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久々の休息

 ハインは机へ向かって歩き、端に置かれていた白い石板へ手を置いた。薄く磨かれた、手のひらほどの石板だった。装飾はほとんどない。ただ、表面に細い線が刻まれている。ハインがそこへ魔力を流す。白い石板が、淡く光った。光は一瞬だけ表面を走り、すぐに消える。レイスがそれを見て目を細めた。


「それは?」


「ベリタに合図を送るためのものです。受付にある石板と繋がっています」


 ハインは手を離しながら答えた。


「声を張らずに済むので、便利なんです」


「便利だな」


 ノルが窓辺から言った。


「はい。便利です」


 ハインは真面目に頷いた。それから、机の横に置かれた金庫へ向かう。腰ほどの高さの、黒い金属でできた金庫だった。表面には細い傷一つない。ハインは鍵を差し込み、さらに側面の小さなつまみをいくつか動かした。かちり、と重い音がする。扉が開いた。中からハインは小袋を取り出す。見た目はそれほど大きくない。だが、持ち上げた時の手首の沈み方で、中身が軽くないことは分かった。


「まずは、こちらを」


 ハインはそれをアルドへ差し出した。アルドは受け取り、口紐をほどく。中を見た瞬間、眉が動いた。袋の中には、金貨が詰まっていた。一万セリオ金貨が、ぎっしりと入っている。


「……ハイン」


 アルドの声が低くなった。


「これは何だ」


「前金です」


「いくらある」


「百万セリオあります」


 沈黙が落ちた。ルシアンが目を丸くする。セレスは息を飲み、ノルは窓辺からゆっくり振り向いた。エディンも入口脇から半歩だけ動く。レイスだけが、すぐに金額の意味を計算している顔をした。


「百万……?」


 セレスが小さく言う。


「これだけで、しばらく食べられるね」


 ルシアンの声にも驚きが混じっていた。アルドは袋の口を閉じ、ハインへ押し返そうとした。


「受け取れるわけがない」


 ハインは首を横に振った。


「受け取ってください」


「多すぎる」


「正当な報酬です」


 ハインの声は静かだった。だが、譲る気はなかった。


「それだけ大きく、危険な仕事ということです」


「危険手当だとしても高い」


 レイスが言った。ハインはレイスへ視線を向ける。


「危険手当、拘束料、道中の秘密保持、そして成功した場合に得られる利益への先行投資です」


 その言葉に、レイスの目が細くなる。


「随分、商人らしくなったな」


「皆さんのおかげです」


「そう返されると、文句が言いにくい」


 ハインは少しだけ笑った。


「なら、成功です」


 アルドは袋を見た。重い。ただ金貨が重いだけではない。ハインがここまで来た時間と、覚悟が入っている。


「……ありがとう」


 アルドは短く言った。ハインはほっとしたように表情を緩める。


「それから、これはあくまで前金です」


「総額じゃないのか」


 アルドが顔を上げる。


「はい。南での取引が完了した段階で、残りの百万セリオをお支払いします」


 今度こそ、全員が黙った。ノルがぼそりと言う。


「桁が変」


「変ではありません」


 ハインは真顔で返した。


「それだけ危険ということです」


「それだけ儲かる、ということでもあるな」


 レイスが言った。ハインは少しだけ目を伏せる。


「ええ」


 否定しなかった。


「商人ですので」


 アルドは小さく笑った。


「言うようになったな」


「努力しました」


 その時、エディンが入口から静かに離れた。笑みは消えていない。だが、目だけが扉へ向いている。すぐに、こんこん、と控えめな音が響いた。


「ハインさん。ベリタです」


「どうぞ」


 ハインが答える。扉が開き、ベリタが静かに入ってきた。


「失礼いたします」


「ベリタ、今からニードさんを呼んでください」


「ニードさんですね」


「はい。こちらの皆さんに護衛をお願いすることになりました。動きやすくて、目立たず、丈夫な服を見繕ってもらいます」


「承知いたしました」


 ベリタは一瞬だけ六人を見た。だが、余計なことは何も聞かなかった。そのまま、丁寧に頭を下げて退出する。扉が閉まると、アルドはハインを見る。


「服まで用意する気か」


「はい」


「いくらくらいになる」


「こちらで持ちます」


「そういうわけにはいかない。あまりに頼りすぎている」


 ハインは、そこで少しだけ笑った。優しい笑みではあった。だが、押し返すための笑みでもあった。


「服については、取引のための必要経費です。護衛に目立つ服を着せる商人はいません」


「それは分かるが」


「それに」


 ハインは続けた。


「服に関しては、再会を祝した私からの贈り物ということで受け取ってください」


「いや、でもな」


「あの時は、私が持ってきた雪鳥を、皆さんで強引にご馳走してくださいました」


 アルドの口が止まる。ルシアンが少し笑った。セレスも、あの食堂の空気を思い出したのか、目元を柔らかくした。ハインは穏やかに言う。


「私からの贈り物は受け取らないのですか?不公平だと思いませんか」


 アルドは数秒黙ったあと、息を吐くように笑った。


「ははっ。まるで善意の押し売りだ」


「買ってもらいますからね」


 ハインは胸に手を当てた。


「私の受けた恩は、こんなものでは済みません。皆さんからの借りで、首が回らないんです」


「商人みたいなことを言う」


「商人ですから」


「……そうだったな」


 アルドは袋を膝の上に置いた。その表情から、拒む気配が少し消える。


「立派な商人だ」


 ハインの顔が、少しだけ赤くなった。また、扉が鳴った。


「ハインさん。ベリタです。ニードさんをお連れしました」


「どうぞ」


 扉が開く。入ってきたのは、細身の男だった。柔らかい色の上着を着て、片手に道具箱を持っている。髪には少し白いものが混じっているが、目はよく動いた。


「やぁ、ハインさん」


「ニードさん。急にお呼びしてすみません」


「こちらこそ、いつもありがとうございます。それで、今回は?」


「こちらの皆さんの服を見繕ってほしいんです。護衛をお願いすることになりました。動きやすく、目立たず、丈夫な服を、申し訳ありませんが急ぎで」


 ニードは六人を見る。職人の目だった。顔ではなく、肩、腕、腰、足の運び、武器の位置を見る。


「なるほど。旅装ですね。しかも、ただ歩くだけではない」


「はい」


「採寸が必要です。服を脱いでいただくことになりますが……妻は今、不在でして」


 ハインはベリタへ向いた。


「ベリタ、女性の皆さんの採寸をお願いできますか」


「承知いたしました」


 ベリタは落ち着いて答える。


「ニードさん、やり方は前と同じでよろしいでしょうか」


「ええ。ありがとうございます」


 ニードが道具箱から測り紐と記録板を取り出し、ベリタへ渡した。


「こちらを」


「ありがとうございます」


 ベリタはセレス、ルシアン、ノル、エディンへ向き直る。


「皆さま、こちらへどうぞ」


 ルシアンが一瞬だけ固まった。


「えっと、別室で?」


「はい。ご安心ください」


 ベリタは穏やかに答えた。


「私が担当いたします」


「ほら、ルシアちゃん。行くわよぉ」


 エディンが楽しそうにルシアンの背を押す。


「ちょ、エディ」


「ノーラちゃんもねぇ」


「言わないで」


 四人はベリタに案内され、執務室の隣の小部屋へ入っていった。扉が閉まる。残された男たちは、微妙な沈黙に包まれた。ニードが咳払いをする。


「では、お二人はこちらで」


「分かった」


 アルドが立ち上がる。レイスも上着を脱ぎ始めた。ハインは机へ戻り、書類を広げる。


「私は必要物資の手配書を作っています。気にせずどうぞ」


「気にするなと言われてもな」


 アルドが言う。ハインは筆を取ったまま、少しだけ笑った。


「商人ですので、見ないふりは得意です」


「見ないのか、ふりなのか、どっちだ」


「必要な方です」


 アルドは呆れたように笑い、上着を脱いだ。ニードは無駄のない手つきで測り始める。


「肩幅。胸囲。腕の長さ。腰回り。脚……失礼します」


 測り紐がアルドの肩から腕へ回る。ニードが少し目を丸くした。


「かなり鍛えていますね」


「仕事柄だ」


「護衛としては頼もしい限りです」


 レイスが横で言う。


「アルは肩が目立つ。旅人として自然に見えるようにできるか」


「できます。肩線を少し落として、上着の厚みで誤魔化しましょう」


「誤魔化すのか」


 アルドが言う。


「目立たないためです」


 ニードは真面目だった。


「大事だな」


 レイスが頷く。次にレイスが測られる。ニードは首の後ろから肩、腕へと紐を滑らせる。


「こちらの方は細身ですが、体幹が強いですね。動きやすさを優先した方がよさそうです」


「隠しやすい内ポケットを付けられるか」


 レイスが問う。


「どの程度の大きさですか」


「手帳と筆。小さな薬包。薄い紙束」


「可能です」


 レイスは満足げに頷いた。アルドはその様子を見る。


「お前、服の採寸でも実務だな」


「服は実務だ」


「そうか」


「そうだ」


 ニードは二人のやり取りに少し笑いながらも、手を止めなかった。一方、隣の小部屋では、別の意味で空気が変わっていた。ベリタは完全に仕事の顔だった。


「服を脱いでいただきます。必要な箇所だけ測りますので、ご安心ください」


「はい」


 セレスは素直に頷いたが、耳が少し赤かった。ルシアンは両手で前を押さえるようにしながら、困った顔をしている。ノルは淡々と上着に手をかけた。エディンだけが、最初から余裕だった。


「あらぁ、こういうの久しぶりねぇ」


「エディは慣れてるの?」


 セレスが聞く。


「昔はいろいろねぇ」


「いろいろって何」


「秘密」


 エディンは楽しそうに笑った。ベリタは採寸を始める。まずセレス。肩幅、袖丈、腰回り。ベリタの手つきは正確で、恥ずかしがる暇を与えない。セレスは少し緊張していたが、測られているうちに表情が落ち着いていった。


「セラさんは、動きやすさと腰回りの余裕を少し見た方がよさそうですね」


「戦うから?」


「はい。短い刃を扱う方は、腰と脚の動きが大事ですので」


「分かるんだ」


「ニードさんほどではありませんが、多少は」


 セレスは感心したように頷いた。次はノルだった。ノルは何も言わず、両腕を少し広げる。ベリタが測り紐を回す。


「ノーラさんは、細身ですが……」


「ですが?」


「思ったより、寸法に余裕が必要ですね」


 ノルの目が少しだけ動いた。セレスが反応する。


「ノーラ、意外とあるもんね」


「セラも」


「私は普通だよ」


「普通より、ある」


「そういうこと言わなくていいから」


 ルシアンが二人を見て、自分の胸元へ目を落とした。そして、静かに沈んだ。ベリタは仕事の顔を保っていたが、少しだけ目元が柔らかくなる。


「ルシアさん、次をお願いします」


「……はい」


 ルシアンはおずおずと立った。採寸はすぐに終わった。本当に、すぐに。ノルが悪気なく言う。


「早い」


 ルシアンがさらに沈む。


「ノーラ」


 セレスが慌てて止める。


「今のは駄目」


「事実」


「事実でも駄目なことあるから」


 ルシアンは小さく息を吐いた。


「いいよ。分かってるから」


「ルシアちゃん」


 エディンが、後ろからそっとルシアンの肩に手を置く。


「女の子の魅力は、そこだけじゃないのよぉ」


「そこだけじゃないってことは、そこも大事ってことだよね」


 ルシアンが真剣に返す。エディンは一瞬だけ黙り、それから楽しそうに笑った。


「そういう受け取り方をするところも、可愛いわぁ」


「フォローになってないよ」


「なってるわよぉ。おねぇさん基準では」


 ルシアンは納得していない顔だった。セレスは困ったように笑い、ノルは少しだけ目を逸らした。最後に、エディンが立った。上着を外すだけで、空気が変わった。大げさではない。巨きすぎるわけでもない。だが、均整が取れていた。細いところは細く、柔らかくあるべきところは自然にある。背筋はすっと伸び、何気なく立っているだけなのに、姿勢そのものが綺麗だった。セレスが黙った。


 ノルも黙った。ルシアンまで、少しだけ見惚れていた。


「あらぁ」


 エディンが目を細める。


「三人とも、そんなに見られると、おねぇさん照れちゃうわぁ」


「……ずるい」


 ノルが短く言った。


「何が?」


「全部」


「分かる」


 セレスが小さく頷いた。ルシアンは自分の胸元を見て、さらに少し沈んだ。


「ルシアちゃんは沈まないの」


 エディンが笑う。


「沈んでないよ」


「沈んでるわぁ」


「……少しだけ」


 ベリタが採寸しながら、静かに言った。


「皆さま、それぞれにお似合いになる形があります。服は、足りないところを隠すためだけのものではありません。良いところを自然に見せるものでもあります」


 ルシアンが顔を上げる。


「……私にも?」


「もちろんです」


 ベリタは当然のように答えた。


「ルシアさんは、柔らかい印象がよく出る形が似合うと思います」


 エディンが頷く。


「そうよぉ。ルシアちゃんは守ってあげたくなる可愛さがあるの」


「それ、褒めてる?」


「もちろん」


「本当に?」


「おねぇさん、嘘は上手だけど、今は本当よぉ」


 ルシアンは少しだけ笑った。


「嘘が上手って、自分で言うんだ」


「正直なおねぇさんなの」


 その言葉に、セレスが吹き出し、ノルも小さく息を漏らした。採寸は無事に終わった。四人が執務室へ戻る頃には、アルドとレイスの採寸も終わっていた。ニードは記録板に細かな数字を書き込み、何度も頷いている。


「明後日の朝にはお持ちします」


「助かります」


 ハインが頭を下げる。


「丈夫さを優先しますが、あまり粗末には見えないようにしておきます。旅人として自然で、護衛として動ける服にしましょう」


「お願いします」


 ニードは道具をまとめ、ベリタと共に一度退出した。ハインはその間に書いていた書類を揃える。


「ベリタ」


「はい」


「こちらを手配してください。明日中に揃えられる範囲で構いません」


「承知いたしました」


 ベリタは書類を受け取る。


「客室は、すでに二部屋ご用意しております」


「ありがとうございます。さすがですね」


「ハインさんのご様子で、必要になると思いましたので」


 ハインは苦笑した。


「全部読まれてますね」


「秘書ですので」


 その返しに、ノルが小さく言った。


「強い」


 ベリタは穏やかに微笑んだ。ハインは一同を連れて廊下へ出た。


「今日は、こちらに泊まってください」


「いいのか」


 アルドが聞く。


「もちろんです。護衛契約は成立しています。依頼主として、護衛の体調を整えるのも仕事です」


「また商人の理屈だな」


「便利でしょう」


「ああ。かなり便利だ」


 客室は二つ並んでいた。一つは女性用。もう一つは男性用。どちらも広すぎるわけではないが、清潔で、人数分の寝台が用意されていた。薄い香草の匂いがし、窓には厚手の布が掛かっている。ベリタが先回りして整えたのだろう。ノルが寝台を見て、少しだけ目を細めた。


「全員分ある」


「あります」


 ハインが答える。


「風呂は一階にあります。自由に使ってください。食事も用意します」


 ルシアンが小さく呟いた。


「至れり尽くせりだね」


「取引のうちです」


 ハインは真面目に言った。


「皆さんには、万全の状態で護衛をしていただきたいので」


 アルドは何か言おうとして、やめた。礼ばかり言うのも、違う。だから短く頷いた。


「助かる」


「はい」


 ハインは嬉しそうに笑った。風呂は、想像していたより広かった。商会の建物にあるものなので、簡素なものを想像していたが、石造りの浴室にはしっかりと湯が張られていた。壁際には洗い場があり、湯気が白く立ちこめている。女性陣が先に使うことになった。


「広い……」


 セレスが思わず呟く。


「村の商会にあるお風呂じゃないね」


 ルシアンも驚いた顔をした。ノルは湯を指先で確かめる。


「熱すぎない」


「ありがたいわねぇ」


 その瞬間、三人の目が自然とそちらへ向いた。藤色の髪が肩から背中へ流れる。湯気に濡れた光が、その髪に淡く絡んだ。エディンは洗い場に腰を下ろし、桶で湯をすくう。髪へかけると、長い髪が水を含み、背に沿って重く落ちた。白い湯気の向こうで、首筋から肩の線がゆるく浮かぶ。何気ない仕草だった。ただ髪を洗っているだけ。それなのに、妙に絵になる。セレスは手を止めた。


 ノルも黙った。ルシアンまで、ぼんやりと見ていた。


「あらぁ」


 エディンが振り返る。


「三人とも、そんなに見つめられると、おねぇさん照れちゃうわぁ」


「照れてないでしょ」


 セレスが言う。


「ばれた?」


「ばれるよ」


 ノルが短く言った。


「ずるい」


「またそれ?」


 エディンが笑う。


「全部」


「さっきも聞いたわぁ」


「何回見ても、ずるい」


 ルシアンは湯の中に肩まで沈んだ。


「分かる」


「ルシアちゃんまで?」


「うん。分かる」


 セレスも隣で頷く。


「私も分かる」


 エディンは楽しそうに髪を泡立てた。


「みんな、ないものねだりねぇ」


「エディにはあるから言えるんだよ」


 ルシアンが湯の中から言う。


「あるものも、いろいろ大変なのよぉ」


「説得力があるようで、ない」


 ノルが言った。


「ひどいわぁ、ノーラちゃん」


「ノル」


「今はノーラちゃんでしょ?」


「今ここには、ベリタいない」


「じゃあノルちゃん」


「それも嫌」


 セレスが笑う。久しぶりだった。こんなふうに、何でもないことで笑うのは。ルシアンは湯に頬まで沈めかけて、慌てて顔を上げる。


「……でも、服の採寸って、ちょっと現実を突きつけられるね」


 セレスが苦笑する。


「分かる」


「セラはいいじゃん」


「私は普通だよ」


「普通よりある」


 ノルがまた言った。


「ノーラ、それやめて」


「事実」


「だから、事実でも」


 ルシアンが静かに湯へ沈む。


「……私は早かった」


「ルシアちゃん」


 エディンが泡だらけの手を軽くすすぎ、ルシアンの頭へ手を伸ばした。濡れた髪を、やさしく撫でる。


「小さくまとまってる可愛さってあるのよぉ」


「今、小さいって言った」


「可愛いって言ったの」


「小さいも言った」


「聞こえちゃった?」


「聞こえた」


 ルシアンは少し拗ねた顔をした。エディンは笑いながら、ルシアンの髪を指で梳く。


「でも本当よ。ルシアちゃんは、柔らかくて、見てるとほっとする可愛さがあるの」


 ルシアンは少しだけ目を伏せた。


「……それは、嬉しいかも」


「でしょう?」


「でも、エディみたいなのも、ちょっと欲しかった」


「ちょっとで済むかしらぁ」


「……ちょっとじゃないかも」


 ノルが湯の中で短く言う。


「全部欲しい」


「ノーラ、正直すぎ」


 セレスが笑った。エディンは髪を洗い終え、湯をかぶった。泡が流れ、濡れた髪がまた背中へ落ちる。三人は、また少しだけ見た。今度は、エディンも何も言わなかった。ただ、少しだけ口元を緩めた。湯気と笑い声が、浴室に満ちていた。その後、アルドとレイスが湯船に浸かる。アルドは湯船に肩まで沈み、深く息を吐いていた。


「……生き返るな」


 レイスは湯に浸かりながら、横目でアルドを見る。


「感知、どうやっている」


「風呂で聞く話か?」


「風呂だから聞いている。逃げ場がない」


「お前な」


 アルドは湯の中で腕を組んだ。それから、少し考える。


「空気中に漂ってる、薄い魔力を拾う感じだ」


「拾う」


「ああ。物や人がある場所だけ、その魔力が通ってない。そこにできる形を見る」


 レイスは眉を寄せた。


「全く分からん」


「俺も説明しろと言われると困る」


「腹が立つくらい感覚派だな」


「お前は感覚派が嫌いすぎる」


「説明できないものを実戦で使うな」


「使えた方がいいだろ」


「それはそうだな」


 レイスは認めた。だが納得はしていない顔だった。


「自分の魔力を放出するということか?」


「いや、出さない。周りにあるものを感じるだけだ」


「だからそれを感じないと言っている」


「薄い流れの切れ目を見るんだって」


「見えないものの切れ目をどう見るんだ」


 アルドは少し笑った。


「わからん、感覚だ」


「結局それか」


「研ぎ澄ませばそのうち感じるだろ」


「だといいがな」


「詳しくはエディに聞け」


「聞いたところで返ってくる答えは同じだな」


 ぶつぶつ言いながらも、レイスの口元はわずかに緩んでいた。アルドはその横顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。風呂から上がった頃には、食事の準備ができていた。ハイン商会の食堂は、隊舎の食堂ほど広くはない。だが、温かかった。


 大きな鍋には野菜と肉の煮込みが入り、焼いたパン、塩漬け肉、豆の煮物、香草を散らした卵料理が並んでいる。逃亡中の簡素な食事に慣れた身体には、十分すぎるほどだった。ハインは同じ卓に座った。ベリタは配膳を終えると一歩下がろうとしたが、セレスがすぐに言った。


「ベリタさんも食べないの?」


「わたくしは」


「食べましょう」


 ルシアンが柔らかく続ける。


「準備してくれた人が食べないのは、変だよ」


 ベリタは一瞬、ハインを見る。ハインは笑った。


「座ってください、ベリタ」


「……承知いたしました」


 ベリタは少しだけ困ったように微笑み、席についた。エディンが楽しそうに言う。


「この流れ、どこかで見たわねぇ」


「雪鳥の時だな」


 アルドが言った。ハインが少し照れたように笑う。


「あの時は、私が引き入れられる側でした」


「今回はベリタさん」


 セレスが言う。


「順番だね」


 食事が始まる。ノルは最初の一口を食べ、静かに頷いた。


「うまい」


 ベリタが少し嬉しそうにした。


「ありがとうございます」


 ルシアンは温かい煮込みをゆっくり飲み込み、目元を緩めた。


「ちゃんとしたご飯、久しぶりだね」


「そうだな」


 レイスが答える。その声も、いつもより少しだけ柔らかかった。アルドはパンを割り、煮込みにつけて食べる。温かい。ただ、それだけのことが、体の奥に染みた。食後、六人は客室へ戻った。女性用の部屋では、四つの寝台が並んでいる。ノルは何も言わず、一番窓に近い寝台を取った。


「そこ好きだね」


 セレスが言う。


「外が見える」


「でも今日は寝るんだよ」


「寝る」


 ノルは短く答え、翠穿を手の届く位置に置いた。ルシアンは寝台に腰を下ろし、柔らかさに少し驚いた顔をした。


「……沈む」


「寝台だからねぇ」


 エディンが笑う。セレスは窓の鍵を確認してから、寝台へ座る。


「今日は、ちゃんと眠れそう」


「眠るのよぉ」


 エディンが言った。


「明日からまた忙しくなるんだから」


 ルシアンは頷き、横になった。すぐには眠らないつもりだった。けれど、体はもう限界を知っていた。温かい湯。温かい食事。清潔な寝具。それだけで、意識が静かに沈んでいく。隣の部屋では、アルドとレイスも寝台に入っていた。レイスは最後まで地図のことを考えている顔だったが、横になるとすぐに目を閉じた。


「寝るのか」


 アルドが聞く。


「寝る。明日は考えることが多い」


「そうだな」


「お前も寝ろ」


「ああ」


 アルドは緋喰刃を手の届く場所に置いた。完全に警戒を解いたわけではない。だが、今日は扉の外に敵はいない。少なくとも、そう信じられるだけの場所だった。ハイン商会の夜は、静かだった。通りの音も、やがて遠くなる。その夜、六人は久しぶりに全員が寝台の上で眠った。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き明日の20時頃更新予定です。

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