黒豹なき獣章会議
白塔議室は、静かだった。巨大な円卓の中央には、白祈塔を模した小さな塔の像が置かれている。壁には五つの獣章旗。黒豹、巨象、梟、白鹿、鉄狼。そのうち、黒豹の席だけが空いていた。第一部隊の隊長席。そのそばに控えるはずの副隊長の位置。どちらにも、誰もいない。
第二部隊長ヴァルムは、背筋を伸ばして席についていた。そのそばには副隊長エルヴィナが控えている。第三部隊長ロザリアは、薄い笑みを浮かべたまま、指先を卓の上で組んでいた。傍らのクライスは、開いた資料に目を落としている。第四部隊長フィオナは静かに座り、その横にマリエルが控えていた。第五部隊長ベルンは腕を組み、ラウラは手元の報告書を閉じたまま待機している。
誰も、黒豹の席を見ていなかった。少なくとも、そう見えるようにしていた。ジークは円卓の上に資料を並べた。第三部隊の現場調査報告。第四部隊の血痕および魔力痕の分析。第五部隊の王都治安報告。第二部隊の稼働人員表。王城からの通達。そして、第一部隊に関する未記入の記録紙。最後の一枚だけは、白いままだった。扉の外に、足音が近づく。全員が立ち上がった。扉が開く。
ローグレスが入室した。王都討祓軍総隊長の外套は、いつも通り整っている。歩調も乱れていない。だが、白塔議室に入った瞬間、その視線は一度だけ黒豹の席へ向いた。一瞬だった。ローグレスは何も言わず、円卓の上座へ進む。ジークが椅子を引いた。ローグレスが着席する。
それに続き、各隊長が着席した。副隊長たちは、それぞれの隊長のそばに控えたまま、姿勢を正す。ジークはローグレスの後方から一歩進み、静かに一礼した。
「本日の議題は、最重要問題であり、かつ複数部隊にまたがる複雑な事案となります。よって、僭越ながら、私ジークが議事進行を務めさせていただきます」
異議は出なかった。ローグレスが短く頷く。
「始めろ」
「はい」
ジークは最初の資料を開いた。
「議題一。キレイナ町における大級夜骸発生事案について。ならびに、第一部隊消息不明事案について」
白塔議室の空気が、少しだけ硬くなる。
「第三部隊。現場調査報告を」
ロザリアが顔を上げた。
「報告するわ」
声は柔らかい。けれど、会議の場に落ちるには十分な明瞭さがあった。
「キレイナ町において、大級夜骸発生の痕跡を確認。町内の破壊状況、住民証言、残留魔力、いずれも大級規模の戦闘が行われたことを示しているわ」
ジークが問う。
「第一部隊との交戦痕は」
「あり。炎属性の強い魔力痕、銃撃痕、水流および地変の局所痕を確認。第一部隊の戦闘によるものと見てよいでしょう」
ヴァルムが低く言った。
「第一部隊全員がいたと見ているのか」
「全員とは断定できないわ」
ロザリアは視線を動かさず答える。
「ただ、複数名が現場にいた可能性は高い」
ジークが記録を進める。
「遺体は」
「確認されていない」
「第一部隊の装備品、獣章、認識票、遺留品は」
「決定的なものは未確認」
「血痕は」
「多数」
その一語で、白塔議室が静まり返った。フィオナが目を伏せる。マリエルの指が、資料の端をわずかに押さえた。ローグレスは動かない。ジークだけが、同じ声で続けた。
「量は」
「借家跡、出入口付近、床面、壁面に広く付着。複数名の重傷者が出た可能性が高い」
「死亡の可能性は」
「否定できない」
ロザリアは一拍置いた。
「ただし、遺体がない以上、断定もできないわね」
ローグレスの指が、卓の下でわずかに握られた。ジークは第四部隊の資料へ移る。
「第四部隊。血痕および魔力痕の分析見解を」
フィオナが顔を上げた。
「採取された血液量から見て、重傷者が複数名出た可能性は高いです。少なくとも、軽傷のみで済んだとは考えにくい」
「死亡判定は」
「不可能です」
フィオナは即答した。
「血痕のみで死亡は断定できません。出血量が多くても生存例はあります。逆に出血量が少なくても、内臓損傷や魔力枯渇で死亡する場合もあります」
ジークが頷く。
「マリエル副隊長。補足は」
マリエルは小さく息を吸った。
「はい。魔力痕についてですが、戦闘直後に強い炎属性魔力が広範囲に拡散した痕跡があります。周辺の焼損状況から見ても、極めて高威力の炎系魔法が使用された可能性があります」
ヴァルムの眉が動く。
「アルド隊長の魔法か」
「推定では、そうです」
マリエルは資料へ視線を落とす。
「ただし、通常の炎魔法より拡散範囲が広く、魔力の乱れも大きいです」
ローグレスは何も言わなかった。ジークが続ける。
「他の魔力痕は」
「水流、風、土、銃弾への属性付与と思われる複数属性を確認しています。ただ、現場の一部に、戦闘痕とは別の細い魔力の乱れがあります」
「細い魔力の乱れとは」
「断定はできません」
マリエルは首を横に振った。
「戦闘によるものではなく、何かが現場周辺を通過したような、薄い乱れです。通常の夜骸の魔力痕とも少し違います」
白塔議室に、短い沈黙が落ちる。ジークは第三部隊へ視線を向けた。
「第三部隊。周辺痕跡について」
クライスが資料を開く。
「町外へ続く痕跡を複数確認。ただし、途中で消失しています」
「消失とは」
「足跡、血痕、折れ枝、草の倒れ方。いずれも途中までは追跡可能でしたが、一定地点から急に薄くなっています」
「自然消失の可能性は」
「低い」
クライスの声は淡々としていた。
「何者かが痕跡を消した、または痕跡が残りにくい経路へ誘導した可能性があります」
ベルンが低く言った。
「第一部隊が自力で消した可能性は」
「あります」
クライスは即答した。
「ただし、重傷者を伴っていた場合、その精度は不自然です」
ロザリアが薄く笑う。
「綺麗すぎるのよね」
全員の視線がロザリアに向いた。
「戦った。血を流した。姿を消した。そこまでは理解できるわ。けれど、その後の跡が薄すぎる。黒豹さんたちは優秀だけれど、重傷者を抱えたまま、ここまで綺麗に消えるかしら」
エルヴィナが穏やかに聞いた。
「第三者が関与した可能性、ということでしょうか」
「可能性の一つね」
ロザリアは答えた。
「助けた者か。追った者か。消した者か。そこまでは分からないけれど」
ローグレスが口を開いた。
「第一部隊が、敵に拘束された可能性は」
ジークの筆が一瞬だけ止まる。ロザリアはローグレスを見た。
「否定はできません」
「生存の可能性は」
「あります」
ローグレスは静かに息を吸った。
「なら、死亡断定はしない」
「現時点では、それが妥当かと」
ロザリアの声には、珍しく毒が薄かった。ジークは次の資料を開く。
「議題二。第一部隊不在による運用上の影響について。第二部隊、報告を」
ヴァルムが資料へ目を落とした。
「第二部隊は、現在も夜骸の異常行動に対応中です。大規模な捜索へ人員を割くことは困難。ただし、必要であれば小隊単位での周辺警戒支援は可能です」
「第一部隊の任務穴は」
「大きい」
ヴァルムは断言した。
「黒豹は少数精鋭の即応部隊です。大級や特殊案件への初動対応において、代替は容易ではありません」
言葉は硬い。だが、その中に第一部隊への評価があった。エルヴィナが続ける。
「第二部隊で一部補完はできます。ただ、第二は集団戦と主力歩兵運用が軸です。黒豹のような少数即応とは役割が異なります」
ジークが記録する。
「第四部隊は」
フィオナが答える。
「分析、治療支援、魔力痕の追跡補助は可能です。ただし、現場捜索の主力には向きません」
「第五部隊」
ベルンが腕を解く。
「王都内では、すでにキレイナ町の大級発生について噂が出始めている。第一部隊が向かったという話も一部に出ている」
ラウラが補足する。
「第一部隊消息不明の情報は、まだ広がっていません。ただし、黒豹の姿が王都内で確認されない状態が続けば、不審がられる可能性があります」
「治安への影響は」
「あります」
ラウラは淡々と答えた。
「黒豹は民間でも知名度が高く、良くも悪くも信頼を得ている部隊です。大級発生後に第一部隊が姿を見せないとなれば、不安を招きます」
ジークは王城通達の資料を開いた。
「王城からは、大級夜骸発生事案の詳細報告、および第一部隊の所在確認を急ぐよう通達が来ています」
王城。その言葉が出た瞬間、会議の空気が別の重さを帯びた。ローグレスは表情を変えない。ジークは続ける。
「現時点における対外説明については、第一部隊はキレイナ町事案の継続調査中、とする案が提示されています」
ヴァルムが眉を寄せた。
「虚偽ではないのか」
ジークは答えなかった。ローグレスが言う。
「現時点で、消息不明とは公表しない」
「総隊長」
「民に不要な混乱を広げる必要はない」
ローグレスの声は低かった。
「第一部隊の死亡は断定しない。任務放棄とも断定しない。公表は、継続調査中。それで進める」
ヴァルムは一度だけ目を伏せた。
「了解しました」
ジークが記録する。
「対外説明。第一部隊はキレイナ町事案の継続調査中。死亡、逃亡、任務放棄のいずれも現時点では公表しない」
逃亡。その言葉が記録の中に入った。誰も口には出さなかった。だが、全員が聞いた。ローグレスは、黒豹の席を見なかった。ジークが次へ進もうとした時、ロザリアが静かに手を上げた。
「総隊長」
「何だ」
「第三部隊に、第一部隊追跡の許可を」
白塔議室が止まった。捜索ではない。追跡。その言葉の重さを、全員が理解した。ローグレスはロザリアを見た。
「追跡か」
「ええ」
ロザリアの声は静かだった。
「捜索で済む段階なら、黒豹さんたちはもう戻っているでしょう」
クライスは何も言わない。エルヴィナは表情を変えなかった。フィオナは目を伏せた。ロザリアは続ける。
「遺体はない。報告もない。痕跡は途中で消えている。第三者の関与も否定できない。そして何より、アルド隊長とレイス副隊長が、理由なく報告を怠るとは考えにくい」
ローグレスの目が、わずかに動いた。ロザリアはそこだけ、真っ直ぐに言った。
「だからこそ、追う必要があります」
「保護のためか」
「必要なら」
「捕縛のためか」
「必要なら」
ローグレスの表情が、初めてわずかに歪んだ。必要なら。その言葉の中に、あらゆる可能性が含まれていた。第一部隊が追われているなら、保護する。敵に拘束されているなら、救出する。何かを知って逃げているなら、捕らえる。それが総隊長として考えるべきことだった。それでも、ローグレスはすぐに答えなかった。沈黙が落ちる。長い沈黙ではない。
だが、会議の中では十分すぎるほど長かった。ローグレスの視線が、黒豹の席へ向く。そこには誰もいない。アルドが座るはずの席。そのそばに、レイスが立つはずの場所。どちらにも、誰もいない。ローグレスは、ゆっくりと視線を戻した。
「許可する」
ロザリアは目を伏せた。
「承知しました」
「ただし」
ローグレスの声が、さらに低くなる。
「殺すな」
ロザリアの口元が、わずかに動いた。
「ええ」
「発見次第、私へ報告しろ。独断で処理することは許さん」
「もちろん」
「第一部隊は、私の部下だ」
その言葉だけ、会議の記録から少しだけはみ出していた。総隊長としての命令ではある。だが、それだけではなかった。ロザリアは笑わなかった。静かに頭を下げる。
「梟は、黒豹を追います」
白塔議室の空気が冷えた。第三部隊が、第一部隊を追う。その事実だけで、事態は次の段階へ進んだ。ジークは記録した。筆先は止まらない。
「議題三。追加報告。南方における赤い短鎖を腰に下げた盗賊の目撃情報について」
ローグレスの目がジークへ向く。
「南方か」
「はい。第五部隊より報告」
ラウラが資料を開いた。
「王都南方の村道および旧街道周辺で、赤い短鎖を腰に下げた盗賊の目撃が増えています。商人、旅人、地方貴族の荷を狙ったものと思われます」
ベルンが続ける。
「ただし、通常の金品狙いとは異なる報告もある。荷の一部だけを奪う。書類を狙う。貴金属を残す。そういった例だ」
ロザリアの目が細くなる。
「赤鎖ね」
ジークが問う。
「第三部隊は把握しているか」
クライスが答えた。
「組織性あり、程度です」
ジークが記録する。ローグレスが言った。
「第三部隊は第一部隊追跡を優先しろ。赤鎖については、情報収集を継続。南方の各支部に警戒を出せ」
「承知しました」
議題は、細かな運用調整へ移った。各部隊の稼働人員。緊急対応の代替経路。キレイナ町への追加派遣。王都への公表文。王城への中間報告。全てが淡々と決まっていく。黒豹がいなくても、会議は進む。第一部隊が戻らなくても、討祓軍は動く。それが組織だった。それが必要だった。だからこそ、白塔議室の空席は重かった。やがて、ジークが最後の資料を閉じた。
「以上で、本日の議題は終了となります」
誰もすぐには動かなかった。ローグレスが頷く。
「各部隊、決定事項に従い行動しろ。追加情報が入り次第、即時共有する」
「了解」
ヴァルムが言った。
「承知しました」
ロザリアが続く。フィオナ、ベルン、各副隊長たちも、それぞれ返答した。ローグレスが立ち上がる。隊長たちも立つ。副隊長たちは姿勢を正す。ジークが椅子を引いた。ローグレスは白塔議室を出ていく。誰も声をかけなかった。扉が閉まる。隊長たちが資料をまとめ、順に退室していく。ロザリアは最後に、黒豹の席を見た。ほんの少しだけ。
それから、何も言わずにクライスを連れて出ていった。やがて、白塔議室にはジークだけが残った。ジークは議事録を整え、資料を重ねる。第一部隊の空白の記録紙も、その上に置いた。そこには、まだ何も書かれていない。死亡。生存。逃亡。捕縛。どの言葉も、まだ記されていない。ジークは無言で紙を閉じた。白塔議室の奥。黒豹の獣章旗が、静かに垂れていた。
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