腕の立つ旅人
「声を落とせ。ここでは、その呼び方は禁止だ」
レイスの声は低かった。口を塞がれたまま、ハインは目を白黒させていた。何が起きたのか分からない、という顔をしていたが、レイスの目を見た瞬間、その表情が変わる。驚きが引き、代わりに理解が差した。ハインは、口を塞がれたまま小さく頷いた。一度。二度。三度。こくこくと、必死に首を縦に振る。レイスはそれを確認してから、ゆっくり手を離した。
「……ぷはっ」
ハインは小さく息を吸った。そして、すぐに周囲を見た。人通り。荷車。市場の声。こちらを見ている者はいないか。誰かが聞き耳を立てていないか。ただ再会を喜ぶだけの顔ではなくなっていた。商人の顔だった。
「……こちらです」
ハインは声を落として言った。
「ついてきてください」
レイスはすぐに振り返り、村の隅に立っていた五人へ手招きした。アルドが視線だけで問いかける。レイスは小さく頷いた。行く。それだけで、全員が動いた。アルド、ルシアン、セレス、ノル、エディンが人混みを避けるように近づいてくる。誰もハインの名を大きく呼ばない。目立つ動きもしない。ハインはそれを見て、ますます何かを確信したようだった。
「お話は後でたっぷりとしましょう」
ハインはそう言って、先に歩き出した。歩幅は速い。だが、走らない。市場で走れば目立つ。荷を背負った商人が、六人の旅人を連れて急いでいる。その程度に見える速さだった。
「目立たない場所はあるか」
レイスが低く聞く。
「人目につきたくない」
「分かっています」
ハインは前を見たまま答えた。
「今、そこへ向かっています」
その返事に、レイスはそれ以上聞かなかった。六人はハインの後ろを歩いた。村の通りは、見た目以上に人が多い。荷車が軋み、商人が値を交わし、子どもが道端を走る。鍛冶屋の槌音が遠くから聞こえ、香辛料と乾いた土の匂いが混じっていた。ハインはその中を、迷いなく進む。以前の彼は、荷を失い、震えながら帳簿を抱えていた。今は違った。背筋が伸びている。
声は抑えているのに、足取りに迷いがない。その背中を見て、アルドが少し目を細めた。
「……大きくなったな」
小さな声だった。レイスには聞こえていたらしい。
「そうだな」
しばらく歩くと、市場の賑わいから少し離れた通りへ出た。そこに、一軒の大きな建物があった。屋敷と呼ぶには控えめだが、ただの民家にしては大きい。前面は通りに向けて整えられ、荷の搬入口らしき横扉もある。商会の拠点に見える。入口の扉には、金属製の紋章が掛けられていた。盾を背にした天秤。その天秤の上には、羽を畳んだ白い鳩が一羽、静かに止まっている。守護公正信頼
そんな意味を、一つに結んだような紋章だった。ルシアンが足を止めかける。セレスも少し目を丸くした。ノルは紋章よりも扉の脇や窓の位置を見ている。エディンは、楽しそうに目を細めた。レイスが紋章を見上げる。
「これは……?」
ハインは少しだけ照れたように笑った。
「うちの商会、ハイン商会の紋章です」
「ハイン商会」
アルドが繰り返す。ハインは扉に手をかけた。
「皆さん、どうぞ」
扉が開く。中は、外から見た印象より広かった。正面には小さな受付台があり、壁には地図が掛けられている。細い紐で結ばれた札が、いくつも地図の上に留められていた。街道。村。荷の流れ。危険区域。そういったものが、色分けされているらしい。棚には帳簿が並び、端には荷札と封蝋が置かれている。商会。その言葉が、ようやく実感を持って落ちた。奥から、一人の女性が出てきた。
落ち着いた色の服を着て、髪をきちんとまとめている。年はハインより少し上に見えた。目元は穏やかだが、入ってきた人数をすぐに確認する視線は鋭い。
「ハインさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りました、ベリタ」
ハインは自然に返した。女性は六人を見る。
「そちらの方々は?」
「昔、お世話になった人たちです」
ハインは迷わず答えた。ベリタはすぐに表情を和らげた。
「まぁ、そうでしたか」
そして、六人へ丁寧に頭を下げる。
「わたくし、ハインさんの秘書をしております、ベリタと申します。よろしくお願いいたします」
レイスが一歩前に出た。
「レイです。ご丁寧にありがとうございます」
その名を聞いた瞬間、ハインの目がわずかに動いた。だが、すぐに表情を整える。アルドは短く頭を下げた。
「アルです」
「ルシアです。よろしくお願いします」
ルシアンが柔らかく続ける。
「ノーラ」
ノルは短く言った。声の奥に、ほんの少しだけ不満が混ざっている。
「セラです」
セレスが笑みを作る。
「エディよぉ。よろしくねぇ」
エディンはにこやかに手を振った。ベリタは一人一人の名を聞き、丁寧に頷く。ハインは、その全てを黙って見ていた。偽名。全員がそろって、偽名を使っている。それだけで十分だった。ハインの表情から、迷いが消えた。
「では皆さん、私の執務室へどうぞ」
ハインはベリタへ向き直る。
「ベリタ、上を使います。私が呼ぶまで、あなたを含めて誰も近づけないでください」
「承知いたしました」
ベリタは即答した。
「お茶のご用意はどういたしましょう」
「大丈夫です。自分で淹れますから」
「承知いたしました。何かございましたら、いつでもお呼びください」
「ありがとうございます、ベリタ」
そのやり取りに無駄はなかった。ハインがただの行商人ではなくなっている。そのことを、第一部隊の六人は言葉にせず理解した。ハインに案内され、一同は階段を上った。木の階段はよく磨かれている。踏むと小さく鳴るが、安っぽい音ではない。壁には品の良い小さな灯りがかかり、踊り場には折り畳まれた地図と、長距離用の荷紐が置かれていた。商いの場所だった。
だが、ただ物を売る場所ではない。道と、人と、危険を扱う場所。アルドは階段を上りながら、軽く目を伏せた。周囲へ意識を広げる。空気中に漂う微細な魔力を拾い、その魔力が通っていない場所の輪郭を探す。建物の奥にいる人間の形。同じように、エディンも楽しげな顔のまま、視線だけを動かしていた。二階へ上がったところで、アルドはレイスへ顔を寄せる。
「数人いる」
声はほとんど息だった。
「どこだ」
「二階の奥。こっちへ動いてはいない」
「他は?」
「見える範囲じゃ、いない」
「分かった」
レイスは短く答えた。廊下の奥、大きな扉の前でハインが足を止める。
「こちらです」
扉が開いた。中は、応接を兼ねた執務室だった。まず目に入るのは、奥の大きな窓だった。昼の光がそこから入り、部屋全体を柔らかく照らしている。その窓の前に、大きな机が置かれていた。深い琥珀色の光沢を放つ一枚板。厚く、重く、端の木目まで美しい。明らかに高価だ。アルドでも、それは分かった。
机の上には帳簿と地図、封蝋、数本の筆が整然と並んでいる。右側の棚には丸めた地図が収められ、左手の壁には街道の広域図が掛けられていた。部屋の右側には、応接用の空間がある。四人掛けの長いソファーと、向かい合う三人掛けのソファー。その間には幅の広い低い卓が置かれ、茶器と小さな砂時計が載っていた。ソファーの位置は、入口と窓がどちらも視界に入るように置かれている。
重要な商談の時はここを使うのだろう。
「どうぞ、おかけください」
ハインが言った。アルドは部屋全体を見てから、四人掛けのソファーへ腰を下ろした。隣にレイス。その横にルシアン。セレスは少し迷ったあと、ルシアンの隣に座る。エディンは座らなかった。
「おねぇさんは、ここでいいわぁ」
入口脇に立つ。ノルも窓辺へ向かった。カーテンの隙間から外を見て、背を壁に預ける。
「ノルさんも、お座りにならなくて大丈夫ですか?」
ハインが聞いた。
「大丈夫」
ノルは短く答えた。ハインはそれ以上勧めなかった。代わりに、部屋の隅に置かれた小さな台へ向かい、茶の準備を始める。手つきは慣れていた。湯を注ぎ、香りを確かめ、人数分のカップを並べる。商人の手だった。だが、以前より落ち着いている。震えていない。茶が配られる。ハインは最後に自分の分を持ち、向かいの三人掛けソファーへ座った。低い卓を挟んで、六人と向き合う。
「ご足労いただいて、ありがとうございます」
ハインは静かに頭を下げた。
「お互いに、聞きたいことも、話したいこともあるかと思います。ですが、まずは皆さんの状況を教えてください」
その声は丁寧だった。けれど、昔のような遠慮だけではない。判断するために聞いている声だった。レイスはカップを手に取ったまま、しばらく黙った。何を話すか。何を話さないか。その線を引いている。ハインも急かさない。やがて、レイスが口を開いた。
「任務中に、想定外の事態が起きた」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「任務は失敗した。ルカとゴードは、その任務中に死んだ」
ハインの表情が止まった。セレスが膝の上で手を握る。ルシアンは目を伏せた。アルドは黙っている。レイスは続ける。
「その後、俺たちはある事情で国に追われる立場になった。詳細は話せない。話せば、お前を巻き込む可能性が高い」
「はい」
ハインは静かに答えた。
「王都へは戻れない。討祓軍としても動けない。手持ちの金は少ない。装備はあるが、旅具も食料も足りていない」
レイスはカップを両手で持った。
「この村で、何か金を作れないか探っていた。だが、身元を聞かれずにできる仕事はほとんどない。治癒も、護衛も、荷運びも、下手に目立つ」
そこで一度、言葉が途切れる。レイスはカップの中を見た。
「正直、次の手が見えなくなっている」
部屋は静かだった。外の通りの音が、窓越しに薄く届く。ハインはすぐには言わなかった。茶を一口飲む。カップを置く。
「……そうでしたか」
それから、深く頭を下げた。
「まずは、お悔やみを申し上げます」
声が少しだけ低くなる。
「ルカさんも、ゴードさんも、とても良い方でした」
誰もすぐには返せなかった。ハインは顔を上げる。
「実は、私の耳にも入っていました。最近、黒豹の皆さんの姿を見かけない、と」
レイスの目がわずかに動く。ハインは慌てずに続けた。
「長期の任務に出ているのだと思っていました。皆さんの強さは、私もよく知っていますから、全滅はまずあり得ないと思いまして」
「ですが……」
そう言って、ハインは六人を見る。くたびれた服。少ない荷物。疲れた顔。それでも消えない警戒。
「まさか、そんな状況に陥っていたとは……」
「まともな荷造りもできずに、急に逃げることになった」
アルドが言った。声は静かだった。
「何もかも足りていない。この村で何か金を作れないかと思って探っていたが、その線もさっき消えたところだ」
「……そうでしたか」
ハインは低く呟いた。そして、左手で口元を覆うように頬杖をついた。右手の人差し指が、卓を軽く叩く。とん。とん。とん。小さな音が続く。
「王都へ戻れない。正式な身元は使えない。戦闘能力は高い。装備はある。旅費と金が足りない。向かう先が必要。目立つ仕事は避けたい……」
ぶつぶつと呟き始めた。ノルが窓辺からハインを見る。セレスも不思議そうに瞬きをした。ルシアンは少しだけ口元を緩める。
「商人の顔だね」
小さく言った。ハインは、はっと顔を上げた。
「失礼しました」
「いや」
レイスが言う。
「構わず続けてくれ」
ハインは背筋を伸ばした。
「皆さんは、仕事をお探しということですか」
「ああ」
アルドが答える。
「だが、俺たちができる仕事は、だいたい身元を明かす必要がある。だから見つからない」
「逃走先は決まっているんですか」
ハインが問う。レイスが少し沈黙した。答えるべきか。その判断が挟まる。
「南だ」
アルドが先に言った。レイスがアルドを見る。アルドはハインから目を逸らさなかった。
「ハインは大丈夫だ」
短い言葉だった。ハインはその言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ目を伏せた。嬉しそうに、けれど表に出しすぎないように。それから立ち上がり、大机の引き出しから一枚の地図を取り出した。広域の街道図だった。ハインは低い卓へ地図を広げる。
「ここがカリオス村です」
指先が現在地を示す。そこから、西へと滑る。
「そして、こちらが西の山脈へ向かう道です」
「山脈か」
レイスが地図を見る。
「はい」
ハインは頷いた。
「今、私の手元には、数年前に仕入れた共和国産の織物が大量にあります」
セレスが顔を上げる。
「共和国の?」
「はい。我が国と共和国の戦況が激化してから、物流はかなり細っています。ほぼ閉じていると言っていいでしょう。共和国産の織物は、今、国内で価値が跳ね上がっています」
「それを見越して用意していたのか」
レイスは少し驚いた表情で聞いた。
「はい、機を待っていました」
ハインはさらに地図上の山脈寄りの地域を指した。
「そして、この辺りの町では、工芸品や布製品の需要が高い。共和国産の織物はもともと高値で扱われるものですが、ここならさらに高く売れます」
「どれくらいだ」
アルドが聞く。ハインは少し笑った。
「それは内緒です」
「水臭いな」
「商人ですので」
その返しに、エディンが入口脇でくすりと笑った。
「言うようになったわねぇ、ハインちゃん」
「勉強しました」
ハインは真面目に答えた。それから表情を戻す。
「ですが、問題があります」
指先が、山脈へ向かう道の途中で止まった。
「この辺りです」
「そこがどうした」
アルドが問う。
「西の山脈へ通じるこのルートは、複数の盗賊団の縄張りが絡み合っています。そのうえ、夜骸の発見報告も多い」
ルシアンの表情が少し引き締まる。
「夜骸も?」
「はい。私たちも以前、万全に近い警備体制で向かいました。ですが、荷を守りながら戻るのが精一杯でした」
レイスが地図を見たまま、静かに息を吐く。
「なるほどな。そういうことか」
ハインの顔が少し明るくなる。
「さすがレイスさん。話が早い」
「レイだ」
ハインは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「保証します、ここでは大丈夫です。レイスさん」
レイスは何も言わなかった。セレスが地図を覗き込む。
「どういうこと?」
「俺たちに護衛をしてほしいんだ」
レイスが答えた。
「その通りです」
ハインは頷く。アルドは地図を見る。
「なるほどな。俺たちなら守れる」
「はい。確信しています」
ハインの声に迷いはなかった。
「それに、先ほど話した事情で、この一帯では通常の商品も比較的高値で買い取ってもらえます。共和国産の織物だけではなく、他の品もまとめて売れる。うまくいけば、商会をもう一段大きくできます」
その声は、わずかに弾んでいた。ルシアンが微笑む。
「ハインさん、楽しそう」
「あ」
ハインは少しだけ頬を赤くした。
「失礼しました」
「いい」
アルドが言った。
「俺たちも、その方がやる気が出る」
ハインが顔を上げる。
「仕事ももらえる。お前には利益が出る。最高だ」
「ありがとうございます」
「莫大な利益をもたらしてやる。な、レイス」
レイスは答えなかった。アルドが横を見る。
「どうした」
レイスは地図から目を離さない。ハインはレイスの考えを読み取るかのように続ける。
「逃走経路については考えています」
レイスがハインの顔を見る。地図上で、ハインの指が西から南へ滑った。
「西で織物と通常の商品を売った後、今度は向こうで仕入れた工芸品を南の町へ運びます」
「南へ?」
「はい。同じ理由です。西の工芸品も、南にはなかなか流通しない。山脈周辺を通る商人が減っているからです。つまり、西で売り、南へ運び、南でまた売る」
ハインの指が、道を結ぶ。
「遠回りにはなります。ですが、最終的には南へ進めます。もちろん、護衛として正式に報酬もお支払いします」
レイスは黙っていた。アルドも、すぐには口を開かない。ルシアンがレイスを見る。セレスも同じように視線を向けた。ノルは窓辺から、地図とレイスを交互に見ている。ハインの声が少しだけ慎重になる。
「難しいでしょうか」
「いいんじゃないか」
アルドが言った。
「遠回りだが、ハインの助けにもなる。資金も手に入る。南にも向かえる」
「そういうことじゃない」
レイスが低く言った。
「じゃあ何だ」
「ハインまで巻き込むことになる」
その一言で、全員が黙った。ハインは瞬きをした。エディンが入口脇で、ゆるく笑みを消す。
「それは……駄目ねぇ」
ルシアンも目を伏せた。
「そうだね」
セレスは唇を結ぶ。
「ハインさんの商会まで危なくなる」
ノルが短く言う。
「なし」
レイスは地図を見ている。
「俺たちはもう、ただの護衛じゃない。追われる側だ。俺たちと一緒に動けば、何かあった時にハイン商会ごと巻き込まれる」
アルドは何か言おうとして、止めた。そして、ゆっくり息を吐く。
「……そうだな」
ハインは、きょとんとしていた。本当に、分からないという顔だった。
「何をおっしゃっているんですか?」
その声に、一同がハインを見る。ハインは腕を組み、少し首を傾げている。
「アルさん、レイさん、ルシアさん、ノーラさん、セラさん、エディさん」
偽名が、一人ずつ丁寧に呼ばれた。ノルの眉が少しだけ動く。ハインは真顔で続ける。
「私は今、昔ある町で助けてもらった、腕の立つ旅人の皆さんに護衛を依頼しているんです」
レイスが目を細める。
「国軍でも、赤鎖でも、ましてや消息不明の黒豹に頼んでいるわけではありません」
ハインは、なおも不思議そうに首を傾げた。
「何の問題があるんですか?」
沈黙。それから、最初に笑ったのはエディンだった。
「ふふっ」
口元を押さえ、肩を揺らす。
「ハインちゃん、そういうところ、本当にいいわねぇ」
ルシアンも少し笑った。セレスは安心したように息を吐く。ノルは窓辺で小さく呟いた。
「強い」
アルドは、しばらくハインを見ていた。そして、笑った。
「やっぱり、お前は面白いな」
「そうでしょうか」
「そうだ」
レイスはまだ笑っていなかった。だが、その目から迷いが消えていく。
「ハイン」
「はい」
「依頼内容を、正式に確認したい」
ハインはすぐに姿勢を正した。
「はい」
「西の山脈方面までのハインと積荷の護衛。対象は共和国産の織物および通常商品。目的地で売却後、西の工芸品を仕入れ、南の町へ運ぶ。その間の護衛も含む」
「その通りです」
「報酬は」
「通常の護衛費より高くお支払いします。皆さんの実力と道中の危険度を考えれば、当然です」
「支払いは分割か」
「前金と完了後残額の分割で考えています。食料、宿、旅具もこちらで用意します、依頼完了後旅具はそのまま差し上げます」
ノルが窓辺から振り向いた。
「太っ腹」
「必要経費ですよ」
ハインは即答した。
「毛布、簡易天幕、調理道具、水袋、保存食、包帯、薬類。必要なものは全てこちらで揃えます」
セレスが小さく息を吐く。
「ありがたいね」
「むしろ、護衛に必要な準備を整えるのは依頼側の責任です」
ハインは真面目に言った。レイスはしばらくハインを見ていた。
「本当に、大きくなったな」
ハインの表情が、少しだけ崩れた。
「……皆さんに、そう言っていただけるなら」
「まだ褒めきってはいない」
「はい」
「だが、悪くない」
ハインは深く頷いた。アルドが片眉を上げる。
「悪くない、だとよ。かなり褒めてるぞ」
「そうなんですか」
「レイス基準ではな」
「アルド」
レイスが横目で睨む。
「なんだ」
「余計な説明をするな」
「してない」
「している」
ハインは声を殺して笑った。
「少し安心しました」
その言葉に、六人の視線が向く。ハインは続けた。
「最初に街で見かけた時、本当に暗い顔をしていらしたので」
「ああ」
アルドは息を吐く。
「あの時は、まさに道が消えた瞬間だった」
「今は?」
「今も見えてはいない」
アルドは地図を見る。
「だが、少なくとも歩ける道は出てきた」
ハインは静かに頷いた。
「では、その道を商人として用意します」
その声には、あの日、第一部隊の食堂で語った時と同じ芯があった。アルドは思い出す。雪鳥の揚げ鳥。食堂の匂い。ルカの声。ゴードの短い「うまい」。そして。ハインが、いつか第一部隊を助けられる商人になると言ったこと。あの時は、まだ遠い夢だった。今、その夢の一部が目の前にある。
「ハイン」
「はい」
「ありがとう」
短い言葉だった。だが、ハインには十分すぎた。
「こちらこそ」
ハインは深く頭を下げる。
「昔、ある町で助けていただいたご恩を、少しだけ返させてください」
レイスは地図を畳まないまま言った。
「決まりだな」
「ああ」
アルドが頷く。
「俺は受ける」
「私も」
ルシアンが言った。
「ハインさんがそう言ってくれるなら、お願いしたい」
「私も賛成」
セレスが続く。
「このまま村で途方に暮れてるより、ずっといい」
「旅具」
ノルが言った。
「それがあるなら、受ける」
「しっかり、あります」
ハインはすぐに答えた。エディンは入口脇から、にこりと笑う。
「おねぇさんも賛成よぉ。ハインちゃんの商会が大きくなるところ、見てみたいもの」
「ありがとうございます」
ハインはもう一度頭を下げた。その顔は、少しだけ赤くなっていた。レイスは地図へ視線を戻す。
「出発はいつだ」
「早い方がいいです。ただ、商品と人員の再調整が必要ですので、最短で明後日」
「明後日か」
「はい。明日は準備に使います。皆さんの装備や必要物資の確認もさせてください」
「身元確認は」
「もちろん不要です」
ハインはにこりと笑った。
「昔ある町で助けてもらった、腕の立つ旅人ですから、その時にもう済んでいます」
ノルが小さく言う。
「便利」
「便利です」
ハインは真面目に頷いた。セレスが笑った。
「ハインさん、強くなったね」
「皆さんのおかげです」
「そこは、自分の力もあるって言っていいと思うよ」
ルシアンが柔らかく言う。ハインは少し考えた。
「では、皆さんのおかげで、少し自分でも頑張れました」
「うん。それくらいがハインさんっぽいね」
ルシアンが笑う。アルドはソファーの背に体を預けた。ようやく少しだけ、肩の力が抜けた。金がない。宿代には勝てない。野営道具もない。その現実は変わっていない。だが、道はできた。腕の立つ旅人として、護衛をする。西へ向かい、南へ抜ける。ハイン商会の荷を守る。それは、逃亡者としての黒豹が、初めて掴んだ仕事だった。ハインは立ち上がり、地図の端を丁寧に押さえた。
「では、準備しましょうか」
その声は明るかった。けれど、浮ついてはいない。商人として、護衛を雇い、道を作り、荷を動かす者の声だった。アルドは小さく笑う。
「ああ」
レイスも頷いた。
「準備を始めよう」
窓の外では、カリオス村の通りを荷車が通っていく。車輪の音が、遠ざかる。黒豹ではない。討祓軍でもない。その日、六人はハイン商会の執務室で、腕の立つ旅人として、最初の依頼を受けた。
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引き続き明日の20時頃更新予定です。




