墓地に残るもの
かり。かり、かり。新しい墓の土が、月明かりの下でわずかに震えていた。そこには、ほんの少し前に埋葬されたばかりの淡青の棺が眠っている。村の老女。
老衰で亡くなった、ひとりの死者。それなのに。土が鳴っている。墓地にいた全員が、その音を聞いていた。誰もすぐには動けなかった。
墓石も、柳も、川の音も、すべてが凍りついたように見えた。
「……レイス」
アルドは低く呼んだ。レイスは新しい墓を見つめている。顔色は悪い。けれど、怯えている顔ではなかった。恐怖よりも早く、思考が走っている。目の前で起きている異常を、一つでも多く拾おうとしている。
「まだ撃つな」
レイスが言った。ルカの銃口が、ぴたりと止まる。
「出てきたら?」
「その時は撃て。ただし、墓そのものを壊すな」
「難しい注文ですね」
「できるだろ」
「……できます」
ルカは短く答えた。ノルも水車の上で銃口を下げずにいる。
「土だけ動いてる。何かが這い出ようとしてる感じじゃない」
彼女の声は少し低かった。
「でも、音はしてる」
「ああ」
レイスが頷く。
「音はしている。だが、さっきの柳の根とは違う」
かり。また音がした。今度は少し弱い。土の表面が、虫の羽音ほどに震える。ルシアンは墓地の入口付近で、村長とマウロ還師を支えていた。土壁の外側には、逃げたはずの村人たちが何人も集まり始めている。
その中に、先ほどの遺族がいた。息子夫婦と、幼い孫娘。母親は娘を抱きしめている。父親は顔を青ざめさせ、土壁の向こうを見ようとしていた。
「母さんの墓が……?」
かすれた声。マウロ還師が振り返る。
「下がってください。まだ近づいてはいけません」
「でも、今、音が……!」
「下がってください」
マウロ還師の声は震えていた。だが、それでも還師として立とうとしていた。
「死者の眠りを乱してはいけません。生者が慌てれば、祈りも乱れます」
それは遺族に言ったのか。自分に言い聞かせたのか。アルドには分からなかった。孫娘が母親の腕の中で、小さく言った。
「おばあちゃん、起きたの?」
誰も答えられなかった。ルシアンの表情が痛むように歪む。彼女は子供へ歩み寄り、膝を折った。
「まだ、分からないの」
「おばあちゃん、怖いの?」
幼い問いが、夜に落ちる。ルシアンは唇を結んだ。嘘をつけば、すぐに分かる。だから、彼女は短く息を吸った。
「怖くないように、私たちが見てる」
「お姉ちゃんたちが?」
「うん」
ルシアンは優しく頷いた。
「だから、今はお母さんと一緒に下がっていて。お願い」
少女はルシアンを見た。それから、母親の服をぎゅっと握った。
「……うん」
ルシアンが微笑む。その笑顔を見て、アルドは剣を握る手に力を込めた。守る。それだけは分かる。何が起きているか分からなくても、誰を守るべきかは分かる。
「レイス」
アルドは新しい墓を睨んだまま言った。
「このまま待つのか?」
「少しだけ」
「どれくらい」
「音が弱まっている。さっきの根が残した影響なら、すぐに消える可能性がある」
「消えなかったら?」
「掘る」
その言葉に、マウロ還師が息を呑んだ。
「墓を、ですか」
「必要なら」
レイスは振り返らないまま答えた。
「ただし、今すぐではありません。生きているものが出るのか、ただ土が動いているだけなのか、それを見極めます」
「ですが、葬ったばかりの棺です」
「分かっています」
レイスの声は冷静だった。冷たいわけではない。むしろ、冷たくしなければ立っていられないような声だった。
「だから壊さずに済むなら、そうします」
マウロ還師は何も言えなくなった。白天還教の葬送において、墓を暴くことは重い行為だ。死者の眠りを乱す。遺族の祈りを踏みにじる。だが、ためらえば、生者が死ぬ。
レイスは、その間に立っていた。かり。また音がした。今度は、もっと小さい。かり……。
そして。止まった。墓地に沈黙が戻る。誰も動かない。川の音だけが聞こえる。
柳の枝が夜風に揺れた。さっきまで黒い筋を浮かべていた幹は、今はただの古い木のように見える。
「ノル」
レイスが言った。
「見えるか」
「土の震え、止まった」
「ルカ」
「こっちからも動きなし。墓石も傾いてません」
「アルド」
「気配は?」
アルドは目を細めた。剣に宿した炎は、まだ消していない。炎の揺らぎで、近くの土と墓石の影が赤く揺れている。
「分からない。でも、さっきの根みたいな嫌な動きはない」
「そうか」
レイスはゆっくりと新しい墓へ歩いた。
「レイス」
アルドが呼ぶ。
「一人で近づくな」
「なら一緒に来い」
「最初からそのつもりだ」
二人は並んで墓へ向かう。足元の土は湿っていた。つい先ほどまで暴れていた柳の根の残骸が、黒く横たわっている。セレスの水の檻に閉じ込められて砕けたもの、ノルの弾丸に撃ち抜かれたもの、アルドの炎に断たれたもの。その間を抜け、新しい墓の前に立つ。土の表面には、わずかなひびがあった。
だが、何かが這い出した跡はない。盛り上がりも小さい。ただ、土の粒が少しずつ崩れたような跡だけがある。レイスは膝をついた。手袋をはめた指で、墓土の端に触れる。
「表面だけだ」
「中からじゃないのか?」
「少なくとも、深くから押された感じではない」
「じゃあ何だ?」
レイスは土を少しだけ指先で擦った。
「振動だ」
「振動?」
「ああ。さっきの根状の異常体が墓地全体へ伸ばした影響が、ここにも伝わった。土が鳴ったのは、その残響に近い」
「つまり、おばあさんが何かになったわけじゃない?」
「あぁ」
アルドは小さく息を吐いた。自分でも気づかないほど、肩に力が入っていた。
「よかった……でいいのか」
「分からない」
レイスは低く言った。
「少なくとも、この墓から何かが出てきたわけではない。それはよかったと言っていい」
「他は?」
「なぜ影響が伝わったのか。なぜ墓に触れようとしたのか。なぜ古い棺の破片が柳の根元にあったのか。なぜ第二部隊が来た時には顕在化しなかったのか」
「多いな」
「多すぎる」
レイスは留帳を開いた。月明かりの下で、さらさらと文字が走る。新規埋葬墓に微弱振動。根状異常体消滅後も残響あり。深部からの押し上げではない。
墓地内の土、根、棺、残留物への干渉可能性。アルドはその文字を見ても、半分ほどしか分からなかった。だが、レイスが何か嫌なものを掴みかけていることだけは分かる。
「レイス」
「何だ」
「考えすぎて戻れなくなるなよ」
レイスの手が止まる。ほんの一瞬だけ。それから、彼は小さく息を吐いた。
「戻る。妹への髪紐を買いに行かなきゃいけないからな」
「それならいい」
「何がいいんだ」
「理由があるやつは戻ってくる」
アルドはそう言って笑った。レイスは呆れたように目を細める。
「雑な理屈だ」
「でも合ってるだろ」
「たまにはな」
レイスは留帳を閉じた。その時、エディンが柳の根元から戻ってきた。藤色の髪が月光を受け、淡く光っている。彼女はいつものように微笑んでいたが、その目はどこか遠い。
「どうです?」
アルドが聞く。
「柳の方は、もう動かないわねぇ」
「完全に止まったんですか?」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「こういうものに、完全はあまり使いたくないのよぉ」
エディンは柔らかく言った。その言い方に、レイスが反応する。
「エディンさん」
「なぁに、レイスちゃん」
「この異常体を、以前に見たことがありますか」
エディンは少しだけ首を傾げた。
「同じものは、ないわねぇ」
「似たものは、あります?」
「どうかしら」
「誤魔化していますか」
「おねえさん、そんなに意地悪に見える?」
にこりと笑う。レイスは笑わなかった。
「見えます」
「あらぁ」
エディンは口元に手を当てた。アルドは二人を見比べる。エディンはいつも掴みどころがない。第一部隊の誰よりも柔らかく、誰よりもふざけたように話す。だが時々、笑顔の奥にまったく別のものが見える。今もそうだった。
「エディンさん」
アルドが言った。
「何か知ってるなら教えて下さい」
「知っている、というより」
エディンは柳の根元を見た。
「見たくないものに似ている、かしらねぇ」
「何なんですか、それ」
「そのままの意味よぉ」
答えになっていない。だが、それ以上聞いても、エディンは話さないだろう。レイスも同じ判断をしたのか、追及をやめた。
「少なくとも、記録には残します」
「ええ。それがいいわ」
エディンはあっさり頷いた。
「レイスちゃんの留帳は、よく覚えてくれるものねぇ」
レイスの眉がわずかに動いた。
「よくご存じですね」
「有名だから」
「そうですか」
短いやり取りだった。だが、アルドは少しだけ妙なものを感じた。エディンの言葉は、時々軽すぎる。軽すぎて、逆に重い。
◇
墓地の確認は、夜明け近くまで続いた。柳の根元を深く掘ることはしなかった。マウロ還師の立ち会いのもと、表層の土と異常体の残骸、古い淡青棺の破片だけを慎重に回収した。レイスはそれを布に包み、直接触れないようにした。新しい墓は掘り返さなかった。遺族には、土が鳴ったことは説明した。けれど、棺から何かが出たわけではないと、レイスははっきり伝えた。
父親は泣き崩れた。母親は娘を抱きしめたまま、何度も頭を下げた。孫娘は、墓をじっと見ていた。
「おばあちゃん、ちゃんと寝てる?」
ルシアンが隣にしゃがむ。
「うん。今は、ちゃんと眠ってる」
「起こしたらだめ?」
「うん」
「じゃあ、静かにする」
「えらいね」
ルシアンが少女の頭を撫でる。少女は少しだけ考えてから、小さな声で言った。
「お姉ちゃん、ありがとう」
ルシアンは一瞬だけ目を伏せた。それから、笑った。
「どういたしまして」
その横で、セレスが黙って立っていた。普段なら何か軽口を言うところだが、この時は何も言わなかった。彼女は墓を見る。新しい土。小さな手で落とされた土。
そして、その下に眠る淡青の棺。死者が眠る場所。生者が祈る場所。そこが揺れることの怖さを、セレスは言葉にしなかった。バルトも静かだった。
大きな体で墓地の隅に立ち、腕を組んでいる。さっきまで根を殴り砕いていた拳は、今は力なく垂れていた。
「バルトさん」
ルカが横に立つ。
「大丈夫ですか?」
「あ?」
「静かなので」
「俺様だって静かな時くらいある」
「葬儀の時も言ってましたね」
「墓の前で騒げるかよ」
「煤鳩亭なら騒ぐのに」
「場所を選ぶ男なんだよ、俺様は」
「選べてたんですね」
「お前、そこは褒めろよ!」
声が少し大きくなり、バルトは慌てて口を押さえた。ルカが小さく笑う。
「今のは少しだけ褒めてます」
「少しかよ」
ノルが水車から降りてきて、ぼそりと言った。
「少しあるだけいいでしょ」
「ノル、お前は今日も刺すな」
バルトは少し笑った。その笑いは、煤鳩亭での馬鹿騒ぎよりずっと小さい。けれど、墓地の空気を壊さない程度には温かかった。ゴードは、墓地入口でずっと立っていた。夜明け前の薄い光の中でも、その背中は大きい。
アルドが近づく。
「ゴードさん、交代します?」
ゴードは首を振った。
「大丈夫だ」
「ずっと立ってたじゃないですか」
「慣れている」
短い言葉。それ以上はない。アルドは、ゴードの横に並んだ。墓地の中では、レイスがマウロ還師と話している。エディンは少し離れて柳を見ている。ルシアンとセレスは遺族のそばにいる。バルトとルカとノルは、声を抑えながら何か話している。
「墓地の任務、嫌ですね」
アルドがぽつりと言った。ゴードは少しだけ目を動かした。
「嫌か」
「はい。夜骸と戦う方が分かりやすいです」
「そうだな」
「斬れば終わるものなら、斬ればいい。でも、墓とか棺とか祈りとか、そういうのが絡むと……何を守ってるのか分からなくなるんですよね」
ゴードはしばらく黙っていた。そして、低く言った。
「生きている者を守る」
アルドは横を見る。ゴードの目は、墓地の奥を見ていた。
「死んだ者は、祈る者が守る。俺たちは、生きている者を守る」
「……そうですね」
「だが、死んだ者を踏みにじっていいわけではない」
「はい」
「だから難しい」
それだけ言って、ゴードはまた黙った。アルドは少し笑った。
「ゴードさんがたくさん喋った」
「そうか」
「貴重ですね」
「忘れろ」
「嫌ですね。覚えときます」
ゴードは少しだけ困ったような顔をした。それが何だか可笑しくて、アルドは声を殺して笑った。
◇
夜明け前。空が薄く白み始める頃、レイスはようやく全員を集めた。墓地の入口近く。村人たちは帰され、遺族も還師の勧めで家へ戻っている。墓地には第一部隊と、マウロ還師、墓守のダンだけが残っていた。
「現時点で分かったことを共有する」
レイスは留帳を開いた。
「異常体は柳の根元を中心に発生。形状は根状。古い淡青棺の破片を巻き込んでいた。夜間、特に月が出ている時間帯に活性化する傾向あり。行動は墓への接触、または墓地内の何かへの干渉」
「夜骸なのか?」
バルトが聞く。
「断定はしない」
レイスは即答した。
「通常の雑級や低級とは挙動が違いすぎる。ただし、咆哮、月夜での活性化、攻撃性、形状の不安定さから、消去法で夜骸と言えるだろうな」
「じゃあ、報告ではどう書く?」
アルドが聞く。
「根状異常体。夜骸類似反応あり。墓地干渉型の可能性」
「長いな」
「正確さを優先する」
「はいはい」
レイスはアルドを睨んだ。
「お前は報告書を短くしようとして意味を削りすぎる」
「だって長いとローグさんも読むの大変だろ」
「ローグ様は読む。お前と違って」
「ひどいな」
「事実だ」
少しだけ空気が緩む。だが、レイスはすぐに表情を戻した。
「重要なのは、新しく埋葬された墓が震えたことだ」
ルシアンの顔が少し曇る。
「どうしてなんだろう」
「異常体が墓地全体へ影響を及ぼしたからだと思う」
レイスは墓地の土を指す。
「墓の中に何かが起きたのではなく、墓地の土そのものが一時的に震えた。新しい墓は土が柔らかかったから、目立って音が出た可能性が高い」
「つまり、他の墓も震えてたけど分かりにくかった?」
セレスが聞く。
「その可能性がある」
「気持ち悪いわね」
「同感だ」
レイスは短く言った。ノルが長銃を肩に担ぐ。
「じゃあ、倒して終わり?」
「終わりにしたい」
「終わりじゃない言い方」
「少なくとも、今夜一晩は残る。昼に柳周辺を改めて確認し、必要なら一部を掘る。ただし、墓を荒らさない範囲で」
ダンが頭を下げた。
「お願いします」
マウロ還師も深く頭を下げる。
「死者の眠りと、生者の安全。その両方を守るために、どうか」
レイスは少しだけ表情を緩めた。
「そのために来ました」
アルドは剣を鞘に納めた。
「じゃあ、夜明けまでは警戒継続。朝になったら柳周りを調べ直す。交代で休め」
「カシラ」
バルトが手を上げる。
「俺様、腹減った」
「早いな」
「戦ったからな!」
「墓地で大声出すな」
レイスが言う。バルトは慌てて声を落とした。
「……腹減った」
「小声ならいいわけじゃない」
「でも腹は減った」
ノルがため息をつく。
「燃費悪すぎ」
「墓地でも言うのか、それ!」
「小声で言った」
「そういう問題じゃねぇ!」
今度はルシアンが小さく笑った。セレスも肩を揺らしている。マウロ還師とダンも、緊張の残る顔で、それでも少しだけ笑った。夜明けが近い。月が薄くなっていく。
白く冷たい光が、少しずつ朝の青へ溶けていく。アルドは墓地を見渡した。昨夜、そこには確かに異常があった。黒い根が墓を求め、古い棺の破片が土の中から現れ、新しい墓が震えた。何も分かっていない。
けれど、誰も死ななかった。それだけは、今夜の勝ちだと思いたかった。レイスは留帳に最後の一文を書き込んだ。カワ村墓地異常。討祓後も要警戒。
墓地は、夜骸を呼ぶ場所になり得る可能性あり。最後の文字が留帳へ消えるのを見届けて、レイスは顔を上げた。朝日が、墓地の土を照らし始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回も明日20時頃更新予定です。




