窓辺の髪紐
レイスは、王都の西区画を歩いていた。日が落ちかけている。石畳には夕方の赤が薄く残り、店先の灯りがひとつ、またひとつと点き始めていた。昼の喧騒は少しずつ退き、代わりに夜へ備える静けさが街の端から染み出してくる。王都は明るい。白祈塔がある。
高い城壁があり、王都討祓軍がいる。付近で夜骸が出れば、黒い隊服の者たちが走る。人々はそれを知っている。それでも、夜が来る前の王都には、独特の早さがあった。商人は布を畳む。母親は子供の手を引く。酒場は扉の灯りを強める。
白天還教の小さな祈り場では、従還師が夜の祈りの準備をしている。日が落ちる。月が昇る。それだけで、人は少しだけ急ぐ。レイスは手の中の包みを握り直した。
淡い青の髪紐。柔らかい布で丁寧に包まれている。高価な品ではない。けれど、手触りは悪くなかった。妹は気に入るだろうか。そう考えたところで、レイスは自分の眉間に力が入っていることに気づいた。
「……土産を持っていく顔ではないな」
小さく呟く。誰も聞いていない。聞かれていたら、アルドあたりに笑われただろう。レイスは息を吐き、表情を整えた。病人の前に、不安を持ち込むべきではない。
それがどれだけ薄っぺらい建前でも、必要な建前というものはある。目的地は、西区画の奥にある小さな療養院だった。王都の中心から少し離れた場所にあり、石造りの建物の周囲には薬草の鉢が並んでいる。白天還教の施設ではないが、教会から派遣された従還師が時折祈りに来ることもある。扉を開けると、薬草と湯気の匂いがした。
「あら、レイスさん」
受付にいた中年の女が顔を上げた。
「こんばんは。遅くにすみません」
「いいえ。妹さん、今日は起きていますよ」
「体調は?」
「昼に少し咳が出ましたけど、熱は高くありません。夕食も半分ほど食べました」
「そうですか」
レイスは少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「今日はお仕事帰りですか?」
「はい」
「また大変な顔をしていますね」
女は困ったように笑った。
「妹さんの前では、もう少し優しい顔をしてください」
「……努力します」
レイスは素直に頷いた。受付の女はそれを見て、少しだけ満足そうに笑う。
「奥の部屋です」
礼を言い、廊下を進む。療養院の廊下は静かだった。壁には小さな灯りが等間隔に置かれ、窓には厚手の布がかけられている。夜の冷えが入らないように、窓枠には布が詰められていた。奥の部屋。扉の前で、レイスは一度だけ足を止めた。包みを持つ手を見下ろす。
それから、軽く扉を叩いた。
「入るぞ」
「うん」
弱いが、明るい声が返ってきた。レイスは扉を開けた。部屋は小さい。窓辺に寝台が一つ。机が一つ。椅子が二つ。壁際には本棚があり、そこにはレイスがこれまで持ってきた本が並んでいた。寝台の上で、少女が上半身を起こしていた。
レイスによく似た金髪。けれど、彼よりずっと柔らかく、細い。頬は少し痩せていて、肌の色も白い。大きな瞳だけが、病室の灯りの中でよく動いていた。
「兄さん」
彼女は笑った。その笑顔だけで、レイスは少し救われたような気がした。
「遅くなった」
「お仕事?」
「ああ」
「夜骸?」
「夜骸に近いもの、だな」
「近いもの?」
少女は首を傾げる。レイスは椅子を引き、寝台のそばに座った。
「詳しく聞いても面白くない」
「兄さんの話、だいたい面白くないよ」
「失礼だな」
「だって、すぐ説明が長くなる」
「正確に話しているだけだ」
「そこが面白くないの」
少女はくすくす笑った。笑うと、少し咳き込んだ。レイスの表情がすぐに変わる。
「大丈夫か」
「大丈夫。少しだけ」
「水は」
「ある」
「飲め」
「兄さん、座ってすぐ命令する」
「命令ではない。提案だ」
「命令の声だった」
少女はそう言いながら、机の上の杯に手を伸ばした。レイスが先に取って渡す。彼女は両手で杯を持ち、ゆっくり水を飲んだ。
「ありがとう」
「ああ」
「兄さん、今日はいつもより疲れてる」
「そう見えるか」
「見える」
「顔に出ていたか」
「うん。あと、ここ」
少女は自分の眉間を指で押さえた。
「ぎゅってなってる」
「受付でも言われた」
「直した?」
「努力した」
「じゃあ失敗だね」
「手厳しいな」
「兄さんに似たの」
レイスは少しだけ言葉に詰まった。それから、小さく笑った。
「それは困る」
「困らないよ。兄さん、優しいし」
「俺は優しくない」
「優しい人は、そう言うんだよ」
「どこで覚えた」
「本」
少女は誇らしげに言った。
「兄さんがくれた本」
「変な本を渡した覚えはない」
「変じゃないよ。面白かった」
「どれだ」
「旅の話。女の子が、病気のお母さんの薬を探しに行くやつ」
「ああ」
レイスは思い出した。少し古い冒険譚だ。子供向けに書かれているが、薬草や地理の描写が意外と正確で、妹が暇を潰すにはいいと思って持ってきた。
「最後、薬は見つかるの。でも、お母さんはもう元気にならないの」
少女は窓の方を見た。
「でも、お母さんは笑ってるの。あなたが帰ってきたから、もう大丈夫って」
「……そうだったな」
「兄さんは、あの終わり方嫌い?」
「嫌いではない」
「好きでもない?」
「物語としては正しい。だが、現実なら薬は間に合うべきだ」
「兄さんらしい」
少女は笑った。
「物語に文句言ってる」
「文句ではない。改善案だ」
「それ、文句だよ」
レイスは反論しようとして、やめた。たぶん、妹の方が正しい。少女は窓の外を見た。厚い布の隙間から、わずかに夜空が見えている。まだ月は高くない。だが、白い光が少しずつ王都の屋根を照らし始めていた。
「今日は月、出てる?」
「出ている」
「見える?」
「少し」
「そっか」
少女はそれ以上、月を見ようとはしなかった。病室では、夜になると窓布を引く。冷えを防ぐためでもあり、夜を見すぎないためでもある。月酔いではない。それでも、病人が夜の月を長く見るのは、誰も好まない。理由は、誰もはっきりとは言わない。
ただ、そういうものだと皆が思っている。レイスは包みを差し出した。
「土産だ」
「えっ」
少女の顔が明るくなる。
「今日、来るだけじゃなかったの?」
「買う予定だった」
「予定だったってことは、ちゃんと買えたんだ」
「ああ」
「開けていい?」
「もちろん」
少女は丁寧に包みを開いた。淡い青の髪紐が出てくる。病室の灯りを受けて、柔らかく光った。
「……きれい」
少女は小さく言った。レイスはその声を聞いて、ようやく息ができた気がした。
「気に入ったか」
「うん。すごく」
「派手すぎないものにした」
「兄さんっぽい選び方」
「悪いか」
「悪くないよ」
少女は髪紐を両手で持ち上げた。
「川みたい」
レイスは少しだけ目を見開いた。
「そう思うか」
「うん。朝の川。見たことないけど」
「見たことがないのに分かるのか」
「本に書いてあった」
「また本か」
「兄さんがくれた本」
「俺のせいか」
「そう」
少女は楽しそうに笑った。それから、髪紐を自分の髪に当てる。
「似合う?」
「ああ」
「早い」
「似合う」
「本当に見た?」
「見た」
「じゃあ、結んで」
レイスは少し固まった。
「俺がか」
「兄さんが買ってきたんだから」
「髪を結うのは得意ではない」
「知ってる」
「ならなぜ頼む」
「兄さんにしてほしいから」
レイスは黙った。少女は髪紐を差し出したまま、期待するように見ている。断れるはずがなかった。
「……変になっても文句を言うな」
「言う」
「言うのか」
「うん」
レイスはため息をつき、寝台の横へ移動した。妹の髪に触れる。細い。昔はもっと量が多かった。走り回るたびに、金髪が跳ねていた。アルドとルシアンと一緒に遊んでいた頃、よく髪に葉っぱを絡ませて帰ってきて、母に叱られていた。今は、少し触れるだけで切れてしまいそうだった。
レイスは手つきを慎重にした。
「痛くないか」
「大丈夫」
「痛かったら言え」
「うん」
「動くな」
「命令の声」
「これは命令だ」
「はい」
少女は笑いを堪えるように肩を揺らした。レイスは何度も髪紐を結び直した。一度目は緩すぎた。二度目は少し傾いた。三度目で、何とか形になった。
「できた」
「鏡」
机の上の小さな鏡を渡す。少女は自分の髪を見て、少しだけ黙った。レイスは不安になった。
「変か」
「ううん」
少女は首を振った。
「すごくいい」
その声は、少し震えていた。レイスは何も言わなかった。妹が笑っている。それで十分だった。
「兄さん」
「何だ」
「ありがとう」
「ああ」
「大事にするね」
「消耗品だ。傷んだらまた買う」
「兄さん、そういうところ」
「何がだ」
「大事にするって言ってるのに、すぐ現実的なこと言う」
「事実だ」
「でも、また買ってくれるのは嬉しい」
「買う」
「約束?」
「ああ」
レイスは頷いた。
「約束する」
少女は満足そうに笑った。
◇
しばらく、他愛ない話をした。療養院の食事が少し薄味だったこと。隣の部屋の老婦人が、毎朝窓辺の鉢に話しかけていること。看護師が新しい薬草茶を試していて、それがひどく苦かったこと。ルシアンがまた来てくれたら嬉しいこと。
アルドは相変わらず元気かということ。
「アルドは元気だ」
「やっぱり」
「なぜ分かる」
「兄さんがアルドのこと話す時、少し呆れてるけど安心してる顔するから」
「そんな顔はしていない」
「してる」
「していない」
「してるよ」
少女は楽しそうだった。
「アルド、また来てくれる?」
「暇があれば」
「ルシアンも?」
「ああ」
「二人で?」
「たぶん」
「ふふ」
「何だ」
「なんでもない」
少女は口元を押さえた。レイスは少し目を細める。
「変なことを考えるな」
「兄さんこそ、すぐ変って言う」
「今の顔は何か考えていた」
「兄さん、そういうところは鋭いよね」
「そういうところ、とは何だ」
「自分のこと以外」
レイスは黙った。反論が遅れた。少女は勝ったような顔をした。
「ほら」
「病人が兄を論破するな」
「兄さんが弱いの」
「俺が弱い?」
「うん。自分のことになると」
少女は静かに言った。
「兄さん、いつも誰かのことばかり考えてる」
レイスは何も言えなかった。言い返す言葉は、いくつも浮かんだ。副隊長だから。隊の判断役だから。任務だから。
家族だから。必要だから。だが、そのどれもが、妹の前では少しだけ言い訳に聞こえた。
「……そう見えるか」
「見える」
「困ったな」
「困ってる?」
「ああ」
「じゃあ、少しは自分のことも考えて」
少女は髪紐に触れながら言った。
「私、兄さんが疲れてる顔で来るの、嫌じゃないよ」
「嫌じゃないのか」
「うん。会いに来てくれたんだって分かるから」
「……そうか」
「でも、兄さんが倒れたら嫌」
その言葉だけは、少し強かった。
「だから、寝て。食べて。無理しすぎないで」
「ルシアンみたいなことを言う」
「ルシアンに教わった」
「いつの間に」
「この前来てくれた時」
少女は少し誇らしげに言った。
「兄さんは放っておくとご飯を抜くから、ちゃんと見張ってって」
「ルシアン……」
「あと、アルドにも言われた」
「アルドまで何を言っている」
「レイスは考えすぎるから、たまに怒ってやれって」
「余計なことを」
「怒るよ?」
「今怒られている気がする」
「うん。怒ってる」
レイスは小さく息を吐いた。そして、少しだけ笑った。
「分かった。気をつける」
「本当?」
「努力する」
「それは怪しい」
「では、約束する」
少女は満足そうに頷いた。
「ならいい」
部屋の外で、看護師が消灯の準備を知らせる声を出した。レイスは時計を見る。
「そろそろ寝る時間だ」
「もう?」
「もうだ」
「兄さん、明日も来る?」
「任務次第だ」
「じゃあ、来られたら?」
「ああ」
「来られなかったら?」
「次に来る」
「約束?」
「約束だ」
少女は頷いた。少し眠そうだった。体力が長く続かない。楽しく話していても、すぐ疲れてしまう。レイスは椅子から立ち上がり、毛布を整えた。
「寒くないか」
「大丈夫」
「窓布は閉めるぞ」
「うん」
レイスは窓へ向かった。布の隙間から、月が見えた。白く、静かだった。カワ村の墓地で見た月と同じもの。柳の根を照らしていた月。
新しい墓の土が震えた夜にも、同じ月があった。妹の病室の窓辺にも、その光は届いている。レイスは窓布を閉めた。部屋の中が、少し暗くなる。
「兄さん」
「何だ」
「月、きれいだった?」
レイスは少しだけ黙った。そして、答えた。
「よく見ていない」
「そっか」
「見なくていい」
「うん」
少女は素直に頷いた。
「兄さんがそう言うなら、見ない」
その言葉が、なぜか胸に刺さった。レイスは寝台のそばへ戻る。
「おやすみ」
「おやすみ、兄さん」
「また来る」
「うん」
少女は目を閉じた。淡い青の髪紐が、枕元で小さく揺れている。レイスはしばらくそれを見ていた。朝の川の色。棺の色ではない。
美しい清流の色だ。
◇
療養院を出ると、王都はすっかり夜だった。通りの灯りは点いているが、人通りは少ない。遠くの酒場から笑い声が聞こえ、どこかの家で子供を叱る声がした。日常の音。守るべき音。レイスは歩き出した。
本部へ戻れば、報告書の続きが待っている。カワ村の異常体について、明日にはローグレスへ正式な書面を出さなければならない。第四部隊へ共有する資料も必要だ。白天還教への照会文にも目を通すべきだろう。やることは多い。だが、足は少しだけ軽かった。妹が笑った。髪紐を気に入った。
次も来ると約束した。それだけで、少し歩ける。夜空には月がある。見上げなかった。代わりに、レイスは留帳を取り出した。
歩きながら、短く書く。妹、青い髪紐を気に入る。次も買う約束。食事と睡眠について説教を受ける。そこまで書いて、少しだけ手が止まった。
任務記録ではない。報告事項でもない。けれど、書いておきたかった。任務とは関係のない文字が、留帳へゆっくり消えていく。レイスは最後に一行だけ書き足した。
必ず、また行く。留帳を閉じる。王都の夜風が、金髪を揺らした。レイスは本部へ向かって歩き出した。月を見ないまま。
お読みいただきありがとうございます。
次回も明日20時頃更新予定です。




