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借りた服

 滝の外へ出ると、朝の光が眩しかった。水の膜を抜けた瞬間、冷たい飛沫が肩から落ちる。背後では、滝の音が相変わらず岩を叩いていた。けれど、昨日まで自分たちを隠していたその音は、もう遠ざかっていく。黒豹は、滝裏の洞窟を出た。先頭をノルが歩く。


 翠穿《すいせん》をいつでも構えられるように抱え、木々の間を縫うように進む。足跡が残りにくい場所を選び、枝の揺れにも目を向けていた。少し後ろに、レイスとアルド。アルドは歩いていた。歩いてはいたが、まともとは言いがたかった。顔色はまだ悪い。何歩か進むたびに呼吸が重くなり、胸元を押さえる指に力が入る。その横にルシアンがつき、左手をすぐ伸ばせる距離を保っていた。


「無理しないで」


「してない」


「してる」


「歩いてるだけだ」


「それを無理って言うの」


 ルシアンの声は強かった。アルドは返す言葉を失い、少しだけ視線を逸らす。レイスが横から低く言った。


「約束しただろ」


「……分かってる」


「なら、立ち止まる時は言え」


「分かった」


 後方には、セレスとエディンがいた。セレスは足元の湿った土を見ながら、水を薄く走らせて足跡をぼかしていく。大地をわずかに動かし、踏み荒らした草を戻す。完全には消えない。だが、普通に歩くよりはずっと追いにくくなる。エディンは最後尾。大剣を背負い、時折振り返る。木々の奥、枝の影、鳥の飛び立つ方向。何もないように見える場所を、何度も見ていた。


 しばらく進んだところで、レイスが足を止めた。


「エディン」


「なぁに、レイスちゃん」


「あの外套たちに気づけた理由を聞きたい」


 エディンの眉がわずかに上がる。


「今?」


「今だ」


 レイスは周囲を見る。


「次に同じように囲まれれば、今度は逃げきれない」


 セレスも振り返った。


「私も聞きたい」


 エディンは二人を見た。それから、少しだけ笑う。


「真面目ねぇ」


「笑うな」


「笑ってないわよぉ。可愛いなぁと思っただけ」


「同じだ」


 ノルが前方を見たまま言う。


「私も聞く」


「ノルちゃんはまず前を見ていてねぇ」


「見てる」


 エディンは肩をすくめた。それから、片手を空気の中へゆっくり伸ばす。


「空気中にもねぇ、ほんのわずかに魔力は漂っているのよぉ」


 レイスの目が細くなる。


「空気に?」


「ええ。水や土や火みたいに濃いものじゃないわ。ほとんど分からないくらい薄い。でも、確かにある」


 エディンの指先が、何もない空間を撫でた。


「物や人がある場所には、その魔力が通らない。だから、そこにできる輪郭を拾うのよぉ」


 セレスが自分の手を見る。


「それを感じるの?」


「そう。目で見るんじゃなくて、空気中のほんの薄い魔力を拾うの。自分の魔力を繋げる必要はないわぁ」


「気配を読むのとは違うのか」


 レイスが聞いた。


「違うわねぇ。殺気や音や匂いを読むんじゃない。そこにある形を拾うのよぉ」


 エディンは、レイスとセレスを交互に見た。


「やってみる?」


「やる」


 レイスが即答した。


「私も」


 セレスも頷く。エディンは楽しそうに笑った。


「じゃあ、目を閉じて」


 二人は目を閉じる。周囲の音が少しだけ大きくなった。葉が擦れる音。遠くの水音。ノルが小さく足場を変える音。アルドが低く息を吐く音。ルシアンがそれに反応して、少し近づく気配。


「風を感じるんじゃなくて、その奥を探るの」


 エディンの声がした。


「空気に混じっている、薄い魔力を見るの。物や人がある場所だけ、その流れが途切れる。まずは、その切れ目を探して」


 レイスは意識を広げようとした。音を捨てる。目を使わない。薄い流れが途切れる場所を探る。だが、分からない。ただ風があるだけだった。湿った空気が頬を撫で、服の袖を揺らすだけ。セレスも眉を寄せていた。


「……何も分からない」


「同じだ」


 レイスが言う。エディンが笑った。


「ふふ」


「笑うな」


「だって、そんなすぐできたらおねぇさんが困るじゃない」


 レイスは目を開ける。セレスも少し悔しそうに目を開けた。


「一朝一夕じゃできないわよぉ。これから鍛錬しなさい」


「どれくらいでできる」


 レイスが聞く。


「人によるわねぇ」


「目安は」


「人によるわぁ」


 エディンは笑う。セレスが息を吐いた。


「でも、覚える」


「あら、いい返事」


「次に同じことがあったら、見えなかったじゃ済まない」


 その言葉に、エディンの笑みが少しだけ薄くなった。


「そうね」


 レイスも頷く。


「進みながら教えてくれ」


「もちろん」


 エディンは軽く手を振った。


「まずは、何も分からないって分かるところからねぇ」


 ノルが前方から短く言う。


「いじわる」


「でも正しいのよぉ」


 アルドが低く笑いかけ、すぐ胸を押さえた。ルシアンが睨む。


「笑わない」


「笑うのも駄目か」


「今は駄目」


「厳しいな」


「当然」


 少しだけ、空気が緩んだ。それでも、歩みは止まらなかった。森は深かった。湿った土が靴底にまとわりつき、枝が外套を引っかける。鳥が一羽飛び立つだけで、全員が足を止めた。遠くで枝が折れる音がすれば、ノルが銃口を向け、エディンが後方を確認する。追っ手の姿はない。だが、いないと断言できる者もいなかった。昼過ぎ。森が少し開けた場所で、ノルが手を上げた。全員が止まる。


「前」


 短い声。レイスが低く聞く。


「何だ」


「馬車」


 ノルは木の陰へ身を沈めた。


「止まってる。壊れてる」


 レイスがアルドを見る。アルドは頷いた。


「確認する」


「俺が行く」


「俺も行く」


「その体でか」


「見るだけだ」


 レイスは一瞬だけ睨んだが、言い返す時間は使わなかった。エディンが前へ出る。


「おねぇさんが先に見るわぁ」


「頼む」


 エディンは音もなく木々の間へ消えた。少しして、片手を上げる。合図。危険はない。全員が慎重に近づいた。そこには、二台の馬車があった。一台は横倒しになり、車輪が砕けている。もう一台は前方が破損し、荷台の布が裂けていた。周囲には荷物が散乱している。箱はこじ開けられ、宝飾品の入っていたらしい小袋は空になっていた。そして、人が倒れていた。護衛らしき男。


 身なりのよい女。初老の男。御者。従者。血はすでに乾き始めている。戦闘から、少し時間が経っていた。ノルが周囲を確認する。


「盗賊」


「赤鎖じゃないな」


 レイスが言った。赤い短鎖はない。残された印も、これまで見たものとは違う。ただ金品を奪い、抵抗した者を殺した跡だった。


「ひどい」


 セレスが小さく呟く。ルシアンは顔を伏せた。アルドは、何も言わずに膝をついた。胸の傷が痛んだのか、わずかに顔をしかめる。それでも、倒れた者たちへ向かって頭を下げた。レイスも膝をつく。ルシアン、ノル、セレス、エディンも続いた。誰からともなく、手を合わせる。滝の音はもうない。森のざわめきの中で、静かな祈りだけが落ちた。彼らを助けることはできなかった。


 名前も知らない。どこへ向かっていたのかも知らない。それでも、ここに命があった。そして、奪われた。長い沈黙のあと、レイスが目を開けた。


「使わせてもらう」


 低い声だった。誰も、すぐには返さない。レイスは倒れた馬車を見る。


「今の俺たちには、変装が必要だ。服も、外套も、荷も足りない」


「死者から奪うのか」


 アルドが言った。責める声ではなかった。確認だった。レイスは目を逸らさない。


「奪うんじゃない。借りる」


「返せない」


「それでもだ」


 レイスは唇を結ぶ。


「ここで俺たちが捕まれば、死ぬ。死ねば、何も返せない。生き延びて、いつか祈る場所を作る。それしかない」


 アルドは黙った。それから、もう一度深く頭を下げた。


「すまない。使わせてくれ」


 ルシアンも震える声で続く。


「ごめんなさい」


 ノルは短く、


「借りる」


 と言った。セレスは目を伏せたまま、


「ありがとう」


 と呟いた。エディンは何も言わなかった。ただ、深く目を伏せた。服は、倒れた者たちから直接取ったわけではなかった。馬車の中に、旅用の替え衣が残っていた。盗賊は金目のものだけを漁り、衣類や外套には興味を示さなかったらしい。質のよい布、地味な色の旅装、従者用の上着、女物の外套、帽子、手袋。それらを、必要な分だけ選んだ。アルドには、体を隠せる濃い茶の外套。


 レイスには、旅商人の護衛に見える灰色の上着。ルシアンには、少し大きめの柔らかな外套。ノルには、少年にも少女にも見える短い旅装と帽子。セレスには、落ち着いた青灰の外套。エディンには、薄い色の長外套と布の頭巾。服を替えると、全員の輪郭が少しだけ変わった。黒豹ではない。討祓軍でもない。傷ついた旅人の一行。そう見えなくもなかった。


「名前も変える」


 レイスが言った。


「村では、本名を使うな」


「決めてるのか」


 アルドが聞く。


「咄嗟で迷わないものがいい」


 レイスは一人ずつ見た。


「アルドは、アル。俺はレイ。ルシアンはルシア。ノルはノーラ。セレスはセラ。エディンはエディ」


 ノルが眉を寄せる。


「ノーラ」


「嫌か」


「別に」


 嫌そうだった。セレスが少しだけ口元を緩める。


「似合うよ」


「嬉しくない」


 エディンが笑う。


「ノーラちゃん、可愛いわよぉ」


「やめて」


 アルドが低く言う。


「アルはそのまますぎないか」


「意識が朦朧としても反応できる名にした」


「そこまで見越すな」


「必要だ」


 レイスは即答した。アルドは言い返せなかった。変装を終えたあと、彼らはもう一度、馬車のそばで祈った。借りた服の分だけ。生きるために使うものの分だけ。そして、死者たちの名を知らないまま、その場を離れた。森を抜ける頃には、空が傾き始めていた。遠くに、煙が見えた。村だ。大きくはない。


 畑と低い柵に囲まれ、家々の屋根が夕方の光を受けている。道の端には干し草が積まれ、羊らしき鳴き声が聞こえた。安心するには、まだ早い。セレスとエディンが偵察に出た。他の四人は、村から少し離れた木陰に身を潜める。アルドは木の幹に背を預け、呼吸を整えていた。ルシアンが隣で傷を確認する。レイスは周辺を警戒し、ノルは村の入口をじっと見ていた。


「セラとエディ、遅い」


 ノルが呟く。


「まだ大して経ってない」


 レイスが言う。


「遅い」


「焦るな」


「焦ってない」


「焦ってる」


 アルドが小さく言う。ノルが目だけを向ける。


「アルは黙ってて」


「もう偽名か」


「練習」


 アルドは少しだけ笑った。すぐに胸を押さえた。ルシアンが睨む。


「また」


「悪い」


「笑うたびに痛むなら笑わないで」


「厳しいな、ルシア」


 ルシアンは一瞬固まった。それから、顔をしかめる。


「……変な感じ」


「俺もだ」


 レイスが低く言う。しばらくして、セレスとエディンが戻ってきた。セレスは外套の前を少し整え、エディンは頭巾を深くかぶっている。


「どうだった」


 レイスが聞く。


「手配はまだ出てない」


 セレスが答えた。


「村の人たちは、キレイナで大きな夜骸騒ぎがあったって噂は知ってる。でも、第一部隊が追われてるとか、討祓軍が何かしたとか、そういう話は出てない」


「第三部隊は」


「見てない」


 エディンが続けた。


「少なくとも、村の中にはそれらしい人影はないわぁ。宿も空いてる。怪我人連れの旅人と言えば、入れると思う」


「偽名でいけるか」


「ええ。村の宿は帳簿も雑ねぇ。ありがたいことに」


「怪しまれた?」


 ルシアンが聞く。セレスは首を横に振る。


「エディがうまく話してくれた」


「エディ」


 エディンが楽しそうに目を細める。


「新鮮ねぇ」


「慣れて」


 ノルが言う。


「ノーラちゃんもねぇ」


「嫌」


「嫌でもノーラよ」


 ノルは黙った。全員が、ほんの少しだけ息を吐いた。村へ入る時、誰も背筋を伸ばしすぎないようにした。討祓軍の歩き方にならないように。第一部隊の空気が漏れないように。疲れた旅人のように、ゆっくりと。


 アルドは外套の内側で胸元を押さえ、ルシアンに支えられて歩いた。レイスは荷を持ち、ノルは帽子を目深にかぶる。セレスは村人と目が合えば軽く会釈をし、エディンは頭巾の下で柔らかく笑っていた。宿屋は、村の中心より少し外れにあった。木造の小さな建物。


 看板には、麦の穂の絵が描かれている。中へ入ると、煮込みの匂いと木の床の匂いがした。煤鳩亭ほど賑やかではない。だが、人の暮らしの音があった。宿の女将が顔を上げる。


「あら、旅の人かい」


 エディンが一歩前へ出た。


「ええ。少し怪我人がいてねぇ。一晩、休ませてもらえないかしら」


「山道でやられたのかい」


「獣に驚いた馬車が崩れてしまって。命があっただけ、ありがたいわぁ」


 嘘は、薄く本当を混ぜると通りやすい。女将はアルドを見る。顔色の悪さに眉をひそめた。


「ひどい顔だね」


「よく言われる」


 アルドが掠れた声で言った。ルシアンが肘で小さく突く。


「喋らない」


「すまない」


 女将はため息をつく。


「部屋は二つ空いてるよ。大部屋じゃないが、詰めれば寝られる」


「助かるわぁ」


「名前は?」


 エディンが、自然に答えた。


「エディ。こっちがアル、レイ、ルシア、ノーラ、セラよ」


 女将は帳簿へ雑に書きつける。文字が少し崩れていた。


「食事は?」


「あるならお願いしたいわぁ」


「煮込みとパンくらいなら」


「十分よ」


 金を払う時、レイスが少しだけ躊躇した。これは討祓軍の金ではない。死者の馬車から借りたものではない。彼らが持っていた、わずかな手持ちだった。それでも、重かった。女将は何も気づかず、鍵を二つ渡した。


「二階の奥だよ。騒がないでおくれ」


「ええ。ありがとう」


 部屋は狭かった。二つの部屋のうち、一つはアルドを寝かせるために使うことにした。もう一つは、残りが交代で休む。だが、結局全員がアルドのいる部屋へ集まった。寝台が二つ。床に敷く薄い布。小さな机。窓は一つ。贅沢ではない。けれど、雨風をしのげる壁があり、扉があり、鍵があった。それだけで、洞窟とは違った。ルシアンはすぐにアルドを寝台へ座らせ、傷を確認した。


「開いてはいない」


「なら大丈夫だな」


「大丈夫じゃない」


「分かった。大丈夫じゃない」


 アルドは素直に言い直した。セレスが水差しを運んできて、布を濡らす。


「熱は?」


「少し」


 ルシアンが答える。


「でも、昨日よりはいい」


「なら、今日は寝かせよう」


 レイスが言った。ノルが窓辺から外を見ている。


「見張りは」


「交代で」


 レイスが言いかけたところで、エディンが首を横に振った。


「今日は寝なさい」


「だが」


「全員、寝るのよぉ」


 エディンの声は柔らかかった。だが、逆らわせない強さがあった。


「ここで寝なかったら、明日は歩けないわ」


「誰も立たないのは危険だ」


「鍵はある。窓も見た。下の出入口も一つ。何か来れば、おねぇさんが起きる」


「エディンも寝てない」


「エディよぉ」


 エディンが人差し指を立てる。レイスは一瞬黙った。


「……エディも、寝ていない」


「少しは寝るわ」


「信用できない」


「ひどいわねぇ」


 ノルが窓辺から言う。


「私が起きてる」


「ノーラちゃんも寝なさい」


「その名前で呼ばないで」


「今日はそれで通すんでしょう?」


 ノルは嫌そうに黙った。宿の食事が運ばれてきた。薄い煮込み。硬めのパン。水。大したものではない。それでも、温かかった。全員が少しずつ食べた。アルドはまた食べすぎようとして、ルシアンに止められた。


「ゆっくり」


「腹が」


「さっき聞いた」


「まだ減ってる」


「少しずつ」


 レイスがパンをちぎりながら言う。


「肉を食った直後に煮込みを流し込む怪我人がいるか」


「ここにいる」


「自慢するな」


 セレスが少しだけ笑った。ノルも、パンをかじりながら外を見るのをやめた。エディンは水を飲み、深く息を吐く。


「宿の水って、ありがたいわねぇ」


「滝の水もあった」


 ノルが言う。


「あれは冷たすぎたわぁ」


「わがまま」


「そうよぉ。おねぇさん、意外と繊細なの」


「意外すぎる」


 その言葉に、エディンが目を細める。


「ノーラちゃん?」


「何でもない」


 小さなやり取りだった。どうでもいい会話だった。だからこそ、部屋の空気が少しだけ戻った。食事が終わると、眠気は一気に来た。限界だったのだと、全員がそこでようやく気づく。洞窟では眠ったようで眠っていない。森では常に警戒していた。村へ入ってからも、いつ誰が扉を叩くか分からないと思っていた。それでも、温かい食事と閉まる扉が、体から力を奪っていく。


 ノルが窓辺に座ったまま、うつらうつらし始めた。セレスが外套を丸め、ルシアンの横へ置く。


「ルシアン、ここ」


「私はアルドを」


「手が届く場所にいるから」


 ルシアンは迷った。けれど、アルドが寝台から言う。


「寝ろ」


「アルドに言われたくない」


「そうだな」


「でも、寝る」


 ルシアンはアルドの寝台のすぐ横に腰を下ろし、壁にもたれた。左手だけは、アルドの近くに残している。指輪の光は消えていた。ようやく消してもいいくらいには、傷が落ち着いていた。レイスは扉の近くに座った。


「俺はここで」


「寝るのよぉ」


 エディンが言う。


「寝る」


「目が寝る気じゃないわぁ」


「気のせいだ」


「そういう顔、アルドちゃんに似てきたわねぇ」


「最悪だ」


 アルドが寝台の上で目だけ動かす。


「聞こえてるぞ」


「聞こえるように言った」


 少しだけ、セレスが笑った。本当に小さな笑いだった。それだけで十分だった。夜が深くなる。宿の下では、女将が片づけをする音がした。遠くで犬が吠え、誰かが戸を閉める。村の夜は静かだった。王都のような騒がしさも、煤鳩亭のような笑い声もない。部屋の中に、六人分の呼吸が落ちていく。煤鳩亭にいた頃のような大きないびきも、眠る直前まで続くルカの声もない。


 誰も、そのことを口にはしなかった。ノルが、窓辺で眠りに落ちた。セレスは壁にもたれ、静かに目を閉じている。ルシアンはアルドのそばで、浅い寝息を立て始めた。レイスは最後まで起きていようとしたが、扉に背を預けたまま、いつの間にか眠っていた。エディンはそれを見届け、最後に窓の外を確認した。何もない。ただ、村の夜がある。エディンは手首のブレスレットに一度だけ触れた。


 紫がかった小さな石が、暗がりの中でかすかに光る。


「……おやすみなさい」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。それから、エディンも壁にもたれた。アルドはしばらく天井を見ていた。ルシアンの寝息、レイスの低い呼吸、ノルの静かな眠り、セレスの肩が小さく上下する気配、エディンのほとんど音のない呼吸を聞きながら、やがて目を閉じた。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き明日の20時頃更新予定です。

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