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柳の下の声

 黒く濡れた根の塊が、墓の下から這い出してくる。月明かりの下で、それは生き物のように震えていた。柳の根に似ている。泥にも見える。だが、ただの植物でも、ただの土でもない。


 細い根の一本一本が、何かを探すように墓地の土を撫でている。触れた墓石が、かたりと小さく鳴った。その音が、静かな墓地ではひどく大きく聞こえた。


「ぉ……おお……」


 根の奥から、低い声が漏れる。喉から出た声ではない。地面の下に閉じ込められていた息が、無理やり押し出されたような音だった。アルドは剣を構えたまま、一歩前に出た。


「レイス」


「まだ形が定まっていない。夜骸《やがい》の可能性は高いが、断定はしない」


「どうする?」


「まずは村人を下げる。次に墓地外への拡散防止。柳の根と繋がっているなら、燃やすだけでは周囲に延びる可能性がある」


「斬るか」


「斬る。ただし、浅く切り刻むだけでは駄目だ。中心を探す」


 レイスの声が速くなる。先ほどまで妹への贈り物を気にしていた男の顔ではない。目の前の異常を、冷たく分解しようとしている。墓守のダンが、硬い声を出した。


「あ、あれは何なんですか」


「下がってください」


 レイスが即座に言った。


「ダンさん、村長とマウロ還師を連れて墓地の外へ。入口の内側には入らないでください。ゴードさん」


 ゴードが盾を構えたまま頷く。


「入口を塞いでください。村人が戻ってきても入れないように」


「分かった」


 ゴードの低い声。彼はすぐに墓地入口へ移動した。大盾を構えた姿は、黒い門のようだった。村長は腰を抜かしかけていた。マウロ還師がその肩を支え、胸元で震える手を握っている。


「白き天よ……」


 祈りの言葉がかすれる。ルシアンが素早く二人の側へ寄った。


「こちらへ。ゆっくりで大丈夫です。転ばないように」


「しかし、棺が、墓が……」


「今は命が先です」


 ルシアンの声は柔らかい。けれど、芯があった。マウロ還師は一瞬だけ墓地の奥を見た。つい先ほど埋葬された淡青の棺。その上にかけられた新しい土。そこにはまだ異常はない。だが、柳の根元でうごめく黒い根は、墓地全体へ伸びようとしている。


「……お願いします」


 還師は頭を下げ、村長を支えて後退した。ダンは剣を抜きかけていたが、アルドが視線で制した。


「ダンさん、下がってください」


「俺は墓守です。墓を守るのが――」


「だから下がれ」


 アルドの声が少しだけ低くなった。ダンの動きが止まる。


「ここから先は、俺たちの仕事です。あなたが倒れたら、誰がこの墓地を守るんですか」


 ダンは歯を食いしばった。悔しさが顔に出ていた。それでも、彼は剣を収めた。


「……頼みます」


「ああ」


 アルドは短く返した。その間にも、根の塊は膨らんでいく。墓石の間から黒い筋が伸び、地面を這い、別の墓へ触れようとする。その先端を、風を纏った弾丸が撃ち抜いた。遠く、水車の上からノルが狙っていた。


「動き、気持ち悪いなぁ……」


 彼女の声が夜風に乗って届く。長銃の銃口が、次の根へ向く。


「切っても戻る?」


「試すな。今は墓に触れさせるな」


 レイスが言う。


「了解」


 二発目。三発目。弾丸が根の先端を正確に弾き飛ばす。黒い液のようなものが土に散り、じゅっと音を立てた。ルカは墓地の石垣を蹴り、上から根の動きを追っていた。


「中心、見えません。表面全部が動いてます」


「外側に囮を出している可能性がある」


「面倒ですね」


「面倒で済めばいいと言っただろ」


「本当に面倒じゃないですか」


 ルカが銃を撃つ。近距離からの連射。弾丸は黒い根の束を削り、泥のような破片を吹き飛ばした。だが、夜骸らしきものは崩れない。根が寄り集まり、撃ち抜かれた穴を塞ぐ。


「再生してる」


「再生じゃない」


 レイスの声が飛ぶ。


「周辺の根を寄せて穴を埋めている。全体の量は減っているはずだ」


「じゃあ削ればいいんですね」


「削るだけでは墓地全体に散る。ルカ、深入りするな」


「了解」


 ルカは返事をしながらも、ぎりぎりの距離で動いていた。腰からナイフを抜き、右の銃を口にくわえる。伸びてきた根を左の銃で撃ち、跳び上がり、空中でナイフを投げる。刃が根の束を地面に縫い止めた瞬間、彼は着地してその上を蹴り、別の墓石へ移る。速い。だが、相手は人型ではない。速さだけで翻弄しきれるものではなかった。


 足元の土が、突然盛り上がる。


「ルカ!」


 アルドが叫ぶより早く、ルカは気づいていた。彼は体を捻り、跳び退く。だが、土の下から伸びた細い根が足首に絡んだ。


「っ!」


 ルカの体が引かれる。その瞬間、バルトが横から突っ込んだ。


「若造に触ってんじゃねぇ!」


 拳が岩に包まれ硬化する。


「大地壱式 岩拳《がんけん》!」


 バルトの拳が地面ごと根を砕いた。衝撃で土が跳ね、ルカの足首を掴んでいた根が千切れる。ルカは空中で姿勢を直し、墓石の上に着地した。


「助かりました、バルトさん」


「おう! 感謝しろ!」


「ただ、もう少し静かに助けてほしかったです」


「助けられて文句言うな!」


「墓地なので」


「そうだった!」


 バルトは一瞬だけ口を押さえた。それを見たノルが、水車の上からぼそりと言う。


「今さら」


「聞こえてるぞノル!」


「聞こえるように言った」


 バルトが何か言い返そうとした時、根の塊が大きく震えた。柳の枝がざわりと揺れる。風はない。月明かりの中で、根の束が絡み合い、ひとつの形を作り始める。胴体。


 腕。首のようなもの。だが、人ではない。根を寄せ集めただけの、でたらめな人形だった。顔にあたる場所には、穴が三つ空いている。目にも口にも見えるが、配置は歪んでいる。そこから泥のような黒い液が垂れていた。


「ぉお……おおお……」


 声が強くなる。その声に混じって、別の音が聞こえた。かり。かり、かり。土を掻く音。


 レイスが顔を上げた。


「違う」


 アルドが振り向く。


「何が?」


「あの音は、こいつだけじゃない」


 その言葉と同時に、墓地の別の場所で土が盛り上がった。新しく埋葬された墓ではない。古い墓だ。石碑の文字が半分ほど風化している。周囲の土が、ゆっくりと内側から押し上げられていく。ルシアンが息を呑んだ。


「まさか……」


「ゴードさん!」


 レイスが叫ぶ。


「入口を守ったまま、村人を絶対に入れないでください!」


 ゴードは返事の代わりに盾を地面へ打ち込んだ。


「大地弐式 堅塞《けんさい》」


 墓地入口の地面が盛り上がり、低い土壁ができる。村側からは中が見えにくくなった。村長の声が外から聞こえる。


「何が起きているんですか!」


「下がってください!」


 ルシアンが叫ぶ。


「お願いです、絶対に入らないで!」


 アルドは歯を食いしばった。


「レイス、どうする!」


「古い墓に干渉している。あの根が墓地全体に広がる前に中心を潰す」


「中心は?」


「柳だ」


 レイスは柳の木を指した。


「根の動きはすべて柳の根元から始まっている。夜骸の本体が柳なのか、柳を媒介にしているのかは分からない。だが、あそこを断つしかない」


「燃やすか?」


「墓地全体に火が回る危険がある。死者の場で無闇に火を広げるな」


「分かった」


 アルドは短く答えた。火は使う。だが、火で焼き払うのではない。剣に纏わせ、斬る。


「バルト、正面を押さえろ! ルカ、根を散らせ! ノル、古い墓に伸びる根を撃て! ゴードさんは入口! セレス、レイスの護衛! ルシアンは村人対応!」


「了解!」


 声が重なる。エディンがゆっくりと前に出た。


「おねえさんは?」


 アルドは一瞬だけ迷った。エディンは笑っている。だが、やはり目は笑っていない。


「柳の根元を見ます。何か見えたら教えてください」


「はぁい」


 エディンは軽く頷き、藤色の髪を揺らして墓石の間を歩いた。その歩き方は、戦場のものではなかった。散歩のようで、踊りのようで、それでいて根の動きは一つも彼女に触れられない。黒い根が足元へ伸びる。エディンは半歩ずれる。


 根は空を切る。別の根が背後から伸びる。エディンは振り向きもせず、指先で軽く払う。それだけで、根が切れた。ルカが目を丸くする。


「今の、何ですか」


「見てる余裕があるなら撃て」


 レイスが言う。


「はい!」


 ルカは慌てて銃を構え直した。バルトが正面から根の人形へ突っ込む。


「よし、化け物! 俺様が相手だ!」


 根の腕が振るわれる。バルトはそれを拳で受けた。土魔法で硬化した腕と、黒い根がぶつかる。鈍い音。


「重っ……!」


 バルトの足が地面に沈む。ただの根の束ではない。墓地の土ごと引きずり込むような重さがあった。


「バルトさん、無理に受けないでください!」


 レイスが叫ぶ。


「分かってる!」


 バルトは歯を食いしばり、体を捻った。受けた力を横へ逃がし、根の腕を地面へ叩きつける。


「大地弐式 砕床《さいしょう》!」


 拳が地面を打った。土が波打ち、根の人形の足元が崩れる。その瞬間、アルドが走った。炎が剣に宿る。白天還教の墓地。


 淡青の棺。死者の眠る場所。ここで火を振るうことに、わずかな躊躇がないと言えば嘘になる。けれど、迷えば根は墓へ伸びる。死者の眠りを荒らす。


 村人を襲う。だから、斬る。


「火炎壱式 炎刃《えんじん》!」


 炎の刃が根の人形の胴を断つ。黒い根が焼け、嫌な匂いが立つ。だが、火は広がらない。アルドは剣に炎を閉じ込め、切断面だけを焼いた。根の人形が崩れる。しかし、崩れた根はすぐに地面へ潜ろうとした。


「逃がすな!」


 レイスの声。セレスが指先を振る。


「水流弐式 水檻《すいかん》!」


 水が地面を走り、崩れた根を包み込む。透明な水の檻が一瞬だけ形を作り、根の動きを止めた。


「今!」


 セレスが叫ぶ。ノルの銃声。水の檻の中で、根の束が弾ける。続けてルカの銃弾が何発も撃ち込まれた。黒い液が散る。


 根は今度こそ動かなくなった。だが、本体はまだ柳の下にいる。柳の根元が大きく膨らんだ。幹の表面に、黒い筋が浮き上がる。枝葉がざわめき、墓地全体の土が細かく震えた。


 古い墓の土がまた盛り上がる。レイスの顔が険しくなる。


「まずい。墓を内側から揺らしている」


「何でそんなことを」


「分からない。だが、このままでは墓が暴かれる」


 その言葉に、マウロ還師が息を呑んだ。外に退避していたはずの彼が、土壁の向こうから墓地を見ようとしている。


「墓が……」


「入るな!」


 アルドが叫んだ。


「でも、そこには――」


「入るな!」


 今度はレイスの声だった。鋭く、冷たい声。マウロ還師が硬直する。


「死者を守りたいなら、生きていてください。あなたが死ねば、祈る者が減る」


 マウロ還師は唇を震わせた。そして、ゆっくりと下がった。ルシアンが彼のそばに寄り、支える。


「大丈夫です。私たちが止めます」


 その言葉に、アルドは背中を押された気がした。止める。絶対に。


「レイス、道作れ!」


「ルカ、ノル、柳の根元左側を集中射撃。バルトさん、正面の根を押し返して下さい。セレスは地面から出る根を水で縛ってくれ。アルドは右から入れ」


「了解!」


 アルドは地面を蹴った。銃声が重なる。ルカの連射が根元の左側を削り、ノルの一撃が太い根を貫く。黒い液が吹き出し、柳の幹が軋んだ。バルトが正面から拳を叩き込む。


「どけぇ!」


 大地魔法を纏った拳が、迫る根をまとめて砕いた。セレスの水が地面を走り、別方向から伸びる根を絡め取る。レイスは留帳を片手に、墓地全体を見ていた。指示を出す。修正する。


 根の動きを読む。


「アルド、三歩右! そこから踏み込め!」


 アルドは考えずに従った。三歩右。直後、さっきまでいた場所から黒い根が突き出した。レイスの声がなければ、足を取られていた。


「助かった!」


「礼は後でいい!」


 アルドは柳の根元へ迫る。太い根が、鞭のように振るわれる。剣で受ける。重い。腕に痺れが走る。


 だが、止まらない。


 アルドは息を吸った。炎が剣だけでなく、腕から肩へ、全身へ薄く広がる。熱が骨の奥に入る。


「火炎弐式 炎装《えんそう》!」


 赤い炎が、アルドの体を包んだ。それは燃え広がる火ではない。戦うために、体を押し上げる炎。踏み込みが速くなる。剣が重さを失う。


 アルドは太い根を斬り抜け、柳の根元へ届いた。そこに、黒い塊があった。柳の根と、墓地の泥と、何かよく分からないものが絡み合った中心。そこから、声が漏れている。


「ぉ……お……」


 アルドの目が鋭くなる。


「悪いな」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


「ここで止める」


 剣を振り下ろす。炎の刃が、黒い中心を断った。柳が大きく震えた。声が途切れる。黒い根が一斉に痙攣し、地面へ落ちる。墓石を押し上げていた土の動きが止まった。


 静寂。川の音だけが戻ってくる。アルドは剣を構えたまま、しばらく動かなかった。


「……終わったか?」


 バルトが拳を下ろす。レイスは答えない。彼は柳の根元を見ていた。崩れた黒い塊。切断された根。


 湿った土。そして、土の中に埋もれていた小さなもの。レイスが近づき、膝をつく。


「触るなよ」


 アルドが言う。


「分かっている」


 レイスは手袋をはめ、慎重に土を払った。出てきたのは、古い木片だった。いや、木片ではない。棺の一部だ。淡い青の塗料が、ほんのわずかに残っている。


 白天還教の棺。かなり古いものに見えた。マウロ還師が、土壁の向こうで息を呑んだ。


「それは……」


 レイスは木片をじっと見つめた。


「柳の根が、古い棺を巻き込んでいた?」


 ルカが言う。


「ただの木の根なら、そうかもしれません」


 レイスは低く答えた。


「だが、これはただの根ではない」


「夜骸なの?」


 ノルが水車から降りてきながら聞いた。


「分からない」


 レイスはもう一度、その言葉を言った。だが、先ほどとは違う。分からないものを前にした時の苛立ちと、何かを掴みかけている緊張が混じっていた。


「分からないが……国軍と第二部隊が見つけられなかった理由は少し見えた」


「どういうことだ?」


 アルドが聞く。レイスは柳を見上げた。


「こいつは、夜にだけ動いていたわけじゃない。たぶん、ずっと墓地の下にいた。音がした時だけ、表に出ようとしていた」


「何のために?」


「墓に触れるためだ」


 その言葉に、全員が黙った。墓に触れる。墓地の下にある棺へ。死者へ。アルドは柳の根元を見た。


 黒い根が、切られて動かなくなっている。ただの怪物の死骸に見える。だが、さっきの声がまだ耳に残っていた。ぉ……お……。あれは何だったのか。


 夜骸の声なのか。根の軋みなのか。あるいは、墓の下に溜まった何かが漏れただけなのか。レイスは留帳を開き、震えるほどの速さで記録を始めた。


「カワ村墓地。柳周辺。古い淡青棺の破片。根状夜骸らしき異常体。墓への接触行動。月夜に活性化の傾向。第二部隊調査時には不顕在……」


「レイス」


 アルドが呼ぶ。


「何だ」


「これ、終わりか?」


 レイスは答える前に、柳の根元と墓地全体を見た。そして、小さく首を振った。


「分からない」


 また、その言葉。レイスは唇を引き結ぶ。


「だが、少なくとも今夜はまだ警戒を解かない方がいい」


 その時だった。新しく埋葬された墓の方から、かすかな音がした。かり。全員が振り向く。土は動いていない。


 墓石も傾いていない。ただ、音だけがした。かり、かり。レイスの顔から血の気が引いた。アルドは剣を握り直す。


 ルシアンが、小さく息を呑んだ。月明かりの下。淡青の棺が眠る新しい墓の土が、ほんの少しだけ震えた。

お読みいただきありがとうございます。

次回も明日20時頃更新予定です。

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