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灰冠

「灰冠よ」


 エディンの声は、静かだった。洞窟の奥に、小さな火が残っている。滝の音が外の世界を隠し、水の膜が朝の光を砕いていた。濡れた岩の上で、誰もすぐには口を開けなかった。灰冠《はいかん》。その場にいる誰も聞いたことのない響きだった。レイスが眉を寄せる。


「灰冠?」


「ええ」


 エディンは、火のそばに腰を下ろした。いつものように脚を崩す。けれど、声の軽さは少しだけ薄れていた。


「王国にはねぇ、表に出せないものを人知れず消す部隊があるの」


 ノルが翠穿《すいせん》を抱え直す。


「部隊」


「王家直轄の特殊部隊よ」


 エディンは、滝の向こうを見る。


「国家に不利益をもたらす者。王国の秘密を知った者。存在しているだけで都合の悪い者。そういう人間を、記録にも残さず処理する」


 セレスの顔が強張った。


「それが、灰冠」


「そう」


「第三部隊とは違うのか」


 レイスが言った。エディンは頷く。


「違うわぁ。第三部隊は、人間相手の闇を担う部隊。政治犯、汚職貴族、テロ組織、危険な犯罪者。表に出せない相手を追って、捕まえて、時には処理する」


「十分、近く聞こえる」


「近いわよ。でも同じじゃない」


 エディンの目が、少しだけ細くなる。


「第三部隊は、王国の秩序を壊す者を処理する。灰冠は、王国の秘密を知った者を処理する」


 火が、小さく爆ぜた。誰もすぐには言えなかった。似ている。けれど、決定的に違う。罪があるかどうかではない。危険かどうかでもない。知ったかどうか。それだけで、処理対象になる。


「だから、灰冠の存在自体、極一部の人間しか知らない極秘事項なのよぉ」


 エディンは、そこでほんの少し笑った。


「これを知った時点で、普通は灰冠の処理対象になるわ」


 ルシアンの顔から血の気が引いた。


「じゃあ、どうして今」


「俺たちに教えた?」


 レイスが引き取る。エディンは肩をすくめた。


「王国の秘密とやらを知った今、どうせもう処理対象に入ってるからねぇ」


 軽い言い方だった。だが、言葉の中身は軽くない。


「知らせない意味がなくなったのよ」


 洞窟が、重く沈む。その時、ぐう、と低い音がした。全員の視線が、一斉に音の方へ向く。アルドだった。アルドは青白い顔のまま、腹のあたりに視線を落としていた。


「……悪い」


 誰も何も言わなかった。次の瞬間、エディンが小さく息を吐く。


「アルドちゃん」


「何だ」


「まず食べなさいなぁ」


「今は」


「今よ」


 エディンは、昨夜残していた肉を葉に乗せて差し出した。


「話は逃げないわ。あなたの腹の方が先に逃げそうよぉ」


 ノルがぼそりと言う。


「音、すごかった」


「うるせぇ」


 アルドはそう返したが、抵抗はしなかった。肉を受け取る。一口かじる。そのまま、次を口に入れる。噛む速度が早い。


「アルド、ゆっくり」


 ルシアンが慌てて言う。


「傷に響く」


「腹が減ってる」


「それは見れば分かる」


 レイスが低く言った。アルドは肉を飲み込み、水を受け取る。そして、また食べた。ガツガツと、まるで数日食べていない獣のように。実際、体はそれを求めていた。血を流し、魔力を燃やし、意識を失い、繋ぎ止められた体が、ようやく生きるための要求を取り戻した。誰も止めなかった。食べる音だけが、しばらく洞窟に響いた。それが妙に、安心を呼んだ。アルドがまだここにいる。


 腹が鳴るほど、生きている。ルシアンは少しだけ目元を押さえた。セレスがその隣で、水を渡す。ノルは黙って火に枝を一本足した。エディンは、アルドが三切れ目の肉を飲み込んだところで、ようやく話を戻した。


「それで、どこまで話したかしら」


「灰冠を知った時点で処理対象」


 レイスが言う。


「ああ、それね」


 エディンは自分の水筒を取り、口をつけた。水を飲む音が、小さく響く。飲み終えてから、指先で口元を拭った。


「そう。だから、おねぇさんは今まで言わなかった」


「隠すことで、俺たちを守ってたってことか」


 レイスが言った。エディンは少しだけ笑った。


「そんな大層なものじゃないけどねぇ」


「違うのか」


「言えば、あなたたちは知ってしまう。知れば、戻れなくなる。だから言わなかった。それだけよ」


「十分、大層だ」


 セレスが静かに言った。エディンは答えなかった。代わりに、手首のブレスレットへ一瞬だけ指をかける。紫がかった小さな石が三つ、淡く光った。アルドが水を飲み終え、低く聞いた。


「エディンは、人間が夜骸になることを知っていたのか」


 空気が変わった。肉を噛む音も、水音も、一瞬で遠のいた。エディンは、すぐには答えなかった。それから、首を横に振る。


「まさか」


 声は軽くなかった。


「知っていたら、あの時、断固反対していたわ」


 ルシアンの肩が小さく震える。ルカ。その名を誰も出さない。けれど、全員が同じものを見ていた。あの夜。叫び。崩れていく体。月に呑まれた少年。


「まさか、王国の秘密があんなものだったなんてねぇ」


 エディンの声には、嫌悪があった。怒りもあった。諦めに似たものもあった。レイスが言う。


「なら、なぜ灰冠の存在を知っている」


 エディンは火を見た。


「おねぇさんは、第一部隊に入る前、第三部隊にいたの」


 セレスが目を見開く。


「第三部隊?」


「知らなかった」


 ノルが言う。


「内緒にしてたからねぇ」


 エディンはいつもの調子に戻そうとした。けれど、完全には戻らなかった。


「暗殺の仕事の時は、総隊長から一枚の封筒が渡されるのよ」


「ローグレス様から?」


 ルシアンが聞く。


「ええ。でも、総隊長も中身は知らない」


 レイスの目が細くなる。


「総隊長も知らない?」


「未開封のまま、渡されるの。開けるのは第三部隊。中には、処理対象者の名前だけが書いてある」


 エディンは淡々と言った。


「おねぇさんたちは、その人物を暗殺していた」


 洞窟の中が、また沈む。第三部隊。梟。情報収集、追跡、尋問、捕縛。そして、人間相手の処理。知っていたつもりだった。だが、知っていたのは表面だけだったのだと、全員が思った。


「ある日、思ったの」


 エディンは続ける。


「総隊長が中身を知らないということは、その命令は総隊長より上から来ている」


「王家か」


 レイスが言う。


「そう考えるのが自然でしょうねぇ」


「調べたのか」


「ええ」


 エディンは笑った。


「そのことを知られないように、細心の注意を払ってね」


「どれくらいかかった」


「三年」


 ノルがわずかに眉を動かす。


「エディンで、そんなに」


「あら、褒めてくれるのぉ?」


「褒めてない。驚いてる」


「なら、驚いておいて。おねぇさんでも、それくらいかかったのよ」


 エディンは水筒を置く。


「それで、灰冠の存在を知った。でも、それ以上は無理だったわ」


「無理?」


「名前まで。輪郭まで。王家の影にいる、秘匿の処理部隊。そこまでは辿れた」


 エディンの目が、滝の向こうへ向く。


「でも、それ以上を覗けば、こちらが覗き返される」


 誰も言わなかった。それがどういう意味なのかは、聞かなくても分かった。その時、洞窟の入口の水が小さく揺れた。ノルが即座に翠穿を構える。レイスも立ち上がりかけ、セレスが水を足元に集める。ルシアンはアルドの前に手を伸ばし、エディンは大剣の柄に触れた。水の膜の下。岩の隙間から、何かが入ってくる。小さい。横に動いている。黒い影。全員が息を止めた。それは、カニだった。


 小さな沢ガニが、濡れた岩の上を横歩きしていた。ノルの銃口が、ほんの少し下がる。


「……カニ」


 アルドが呟く。


「カニだな」


 レイスが言う。セレスが張り詰めた息を吐いた。


「びっくりした」


 ルシアンは胸元を押さえ、目を閉じる。


「心臓が止まるかと思った」


 カニは、そんなことなど知らないように、ちょこちょこと岩の上を歩いている。ノルが翠穿を完全に下ろした。そして、カニの前に指を一本出す。カニは威嚇するように小さな鋏を上げた。ノルは無言で見つめる。


「……強い」


「ノル」


 レイスが疲れた声で言う。


「遊ぶな」


「遊んでない。観察」


 カニが火の方へ向かいかける。ノルは指先で、そっと進路を変えた。


「そっちは熱い」


 カニは別方向へ歩き出す。ノルは少しだけ頷いた。


「分かる子」


 アルドが肉を噛みながら言った。


「可愛がってるな」


「してない」


「してる」


「してない」


 ほんのわずかに、空気が緩んだ。笑えるほどではない。けれど、息はできた。カニはやがて岩の隙間へ入り、見えなくなった。エディンが小さく笑う。


「命拾いしたわねぇ、カニちゃん」


「撃たない」


 ノルが即答する。


「可愛いからか」


「小さいから」


 レイスが目を閉じた。


「話を戻すぞ」


 レイスは濡れた岩に線を引いた。先ほどの逃走経路の跡が、まだ残っている。


「待て。それなら、俺たちを追うにも理由が必要になる」


 エディンが目を向ける。


「続けて」


「国は、俺たちが知ったことを知られたくないはずだ。たとえ命令だったとしても、追う側が多ければ多いほど疑念が広がる」


「ええ」


「なら、追うのは灰冠と第三部隊だけなんじゃないのか」


 エディンは口元に指を添えた。


「間違ってはいないわ。でも、その気になれば理由なんていくらでもでっち上げられる」


「だが、大人数を動かすのはリスクが高いはずだ」


 レイスの声に、少しずつ芯が戻っていく。


「国軍は間違いなく出てこない。国軍が第一部隊を追えば、王家直属である討祓軍との衝突になる。それなりのインパクトのある表向きの理由が必要になるし、動きが大きすぎる」


 セレスが頷く。


「そして、第四部隊は、そういう役割じゃない」


「調査、研究、支援、医療。追跡や処理には絶望的に向かない」


 レイスは続ける。


「第五部隊は王都の警備と月酔い対応で手一杯だ。第二部隊は近頃の夜骸の異常行動のせいで動かせる人員が少ない」


「第一はここ」


 ノルが言う。


「そうだ」


 レイスは岩に線を引き足す。


「つまり、動かしたくても、第三部隊以外は動かしにくい状態にある」


「まあ、確かにそうねぇ」


 エディンは感心したように目を細めた。


「追っ手の質は異常に高い。だが、人手は少ない」


 レイスの指が、灰色の岩を叩く。


「灰冠は、おそらく少数精鋭。王国の秘密を知っている以上、人数を増やせない。第三部隊も全員を出すわけにはいかない」


「いつものレイスちゃんが戻ってきたわねぇ」


「どうも」


 レイスは短く返した。そのやり取りに、アルドが少しだけ目を伏せる。戻ってきている。完全ではない。誰も完全ではない。だが、止まってはいない。ルシアンが、ゆっくりと口を開いた。


「それで」


 声は細かった。


「夜骸の正体は、元月酔い患者……なんだよね」


 誰もすぐには答えなかった。滝の音が、また近くなる。アルドが肉を置いた。


「ああ」


 短い返事だった。ルシアンの顔が歪む。


「じゃあ、私たちは」


 言葉が詰まる。


「今まで、人間を……」


 その先は言えなかった。ルシアンは口元を押さえ、洞窟の端へ膝をついた。セレスがすぐに背中へ手を添える。ルシアンは吐いた。ほとんど何も出なかった。昨夜からまともに食べていない体に、吐き出すものなど残っていない。それでも、体は拒もうとした。知ってしまったものを。飲み込めない事実を。セレスは何も言わず、ルシアンの背をさすった。


 ノルはカニが消えた岩の隙間を見たまま、表情を消している。レイスは目を閉じた。アルドが言う。


「違う」


 ルシアンが、かすかに顔を上げる。


「人間ではない」


 アルドの声は低かった。


「人間だったものだ」


 誰も、それで楽にはならなかった。けれど、今はその線を引くしかなかった。


「割り切れないな」


 レイスが呟いた。


「ああ」


 アルドは頷く。


「割り切る必要はない。今はな」


 ルシアンの背に、セレスの手が重なっている。エディンは水を汲み、ルシアンへ差し出した。


「飲める?」


 ルシアンは小さく頷き、水を受け取る。指先が震えていた。ノルが低く言う。


「引き取られた月酔い患者は、どうなったの」


 エディンは答えなかった。代わりに、レイスが言う。


「第五部隊は確実にこのことを知らない」


「うん」


「ということは、患者はその後、灰冠に渡っている可能性が高い」


 エディンは否定しない。レイスは続けた。


「そうなると、灰冠が処理しているんだろうな」


「処理」


 セレスの声が小さく震えた。


「死んだら、夜骸化しないってこと?」


 ノルが言う。


「だと思う」


 答えたのは、アルドだった。全員がアルドを見る。アルドは目を伏せる。


「ルカは、死んでいなかった」


 洞窟の空気が重くなる。


「生きていた。生きたまま、急に叫んで、夜骸化した」


 ルシアンが水を握る手に力を入れる。


「なら、死ぬ前なら変わる。死ねば変わらない。そう考えるのが自然だ」


「大級だけが、元人間ってことはないの?」


 セレスが聞いた。その声には、願いが混じっていた。違っていてほしい。せめて全部ではないと言ってほしい。アルドは首を横に振った。


「多分……無いな」


 セレスは目を閉じる。


「夜骸は変化する。いや、進化する」


 アルドは続ける。


「前に戦った中級もそうだったろ、途中で体の構造が変わり知性が付き、強さが変わった」


 レイスが引き取る。


「元の人間の強さで、最初の等級が決まる可能性がある」


「多分な」


 アルドは頷く。


「ルカが大級になったのは、あいつが強かったからだろう」


 ノルの指が、翠穿の銃床を握る。


「その後は?」


「喰った数だと思う」


 アルドは、火を見る。


「今話した中級の件を考えると夜骸を喰えば、等級が上がる。夜骸が元人間なら人間を喰っても上がるはずだ、大級にも、災害級にもなる」


 誰も、否定できなかった。これまで見てきた異常。中級の増加。大級の力。ルカの変化。全部が、嫌な形で繋がっていく。


「だいぶ整理できたな」


 レイスが言った。


「気分は最悪だけどね」


 セレスが小さく返す。


「ええ」


 ルシアンも、かすれた声で頷いた。エディンが火に枝を足す。赤い火が、少しだけ伸びた。


「とにかく」


 レイスは岩の上に引いた線へ視線を戻す。


「追っ手が灰冠と第三部隊だけだとしたら、王国中の村や町に手配が回っていない可能性がある」


「私たちを、内密に処理したいから?」


 ルシアンが言う。


「そうだ」


 レイスは頷く。


「大々的に国が俺たちを追って、その後俺たちが消えれば、国が第一部隊を殺しましたと言っているようなものだ」


「黒豹は民にも知られてる」


 セレスが言う。


「簡単には消せない」


「だから、消すなら静かに消す」


 ノルの声が冷える。


「そういうことだ」


 レイスは、岩に引いた道筋の一つを指で潰した。


「町道は避ける。ただし、完全に人里を避け続けるのも危険だ。食料も情報も足りない」


「国の動きを見る必要がある」


 アルドが言う。その声には、まだ力が足りない。だが、隊長の声だった。


「なら決まりだ」


 アルドはゆっくりと息を吸う。


「目指すは国境付近」


 レイスがアルドを見る。


「本気か」


「ああ」


「遠いぞ」


「近場に逃げてどうにかなる相手じゃない」


 アルドは答える。


「まずは道中の村に寄る。国の動きを探る。手配が回っているか、第三部隊がどこまで出ているか、情報を集める」


「動けるの」


 ノルが聞いた。アルドは少しだけ笑った。


「肉食った」


「それで治るなら、治癒魔法いらない」


 ルシアンが低く言う。アルドは肩をすくめようとして、痛みに顔をしかめた。


「悪い」


「本当に悪いと思うなら、無茶しないで」


 ルシアンの声が強くなる。アルドはルシアンを見た。少しだけ間を置いて、頷く。


「約束する」


 ルシアンは、それでも不満そうだった。だが、それ以上は言わなかった。レイスが立ち上がる。


「移動は短距離ずつ。アルドの状態を見ながらだ。ノルは前方確認。セレスは足場と痕跡消し。ルシアンはアルドから離れるな。エディンは後方と周辺警戒」


「レイスは?」


 セレスが聞く。


「全体を見る」


「倒れない範囲でね」


「分かってる」


 ノルが翠穿を持ち上げる。


「了解」


 セレスも頷く。


「了解」


 ルシアンはアルドの胸元に手を添え直した。


「了解」


 エディンは、最後にブレスレットへ触れた。紫がかった三つの石が、淡く光る。


「了解よぉ」


 アルドは壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。足元はまだ危うい。レイスがすぐ横に立つ。ルシアンが反対側から支え、セレスが荷をまとめる。ノルは滝の水越しに外を見た。エディンは大剣を背負い直す。滝の音は、まだ世界を隠している。だが、もう閉じこもる音ではなかった。水の膜の向こうに、朝の光が揺れていた。アルドが一歩、前へ出る。黒豹は、動き出した。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き明日の20時頃更新予定です。

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