カワ村の青い棺
ローグレスに呼び出されたのは、昼過ぎのことだった。王都討祓軍本部の廊下は、いつもより慌ただしい。第二部隊の隊員が数名、書類束を抱えて早足に通り過ぎ、反対側からは第五部隊の者たちが何やら低い声で話し合っている。アルドはその間を抜けながら、軽く首を傾げた。
「何だろうな。ローグさん、急ぎっぽかったけど」
隣を歩くレイスは、いつも通り留帳を片手にしている。だが、その表情は少しだけ渋かった。
「さあな。ただ、急ぎなら急ぎで、もう少し早く呼んでほしかった」
「何か予定あったのか?」
「妹への贈り物を見に行く予定だった」
「あー……」
アルドは少しだけ気まずそうな顔をした。レイスの妹は病弱だ。王都の療養院で療養しているが、体調が安定しない日も多い。レイスは任務の合間に薬や本、髪飾り、小さな菓子などを届けている。それを知っているから、アルドも茶化さなかった。
「後で行けるといいな」
「行く。遅くなっても行く」
「そっか」
「だから、面倒な長話でないことを祈る」
「ローグさんの前でそれ言うなよ」
「言わない。顔には出るかもしれない」
「出すな」
そんなやり取りをしながら、二人は総隊長室の前に着いた。レイスが扉を叩く。
「レイスです。アルドもいます」
「入れ」
低い声が返った。中に入ると、ローグレスは机の前に立っていた。椅子には座っていない。机上には開かれた地図があり、その横にいくつもの報告書が重ねられている。赤い印がつけられている場所は、王都から川沿いに少し離れた小村だった。部屋の隅では、ジークがいつものように書類を整理していた。
「来たか」
ローグレスが地図から顔を上げた。
「急にすまない」
「ローグさんの呼び出しなら、いつでも来ますよ」
アルドは軽く笑った。
「で、何です?」
ローグレスは地図上の一点を指した。
「カワ村だ」
「カワ村……川沿いの?」
「ああ」
レイスが地図を覗き込む。眉がわずかに動いた。
「何か出たんですか」
「出てはいない」
「では、なぜ俺たちを?」
レイスの声には、わずかに面倒そうな響きがあった。アルドには分かる。これは妹への贈り物を買いに行けなくなりそうな時のレイスだ。ローグレスも気づいたのか、少しだけ目を細めた。
「普通なら、お前たちを動かす案件ではない」
その一言で、レイスの表情が少し変わった。面倒そうな色が薄れ、代わりに副隊長としての顔になる。
「異常の内容は?」
「二週間前から、カワ村の墓地で夜になると音がする」
「音?」
「土を掻くような音。石が転がるような音。墓守が何度も確認しているが、墓荒らしの痕跡はない。獣の足跡もない。墓も壊されていない」
アルドは腕を組んだ。
「それだけなら、確かに俺たちが行くほどじゃないですね」
「ああ。だから最初は国軍が向かった」
ローグレスは報告書を一枚めくる。
「周辺確認。野犬、盗賊、墓荒らし、浮浪者の痕跡なし。村人への聞き取りでも、不審者なし。国軍は『獣の可能性あり、継続警戒』として戻った」
「普通ですね」
レイスが言った。
「だが、その三日後にまた音がした」
ローグレスは次の報告書を取る。
「次は私から第二部隊を出した。墓地周辺、川辺、森の入口、古い井戸、地下水路まで調べた。夜間も張った。だが、何も見つからなかった」
「第二部隊でも?」
アルドが眉を寄せた。第二部隊は広域対応と集団戦に強い。調査専門ではないが、普通の村の異常を洗う程度なら十分すぎる。国軍が見落としたものでも、第二部隊なら拾うことが多い。それでも何も見つからない。だが、異常は続いている。
「昨夜、また墓地で音がした」
ローグレスは静かに言った。
「これで二週間だ。誰も何も見ていない。何も壊れていない。だが、墓守だけでなく、近くの家の者まで同じ音を聞いている」
レイスが留帳を開いた。
「音がする場所は毎回同じですか」
「墓地の奥。柳の木の周辺だ」
「墓地そのものに新しい埋葬は?」
「ある。今日の夕方、老衰で亡くなった老婆の葬儀がある。村の還師が確認している」
アルドは地図を見つめた。
「で、ローグさんは何か引っかかってるんですね」
「ああ」
「何が?」
「何も見つからないことだ」
ローグレスの声は低かった。
「国軍が見つけられないのは分かる。だが、第二部隊が二晩張って何も掴めない。なのに、異常だけは続いている。これは、ただの獣や悪戯ではない」
レイスが報告書へ視線を落とす。
「第二部隊が何も見つけられなかった、という事実自体が異常というわけですね」
「そうだ」
ローグレスはアルドを見た。
「だから、第一部隊にも確認してほしい」
アルドは少しも迷わなかった。胸を叩いて笑う。
「ローグさんの頼みなら、なんでも聞きますよ!」
レイスが横目で見る。
「何でもはやめろ。言質になる」
「ローグさんなら変なこと頼まないだろ」
「そういう問題じゃない」
ローグレスは少しだけ口元を緩めた。
「助かる」
「任せてください。カワ村行って、墓地の変な音の正体を見つけてくればいいんですね」
「ああ。ただし、油断はするな」
「もちろん」
「第二部隊にも見つからなかった何かだ。何か出るなら、普通ではない」
ローグレスの視線が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「夜骸でないなら、それはそれで厄介だ。夜骸なら、なおさら妙だ」
「分かりました」
レイスが留帳にすばやく記録する。
「カワ村の資料、国軍と第二部隊の報告書、墓地の地図を確認してから出ます。同行は第一部隊全員で?」
「ああ。全員で行け」
レイスの眉がわずかに寄った。
「全員ですか」
「不満か」
「いいえ。ただ、調査としてはやや大仰です」
「私もそう思う」
ローグレスは地図を畳みながら言った。
「それでも全員で行け。嫌な予感がする」
部屋の隅では、ジークが報告書の写しを揃えていた。
「承知しました、ローグ様」
レイスが頭を下げる。
「では、準備が整い次第出発します」
「頼む」
ローグレスは短く言った。アルドとレイスが退出しようとした時、ローグレスがもう一度口を開いた。
「レイス」
「はい」
「妹への用事があったなら、すまない」
レイスは少し目を見開いた。それから、すぐに表情を整える。
「……いえ。任務が先です」
「無事に戻れ」
レイスは静かに頷いた。
「はい」
アルドはその横顔を見て、軽く笑う。
「じゃ、さっさと片付けて戻るか」
「お前がそういうことを言うと、大抵面倒になる」
「縁起でもないこと言うなよ」
「経験則だ」
二人は総隊長室を出た。
◇
出発前の第一部隊は、思ったよりも騒がしかった。
「カワ村?」
バルトが厩舎の前で首を傾げる。
「墓地の音? 何だそりゃ。幽霊か?」
「幽霊なら、バルトさんが一番うるさくて逃げそうですね」
ルカが馬具を確認しながら言った。
「どういう意味だルカ」
「そのままです」
「幽霊にも俺様の豪快さが通じるってことか?」
「通じるというか、迷惑がられるというか」
「お前ほんと可愛くねぇな!」
「褒め言葉として受け取ります」
ノルが長銃の点検をしながら、ぼそりと言った。
「幽霊よりバルトの方が声でかそう」
「ノル!」
「何」
「否定しろ!」
「自分で?」
「俺様が否定してどうする!」
「じゃあ無理」
セレスが笑う。
「今回、戦闘になるか分からないんでしょ?」
「分からない」
レイスが答えた。
「国軍と第二部隊が調査済み。それでも原因不明。二週間続く墓地の異音。今日夕方には葬儀もある」
「嫌な感じね」
「ええ」
レイスは短く返した。その声に、さっきまでの面倒そうな色はもうなかった。妹への贈り物を買う予定が潰れたことへの不満は、完全には消えていないのだろう。けれど、それを任務に持ち込む男ではない。ルシアンが心配そうに聞いた。
「レイス、妹さんのところは大丈夫?」
「戻ったら行く」
「何か買う予定だったの?」
「髪紐を見に行くつもりだった」
「そっか。じゃあ、早く戻らないとね」
「ああ」
ルシアンは優しく笑った。
「任務、ちゃんと終わらせようね」
「もちろん」
アルドはその会話を聞きながら、自分の長剣を腰に吊るした。
「全員、準備できたか?」
ゴードが無言で頷く。エディンは藤色の髪を揺らしながら、いつものように微笑んだ。
「おねえさんはいつでも大丈夫よぉ」
「じゃあ行くぞ」
第一部隊は馬に乗り、王都を出た。カワ村までは、馬で半日ほど。街道は川沿いへ伸びている。王都の石壁が遠ざかるにつれ、人通りは少なくなり、代わりに草と湿った土の匂いが強くなった。馬蹄の音が、乾いた道に響く。
「なぁ、カシラ」
しばらくして、バルトが真剣な顔で言った。
「今回、夜骸じゃなかったらどうするんだ?」
「どうするって?」
「墓地で音がするだけなんだろ? 鼠だったら?」
「鼠なら捕まえる」
「俺様達で?」
「たぶんな」
アルドが笑う。
「精鋭部隊の鼠捕りか。豪華だな」
「鼠だったら、ローグ様が第一部隊を全員出すはずがありません」
レイスが言った。
「第二部隊でも原因不明だった。その時点で、普通の鼠や獣ではない可能性が高いです」
「第二部隊でも見つからなかったんだよなぁ」
ルカが考えるように呟く。
「じゃあ、見えないとか、隠れるのが上手いとか?」
「または、調査中には現れない条件がある」
レイスが言う。
「時間、月の位置、墓地にいる人間の数、祈り、埋葬、湿度、音を聞く者の位置。可能性は多い」
「うわ、面倒」
ノルが言った。
「あぁ面倒だ」
レイスは同意した。
「だから、面倒で済めばいい」
その言葉に、少しだけ空気が変わった。レイスがそう言う時は、大抵もう考え始めている。まだ何も見ていないのに、すでに何かの形を探している。アルドは横目でレイスを見た。
「何か気になるか?」
「今はまだ何も」
「今は?」
「現地を見てからだ」
「了解」
バルトが腕を組む。
「考えるのはレイスに任せる。俺様は出たやつを殴る」
「単純でいいですね」
ルカが言う。
「役割分担だ!」
「まあ、バルトさんはそれでいいと思います」
「褒めてるのか?」
「半分くらい」
「半分か!」
ノルがぼそりと呟く。
「半分もあるんだ」
「ノルぅ!」
いつもの調子で騒ぎながらも、第一部隊の目は周囲を見ていた。川の流れ。街道の轍。森の影。道端の古い祠。
何でもないものの中に、何かが混じっていないか。彼らは笑いながら、気を抜かない。それが黒豹だった。
◇
カワ村に着いたのは、夕方少し前だった。村の入り口には、小さな白い石柱が立っていた。表面には、月と海をかたどった白天還教の紋が彫られている。その奥に、川が見えた。幅は広くないが流れは速い。水面が夕方の光を反射し、きらきらと揺れている。水車がゆっくり回り、粉挽き小屋からは乾いた木の音が聞こえた。村には、妙な緊張があった。
ナカ村で夜骸が出た直後のような露骨な怯えではない。もっと薄く、長く、疲れたような不安。二週間。何かがいるかもしれない。でも、誰もそれを見ていない。
その状態が続けば、人は少しずつ眠れなくなる。
「黒豹さんだ……」
川辺の子供が小さく言った。
「本当に来た」
その声に、別の子供が走って村の奥へ向かう。しばらくして、村長と還師、そして墓守らしき男が現れた。村長は痩せた老人だった。顔色はあまりよくない。還師は四十前後の男で、薄青い衣を着ている。穏やかな顔立ちだが、目の下には疲労が見えた。墓守の男は革鎧を着ていた。大柄で、肩幅も広い。元国軍兵という話に違わず、姿勢には兵士の名残がある。だが、王都討祓軍の隊員とは違う。夜骸と正面から戦う者ではなく、墓地を守り、夜を見張る者の重さを纏っていた。
「第一部隊の皆様ですね」
村長が深く頭を下げた。
「よくお越しくださいました」
「第一部隊隊長、アルドです」
アルドが名乗る。
「こちらは副隊長のレイス。あとはうちの隊員です」
レイスが軽く頭を下げた。還師が胸元で手を組む。
「私は、この村の祈り場を預かる還師、マウロと申します」
墓守の男も不器用に頭を下げた。
「墓守のダンです。最初に報せを出したのは、俺です」
「二週間前から、と聞いています」
レイスが言った。
「詳しく聞かせてください」
ダンは頷く。
「最初は、夜半でした。墓地の奥で、土を掻くような音がした。石が転がるような音もです。獣かと思って見回りましたが、足跡がない」
「足跡がない?」
「はい。土は少し乱れているのに、そこへ向かった跡も、離れた跡もない。墓は荒らされていません。ただ、柳の根元に近い墓石の周りの土が、内側から押されたみたいに盛り上がっていました」
ルカの表情が少し引き締まる。
「内側から?」
「そう見えただけかもしれません。俺も墓守とはいえ、夜骸相手に詳しいわけじゃない」
ダンはそう言い、悔しそうに拳を握った。
「国軍の方々も、第二部隊の方々も、丁寧に調べてくださいました。ですが、何も見つからなかった。それでも音は続いている」
「毎晩ですか」
レイスが問う。
「いえ。毎晩ではありません。二週間で六度です」
「音がした日の共通点は?」
ダンは少し考えた。
「夜が明るかった日が多い気がします。月が出ていた」
レイスの指が留帳の上で止まる。
「月が出ていた日」
「はい。ただ、曇っていた夜にも一度ありました」
「完全な共通条件ではない、か」
レイスが小さく呟く。アルドはその声を聞き逃さなかった。さっきまでより、レイスの目が鋭くなっている。面倒そうだった顔は、もうどこにもない。
「今日、葬儀があると聞きました」
レイスが続ける。マウロ還師が静かに頷いた。
「はい。村の老女が一人、眠るように亡くなりました。老衰です。月酔いではありません」
月酔い。その言葉が出た瞬間、村長の肩が少し強張った。誰も大きく反応しない。だが、空気が硬くなる。この国では、月酔いという言葉はそれだけで人を黙らせる。
「ご遺体は?」
「白天還教の作法に従い、淡青の棺へ納めました。夕方に祈りを捧げ、墓地へ運びます」
「その葬儀、予定通り行うんですか?」
セレスが聞いた。
「はい」
マウロ還師は迷わず答えた。
「死者をいつまでも家に留め置くことは、よくありません。白き天へ還る道を整えるのが、我々の務めです」
その言葉に、レイスが小さく頷く。
「分かりました。俺たちは葬儀の間も警戒します。その前に、墓地を見せてください」
「こちらです」
ダンが歩き出す。その背中を追いながら、アルドはレイスに小声で聞いた。
「どうだ?」
「まだ何とも言えない」
「でも、何か引っかかってる顔だな」
「第二部隊が二晩張って何も見つけられなかったのに、音は続いている。音がした日の多くは月が出ている。墓地の奥、柳の周辺。足跡なし。土は内側から押されたように盛り上がる」
「うん」
「嫌な並びだ」
「だな」
「それと」
レイスは少しだけ眉を寄せた。
「今日、葬儀がある」
「それが?」
「何もなければいい」
「何かあると思うか?」
「思いたくない」
その言い方に、アルドは口を閉じた。レイスが「思いたくない」と言う時は、たいてい可能性として考えている。墓地は、村の北側にあった。低い石垣で囲まれ、入口には白天還教の紋が刻まれた石碑が立っている。中には古い墓石と新しい墓石が混じり、奥には大きな柳の木が一本立っていた。風が吹くたび、細い枝葉が擦れ合う。
川の音が遠くから聞こえる。昼間なのに、そこだけ少し冷えているようだった。ダンが柳の根元近くを指した。
「あそこです」
アルドは目を凝らした。墓石の周りの土が、わずかに盛り上がっている。たしかに、外から踏み荒らされたようには見えない。内側から押されたような、不自然な膨らみだった。ルカはすぐに石垣へ跳び乗った。
「足跡なし。獣の気配も薄いです。土は湿ってますけど、引きずった跡もありません」
ノルは長銃を背負ったまま、柳を見上げた。
「枝が邪魔。高所から撃つなら、水車か墓地入口の屋根」
「勝手に登るなよ」
アルドが言う。
「許可取るくらい分かってる」
「前に屋根から屋根へ勝手に移って怒られただろ」
「あれは急いでたから」
「飯屋の屋根だったよな」
「近道」
「近道で済ませるな」
バルトが笑った。
「ノルも大概だよな!」
「バルトほどじゃない」
「なぜ俺様が比較対象なんだ!」
「便利だからじゃない?」
セレスがさらりと言う。少しだけ空気が緩む。だが、レイスだけは柳の根元を見つめたままだった。留帳へ何かを書き込む。
「ダンさん」
「はい」
「第二部隊が調べた時、この柳の根は掘りましたか」
「いえ。墓地ですので、むやみに掘るわけには……。ただ、表面は確認していました」
「そうですか」
「掘った方がいいんですか?」
ダンの声には不安があった。レイスは少し考えた。
「今はまだ。葬儀前に墓地を荒らすべきではありません」
マウロ還師がわずかに安堵したような顔をする。
「ご配慮、感謝します」
「ただし、夜に何かが起きた場合は別です」
「……はい」
レイスは留帳を閉じた。そして、低く言った。
「配置を決める。夜までに、可能な限り見落としを減らす」
◇
夕方。カワ村の小さな祈り場に、淡い青の棺が置かれていた。その色は、月夜に照らされた海のようだった。深すぎず、明るすぎず、ただ静かな青。棺の側面には文字ではなく、月と海をかたどった白天還教の紋が刻まれている。
遺族は三人いた。息子夫婦と、まだ幼い孫娘。孫娘は母親の服を握りしめ、棺をじっと見ていた。泣いてはいない。泣くということがまだよく分からない顔だった。マウロ還師が棺の前に立つ。白い布を手に取り、ゆっくりと胸元で広げた。
村人たちが祈り場の外まで集まっている。第一部隊は、その周囲に散って警戒していた。アルドは入口近く。レイスは少し後ろで全体を見ている。ルカは屋根の上。ノルは水車の上。
ゴードは墓地へ続く道の前。バルトは祈り場の横で腕を組み、いつになく静かにしていた。ルシアンとセレスは、遺族のそばにいた。エディンは少し離れた木陰に立ち、藤色の髪を風に揺らしている。普段の柔らかい笑みは、薄い。
マウロ還師の声が響いた。
「貴方は、よく生きました」
祈り場の空気が静まる。
「川のほとりで生まれ、川の音を聞き、家族を愛し、土を耕し、食卓を囲み、笑い、眠り、そして今日、白き天へ還ります」
遺族の母親が、口元を押さえた。マウロ還師は続ける。
「恐れることはありません。貴方は呑まれません。貴方は迷いません。貴方は、幸いなる眠りの中で、白き天へ還るのです」
白き天へ。月に呑まれず。海の向こうへ。その祈りは優しかった。けれど、その優しさの奥に、月への恐れがあることをアルドは知っている。
誰もが知っている。だから、夜になると人は戸を閉める。だから、死者には祈りが必要なのだと教えられている。棺のそばで、孫娘が小さく言った。
「おばあちゃん、どこ行くの?」
母親が言葉に詰まる。代わりに、ルシアンが少し膝を折った。
「白い天へ行くんだよ」
「遠い?」
「うん。少し遠い」
「帰ってくる?」
ルシアンはすぐには答えなかった。戻らないものに、戻るとは言えない。けれど、幼い子にただ突き放すこともできない。
「帰ってはこないけど」
ルシアンは静かに言った。
「きっと、見守ってくれるよ。あなたが川で転ばないように。ご飯をちゃんと食べるように。夜、怖くないように」
少女は棺を見た。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと行けるように祈る」
「うん。それがいいと思う」
ルシアンは微笑んだ。祈りが終わると、村の男たちが棺を担いだ。墓地へ向かう道は、川沿いに伸びている。夕陽が水面に沈みかけ、赤い光が揺れていた。炎のようにも見えるその光を、村人たちは誰も口にしない。それが、この国の常識だった。
バルトも、いつものような軽口を言わなかった。彼はただ黙って、棺の後ろを歩いた。レイスが横に並び、小声で言う。
「バルトさん。珍しく静かですね」
「おい、どういう意味だ」
「そのままです」
「葬式で騒ぐほど馬鹿じゃねぇよ、俺様は」
「それは安心しました」
「少しは信用しろ」
声は小さい。いつものような大声ではない。それでも、そのやり取りにセレスが小さく笑った。墓地に着く頃には、夕陽の赤は薄れ始めていた。新しい墓穴の前で、マウロ還師が最後の祈りを捧げる。棺がゆっくりと下ろされ、土がかけられていく。
孫娘は泣かなかった。けれど、最後に小さな手で土を一つかみ取り、墓穴へ落とした。
「おばあちゃん、気をつけてね」
その声に、ルシアンが目を伏せた。セレスは何も言わず、彼女の背にそっと手を添えた。夕陽が沈む。墓地に影が伸びる。川の音が、さっきより冷たく聞こえた。
葬儀が終わり、村人たちが少しずつ墓地を離れていく。マウロ還師とダン、村長だけが残った。そして第一部隊も。アルドは剣の柄に手を置いた。
「ここからが俺たちの仕事だ」
その声に、空気が変わる。さっきまでの葬儀の静けさとは違う。夜を待つ者たちの緊張。レイスが周囲に指示を出す。
「ゴードさんは墓地入口。バルトさんは柳側の石垣付近。ルカは石垣上を移動。ノルは水車から墓地奥を狙える位置を継続。セレスは俺の補助。ルシアンは村人が戻ってきた場合の対応と治療準備。エディンさんは――」
「おねえさんは、影の濃いところを見ておくわぁ」
エディンはそう言って、柳の方へ視線を向けた。笑っている。けれど、目は笑っていなかった。アルドはそれに気づいた。
「エディンさん?」
「なぁに、アルドちゃん」
「何かあるんですか?」
「まだ分からないわねぇ」
「そうですか」
アルドは深く聞かなかった。エディンは時々、こういう顔をする。いつもの軽さが消え、何を考えているのか読めなくなる顔。アルドには、それ以上は分からない。けれど、エディンがそういう顔をした時は、だいたい何かがある。
夜が落ちる。月が昇る。白く、冷たく、川面に揺れる。墓地の土が、微かに音を立てた。かり。
誰も喋らなかった。かり、かり。土を引っ掻くような音。ダンの顔が強張る。
「……あの音です」
マウロ還師が胸元で手を組む。村長は声も出ない。アルドはゆっくりと剣を抜いた。月明かりの下、柳の根元の土が盛り上がる。墓石が、ほんの少し傾いた。
ルカが双銃を構える。ノルの長銃が、遠く水車の上で静かに狙いを定める。ゴードが盾を上げる。バルトが拳を鳴らす。レイスが低く言った。
「まだ撃つな。出方を見る」
土が割れた。何かが、這い出ようとしていた。それは腕ではなかった。骨でもなかった。黒く濡れた、根のようなものだった。
柳の根とも、泥ともつかない細いものが、墓の下から何本も伸びてくる。それらは月明かりを浴びると、びくびくと震え、絡まり合い、一つの塊になろうとしていた。
「夜骸か?」
アルドが呟く。
「まだ分からない」
レイスの声は硬い。
「だが、放置できるものではない」
根の塊が膨らむ。墓石の影が歪む。そして、泥を裂くようにして、低い咆哮が漏れた。
「ぉ……おお……」
アルドの剣に炎が灯る。ただし、燃やすためではない。斬るために。
「第一部隊」
アルドが言った。
「討祓開始」
黒豹たちは、月下の墓地で動き出した。
お読みいただきありがとうございます。
次回も明日20時頃更新予定です。




