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火の消えた刃

 赤い短鎖が、袋の中で小さく鳴った。森の奥にあった盗賊のアジトは、もう静かになっている。焚き火の火は落とされ、小屋の扉は開いたまま。縛られていた盗賊たちは、武器も荷も持たずに森の奥へ消えた。残ったのは、彼らが赤鎖の指示で奪ったという荷と、書類袋と、腰に下げていた赤い短鎖だけだった。アルドは荷置き場の前に立ち、積まれた箱を見下ろしていた。箱は三つ。


 そのうち二つは、持てないほどではないが重い。もう一つは軽い。布で包まれた書類袋が二つあり、封は破られていなかった。中身を確かめようとすれば確かめられる。だが、レイスはすぐには開けなかった。


「受け渡しの形を崩さない方がいい」


 レイスが言う。


「中身を見れば、封の違いで気づかれるかもしれない」


「じゃあこのまま運ぶの?」


 セレスが箱の側面を見ながら聞いた。


「そうする」


 レイスは頷いた。


「指定場所は南の古い石倉。奴らが言っていた通りなら、まずはそこまで運ぶ」


 ノルが赤い短鎖の入った袋を覗き込む。


「これも使う?」


「ああ」


 アルドが答えた。


「赤鎖の連中に見せる必要があるなら、あった方がいい」


「嫌な飾り」


「同感だ」


 レイスは盗賊たちが残した外套や腰布を確認した。粗末な布ではあるが、赤鎖の末端が使っていたものだ。旅人の服の上から羽織れば、遠目には同じ連中に見えるだろう。エディンが一枚を持ち上げる。


「おねぇさんには似合わないわねぇ」


「似合う必要はない」


 レイスが即答する。


「あら、冷たい」


「事実だ」


 エディンは笑った。だが、その目は周囲から離れていない。赤鎖の本体。灰冠。第三部隊。夜骸《やがい》。どれがいつ現れてもおかしくない状況だった。長居はできない。アルドは荷の一つを持ち上げた。


「行くぞ」


「重くない?」


 ルシアンが聞く。


「平気だ」


「無理してない?」


「してない」


「本当に?」


「肉も食った」


「それは理由にならない」


 ノルが短く言う。


「でも元気そう」


「だろ」


「褒めてない」


 アルドは少しだけ笑い、箱を肩に担ぎ直した。黒豹は、赤鎖の荷を抱えて森を出た。南へ。彼ら自身の逃走路と、赤鎖の荷が向かう場所は、同じ方角を指していた。しばらく進むと、夜の気配が濃くなってきた。木々の間に落ちていた夕暮れの色は薄れ、枝葉の影が一つに溶けていく。荷を抱えているぶん、足は速くない。街道へ出ることもできたが、今はまだ森の中を選んだ。


 赤鎖の本体が、どこから見ているか分からない。ノルが前方で足を止めた。


「来る」


「何だ」


 レイスが低く問う。


「雑級。三」


 少し置いて、ノルは銃を構え直した。


「低級も一」


 木々の奥から、低い唸り声が聞こえた。黒い泥のような体。歪んだ手足。雑級夜骸が三体、地を這うように現れる。その後ろから、細長い体をした低級夜骸が一体、枝を掻き分けて姿を見せた。大した数ではない。今の黒豹にとっては、足止めにもならない。


「荷を置く」


 レイスが言う。全員がそれぞれ荷を下ろす。アルドは一歩前へ出た。緋喰刃《ひくいじん》を抜く。刃が夜の中で鈍く光った。雑級の一体が飛びかかる。アルドは緋喰刃へ魔力を流した。いつものように。刃の芯へ、火を通す。赤い炎が走るはずだった。何も起きなかった。


「……」


 アルドの眉がわずかに動く。雑級はもう目の前にいた。アルドは踏み込み、炎のない緋喰刃を振った。刃が夜骸の胴を裂く。黒い体が崩れ、地面へ散った。苦戦はない。だが、違和感だけが残った。ノルが一体を撃ち抜く。銃声。雑級の頭部が弾ける。セレスが地面をわずかに隆起させ、もう一体の足を絡めた。倒れたところへ、レイスが剣の柄で核のある部位を正確に砕く。低級が横へ跳んだ。


 速い。だが、ルシアンの風が進路を逸らす。エディンが待っていた。


「はい、こっちよぉ」


 大剣の腹が、低級の体を横から叩く。骨のようなものが砕ける音がした。低級が地面を転がり、起き上がる前にノルの弾が核を撃ち抜いた。終わった。夜骸の残骸が、夜の土に沈んでいく。アルドは緋喰刃を見下ろしていた。レイスがそれに気づく。


「アルド」


「ああ」


 アルドは刃を持ち上げた。


「火が出なかった」


 全員の視線が集まる。ルシアンが一歩近づいた。


「火?」


「刃に火を通そうとした。いつも通りに」


「出なかったの?」


「ああ」


 セレスが眉を寄せる。


「魔力切れ?」


「それはない」


 アルドは左手を軽く開いた。掌の上で、小さな雷が弾ける。ぱち、と黄色い雷光が散った。次に、指先で風が巻く。落ち葉がふわりと浮き、小さく回って地面へ戻った。


「魔力が使えないわけじゃない。魔法も使える」


 レイスの目が細くなる。


「火だけか」


「多分な」


 ルシアンはアルドの胸元や腕、手の動きを見た。


「体は、ちゃんと治ってるはず」


 声には迷いがあった。自分の治療を疑っているのではない。それでも、目の前で起きていることが説明できなかった。アルドは頷いた。


「それは間違いない」


「でも」


「分からない」


 アルドは緋喰刃を鞘へ戻した。


「火だけが使えない」


 沈黙が落ちる。アルドにとって、火はただの属性ではない。戦い方の中心。緋喰刃と共にある力。黒豹の隊長として、前線を焼き切ってきたもの。それが、何の前触れもなく沈黙していた。ノルが言う。


「今は?」


「考えても仕方ない」


 アルドは荷へ視線を戻した。


「火がなくても斬れる。進むぞ」


 ルシアンは何か言いたそうにした。だが、言わなかった。レイスも追及しない。今は荷を運ぶ。受け渡し場所へ辿り着く。赤鎖の本体を見る。優先すべきことは、それだった。その夜、彼らは森の中で野宿した。大きな火は起こさない。


 火打石と乾いた枝で、小さな火を作る。赤鎖のアジトから持ってきた干し肉と、前の村で買ったパンを分け合った。荷は布で覆い、雨露を避けるように木の根元へ置いている。焚き火の光が、六人の顔を薄く照らした。誰も、火のことを忘れてはいなかった。だが、最初に話題にしたのはレイスだった。


「赤鎖の本体は、盗賊ではない」


「盗賊を使ってる側」


 ノルが言う。


「そうだ」


 レイスは頷いた。


「末端は国への恨みで動いている。だが、指示を出している側は違う。恨みを利用している」


 セレスが膝を抱える。


「王国を潰すって、本気なのかな」


「少なくとも、そう思わせるだけの材料は与えている」


 レイスは答えた。


「荷や書類を奪わせているのも、目的があるはずだ」


「国の信用を落とすためだけではない、か」


 アルドが言う。


「そう見る」


「集めてる」


 ノルが短く言った。全員の視線が向く。


「何かを盗んでるんじゃなくて、必要なものを集めてる」


「ありえる」


 レイスは頷いた。


「中身を確認していない以上、断定はできないがな」


 ルシアンは小さく息を吐いた。


「月酔いの話も、偶然じゃないよね」


 焚き火が爆ぜる。誰もすぐには答えなかった。赤鎖の盗賊が言っていた。月酔いになった家族は、国に連れて行かれて戻らない。死んだとも言われない。記録も残らない。その言葉は、黒豹の中に重く沈んでいた。


「赤鎖本体がどこまで知っているかは分からない」


 レイスが言う。


「だが、少なくとも月酔い患者の失踪を利用している」


「利用」


 セレスが呟く。


「人の苦しみを、武器にしてる」


「そうだ」


 エディンは焚き火を見ていた。珍しく、口数が少ない。ルシアンがそちらを見る。


「エディン?」


「なぁに」


「考え事?」


「ええ」


 エディンは少しだけ笑った。


「赤鎖の男が、一人で盗賊団に勧誘へ行ったって話。気になるわねぇ」


「自信がある」


 ノルが言う。


「ええ。それも、かなり」


 エディンは火に小枝を一本足す。


「自分が殺されない自信。断られても問題ない自信。相手を動かせる自信。そういうものがないと、一人では行かないわぁ」


「強いのか」


 アルドが聞く。


「多分ねぇ」


 エディンは柔らかく答えた。


「少なくとも、普通の盗賊相手に怯える子ではないでしょうね」


 レイスは南の方角を見た。


「明日、分かるかもしれない」


「ああ」


 アルドは頷く。荷は南へ。赤鎖の本体も、おそらく南へ。そして彼らも、南へ向かう。逃走路だったはずの道に、別の影が重なっていた。やがて、話は途切れた。見張りは交代制にした。ノルが最初。次にレイス。その次にエディン。森の夜は冷たかったが、洞窟の夜ほど重くはなかった。朝になると、空は薄く曇っていた。彼らは赤鎖の外套を羽織り、腰に赤い短鎖を下げた。似合う者はいない。


 似合ってしまうことを、誰も望んでいない。それでも、今は必要だった。


「変な感じ」


 ルシアンが自分の腰の赤鎖を見て言う。


「外したい」


 ノルが即答した。


「着けていろ」


 レイスが言う。


「分かってる」


 ノルは不満そうに短鎖を揺らした。


「軽い」


「嫌そうだな」


 アルドが言う。


「嫌」


「正直だ」


「事実」


 セレスは外套の前を整えた。


「これで向こうが信じるかな」


「完全には信じないだろうな」


 レイスが言う。


「だが、荷と赤鎖があれば、遠目には末端に見える」


「近づきすぎないことねぇ」


 エディンが頭巾を深く被る。


「受け渡しだけ済ませて、すぐ離れましょう」


 翌日、昼過ぎ。黒豹は指定された古い石倉に着いた。森を抜けた先にある、半ば朽ちた建物だった。昔は農具か穀物を納めていたのだろう。石壁の一部は崩れ、屋根にも穴が空いている。周囲には人の住む気配はない。草が伸び、道もほとんど消えかけていた。


「ここか」


 アルドが言う。


「条件には合う」


 レイスは周囲を確認した。


「人影はない」


 ノルが言う。


「足跡も古い」


「置くぞ」


 荷を、石倉の奥へ運び込む。箱を三つ。書類袋を二つ。赤鎖の盗賊たちが受け渡すはずだった形を、可能な限り崩さずに置いた。誰も開けない。誰も触りすぎない。荷を置き終えると、全員がすぐに石倉を離れた。そして、離れた森の高みに身を潜めた。そこからなら、石倉の入口が見える。こちらは見つかりにくい。エディンが木の根元に片膝をつき、目を閉じた。空気が変わる。


 いつもの柔らかさが、すっと消える。指先がわずかに開かれ、呼吸が細くなった。周囲の魔力を拾っているのだ。レイスとセレスも、少し離れた位置で目を閉じた。同じようにやってみる。空気に混じる、薄い魔力。物や人がある場所で途切れる、その輪郭。エディンが言っていた感覚を探る。だが、分からない。風が頬に触れる。草が揺れる。遠くで鳥が鳴く。それだけだった。


 レイスが目を開ける。


「駄目だ」


 セレスも小さく息を吐いた。


「私も。全然分からない」


 アルドが二人を見る。


「そんなに難しいのか」


「かなり」


 セレスが答える。


「かなりだな」


 レイスも低く言った。アルドは少し考えた。


「やってみるか」


「アルドが?」


 ルシアンが瞬きをする。


「できるかは知らん」


 アルドは目を閉じた。周囲の音を切る。風を見るのではなく、その奥を見る。空気に混じる、薄い魔力。その流れが途切れる場所へ意識を向ける。次の瞬間、アルドは目を開けた。


「分かった」


 レイスが固まる。


「は?」


「近くだけだ」


 アルドは自分の足元を見る。


「せいぜい半径二メートルくらい。セレスの足元と、ルシアンの手の動きくらいは分かる」


 セレスが目を丸くした。


「え、もう?」


「多分な」


 ルシアンの顔が明るくなる。


「すごい。アルド、できてるよ」


「そうか?」


「うん。すごい」


 レイスが低く言った。


「おい」


 アルドが見る。


「何だ」


「なぜお前が先にできる」


「知らん」


「俺とセレスは三日以上前からやっている」


「俺は今やった」


「だから聞いている」


 ノルがレイスの袖を引いた。


「落ち着いて」


「落ち着いている」


「怒ってる」


「怒ってない」


「怒ってる」


 セレスが小さく笑った。


「でも、半径二メートルでもすごいよ。私は何も分からない」


「俺もだ」


 レイスは不満そうに言った。アルドは肩をすくめる。


「そのうちできるだろ」


「雑な慰めはいらない」


「あ、そう?」


 ルシアンがまた笑った。それから、全員の視線がエディンへ向いた。エディンは目を閉じたまま、微動だにしていない。いつもの笑みもない。まるで別人のように、静かな横顔だった。ノルが小さく言う。


「真面目」


 セレスも囁く。


「いつもと違うね」


「初めて見たかも」


「おねぇさんは、いつも真面目よぉ」


 エディンの唇だけが動いた。目は開けない。表情も崩さない。


「聞こえてるわよぉ」


 ノルとセレスが、同時に口を塞いだ。ルシアンが肩を震わせる。レイスは小さく息を吐いた。


「集中の邪魔をするな」


「してない」


 ノルが小声で返す。


「した」


「少し」


 セレスが小さく言った。時間が過ぎた。昼の光は少しずつ傾き、石倉の影が長く伸びる。鳥の声が減る。風が冷える。それでも、誰も来なかった。荷は石倉の中に置かれたまま。誰も触れない。誰も近づかない。夕方になりかけた頃。エディンの目が開いた。


「来た」


 空気が、張り詰めた。全員が石倉の方を見る。まだ何も見えない。だが、エディンは見ていた。いや、感じていた。


「四人」


 エディンが低く言う。


「全員、動きが軽いわねぇ。二人が前。二人が後ろ。足音を消してる」


「夜に動くんだな」


 アルドが呟く。


「昼の敵だと思ってたんだがな」


 レイスの声も低い。


「日が沈む前に荷を回収し、夜のうちに移動するつもりかもしれない」


「来る」


 ノルが銃を構えた。


「まだ撃つな」


 レイスが制する。


「見る」


 やがて、石倉の前に四つの影が現れた。赤鎖の外套。腰には短い赤鎖。だが、末端の盗賊とは明らかに違った。姿勢が違う。周囲の見方が違う。無駄な動きがない。一人が石倉に入り、荷を確認する。もう一人が外を見ている。残り二人は、道の方に置かれた小さな荷車を引いてきた。積み替えは手早かった。言葉も少ない。だが、緊張しているようには見えない。むしろ、慣れていた。


「出る」


 エディンが言った。四人は荷を荷車に乗せ、石倉から離れた。黒豹は距離を取って追う。今度は見失えない。ノルとエディンが前。レイスとアルドが中。セレスとルシアンが後方。木々の間を、音を殺して進む。赤鎖の四人は、南東へ進んでいた。荷車を引く二人。その左右を歩く二人。二人が運搬。二人が護衛。無駄話もしている。それなのに、隙がない。


「腹減ったな」


 一人が言った。


「さっき食っただろ」


「荷物運ぶと減るんだよ」


「お前は何もしなくても減る」


「褒めるな」


「褒めてねぇ」


 声だけ聞けば、ただの気の抜けた男たちだった。だが、歩き方は違う。足場を選び、周囲を見て、荷車の音まで抑えている。途中、木々の間から低級夜骸が二体現れた。赤鎖の四人は止まらなかった。護衛の一人が、前へ出ただけだった。


「面倒だな」


 その男は、腰の短剣を抜いた。低級が飛びかかる。速い。だが、男はそれよりも早かった。一体目の横を抜けるように踏み込み、短剣で核の位置を正確に裂く。体勢を崩さず、回転するように二体目の首元へ刃を入れる。二体の低級が、ほぼ同時に崩れた。あまりにも自然だった。雑に見える動作の中に、無駄がなかった。黒豹の側に、微かな沈黙が落ちる。


「強い……」


 セレスが小さく呟いた。ノルも目を細める。


「低級を、一息」


「末端とは別物だな」


 レイスが言った。アルドは赤鎖の男たちを見据える。


「ああ」


 荷車は進む。赤鎖の四人は、低級を倒したことなど忘れたように話し続けていた。


「お前、今の二体目、雑じゃなかったか?」


「倒しただろ」


「美しさがない」


「夜骸相手に美しさ求めるなよ」


「求めるだろ」


「面倒くせぇな」


 運搬役の一人が笑った。護衛の男も笑う。その声が、森の中に妙に軽く響いた。日が沈み、空が藍色に染まる頃。彼らは川へ辿り着いた。幅のある川だった。水量は多くないが、流れは速い。川岸には古い石積みがあり、昔は渡し場だったのかもしれない。今は人の気配はなく、草が伸びている。赤鎖の四人はそこで荷車を止めた。


「よし、ここがいいな」


「腰が痛ぇ」


「準備しろよ」


「はいはい」


 彼らは荷車の横で、雑談しながら体を伸ばし始めた。肩を回す。足首を回す。腰をひねる。川を渡るための準備に見える。黒豹は木々の影からそれを見ていた。距離はある。声は拾えるが、目が合う距離ではない。そのはずだった。赤鎖の一人が、ふいに首を回した。ゆっくりと。こちらへ。


「で」


 男の声が、川の音を越えて届いた。


「さっきから尾けてきてるお前らは、誰なんだ?」


 目が合った気がした。距離はある。暗さもある。木々も間にある。それでも、確かに見られた気がした。レイスが剣に手をかける。ノルが翠穿《すいせん》を構える。セレスが足元の土へ魔力を落とす。ルシアンが指輪に触れる。エディンが大剣を静かに抜いた。アルドは、緋喰刃の柄を握る。赤鎖の四人が、川岸でこちらを向いていた。戦闘体制へ移行する。夜の川音が、低く響いた。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き明日の20時頃更新予定です。

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