蒼炎
宿屋の主人に案内され、一行は村長の家へ向かった。夜までは、まだ少し時間があった。だが、夕暮れはもう濃い。ガルツ村の空は赤く沈み、家々の窓には早すぎる明かりが灯り始めていた。村人たちは戸口から外を見て、すぐに中へ戻る。子どもを呼ぶ母親の声が、いつもより強く響いた。村長の家は、天祈像の近くにあった。
古いが、よく手入れされた家だった。扉を叩くと、痩せた老人が姿を見せる。白い髭を短く整え、背は曲がっていたが、目は濁っていなかった。
「ハインさん……それに、護衛の方達ですね」
「はい」
ハインは丁寧に頭を下げた。
「こちらの皆さんが、今夜出ると思われる夜骸を討祓すると申し出てくださいました」
村長は、一瞬言葉を失った。その視線が六人を順に見る。赤茶の外套。武器。旅具。顔を知っているわけではないはずだ。それでも、戦う者だということは分かったのだろう。
「本当に、よろしいのですか」
老人の声は震えていた。アルドは短く頷いた。
「ええ」
「相手は、あの大きさです。柵の内へは入ってきておりませんが、毎晩、村の周りを……」
「分かっています」
レイスが言った。声は落ち着いていた。
「だから、村の外で仕留めます。今夜は誰も外に出さないでください。音がしても、地面が揺れても、窓を開けない。様子を見に来ない。必ず家の中にいてください」
村長は、深く息を吸った。
「承知しました」
その声には、恐怖だけではないものが混じっていた。
「村人には、私から伝えます」
「私も手伝います」
ハインが言った。
「この村には何度も来ています。顔を知っている方も多い。私からも、今夜は絶対に外へ出ないよう話して回ります」
「助かります」
村長はハインに頭を下げ、それから六人へ向き直った。
「どうか、村を」
その先は、言葉にならなかった。アルドはそれを待たなかった。
「行くぞ」
六人は外へ出た。ハインと村長は、すぐに村を回り始めた。家々の戸を叩き、今夜のことを告げる。夜になったら外へ出ないこと。何が聞こえても、戸を開けないこと。子どもを必ず家の奥へ置くこと。火の始末をしておくこと。すぐ逃げられる荷はまとめておくこと。村人たちは青い顔で頷いた。誰かが「本当に大丈夫なのか」と聞く。
ハインは少しだけ困ったように笑い、それでもはっきり言った。
「大丈夫だと、私は信じています」
その声は震えていなかった。夜が来た。ガルツ村の灯りが、ひとつ、またひとつと小さくなる。戸は閉じられ、窓板も下ろされた。村の中に人影はない。柵の内側で、家々だけが息を潜めていた。六人は村の外へ出ていた。天祈像の近くを通り過ぎ、畑を抜け、柵の外へ。月は雲の奥にある。林の縁が、黒く沈んでいた。最初に聞こえたのは、低い唸りだった。地面の下から響くような音。
それが、林の奥から近づいてくる。次に、枝が折れる音。太い幹が軋む音。そして、黒い巨体が姿を現した。獣の形をしているようで、そうではない。牛のように重い胴。狼のように伸びた顎。猪の牙。鳥の骨を無理やり差し込んだような翼の残骸。長い尾の先には、蛇の頭にも似た歪みがある。
脚は四本では足りず、腹の下から、余分な前肢が何本も突き出していた。そのうちの何本かは、腕というより触手に近い。骨と肉が黒くねじれ、先端だけが爪のように硬く尖っている。でかい。主人が言っていた通りだった。人の五倍どころではないようにも見える。大級夜骸。その巨体が、柵の外で止まった。天祈像のある方角へ、空洞のような目を向ける。
そして、唸った。
「まずは引き離す」
レイスが言った。
「村の方へ向かわせるな」
「ああ」
アルドは緋喰刃を抜いた。
「行くぞ」
最初は、仕留めにいかなかった。誘う。怒らせる。追わせる。ノルが翠穿を構えた。
「旋風壱式 導弾」
銃声。風をまとった弾丸が弧を描き、大級の横顔を撃つ。弾は硬い外皮に弾かれたが、黒い肉片を少しだけ削った。大級がそちらを向く。
「こっち」
ノルが短く言い、二射目を放つ。レイスが地面に魔力を走らせた。
「雷流弐式 絡縛」
細い雷が夜露を拾い、地面を這う。大級の脚へ絡みついた雷が、動きをほんの一瞬だけ鈍らせる。その隙に、セレスが踏み込んだ。
「大流参式 泥鎖」
湿った土が鎖のようにうねり、大級の足元を掴む。大級は巨体を揺らし、泥を引きちぎった。それでも、一歩分遅れる。
「いい。そのまま」
レイスが言う。ルシアンは指輪をはめた手を前へ出した。
「旋風壱式 追風」
風がアルドの背を押す。アルドは緋喰刃を構え、大級の前脚へ斬り込んだ。
「雷荷壱式 閃打」
緋喰刃の刃先に白い閃きが走る。斬撃と同時に雷荷の魔力が弾け、大級の脚を打った。黒い肉が震え、関節がわずかに固まる。大級が怒りの唸りを上げた。
「いいぞ」
エディンが大剣を肩に担ぎながら笑う。
「こっちへいらっしゃいなぁ」
大級の尾が振るわれる。エディンが前へ出た。大剣が尾を受ける。鈍い音が夜に響き、土が跳ねた。
「重いわねぇ」
「笑って言うことか」
アルドが横を抜ける。
「だって本当に重いものぉ」
エディンが押し返す。大級は吠え、六人を追うように林の方へ向かった。村が遠ざかる。畑が途切れ、背の低い草地に入る。さらに奥。古い倒木が転がり、地面が少し低くなった場所。レイスが後ろを確認する。
「ここでいい」
十分に離した。そこから、本当の戦闘が始まった。大級が頭を振る。黒い水が、口の奥から噴き出した。
「ルシアン!」
「水流参式 護水壁!」
厚い水の壁が立ち上がる。黒い水が壁へ叩きつけられ、じゅう、と嫌な音を立てた。水壁の表面が黒く染まり、崩れる。その奥から、土槍が突き出した。大級の骸技。地面が割れ、無数の槍がアルドたちへ向かって伸びる。
「滑らせる!」
セレスが流涙と地咬を構えた。
「水地弐式 滑床」
足元に水と土の魔力が走り、地面が滑るように変わる。土槍の角度がずれ、狙いが外れた。アルドは低く踏み込む。
「旋風壱式 踏風」
足元で風が爆ぜる。踏み込みが伸び、大級の前脚へ届いた。斬る。浅い。硬すぎる。緋喰刃は肉を裂いたが、深くまでは入らない。傷口はすぐに黒い筋で寄り、塞がろうとする。
「修復が早い」
レイスが言った。
「遅らせる」
彼は大級の脚元に広がった泥と水を見た。
「雷流参式 鳴瀑」
雷が水と泥を伝って走る。音が爆ぜた。大級の脚に絡んだ雷が、黒い肉の修復を一瞬乱す。
「ノル!」
「見えてる」
ノルが翠穿を構える。三つの銃身が、月のない夜に細く光った。
「旋風参式 三牙穿」
三発。風で噛み合った弾丸が、一本の牙のようにまとまり、大級の膝へ突き刺さる。巨体が傾いた。エディンが飛び込む。大剣が、傾いた前肢へ叩き込まれた。骨が鳴る。
「アルド!」
「ああ!」
アルドは緋喰刃に水流の魔力を通した。
「水流弐式 断波」
刃に薄い水の刃が重なり、切断面へ滑り込む。大級の前肢の肉が裂けた。だが、落とせない。黒い肉が、すぐに傷を埋め始める。
「硬いね」
ルシアンの声にも焦りが混じった。
「硬いだけじゃない」
レイスが言う。
「押し切る力がいる」
大級が吠えた。風が来る。ただの風ではない。黒い刃を含んだ、乱れた突風。
「伏せろ!」
アルドが叫ぶ。ルシアンが即座に手を伸ばす。
「水流弐式 水壁!」
水の壁が斜めに立つ。風刃が壁を削り、飛沫が夜へ散った。その隙間を縫って、触手のような腕が伸びる。セレスが横へ跳ぶ。ノルが撃つ。レイスが剣を抜き、届いた一本を弾いた。大級の巨体は、止まらない。戦闘は、災害に近かった。雷が夜を裂く。水が立ち上がる。泥が鎖になり、風が弾を曲げる。大剣が骨を叩き、緋喰刃が黒い肉を裂く。それでも、大級は崩れない。傷は塞がる。
脚は動く。唸り声は大きくなる。誰も手を抜いていなかった。それでも、届かない。やがて、レイスが後ろを見た。暗闇の向こう。遠くに、村の灯りが見える。さっきより、近い。
「くそっ、戻される!」
アルドが叫んだ。大級が一歩踏み出す。その先は、村の方角だった。
「動きを止めろ! 村に近づけさせるな!」
「分かってる!」
セレスが地面へ魔力を叩き込む。
「大流参式 泥鎖!」
泥が脚へ巻きつく。大級はそれを引きずったまま進む。
「止まらない!」
ノルの声にも焦りが混じった。翠穿が火を噴く。弾丸が曲がり、大級の顔へ走る。大級は頭を振り、弾を外皮で受けた。レイスが息を吐く。
「雷風弐式 迅閃」
雷を帯びた風が走り、大級の脚元を切り裂く。動きは鈍る。だが、止まらない。ルシアンは額に汗を浮かべていた。
「護水壁をもう一枚出す。でも、長くは持たない」
「十分」
エディンが前へ出る。
「おねぇさんが支えるわぁ」
大級の前肢が振り下ろされる。エディンが大剣で受けた。地面が沈む。腕に負荷がかかる。それでも、彼女は笑っていた。だが、その笑みは少しだけ硬い。アルドは前を見る。このままでは、村へ届く。柵へ届く。家へ届く。中にいる人間へ届く。
「止める」
アルドは地面を蹴った。焦りがあった。踏み込みが、少しだけ深すぎた。大級の前脚へ飛び込む。緋喰刃を振り上げる。その瞬間、黒い影が横から伸びた。死角。触手のように歪んだ腕が、アルドの脇腹へ向かっていた。
「アルド!」
レイスの声が飛ぶ。アルドは反射で緋喰刃を立てた。間に合った。剣の腹で受けた。だが、受けきれなかった。衝撃が剣越しに脇腹へ抜ける。息が潰れた。視界が横へ流れる。アルドの体が吹き飛び、地面を転がった。
「アルド!」
ルシアンの声。セレスの声。ノルの息を呑む音。エディンが大級の前へ出る。
「こっちを見なさいなぁ」
大剣が唸り、大級の進路を塞いだ。アルドは土を掴んだ。息がうまく入らない。脇腹が熱い。痛みで視界が揺れる。それでも、緋喰刃は手放していなかった。立て。膝を立てる。立て。足がふらつく。大級の唸りが聞こえる。村の方角から、かすかな灯りが見える。その時だった。ふと、ルシアンの声がよみがえった。炎が疲れて寝ちゃってるんだよ。あの時は、馬鹿みたいな話だと思った。
焚き火の前で、ルシアンは本気で言っていた。炎が疲れて寝ている。だったら。アルドは緋喰刃を握り直した。
「いつまで寝てんだ、お前」
声は低かった。誰に向けた言葉でもない。自分の中の、何かへ向けた声だった。
「いい加減、起きろ!」
叫んだ瞬間。体の奥に、熱が生まれた。小さくない。遠くもない。ずっと消えたと思っていた場所に、熱があった。それは一瞬で膨れ上がる。腹の底から、胸へ。胸から腕へ。腕から、緋喰刃へ。熱は大きくなる。押さえ込めない。内側から、体ごと破裂しそうなほどに。アルドは歯を食いしばった。緋喰刃を握る手に、力が入る。言葉が、勝手に口から落ちた。
「火炎弐式 炎装」
次の瞬間、衝撃波が走った。土が円形に弾ける。空気が震える。蒼い炎が、アルドの全身から立ちのぼった。赤ではなかった。蒼。夜の中で、異様なほど澄んだ火。蒼い炎はアルドの足元から全身を包み、緋喰刃までをも包みこむ。炎は轟々と燃え上がり、けれどアルドの体を焼かない。全員が、動きを止めた。レイスも。セレスも。ノルも、ルシアンも。
エディンでさえ、珍しく目を見開いていた。アルドは自分の手を見た。指を開く。握る。もう一度、開く。熱い。けれど、痛くない。体が軽い。血の奥まで、火が通っている。アルドは笑った。
「アルド」
レイスが低く言う。
「なんだ、その炎は」
「知らねぇ」
アルドは緋喰刃を握り直した。
「けど、今は最高の気分だ」
大級が吠えた。蒼い炎に反応したのか、巨体がこちらへ向く。アルドは即座に前を見た。
「レイス、セレス。あれの動きを止めろ。三秒でいい」
「ああ」
「分かった」
「エディンは二人の護衛」
「任されたわぁ」
「ノルは導弾で退路を断て」
「ん」
「ルシアン」
ルシアンが顔を上げる。
「俺のサポートだ」
「うん」
ルシアンは指輪をはめた手を前へ出した。
「任せて」
レイスが地面へ魔力を落とす。
「雷流弐式 絡縛」
雷が水気を拾って走る。セレスが続けた。
「大流参式 泥鎖」
泥が鎖となり、大級の脚へ絡みつく。大級がそれを引きちぎろうとした瞬間、レイスがさらに魔力を重ねた。
「雷流参式 鳴瀑」
泥と水を伝って雷が鳴る。大級の脚が硬直した。セレスの泥鎖が、その一瞬を逃さず食い込む。大級が怒りの声を上げる。触手のような腕が二人へ伸びた。エディンが横から入る。大剣が黒い腕を叩き落とす。
「こっちは通さないわよぉ」
ノルが翠穿を構えた。放った弾丸が大級の後方へ回り込むように飛ぶ。逃げる足元を撃つ。大級の退路がずれた。ルシアンの風が、アルドの背へ集まる。
「旋風壱式 追風」
風が押した。ただ背を押すだけではない。進むべき方向だけが、軽くなる。アルドは地面を蹴った。大級が骸技を放つ。黒い水。土槍。その奥から、風刃が混じる。真正面から受ければ、足を止められる。だが、ルシアンの風がアルドを上へ運んだ。跳ぶ。黒い水が足元を抜ける。土槍が下で砕ける。風刃が外套の裾を裂きかけ、蒼炎に触れて消えた。アルドは空中で緋喰刃を振り上げた。
剣に轟々と立ちのぼっていた蒼炎が、急速に縮む。燃え広がるのではない。刃へ集まる。吸い込まれるように、圧縮される。蒼い炎が、刃の輪郭だけを濃く染めた。大級が、拘束を破ろうと身をよじる。三秒。それで十分。アルドは落下する。足が地面に触れる、その瞬間、緋喰刃を振り下ろした。
「蒼炎参式 蒼火閃」
蒼い線が、夜を断った。大級の硬い体が、抵抗する間もなく割れる。骨も、肉も、いくつもの獣が混ざった歪な形も、まとめて一刀の下に裂けた。刃は止まらない。そのまま地面まで届き、土を深く斬り開く。遅れて、轟音が来た。大級の体が左右に崩れる。黒い肉が溶け、骨が砕け、唸り声が途切れた。夜が、静かになる。蒼い炎だけが、まだアルドの周りで揺れていた。
レイスは言葉を失っていた。セレスは目を見開いたまま、流涙と地咬を握っている。ノルは翠穿を下ろさないまま、瞬きも忘れていた。ルシアンは、胸の前で指輪をはめた手を握る。エディンはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「あらぁ……」
珍しく、続く言葉が出なかった。アルドは緋喰刃を下ろす。蒼い火が、刃の上で静かに揺れた。赤ではない。かつての炎ではない。アルドの炎は、蒼炎と成った。
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