白鹿仕込み
朝の光が、薄い帳を透かして部屋に落ちていた。村の宿は静かだった。階下からは、誰かが鍋を動かす音がする。外では鶏が鳴き、遠くで荷車の車輪が軋んでいた。王都の朝とは違う。煤鳩亭の朝とも違う。小さな村の、何でもない朝だった。その音の中で、黒豹は眠っていた。
ノルは窓辺にもたれたまま、帽子を目深にかぶっている。セレスは壁に背を預け、外套を膝にかけていた。レイスは扉の前で腕を組んだまま眠っている。エディンは寝台の足元近くで壁にもたれ、ほとんど音のない呼吸をしていた。アルドは寝台の上。
昨夜より顔色はましだったが、まだ血の気は薄い。胸元の布は替えられている。傷口は塞がっているように見えて、実際には深いところがまだ追いついていなかった。その横で、ルシアンが目を開けた。しばらく、何も言わなかった。自分の左手を見る。指輪は、静かに朝の光を受けていた。
昨日までのような震えはない。手も、もう大きくは震えていない。眠ったことで、体の奥に魔力が戻っているのが分かる。万全。そう言い切れるほどではない。けれど、今なら届く。ルシアンはゆっくりと起き上がった。その小さな動きに、レイスが目を開ける。
「ルシアン」
「起こした?」
「いや」
レイスはすぐに姿勢を正した。
「体は」
「大丈夫」
ルシアンはアルドを見る。
「今なら、ちゃんと治せる」
その言葉に、レイスの目が細くなる。ノルも目を開けた。
「治せる?」
「うん」
セレスが身を起こす。
「アルドを?」
「うん」
エディンも静かに目を開けていた。いつから起きていたのか分からない。壁にもたれたまま、ルシアンを見ている。
「無理はしないでねぇ」
「無理はする」
ルシアンは静かに言った。
「でも、壊れない範囲で」
それは、昨日までのルシアンとは少し違う声だった。怯えはある。不安もある。けれど、逃げてはいない。ルシアンは寝台の横に膝をつき、アルドの胸元へ左手を重ねた。
「アルド」
呼びかけると、アルドがうっすらと目を開けた。
「……朝か」
「治す」
「今でも動ける」
「黙って」
即答だった。アルドが目を瞬く。レイスが低く言う。
「黙ってろ」
「二人で言うな」
「黙って」
ノルも言った。アルドは口を閉じた。セレスが水差しと清潔な布を手元に置く。エディンは窓と扉を確認し、薄い帳を整えた。外から中が見えにくくなる。ルシアンは目を閉じた。指輪に、淡い光が灯る。昨夜の弱い光とは違った。細く、けれど澄んでいる。水面に朝日が差すように、輪を描いて広がった。
「まず、内側から」
ルシアンは小さく呟いた。光がアルドの胸元へ沈む。アルドの体が、わずかに強張った。
「痛む?」
「少し」
「我慢して」
「分かった」
ルシアンの額に汗が滲む。けれど、手はぶれなかった。指輪から伸びた光が、アルドの体の内側へ細く潜っていく。見えるはずのない場所を、ルシアンは慎重に探った。裂けた内臓の表面。衝撃で歪んだ血管。深く押し潰された筋。戦闘のたびに重なっていた小さな損傷。一つずつ、確かめる。一つずつ、戻す。治癒魔法は、ただ光を当てればいいものではない。
どこが壊れ、どこを残し、どこを繋げるのか。間違えれば、治すどころか壊す。だから、ルシアンは急がなかった。光が強くなる。アルドの呼吸が、一度詰まった。
「っ……」
「息して」
ルシアンが言う。
「止めないで。ゆっくり」
アルドは言われた通り、息を吐いた。レイスは黙って見ている。ノルも、セレスも、動かない。エディンだけが、扉の外の気配へ時折意識を向けていた。やがて、ルシアンは手の位置を少し下げた。
「次、骨」
淡い光が、アルドの肋骨へ移る。骨に入った細かな亀裂。強い衝撃で歪んだ箇所。折れた部分。そこへ光が絡む。糸のように。水のように。ゆっくりと、形を整えていく。アルドの指がシーツを掴んだ。
「痛い?」
「……変な感じだ」
「それ、治ってる」
「そうか」
「たぶん」
「たぶんか」
「黙って」
「分かった」
ノルが小さく言う。
「立場、弱い」
「怪我人だからな」
レイスが返す。アルドは何か言いたそうにしたが、ルシアンの視線を受けて黙った。骨の修復が終わる頃には、ルシアンの呼吸も少し荒くなっていた。それでも、止まらない。最後に、皮膚。胸元の深い裂傷。肩から脇腹へ残っていた傷。背中側にまで走っていた打撲と裂け目。
ルシアンの光が、それらを上からなぞる。赤く残っていた線が薄くなり、開きかけていた傷口が完全に塞がっていく。腫れが引き、熱が消え、血の匂いが薄れていった。セレスが息を呑んだ。
「すごい……」
レイスも言葉を失っていた。ノルは目を細める。
「いつの間に」
ルシアンは返事をしなかった。顔には大量の汗が流れている。まだ終わっていない。左手を、アルドの胸元から少し上へ浮かせる。指輪の光が、今度は薄い膜のように広がった。ルシアンの声が、静かに落ちる。
「水流弐式 清癒膜」
光を帯びた水の膜が、アルドの体を包んだ。ただの応急処置ではなかった。傷口を覆うためだけの膜でもない。薄い水の層が、アルドの呼吸に合わせて揺れ、皮膚の上からゆっくりと体全体へ馴染んでいく。熱を逃がし、脈を整え、乱れていた魔力の流れを静める。ルシアンはさらに魔力を込めた。清癒膜が、アルドの全身を包む。水面のような淡い光が、寝台の上で揺れた。
アルドの体が、びくりと震える。
「アルド」
レイスが一歩近づく。
「待って」
ルシアンが止めた。声は弱い。けれど、確信があった。
「大丈夫」
清癒膜が、すっとアルドの体へ沈んだ。光が消える。部屋が、朝の色に戻る。ルシアンはその場で大きく息を吐いた。そして、へたりと座り込んだ。
「ルシアン!」
セレスがすぐに支える。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫」
ルシアンの顔は青白かった。顔には大量の汗を流し、指先もまた少し震えている。だが、昨日のような恐怖ではなかった。ただ、使い切った者の疲労だった。その時、アルドの呼吸が荒くなった。
「っ、は……」
肩が上下する。胸を押さえ、苦しげに息をする。レイスの顔色が変わる。
「失敗か」
ノルが立ち上がりかける。エディンも目を細めた。だが、ルシアンが首を振った。
「違う」
「違うのか」
「うん。大丈夫」
ルシアンは床に座ったまま、アルドを見る。
「最初の治癒魔法は、壊れた場所を直すためのもの。内臓、骨、皮膚。目に見える傷と、形の壊れたところを戻した」
アルドは荒い息をしながら、ルシアンを見る。
「今の清癒膜は、役割が違う」
ルシアンは続ける。
「アルド自身の自己治癒力を、限界まで引き上げたの。治癒魔法だけじゃ戻しきれない血液量とか、体の内側の細かい消耗を、アルドの体に回復させた」
「それで」
レイスが言う。
「アルドも疲れているのか」
「うん」
ルシアンは頷いた。
「体力を使って治したから。例えるなら、一日中走り込んだ後みたいな状態」
「傷が悪化したわけじゃない」
「違う。傷がひどくて疲れてるのとは、全然違う」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ戻った。ルシアンは息を整えながら、柔らかく言う。
「後は、一日しっかり休めばいい。スタミナも含めて、完全に戻ると思う」
レイスが長く息を吐いた。セレスは胸に手を当てる。ノルが静かに座り直した。エディンは肩の力を抜き、窓の外へ一度だけ視線を向ける。
「驚いたわねぇ」
エディンが言った。
「いつの間に、そこまでできるようになったの?」
ルシアンは少しだけ困ったように笑った。
「フィオナさんと、マリエルに教わってたの」
ノルが瞬きをする。
「……女子会の時、そんな話してたね」
「うん」
ルシアンは頷く。
「最初は、簡単な応急処置の相談だったんだけど」
少しだけ、懐かしそうな顔になる。
「二人とも、途中から本気になって」
「想像できる」
セレスが小さく言った。
「フィオナさん、命に関わることだと厳しいから」
「うん。すごく厳しかった」
ルシアンは苦笑する。
「魔力を流す位置が少し違うだけで、やり直し。傷を見る順番を間違えたら、やり直し。途中で私が曖昧に頷いたら、ちゃんと分かるまで進ませてもらえなかった」
「フィオナらしい」
エディンが笑う。
「マリエルは?」
「優しかった。でも、手元は全然甘くなかった」
ルシアンは自分の左手を見る。
「マリエルは、患者の体を読むのがすごく上手いの。どこが壊れてるか、どこに魔力を入れたら危ないか、すぐ分かる」
ノルがぽつりと言った。
「今の、マリエルみたいだった」
ルシアンが顔を上げる。
「それ、褒めてる?」
「かなり」
短い言葉だった。ルシアンの目が少しだけ揺れる。レイスも言う。
「第四部隊仕込みの治癒魔法か」
その声には、わずかに安堵が混じっていた。
「心強いな」
ルシアンは首を横に振った。
「まだまだだよ」
「そうか?」
「うん。私の技術じゃ、万全の状態でも重症患者は見ての通り一人治すのが限界」
ルシアンは疲れた顔で笑った。
「フィオナさんなら、余裕で十人はいける。マリエルなら、もっと無駄なくできる。私は、まだ足元にも及ばない、魔力が少ない上に無駄に消費する魔力も多い」
「そんなことない」
セレスがすぐに言った。
「今、アルドを治した」
「うん」
ノルも頷く。
「十分すごい」
レイスが静かに続ける。
「お前がいなければ、アルドは今も動けなかった」
エディンも柔らかく笑う。
「謙遜しすぎは、教えてくれた二人にも失礼よぉ」
ルシアンは何か言おうとした。だが、その前に。ぐごー。部屋に、低いいびきが響いた。全員が止まる。視線が寝台へ集まった。アルドが寝ていた。さっきまで荒く息をしていたはずの男が、完全に力尽きた顔で眠っている。胸は規則正しく上下している。苦しげではない。ただ、深く、重く、全力で眠っていた。ぐごー。二度目のいびき。ノルが小さく言う。
「うるさい」
セレスが口元を押さえた。レイスは目を閉じ、肩を震わせる。エディンがついに吹き出した。
「本当に、よく寝る子ねぇ」
ルシアンも、疲れた顔のまま笑った。笑いながら、少し涙が滲んだ。緊張がほどけていく。張り詰めていたものが、部屋の隅へ落ちていく。アルドのいびきが、もう一度響いた。今度は、誰も不安にならなかった。ただ、生きている音だった。
「ルシアンも寝ろ」
レイスが言った。
「私は」
「寝ろ」
ノルも言う。
「今の顔、倒れる前」
「うん、横になろう」
セレスがルシアンの肩を支える。ルシアンは抵抗しようとしたが、体に力が入らなかった。結局、アルドの隣の寝台へ寝かされる。
「アルドの隣?」
「すぐ診られる」
セレスが言う。
「それに、今はルシアンも患者」
「私は患者じゃ」
「患者」
ノルが断言した。ルシアンは黙った。エディンが薄い布をかける。
「おやすみなさい、ルシアンちゃん」
「少しだけ」
「たくさん寝なさい」
ルシアンは小さく頷き、目を閉じた。すぐには眠らないと思っていたのだろう。だが、呼吸はすぐに深くなった。アルドのいびき。ルシアンの寝息。二つが並ぶと、部屋の空気が不思議と穏やかになった。レイスは扉の方を見た。
「村の様子を確認する」
「私も行く」
セレスが立ち上がる。
「私も」
ノルが帽子をかぶり直す。エディンも頷いた。
「おねぇさんも行くわぁ」
「部屋は」
「鍵をかける。窓も内側から閉めておく。長居はしない」
レイスはアルドとルシアンを見る。二人とも、深く眠っている。
「短時間だ」
「ええ」
エディンが扉に手をかける。
「何かあれば、すぐ戻るわ」
四人は部屋を出た。宿の廊下は静かだった。階下では女将が野菜を刻んでいる。こちらを見ると、「怪我人はどうだい」と聞いてきた。エディンが柔らかく笑って、「少しよくなったわぁ」と答える。村の外へ出ると、昼前の光が畑に落ちていた。昨日よりも空は明るい。家々の間を、子どもが走っている。井戸端では女たちが話し、老人が柵の修理をしていた。誰も彼らに特別な視線を向けない。
それが、今はありがたかった。ノルは帽子の下から周囲を見ている。
「追っ手はいない」
「目に見える範囲ではな」
レイスが言う。
「第三部隊らしい人も見ない」
セレスが井戸端の方へ視線を向ける。
「村の人たちの空気も普通。何かを探してる感じはない」
「聞き込みは?」
レイスが聞く。
「軽くなら」
エディンが笑う。
「おねぇさん、買い物してくるわぁ」
「目立つな」
「任せて」
エディンは市場の方へ歩いていった。ノルも別方向へ流れる。
「ノーラ」
レイスが小さく呼ぶ。ノルが嫌そうに振り返る。
「何」
「一人で遠くへ行くな」
「分かってる」
偽名で呼ばれたことより、注意されたことの方が不満そうだった。ノルはそのまま、露店の近くで果物を見ているふりをしながら周囲を観察する。レイスとセレスは、村の通りをゆっくり歩いた。旅人に見える速度で。警戒していると悟られない程度に。
「何もないね」
セレスが言った。
「今のところはな」
「追っ手もいない」
「灰冠なら、見えないだけかもしれない」
「うん」
セレスは少しだけ目を伏せた。
「でも、昨日よりは息ができる」
レイスは前を見たまま頷く。
「ああ」
「アルドも、治った」
「今日は使い物にならないがな」
「ルシアンもね」
「二人とも寝かせる」
セレスが小さく笑った。
「レイスも寝た方がいい」
「寝た」
「寝足りない顔」
「お前もな」
「うん」
二人は少しの間、黙って歩いた。昨日までなら、沈黙は痛かった。今も、痛くないわけではない。けれど、少し違っていた。沈黙の中に、次を考える余地がある。
「セレス」
「何?」
「エディンに聞いた気配のやつ、覚えているか」
「空気中の魔力?」
「ああ」
レイスは通りの先を見る。
「村の中で試しているが、何も分からない」
「私も」
セレスは指先を軽く開いた。
「人が多いと、余計に分からない。風とか匂いとか声とか、全部混じる」
「エディンは、これを拾っているんだな」
「たぶん」
「化け物だな」
「本人に言ったら喜びそう」
「言わない」
セレスは少しだけ笑った。
「でも、覚えたいね」
「ああ」
レイスは短く答える。
「次は、気づけなかったでは済まない」
その言葉に、セレスは頷いた。市場の端で、エディンが戻ってきた。手には、パンと干し肉、小さな包みがある。
「収穫よぉ」
「情報か」
「ええ。キレイナの話は広がってる。大級夜骸が出たらしい、討祓軍が向かったらしい、町がひどいことになったらしい。そこまでね」
「第一部隊の手配は」
「なし」
「第三部隊は」
「見ていないそうよぉ。ただ、街道の方で黒っぽい外套の人を見たって話が一つ」
レイスの目が細くなる。
「灰冠か」
「かもしれないし、ただの旅人かもしれない」
「方向は」
「北東。おねぇさんたちが向かう国境方面ではないわぁ」
ノルも戻ってきた。
「こっちも異常なし。宿の周りも変な人はいない」
「なら、今日はもう一泊する」
レイスは即決した。セレスが頷く。
「アルドとルシアンを動かすのは無理だしね」
「明日、出る」
「うん」
宿へ戻ると、部屋は静かだった。鍵はそのまま。窓も閉じている。アルドはまだ寝ていた。ルシアンも眠っている。アルドのいびきは、少しだけ小さくなっていた。
「静かになった」
ノルが言う。
「生きてるわよぉ」
エディンが笑う。レイスは二人の呼吸を確認し、ようやく肩の力を抜いた。
「もう一泊だ」
セレスが小声で言う。
「女将さんには?」
「おねぇさんが言うわぁ」
エディンが階下へ降りていった。夕方になる頃、アルドが一度目を覚ました。
「……どこだ」
「宿」
レイスが答える。
「治療は」
「終わった。お前は一日走り込んだ後みたいな状態らしい」
「そうか」
「だから寝ろ」
「飯は」
レイスは目を細めた。
「寝ろ」
「飯を食ってから寝る」
ノルが小さく言う。
「回復したら、これ」
「何だ」
「食欲」
セレスが笑いをこらえた。ルシアンもその声で目を覚ました。
「アルド……?」
「起きたのか」
「アルドこそ」
二人とも寝台の上で、ぼんやりと互いを見る。エディンがちょうど食事を持って戻ってきた。
「起きた子たちに、ちょうどいいわねぇ」
その夜の食事は、宿の食堂ではなく部屋で取った。煮込み。パン。少しの干し肉。買ってきた果物。昨日よりも、食べる量は増えていた。アルドはまた急いで食べようとして、ルシアンに止められた。
「ゆっくり」
「お前も食え」
「食べてる」
「少ない」
「アルドよりは正常」
ノルが干し肉を噛みながら頷く。
「正しい」
「味方がいない」
アルドが呟く。
「いるだろ」
レイスが言う。
「ただし、怪我人の暴食には味方しない」
「治ったんだろ」
「疲労している」
「腹が減ってる」
「知ってる」
セレスが果物を切り分けながら、小さく笑った。エディンは水を飲み、窓の外を見る。村の夜は、昨日と同じように静かだった。違うのは、部屋の中の空気だった。まだ安全ではない。追われている事実も変わらない。国境までの道は遠い。灰冠も、第三部隊も、いつ迫ってくるか分からない。それでも、今は息ができた。食事を終える頃には、アルドもルシアンも再び眠そうにしていた。
「二人とも寝ろ」
レイスが言う。
「まだ」
「寝ろ」
今度は全員の声が重なった。
「寝て」
「寝る」
「寝なさいなぁ」
「寝ろ」
アルドは少しだけ目を瞬く。
「分かった」
ルシアンも小さく笑って、寝台へ横になった。灯りが落とされる。扉に鍵がかかる。窓の外には、村の夜。部屋の中には、六人分の呼吸だけが残った。
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