赤鎖の理由
朝食の肉は、少し硬かった。それでも、アルドは黙々と噛んでいた。宿の二階の部屋には、薄い朝の光が入っている。窓は細く開けられ、外からは村人たちの声と、鶏の鳴き声が聞こえていた。昨日よりも空気は軽い。誰も完全に安全だとは思っていない。だが、少なくとも今この瞬間、扉を破って追っ手が入ってくる気配はなかった。机の上には、パンと干し肉と水。
それから、レイスが宿の女将から聞いた周辺の道筋を、簡単に書きつけた紙が広げられている。
「前の案を組み直す」
レイスが言った。アルドは干し肉を噛みながら、紙を見た。
「西じゃないのか」
「前まではな」
レイスは紙の上に指を置く。
「今の俺たちは、西へ向かっている。森と山が多い。追跡を撒くには悪くない」
「なら、そのままでいいだろ」
「山越えになる」
レイスは即答した。
「道が限られる。村も少ない。食料の補給も難しい。追手を撒けても、俺たちの動きも鈍る」
ノルがパンを小さくちぎりながら言う。
「山は嫌」
「理由は」
「疲れる」
「正直だな」
アルドが言う。
「事実」
セレスが紙の東側を見る。
「東は?」
「論外だ」
レイスの声が少し低くなる。
「共和国がある。戦場に近づく。国軍も国境警備も濃い。追っ手から逃げて、別の軍の腹の中へ入るようなものだ」
「北は王都側に戻る」
ルシアンが言った。
「それも駄目だね」
「そうだ」
レイスは頷く。エディンは水を飲みながら、黙って聞いていた。頭巾は外している。だが、村の中へ出る時には、また被ることになる。アルドは肉を飲み込み、水を飲んだ。
「なら、南か」
「南だ」
レイスは紙の下側を指で叩いた。
「南へ出れば海がある。大きな港は警戒が濃いかもしれないが、小さな漁村か、商船が寄る小港なら可能性がある」
「船に乗るの?」
セレスが聞いた。
「乗れればな」
レイスは言う。
「陸を走り続ければ、灰冠も第三部隊も追ってくる。だが、海に出れば追跡線を切れる」
「船を押さえられたら?」
ノルが聞く。
「だから大きな港は避ける。正規の出入りが多い場所ほど、後から封じられやすい」
「小さい港」
「そうだ。漁村でもいい。漁船でも、沿岸を移動する商船でも、とにかく陸から離れる手段を探す」
アルドはしばらく紙を見ていた。それから、もう一切れ肉を取る。
「南だな」
「決定でいいか」
「ああ」
アルドは短く答えた。
「西は捨てる。南へ向かう」
ルシアンが少しだけ息を吐いた。ノルは無言で頷く。セレスは紙を見ながら、村から南へ伸びる細い道を指でなぞった。
「街道は?」
「使いすぎない」
レイスが答える。
「ただ、完全に外れ続けるのも効率が悪い。旅人として通れる場所は通る。危ないと判断したら森へ入る」
「旅人一行ねぇ」
エディンが笑う。
「アル、レイ、ルシア、ノーラ、セラ、エディ」
ノルの眉が動く。
「ノーラ、やめて」
「村の外でも使うぞ」
レイスが言った。
「咄嗟に呼ばれて反応できるようにしろ」
「嫌」
「慣れろ」
「嫌」
アルドが少し笑う。
「ノーラ、肉食うか」
「いらない」
「呼ばれてるぞ」
「反応してない」
「してるな」
セレスが口元を押さえた。ルシアンも、少しだけ笑った。昨日までの笑いとは違う。まだ薄い。けれど、確かにそこにあった。準備を終え、黒豹は宿を出た。女将には、南の親戚を頼る旅人だと告げた。エディンが柔らかく礼を言い、レイスが宿代を払う。女将はアルドを見て、「顔色、良くなったね」と言った。
「よく食べたからな」
アルドが答える。ルシアンが横で小さく睨む。
「食べすぎ」
「治った証拠だ」
「食べすぎは治った証拠じゃない」
女将はそれを聞いて笑った。
「元気なら何よりだよ。南へ行くなら、昼過ぎには森道に入る。盗賊に気をつけな」
「盗賊?」
レイスが聞く。
「ああ。最近、街道外れで出るって話だよ。国軍も手が足りないのかねぇ」
エディンの目が一瞬だけ細くなった。だが、すぐに笑みに戻る。
「ありがとう。気をつけるわぁ」
宿を出たあと、ノルがぼそりと言った。
「盗賊」
「避けたいな」
セレスが言う。
「避けられればな」
レイスは南へ続く道を見る。
「だが、通るしかない」
村を離れ、彼らは南へ向かった。旅人の一行として。
背筋を伸ばしすぎず、歩幅を揃えすぎず、討祓軍の空気を消すように。アルドは濃い茶の外套を羽織り、腰の緋喰刃は布で目立たないように隠している。レイスは荷を背負い、護衛役に見える位置を歩いた。ルシアンは少し後ろに控え、ノルは帽子を深く被る。セレスは旅慣れた娘のように周囲へ目を配り、エディンは頭巾の下で穏やかに笑っていた。道は細かった。
村を出てしばらくは畑が続き、やがて低い林へ入る。木々の隙間から朝の光が落ち、乾いた葉が靴底で鳴った。大きな街道ではない。だが、村と村を繋ぐには十分な道だった。昼近くになると、人の気配が薄くなった。ノルが足を止める。全員も止まった。
「前」
ノルが短く言う。
「何人だ」
レイスが低く聞く。
「五。いや、六」
エディンが少しだけ首を傾ける。
「もう二人、横にいるわねぇ」
レイスが目だけを向ける。
「分かるのか」
「少しはねぇ」
セレスが小さく息を吐く。
「私は、まだ分からない」
「私も」
ノルが言う。
「ノルちゃんは別のものが見えてるでしょう?」
「足跡」
「偉いわぁ」
「褒めなくていい」
その時、前方の林から男たちが出てきた。手には刃物。革鎧は汚れ、顔には薄い布を巻いている。旅人を脅すには十分な格好だった。だが、戦場をくぐった兵士ではない。統率も雑だ。その腰に、赤いものが揺れていた。短い鎖。赤い短鎖。レイスの目が細くなる。アルドもそれを見た。
「……赤鎖」
ルシアンが小さく呟く。男の一人が、こちらを見てにやりと笑った。
「悪いな、旅の皆さんよ。荷を置いていきな」
別の男が、エディンを見て口笛を吹く。
「女が多いじゃねぇか。こりゃ当たりだな」
ノルの指が、翠穿へ触れた。セレスが半歩だけ前へ出る。ルシアンの表情が冷える。アルドは、何も言わずにレイスを見た。レイスは小さく頷く。
「殺すな」
「分かった」
アルドは短く答えた。盗賊が笑う。
「何をこそこそ話してやがる」
「荷を置く相談か?」
次の瞬間、盗賊の一人が踏み込んだ。速くはない。アルドが外套の下から緋喰刃を抜くまでもなかった。半歩ずれて腕を取り、柄で腹を打つ。男の息が潰れた。膝が落ちるより早く、アルドは首筋へ手刀を入れた。盗賊は地面へ沈む。笑い声が止まった。
「は?」
左側から別の盗賊が襲いかかる。セレスが足元へ水を走らせた。乾いた土が一瞬だけぬめりを帯びる。盗賊の足が滑る。その体勢が崩れたところへ、セレスが短剣の柄を鳩尾に叩き込んだ。男は声もなく倒れた。右側の茂みから飛び出してきた男には、ノルが銃口を向けた。銃声は一発。弾は男の耳元を掠め、背後の木に突き刺さる。男が反射的に足を止めた。その足元に、次の弾が撃ち込まれる。
「次は脚」
ノルが言った。盗賊の顔から血の気が引いた。後方へ回ろうとした二人の前には、エディンがいた。
「どこへ行くのかしらぁ」
声は柔らかい。だが、大剣はすでに抜かれていた。振るう必要すらなかった。柄の先で一人の顎を跳ね上げ、もう一人の膝裏を蹴る。倒れかけた男の襟を掴み、地面へ叩きつけた。鈍い音がした。残った一人が、ようやく異変に気づいた。旅人ではない。ただの獲物ではない。男は後ずさる。
「て、撤退だ!」
声が裏返っていた。林の奥にいた見張りらしき男が、真っ先に走り出す。続いて、倒れていない盗賊たちも転がるように逃げた。気絶した者を引きずる余裕もない。ただ、生きて戻るために走る。アルドが踏み出そうとした。セレスも動く。ノルが銃口を逃げる背へ向けた。ルシアンが風を起こしかける。
「待て、追うな」
レイスの声が落ちた。全員が止まる。エディンだけは、最初から動いていなかった。逃げる盗賊たちの足音が、林の奥へ遠ざかっていく。ノルがレイスを見る。
「逃げる」
「逃がす」
「なんで」
アルドがレイスへ視線を向けた。
「理由を聞こうか」
レイスは倒れた盗賊の腰から、赤い短鎖を外した。掌の上で、赤が鈍く光る。
「今の俺たちは、討祓軍として任務に出ているわけじゃない」
「盗賊を捕まえる必要はないってことか」
「ああ」
レイスは赤い短鎖を見る。
「捕まえるだけなら、今できる。だが、それで終わりだ」
「終わりじゃ駄目なの?」
セレスが聞く。
「駄目だ。どうせ自決される。何より――」
レイスの声は静かだった。
「こいつらは、ただの盗賊じゃない」
ルシアンが眉を寄せる。
「赤い短鎖」
「そうだ」
レイスは頷く。
「以前も見た。ろくな荷を奪わないくせにエルル様を襲った。ハインの件でも、国の信用を落とすような動きがあった」
アルドの目が細くなる。
「金目当てなら、そこまでする必要はない」
「そうだ」
レイスは赤い短鎖を握った。
「これは、単純に国が嫌いという程度じゃない。国を恨んでいる。下手すれば国を倒そうとしてる可能性すらある」
ノルが逃げた方向を見る。
「理由がある」
「あるはずだ」
レイスは言った。
「第一部隊として近づけば、相手は口を閉ざす。討祓軍の黒豹として立てば、理由など聞けない」
エディンが目を細める。
「でも今は、旅人」
「そうだ」
レイスはエディンを見る。
「今の俺たちは、黒豹じゃない。少なくとも、向こうからはそう見えていない」
「だから逃がした」
アルドが言った。
「あいつらがどこへ戻るかを見るためか」
「そうだ」
レイスは短く答える。
「赤鎖の根を見たい」
少しの沈黙が落ちた。風が、赤い短鎖を小さく揺らす。アルドは倒れている盗賊たちを見た。気絶している。死んではいない。
「こいつらはどうする」
「縛る。目立たない場所へ転がしておく」
ノルが言う。
「獣に食われる」
「道の近くに置く。仲間が戻るか、通行人が見つける」
「甘い」
「今はな」
レイスは答えた。
「優先するものを間違えない」
アルドは少しだけ口元を上げた。
「いつものレイスだな」
「どうも」
エディンが盗賊の一人を軽々と引きずる。
「じゃあ、手早く済ませましょうかぁ。逃げた子たちを見失うわよぉ」
倒れた盗賊たちを縛り、道の脇へ移した。荷を奪わない。殺さない。ただ、しばらく動けないようにする。ルシアンは一人の傷を見て、眉を寄せた。
「手当ては」
「最低限でいい」
レイスが言う。
「無意味に死なせる必要はない、治癒魔法の調整にもなる」
「わかった」
ルシアンは短く治癒をかけた。盗賊相手でも、傷を見捨てる顔ではなかった。ノルはその様子を見ていたが、何も言わなかった。準備が終わると、エディンが逃げた方向を指した。
「足跡は残ってるわねぇ」
「急いで逃げたから」
ノルが言う。
「雑」
「追えるか」
アルドが聞く。
「追える」
ノルは即答した。
「ただし、近づきすぎると気づかれる」
「距離を取る」
レイスが言う。
「ノルとエディンが前。セレスは痕跡を見ろ。アルドと俺は中。ルシアンは後方支援」
「了解」
全員が小さく頷いた。追跡が始まった。盗賊たちは、まっすぐには逃げていなかった。林の中を何度も曲がり、小さな沢を渡り、岩場を抜けている。追跡を撒くつもりだったのだろう。だが、焦りが勝っていた。折れた枝。踏み荒らされた苔。浅い泥に残る靴跡。隠したつもりの痕跡が、いくつも残っている。ノルはそれを拾った。エディンは、さらに先の気配を読む。
セレスは足元の土と草を見て、時折小さく頷いた。
「こっち」
ノルが短く言う。
「本当に見えるんだな」
アルドが言った。
「見える」
「俺にはただの森だ」
「目が雑」
「ひどいな」
ルシアンが少し笑う。レイスは、周囲を見ながら低く言った。
「奴ら、かなり奥へ入るな」
「普通の盗賊なら、街道近くに隠れる方が楽だよね」
セレスが言う。
「獲物を探しやすい」
「でも、奥へ戻る」
ノルが続ける。
「隠したいものがある」
「あるいは、人数が多い」
レイスが言った。アルドは腰の緋喰刃へ軽く触れる。
「どっちにしても、当たりだな」
追跡は長引いた。昼は過ぎ、空の色が少しずつ傾いていく。途中、逃げた盗賊たちの声が遠くで聞こえたことがあった。罵声。焦り。誰かが転んだ音。だが、黒豹は近づきすぎなかった。捕まえるためではない。帰る場所を知るためだ。日が沈みかけた頃、エディンが片手を上げた。全員が止まる。
「灯り」
エディンが囁いた。木々の奥。薄暗い森の先に、赤みがかった光が揺れている。焚き火。いや、一つではない。ノルが低く言う。
「見張り、二人」
セレスが目を凝らす。
「柵がある」
レイスも身を沈めた。粗末な柵。木を組んだだけの門。その奥に、いくつかの小屋が見える。盗んだ荷らしき箱が積まれ、馬車の部品が雑に置かれていた。男たちの声がする。笑い声。怒鳴り声。金属がぶつかる音。そして、見張りの腰にも。赤い短鎖が揺れていた。
「当たりだな」
レイスが低く言った。アルドは頷く。旅人の外套の下で、緋喰刃の柄を握る。ノルは翠穿を構え直した。セレスは足元の土に手を添える。ルシアンは指輪に触れ、息を整える。エディンは大剣を背から下ろした。森の奥に、赤鎖の根がある。そこに何があるのか。なぜ、彼らが王国を恨むのか。まだ分からない。だが、ここまで来た。アルドは、低く言った。
「突入するぞ」
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