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黒豹の罪

「なら、動くぞ」


 掠れた声が、滝の音を裂いた。全員が振り返る。濡れた外套の下で、アルドが目を開けていた。顔色は青白い。唇には血の色が残り、呼吸もまだ浅い。それでも、その目だけは確かにこちらを見ていた。


「アルド!」


 ルシアンが声を上げた。左手はまだアルドの胸元に添えられている。指輪の淡い光が揺れ、また崩れかけた。


「動かないで。まだ」


「悪い」


 アルドはそう言って、肘を立てようとした。その瞬間、体が大きく傾く。レイスが反射的に手を伸ばした。


「アルド、寝てろ」


「寝てる場合じゃない」


「その体で言う台詞じゃない」


「いい」


 アルドはレイスの手を押し返した。押し返した、というより、触れた程度だった。それでも、拒む意思だけははっきりしていた。ルシアンが首を振る。


「お願い、動かないで。傷が」


「ルシアン」


 名前を呼ばれて、ルシアンの言葉が止まった。アルドは、ゆっくりと上体を起こした。肩が震えている。胸元の布には、まだ赤黒い血が滲んでいた。呼吸を一つするだけで、痛みが体の奥を噛んでいるのが分かる。それでも、アルドは起き上がった。ノルが翠穿《すいせん》を抱えたまま、目を細める。


「無茶」


「分かってる」


「分かってない」


 ノルの声は低かった。アルドは何も返さなかった。ただ、濡れた岩の上に片手をつく。もう片方の手もつく。ルシアンが息を呑んだ。


「アルド」


 アルドは、額を岩につけた。洞窟の中が、凍った。土下座だった。傷だらけの体で、まともに膝をつくことすらできない。それでも、アルドは頭を下げていた。冷たい岩に額を押しつけ、動かない。


「やめろ」


 レイスの声が硬くなる。


「アルド、やめろ」


「聞いてくれ」


 アルドの声は、岩に落ちて掠れていた。


「頼む」


 誰も動けなかった。滝の音が、洞窟の口を塞いでいる。アルドは、頭を上げないまま言った。


「ルカを引き渡さないと決めたのは、俺だ」


 ルシアンの指が震える。セレスが唇を噛む。ノルは目を伏せなかった。レイスは、拳を握った。


「反対があったのは分かってた。危険だと分かってた。それでも、俺は切らなかった。切れなかった」


 アルドの声が、少しだけ乱れる。


「最悪、俺が犠牲になれば済むと思ってた」


 誰かが息を吸った。


「ルカが壊れる前に、俺が止めればいい。俺が背負えばいい。俺が殺せばいい。そうすれば、他の誰も傷つかずに済むと思ってた」


 額が、濡れた岩に強く押しつけられる。


「甘かった」


 その一言は、吐き捨てるようだった。


「間違えた」


 喉の奥で、血の絡む音がした。


「救えなかった」


 ルシアンの目から、涙が落ちた。それでも、アルドは続けた。


「ルカを救えなかった。結果的にゴードを死なせた。お前らを傷つけた。追われる立場にした。戻る場所も、報告する道も、全部俺が奪った」


「違う」


 セレスが小さく言った。だが、アルドは止まらない。


「全部、隊長の俺の責任だ」


 声が震えた。けれど、言葉は折れなかった。


「申し訳ない」


 深く、深く、頭を下げる。洞窟には、滝の音だけが満ちていた。誰もすぐには言えなかった。怒ることも。許すことも。慰めることも。そんな簡単な場所には、もういなかった。最初に動いたのは、レイスだった。レイスはアルドの前まで歩き、濡れた岩の上に膝をついた。


「顔を上げろ」


 アルドは動かない。


「アルド」


「……無理だ」


「上げろ」


 レイスの声が低くなる。


「勝手に一人で終わらせるな」


 アルドの肩がわずかに揺れた。レイスは続ける。


「俺は反対した。危険だと言った。だが、最後はその判断に従った」


「それは俺が隊長だから」


「違う」


 レイスは即座に切った。


「俺が副隊長として、最後に止めなかったからだ」


 アルドの指が、岩を掴む。


「撤退の判断も遅れた。ルカをどうするかも、切れなかった。お前だけの責任じゃない」


「レイス」


「隊長の責任だと言うなら、副隊長の俺にも責任がある」


 レイスは、アルドを見下ろさなかった。同じ高さで、濡れた岩に膝をついたまま言った。


「だから、勝手に一人で背負うな」


 ルシアンが、アルドのそばへ身を寄せた。まだ指輪の光は消えていない。左手をアルドの背に添え、右手で涙を拭う。


「許すとか、許さないとかじゃない」


 声は震えていた。それでも、逃げなかった。


「私も、ルカを渡したくなかった」


 洞窟の空気が、少しだけ揺れる。


「怖かった。分かってた。危ないって、分かってた。でも、まだ救えるって思いたかった。アルドがそう言ってくれるなら、信じたかった」


 ルシアンは唇を噛む。


「私も、止められなかった。ゴードも、ルカも、アルドも、誰も」


 指輪の光が滲む。


「だから、アルドだけが謝らないで」


 アルドは、まだ顔を上げない。ノルが、ゆっくりと近づいた。翠穿を岩の上に置く。その音は小さかった。


「間違えたなら」


 ノルは短く言った。


「全員で間違えた」


 アルドの肩が止まる。


「私は、あの時の判断をアルドだけに押しつける気はない」


「ノル」


「反対もした。迷いもした。でも、最後はそこにいた」


 ノルの声は平らだった。だが、いつものように冷たくはなかった。


「撃てなかったのも、私。止められなかったのも、私。背負うなら、私も背負う」


 少しだけ間を置いて、続ける。


「罪なら、分ける」


 その言葉は短かった。短いからこそ、重かった。セレスが一歩前に出る。濡れた髪を耳にかけ、アルドの前にしゃがんだ。


「賛成も反対もあった」


 セレスは静かに言う。


「怖いって思った。間違ってるかもしれないって思った。だけど、最後はみんなで選んだ」


 アルドは何も言わない。


「第一部隊の選択だった」


 セレスの声が、少しだけ強くなる。


「アルド一人の罪じゃない」


 滝の音が響く。


「だから、一人で謝って、一人で終わらせないで」


 アルドの指に力が入る。岩を掴む手が、震えていた。エディンは、少し離れた場所で見ていた。いつものように笑ってはいない。大剣の柄に片手を置いたまま、アルドを、レイスを、ルシアンを、ノルを、セレスを順に見る。


「本当に」


 エディンが、小さく息を吐いた。


「困った子たちねぇ」


 その声には、呆れも、諦めも、少しだけ混じっていた。けれど、それだけではなかった。アルドは、ようやく顔を上げた。額は濡れ、血の気は失せている。目元は赤い。隊長らしい顔ではなかった。強い黒豹の顔でもなかった。ただ、仲間を失った男の顔だった。レイスが手を差し出す。アルドはその手を見た。すぐには取らなかった。


「俺は」


「まだ言う気か」


 レイスが低く言う。


「お前の責任が消えるとは言ってない」


 アルドの目が、レイスを見る。


「背負え。俺たちの隊長だろ」


 レイスは差し出した手を下げない。


「ただし、一人で背負うな」


 ルシアンが頷いた。ノルも、セレスも、何も言わずにそこにいた。アルドは、ゆっくりと手を伸ばす。レイスがその手を掴んだ。力を入れすぎないように、それでも確かに引き上げる。ルシアンがアルドの背を支え、セレスが反対側から肩を押さえる。ノルは翠穿を拾い、入口へ一度だけ視線を向けてから戻した。アルドは、壁にもたれる形で座り直した。呼吸は荒い。


 それでも、目はさっきより少しだけ戻っていた。エディンは、その様子を見ていた。見届けていた。そして、大きく息を吐く。


「灰冠《はいかん》」


 ぽつりと落ちたその言葉に、全員がエディンを見た。ルシアンが瞬きをする。


「え?」


 エディンは、もう一度言った。


「灰冠よ」


 滝の音が、急に遠くなった気がした。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き明日の20時頃更新予定です。

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