髪紐を買う日
朝になっても、カワ村の墓地は冷えていた。夜の気配がまだ土の中に残っているようだった。空は薄く晴れている。川辺の朝は澄んでいて、水車の音も昨日より軽い。村人たちの家からは、竈に火を入れる音や、戸を開ける音が少しずつ聞こえ始めていた。それでも、墓地だけは別だった。柳の根元には黒く変色した根の残骸が残り、墓石の周りの土にはいくつもの擦れ跡がある。昨夜アルドが断った場所は、焦げた匂いをわずかに残していた。
アルドは剣を腰に下げたまま、柳の根元を見下ろしていた。火は消えている。だが、炎を振るった感触はまだ腕に残っていた。
「……朝に見ると、余計に嫌だな」
隣でバルトがぼそりと言った。いつもの大声ではない。墓地だから、というより、目の前のものをどう扱っていいか分からない声だった。
「夜の方が怖いんじゃないの?」
ノルが長銃を肩に掛けながら言う。
「いや、夜は夜で分かりやすいだろ。化け物が出た、殴る。終わりだ」
「単純」
「悪いかよ」
「悪くないけど」
ノルは柳の根元へ視線を戻した。
「朝になっても、気持ち悪いね」
「だろ」
バルトが珍しく素直に頷いた。黒い根は、もう動かない。昨夜のように墓石へ這うことも、土の下へ潜ることもない。ただ、乾き始めた泥のように、そこにある。それでも、誰も不用意には近づかなかった。レイスは墓地の中央に膝をつき、留帳と昨夜回収した棺の破片を見比べていた。直接触れないよう、厚い布の上に置いてある。
淡い青の塗料が、木片の端にわずかに残っている。白天還教の棺。けれど、どの墓に納められていたものかは分からない。古すぎる。木は黒ずみ、ところどころ崩れている。だが、ただ朽ちただけではない。表面の一部に、根が食い込んだような跡があった。
「レイス」
アルドが声をかける。
「何か分かったか?」
「分からないことが増えた」
「いいことなのか、それ」
「調査ではよくある」
レイスは淡々と答えた。その声に眠気はない。昨夜ほとんど休んでいないはずなのに、目だけが冴えている。ルカが少し引いた顔をした。
「レイス、寝てないですよね」
「少しは休んだ」
「目を閉じてただけですよね」
「それを休息と言う」
「言いません」
ルカは呆れたように言ったが、どこか心配そうでもあった。ルシアンも近づく。
「レイス、少しだけでもちゃんと寝た方がいいよ」
「王都に戻る馬車の中で寝る」
「馬だけど」
「馬上で寝る」
「危ないよ」
「落ちない」
「前に落ちかけた」
「あれはバルトさんが急に歌い出したからだ」
「俺様のせいにするな!」
少し離れた場所からバルトが叫ぶ。レイスは振り返らずに言った。
「では、今ここで歌いますか?」
「歌わねぇよ!」
「なら平気です」
ルシアンが困ったように笑う。
「レイスって、平気じゃない時ほど平気って言うよね」
「気のせいだ」
「そうかな」
「そうだ」
レイスは短く返し、再び木片へ視線を落とした。セレスが腕を組む。
「で、その棺の破片、何が変なの?」
「古さと場所だ」
レイスは木片を指した。
「この破片は柳の根元から出た。だが、昨夜音がしていたのは柳周辺だけではありません。墓地全体に微細な振動が伝わっていた」
「新しい墓も鳴った」
「そうです」
レイスは留帳に書いた記録を見せる。
「異常体の中心は柳の根元。けれど、反応は墓地全体に及んだ。つまり、あれは単に柳に憑いた何かではない。墓地の下にある複数のものに干渉しようとしていた可能性が高い」
「複数のものって?」
ルカが聞く。
「棺、遺体、遺骨、墓土、あるいはもっと曖昧な何か」
「曖昧すぎません?」
「曖昧だから問題なんだ」
レイスの声が少し硬くなる。
「夜骸なら、基本的には出てきたものを討祓すればいい。だが今回の異常体は、最初から地上に出ていたわけではない。墓地の下に潜み、出たり消えたりしていた。国軍と第二部隊が見つけられなかったのは、異常体が常に表にいたわけではなかったからだ」
「じゃあ、まだ他にも潜んでる可能性があるの?」
セレスが言った。その言葉に、墓守のダンが顔を強張らせる。
「レイス殿。それは……」
「可能性です」
レイスはすぐに言った。
「昨夜の本体はアルドが断ちました。現在、同様の反応は確認できません。ただし、墓地の下をすべて掘り返したわけではない以上、完全にないとは言えません」
ダンは唇を噛んだ。墓守として、掘り返せと言われれば苦しい。掘り返すなと言われても、異常が残るなら苦しい。マウロ還師も同じ顔をしていた。白天還教の還師として、死者の眠りを乱すことは避けたい。だが、村人を危険に晒すこともできない。
その二つの苦しみが、朝の墓地に沈んでいる。アルドは頭を掻いた。
「レイス。結論は?」
「今すぐ墓地全体を掘る必要はない」
その言葉に、ダンとマウロ還師が少しだけ息を吐いた。
「ただし、柳周辺の土と根は処理する。古い棺の破片は王都へ持ち帰り、報告対象にする。今後一ヶ月は夜間の墓地警戒を強化。月が明るい夜は特に注意。異音が再発した場合、すぐに王都討祓軍へ連絡」
「それで足りるか?」
アルドが聞く。
「足りると断言はしない。だが、現時点で死者の墓を必要以上に暴く理由もない」
レイスはマウロ還師を見た。
「還師殿。それでよろしいですか」
マウロ還師は深く頭を下げた。
「感謝します」
「感謝されることではありません。危険を見落とさない範囲で、死者を荒らさない。それだけです」
「それが難しいのです」
マウロ還師は静かに言った。
「死者を守ることと、生者を守ることが、時に同じ道ではなくなる。昨夜、私はそれを思い知りました」
レイスは何も言わなかった。少しだけ視線を落とす。アルドは、昨日ゴードが言った言葉を思い出していた。生きている者を守る。死んだ者を踏みにじっていいわけではない。
だから難しい。その通りだと思った。
◇
柳周辺の処理は、昼前まで続いた。アルドは炎を使わなかった。死者の場で、必要以上に火を見せたくなかったからだ。根の残骸は布で包み、土ごと掘り取って、王都へ持ち帰る分と村で隔離する分に分けた。バルトは大きな根を運び、ゴードは土の崩れを盾で押さえた。ルカは細かい残骸を拾い、ノルは周囲の高所から異常がないか見張った。セレスは水で土の汚れを流し、ルシアンは村人たちの不安を聞いて回った。
エディンは、ずっと柳の近くにいた。何をするでもなく、ただ見ている。藤色の髪が、川辺の風に揺れている。
「エディンさん」
アルドは近づいた。
「まだ気になりますか?」
「そうねぇ」
「何が気になるんです?」
「根って、見えているところより、見えないところの方が多いでしょう?」
エディンは柳を見上げながら言った。
「人はね、見えている幹や枝を見て、この木はこういう木だと思うの。でも、本当にその木を生かしているものは、地面の下にあるのよねぇ」
「急に詩人みたいなことを言いますね」
「あら、似合わない?」
「似合いますけど、ちょっと怖いです」
「ふふ」
エディンは笑った。柔らかく、いつものように。けれど、アルドはその笑顔の奥を読めなかった。
「今回のも、見えてる部分だけ倒したってことですか?」
「さあ。おねえさんには分からないわぁ」
「嘘でしょ」
「ひどいわねぇ」
「分からないって顔じゃなかったですよ」
エディンはアルドを見た。少しだけ、目を細める。
「アルドちゃんは、たまに鋭いわねぇ」
「たまにですか」
「いつも鋭かったら、疲れちゃうでしょう?」
「それもそうですね」
アルドが苦笑する。エディンは柳の幹に触れそうになり、やめた。
「全部を知れば、全部を守れるわけじゃないのよ」
「何の話ですか?」
「一般論」
「便利な言葉ですね」
「便利よぉ」
それ以上、エディンは話さなかった。アルドも無理に聞かなかった。彼女には、そういうところがある。何かを知っているようで、何も言わない。言わない理由があるのか、言えない理由があるのか、それとも本当に知らないのか。分からない。
だが、今のアルドにとって大事なのは、村を守ることだった。
◇
昼過ぎ。第一部隊はカワ村を発つ準備を始めた。村長は何度も頭を下げた。マウロ還師は、回収した根の残骸に白い布をかけ、静かに祈りを捧げた。それが何への祈りなのか、アルドには分からなかった。死者へか。
村へか。昨夜現れた異常体へか。あるいは、祈らずにはいられない自分自身へか。墓守のダンは、ゴードの前に立っていた。
「ありがとうございました」
ダンは深く頭を下げる。
「俺は、何もできませんでした」
ゴードは黙っていた。ダンは拳を握る。
「墓守なのに、墓の前で下がることしかできなかった」
「生きていた」
ゴードが低く言った。ダンが顔を上げる。
「え?」
「生きて、墓を守り続ける。それが墓守だ」
ダンの顔が歪んだ。泣きそうに見えた。だが、彼は泣かなかった。
「……はい」
ゴードは小さく頷いた。それだけだった。けれど、ダンには十分だったようだ。ルシアンは、昨日の孫娘に手を振られていた。
「お姉ちゃん!」
少女が駆けてくる。母親が慌てて止めようとするが、ルシアンは膝を折って受け止めた。
「どうしたの?」
「これ」
少女は小さな石を差し出した。川辺で拾ったらしい、丸くて白い石だった。
「お守り」
「私に?」
「うん。おばあちゃんのこと、見てくれたから」
ルシアンは一瞬、言葉を失った。それから、両手で石を受け取る。
「ありがとう。大事にするね」
「うん」
少女は少しだけ笑った。昨日よりも、ほんの少しだけ。セレスが横から覗き込む。
「いいものもらったじゃない」
「うん」
ルシアンは石を胸元に握った。
「すごくいいもの」
アルドはその様子を見ていた。ルシアンは、こういうものを大事にする。子供が拾ったただの石でも、彼女にとっては祈りと同じくらい重くなる。だから、彼女は強いのだと思う。
「アルド」
レイスが呼んだ。
「そろそろ出るぞ」
「ああ」
「王都に戻ったら、すぐローグ様へ報告する。根の残骸と棺の破片は直接渡す」
「了解」
「あと」
レイスは少しだけ間を置いた。
「報告後、俺は一時間だけ抜ける」
「妹のところか」
「ああ」
「行ってこい」
「お前に言われなくても行く」
「じゃあ何で言ったんだよ」
「隊長への報告だ」
「律儀だな」
「お前が大雑把すぎる」
いつものやり取り。アルドは笑った。
「ちゃんと髪紐、買えるといいな」
「買う」
レイスは短く言った。その声には、任務中とは違う強さがあった。
◇
王都へ戻る道中、レイスは本当に馬上で少し眠った。落ちることはなかった。ただ、馬の揺れに合わせてわずかに頭が傾いている。それを見たルカが小声で言う。
「本当に寝てる」
「珍しいね」
ルシアンも少し驚いている。
「起こすなよ」
アルドが言った。
「分かってます」
ルカは小声で返す。
「レイスさん、昨日からずっと考えてましたし」
「そうだな」
「でも、寝てる時も眉間に皺寄ってます」
「昔からだ」
「子供の頃から?」
「ああ。難しい本読んで、そのまま寝落ちしても、そんな顔してた」
アルドは少し笑った。
「で、起きたら続きを読んでた」
「すごいですね」
「変なやつだろ」
「尊敬してます」
ルカは素直に言った。アルドは少しだけ目を細めた。
「そうか」
「はい」
「じゃあ、あいつから色々盗め」
「もう盗んでます」
「ならいい」
レイスは眠ったまま、何も言わなかった。馬蹄の音が街道に響く。川沿いの風が、昨日より少しだけ暖かい。バルトは眠そうにしながらも、何とか馬上で耐えていた。ノルはそれを見て、ぽつりと言う。
「バルト、寝たら落ちそう」
「落ちねぇよ……」
「もう半分寝てる」
「寝てねぇ……」
「寝てるでしょ」
「寝て……」
バルトの頭がかくんと落ちかけた瞬間、ゴードが横から腕を伸ばし、馬具を掴んだ。バルトの体勢が戻る。
「……寝てねぇ」
「今のは寝てました」
ルカが言う。
「寝てた」
ノルも言う。
「完全に寝てたわね」
セレスも言う。
「俺様への集中攻撃がひどい……」
「起きてる証拠だな」
アルドが笑う。ルシアンも小さく笑った。カワ村の墓地で見たものは、まだ頭の隅に残っていた。それでも、ゴードに馬具を掴まれたバルトがすぐ言い返し、ノルとルカが間を置かず刺す。ルシアンまで笑うと、アルドもつられて息を漏らした。手綱を握る肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
◇
王都に戻ると、第一部隊はそのまま本部へ向かった。ローグレスへの報告は長くなった。レイスは国軍と第二部隊の調査結果を踏まえた上で、今回の異常を説明した。根状異常体。古い淡青棺の破片。墓地全体への微弱干渉。新しい墓の振動。月夜での活性化傾向。ローグレスは一度も口を挟まなかった。ジークも執務室の隅で、いつものように書類を整理していた。
「以上です」
レイスが留帳を閉じる。ローグレスはしばらく黙っていた。机の上には、布に包まれた棺の破片が置かれている。
「……第二部隊でも掴めなかった理由は、地下にあったからか」
「その可能性が高いです。ただし、断定は避けます」
「正しい」
ローグレスは低く言った。
「これは第四と教会にも共有する。墓地、棺、根状異常体。医療と葬送の両面から見た方がいい」
「はい」
「ジーク」
ローグレスが声をかける。ジークは静かに顔を上げた。
「この件、白天還教側への照会文を用意してくれ。ただし、棺の破片については表現をぼかせ」
「承知しました、ローグレス様」
ジークは穏やかに頭を下げた。
「墓地に関する異常として、確認事項を整理いたします」
「ああ」
それだけだった。
「レイス」
ローグレスの声で、レイスは視線を戻した。
「はい」
「よくやった。お前が行って正解だった」
「第一部隊全員で対応した結果です」
「それでも、お前が気づかなければ被害が広がった可能性がある」
レイスは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「今日はもう上がれ」
「まだ報告書が」
「明日でいい」
「ですが」
「妹のところへ行け」
レイスは言葉を止めた。アルドが横で笑う。
「ほら、命令だぞ」
「お前は黙っていろ」
「はいはい」
ローグレスは少しだけ表情を緩めた。
「行け、レイス。報告書は逃げん」
「……承知しました」
レイスは深く頭を下げた。
◇
王都の夕方は、少し赤かった。死者のそばでは口にしない色でも、商店街の布屋の前では、ただ夕暮れの色だった。レイスは小さな店の前で足を止めた。棚には髪紐や髪飾りが並んでいる。高価なものではない。だが、色も手触りも悪くない。病室で過ごす妹が、少しでも気分を変えられるようなものを選びたかった。
金色は避けた。自分や母の髪を思い出させるかもしれない。赤は強すぎる。白は、少し寂しい。レイスはしばらく迷い、淡い青の髪紐を手に取った。
月夜の棺の色に似ている。そう気づいて、一度戻そうとした。けれど、その青は墓地の棺よりずっと柔らかかった。朝の川の色にも似ていた。妹は、川を見たことが少ない。王都の水路ではなく、村のそばを流れる川を見せてやりたいと思ったことがある。
「これを」
レイスは店主に言った。包まれた髪紐を受け取る。小さく、軽い。昨夜持ち帰った棺の破片とはまるで違う重さだった。店を出ると、空には薄い月が浮かび始めていた。
レイスはそれを見上げた。綺麗だとは思わなかった。ただ、そこにあると思った。いつも。どの村の上にも。
どの墓地の上にも。妹の病室の窓の外にも。レイスは髪紐の包みを握り直した。
「……早く行くか」
そう呟き、歩き出す。その背中を、王都の夕暮れが静かに押していた。
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次回も明日20時頃更新予定です。




