは視線を戻した。
「はい」
「昨日も話したがこの件、第四部隊にも共有する。医療と葬送に関わる視点が必要だ。お前からも詳細な概要を渡せるか」
「もちろんです」
「第二部隊にもだ。自分たちの調査で掴めなかったことを知れば、悔しがるだろうが、共有しない方が危険だ」
「第二部隊副隊長宛に、調査差分をまとめます」
「頼む」
ローグレスは報告書を閉じた。それから、少しだけアルドを見た。
「アルド」
「はい」
「現場で、何か感じたか」
「何か、ですか」
「ああ。理屈でなくていい」
アルドは腕を組んだ。レイスほど整理された言葉は持っていない。だが、あの墓地にいた時の嫌な感じは、まだ体に残っている。
「普通の夜骸とは違いました」
「うん」
「出てきたから斬る、では終わらない感じです。墓地そのものが相手みたいな……いや、違うな」
アルドは眉を寄せる。言葉がうまく出てこない。
「墓地が、夜骸に利用されてる感じでした」
ローグレスは静かに目を細めた。
「利用、か」
「はい。柳の根も、棺も、土も、墓も、全部まとめて何かに使われてる感じです。あれがもしもっと大きかったら、墓地全部が敵になってたかもしれない」
その言葉に、部屋の空気が少し重くなった。レイスが小さく頷く。
「俺も、同じ危険を考えました」
「墓地全部が敵、か」
ローグレスは低く呟いた。
「嫌な言葉だ」
「俺も嫌です」
アルドは正直に言った。
「夜骸一体なら斬れます。でも墓地全部ってなると、何を斬ればいいか分からない」
「だから記録が要る」
レイスが言った。
「何が起点で、何が媒介で、どこまで影響が及ぶのか。今回の規模で分からないことを残せば、次に似た事例が起きた時、手遅れになる」
「分かってるよ」
「ならいい」
レイスは留帳に短く書き足した。アルドの現場感覚。墓地そのものが敵になる可能性。アルドがそれを覗き込む。
「俺の感覚まで書くのか?」
「役に立つことがある」
「適当言っただけだぞ」
「お前の適当は、核心に近い時がある」
「褒めてる?」
「たまにだ」
「そこ強調するなよ」
ローグレスが少しだけ笑った。
「二人とも、今日は休め」
その言葉に、レイスが即座に反応した。
「報告共有の作成が残っています」
「明日でいい」
「ですが」
「命令だ」
レイスは口を閉じた。ローグレスは静かに続ける。
「カワ村の件は、すぐに答えが出るものではない。焦って書類を増やしても、見えるものが増えるとは限らん」
「……はい」
「アルド」
「はい」
「第一部隊を休ませろ。特にレイスを」
「了解です」
「お前も含めてだ」
「俺は元気ですよ」
「元気な者ほど、休ませにくい」
「ローグさんに言われると説得力ありますね」
「皮肉か」
「いや、本心です」
ローグレスは呆れたように息を吐いた。
「行け」
アルドとレイスは一礼し、執務室を出ようとした。その時、ジークが静かに声をかけた。
「レイスさん」
レイスが振り返る。
「何でしょう」
「カワ村の件、留帳の記録は写しを取られますか」
「必要分は報告書に転記します」
「そうですか」
ジークは穏やかに微笑んだ。
「貴方の記録は、後で価値を持つことが多い。失われない形にしておくのは、よいことです」
レイスは一瞬、返事に迷った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
それだけだった。二人は改めて一礼し、執務室を出た。
◇
本部を出ると、雨上がりの空気が肌に冷たかった。王都の石畳はまだ濡れている。商店街の方では、昼前の仕込みを終えた店が少しずつ賑わい始めていた。
「レイス」
アルドが声をかける。
「何だ」
「何考えてる?」
「報告書の整理だ」
「歩きながらまで仕事すんなよ」
「お前がもう少し覚えていれば、俺の仕事も減る」
「それは無理だな」
「即答するな」
「で、今日は休むんだよな」
「ローグ様の命令だからな」
「じゃあ煤鳩亭行くか」
「休むという言葉の意味を知っているか?」
「飯を食うことだろ」
「違う」
「腹減ってないのか?」
「減っている」
「じゃあ行こうぜ」
レイスは反論しようとして、少しだけ黙った。そして、ため息をつく。
「少しだけだ」
「よし」
「バルトさんには声をかけるな。話が長くなる」
「もう遅い」
アルドが前方を指した。通りの向こうから、バルトが歩いてきていた。しかも、なぜかルカとノルを両脇に連れている。バルトはアルドたちに気づくと、大きく手を振った。
「カシラー! レイスー!」
「声が大きい」
ノルが隣で言う。
「朝からうるさいですね」
ルカも言う。
「お前ら、左右から刺すな!」
バルトは近づいてくるなり、にかっと笑った。
「ちょうどよかった! 飯行こうぜ!」
レイスは眉間を押さえた。
「なぜこうなる」
「運命だな」
アルドが笑う。
「嫌な運命だ」
「何の話だ?」
バルトが首を傾げる。
「レイスを休ませる話」
「なら飯だな!」
「だからなぜそうなるんですか」
レイスが言う。
「腹が減ったら寝られねぇだろ」
「一理ある」
ノルが珍しく言った。レイスがノルを見る。
「ノルまで」
「お腹空いた」
「それは理由として強いですね」
ルカが頷く。
「何でお前たちまで乗るんだ」
レイスは諦めたように息を吐いた。
「分かりました。ただし、長居はしません」
「やった!」
バルトが拳を上げる。
「声」
レイス、ルカ、ノルが同時に言った。アルドは笑いながら歩き出した。
◇
煤鳩亭は昼前から賑わっていた。店の扉を開けると、香ばしい匂いと温かい空気が流れてくる。雨上がりの冷えた体には、それだけで少し救われる。ミナがすぐに気づいて、ぱっと顔を明るくした。
「あっ、黒豹さん!」
「よう、ミナ」
アルドが手を上げる。
「今日は全員じゃないんですね」
「休ませるつもりだったんだけどな」
「飯は休息だ!」
バルトが胸を張る。ミナは慣れた顔で笑った。
「はいはい。いつもの席、空いてますよ」
「ミナさんまで流し方が上手くなってますね」
ルカが言う。
「黒豹さんのおかげです」
「主にバルトさんのおかげですね」
「ルカ!」
レイスは席に座るなり、茶を頼んだ。アルドは肉とパンを頼み、バルトは当然のように三品追加しようとしてレイスに止められた。
「バルトさん。昼前です」
「昼前だから腹が減るんだろ」
「時間の問題ではなく量の問題です」
「量が少ないと腹が減るだろ」
「会話が循環しています」
ノルがぼそっと言う。
「燃費悪すぎ」
「ノル、それ便利に使いすぎじゃねぇか?」
「便利だから」
ルカが笑う。アルドはそのやり取りを聞きながら、椅子に深く座った。疲れが出てきた。カワ村の墓地。柳の根。
古い棺の破片。新しい墓の震え。考えることは多い。だが、今は肉の焼ける匂いがして、バルトが騒ぎ、レイスが小言を言い、ノルが刺し、ルカが笑っている。それでいいと思った。
少なくとも、今この瞬間は。
「アルド」
レイスが茶を飲みながら言った。
「午後は訓練を入れるなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「本当だ」
「お前はたまに、休みの日に軽い訓練と言って重い訓練をする」
「軽いだろ」
「お前基準ではな」
バルトが口を挟む。
「俺様はやってもいいぞ!」
「あなたは寝てください」
レイスが即答した。
「俺様まで!?」
「全員です」
レイスは少しだけ真面目な顔になった。
「カワ村の件は、まだ続く可能性があります。次に呼ばれた時、動けなければ意味がありません」
その言葉に、皆が少し静かになる。完全に終わったわけではない。それは全員が分かっていた。煤鳩亭の温かさの中にいても、墓地の冷たさはまだ体に残っている。バルトが少しだけ声を落とした。
「……分かった。今日は寝る」
「珍しい」
ノルが言った。
「俺様だって分かる時は分かる」
「えらい」
「お、褒めたか?」
「少し」
「少しかぁ」
バルトはそれでも少し嬉しそうだった。料理が運ばれてくる。ミナが皿を置きながら、レイスを見た。
「レイスさん、ミリナちゃんは元気でした?」
レイスの表情がわずかに和らぐ。
「昨日は、いつもより元気でした」
「よかった」
「髪紐も気に入っていました」
「それはよかったです!」
ミナは嬉しそうに笑った。
「ミリナちゃん、また煤鳩亭に来られるくらい元気になるといいですね」
「……そうですね」
レイスは短く答えた。その声の奥に、ほんの少しだけ願いが滲んだ。アルドはそれを聞き逃さなかった。バルトも、ルカも、ノルも、何となく黙った。誰も茶化さなかった。
煤鳩亭の喧騒の中で、その小さな沈黙だけが、少し優しかった。
◇
夕方。レイスは本当に早めに席を立った。
「帰って寝る」
そう言った時、アルドは大げさに拍手しそうになったが、レイスに睨まれてやめた。バルトも眠そうな顔で欠伸をしている。ルカはそれを見て笑い、ノルは「落ちる前に帰ろ」と言った。煤鳩亭を出る頃、雨上がりの空には薄い夕焼けが差していた。道の石畳が赤く光る。
死者のそばでは口にしない色。けれど、生きている街の中では、ただ綺麗な夕暮れだった。アルドは空を見上げる。
「明日は晴れるかな」
「晴れるといいですね」
ルカが言う。
「洗濯物が乾く」
ノルが言う。
「お前、急に生活感あるな」
バルトが笑った。
「濡れた服、嫌い」
「それは分かる」
「バルトは乾きにくそう」
「俺様は服じゃねぇ!」
くだらない会話。何でもない帰り道。それでも、カワ村の墓地を見た後では、こういう時間が少しだけ眩しく感じた。レイスは少し離れて歩きながら、留帳を開いた。短く書く。
カワ村報告提出。ローグ様より休息命令。ミリナ、髪紐を気に入る。煤鳩亭で休息。そこまで書いて、少し考えた。
最後に一行だけ足す。墓地の件、未解決。だが今日は寝る。最後の一行が留帳へ消えると、レイスはそれを閉じた。そして、珍しく誰よりも先に宿舎へ向かって歩き出した。
「お、レイスが本気で寝るぞ」
アルドが笑う。
「明日は雪?」
ノルが言う。
「雨上がりに雪は降らねぇだろ」
バルトが返す。
「比喩」
「分かってるわ!」
ルカが小さく笑った。第一部隊は、夕暮れの王都を歩いていく。王都の空には、薄い雲が流れていた。その向こうで、月はまだ隠れている。
お読みいただきありがとうございます。
次回も明日20時頃更新予定です。
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