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滝音の奥

 キレイナ町は、音を失っていた。昼の光はある。焼け残った屋根にも、崩れた石壁にも、割れた窓硝子にも、変わらず陽は落ちている。けれど、そこに人の声はなかった。いつもなら井戸端に立つ者がいる。店の戸を開ける音がある。子どもの足音が走る。誰かが誰かを呼ぶ。それらが、まるごと抜け落ちていた。通りの端に、壊れた荷車が倒れている。


 壁には深い爪痕のようなものが残り、石畳には黒ずんだ染みが広がっていた。家屋の一部は内側から押し破られたように歪み、瓦礫があたりに散乱している。その中でも、借家跡はひどかった。もはや家と呼べる形は、ほとんど残っていない。


 屋根は落ち、壁は裂け、柱だったものは折れて斜めに沈んでいる。入口だった場所も、戸口というより瓦礫の切れ目に近い。床板と思しき木片は血を吸って黒ずみ、崩れた壁材にも、石にも、土にも、赤黒い跡がこびりついていた。大級夜骸《たいきゅうやがい》が発生した。その報告は、すでにローグレスのもとへ届いている。第一部隊が交戦したことも、町の者たちの証言からほぼ間違いない。


 だが、現地に残っていたのは、答えではなかった。ただ、惨状だけだった。その中を、第三部隊の隊員たちが静かに動いていた。誰も無駄口を叩かない。瓦礫の位置を記録する者。血痕の広がりを測る者。崩れた壁材を持ち上げ、下に残った跡を確認する者。町民から聞き取りをする者。何かの破片を拾い、袋へ入れる者。その中心に、ロザリアが立っている。第三部隊、梟の隊長。


 黒紫の髪を揺らし、薄く笑みを浮かべた顔は、惨状の中でも場違いなほど整っていた。けれど、その目の奥は笑っていない。細い視線が、瓦礫、血の跡、折れた柱、入口だった場所を順に撫でていく。少し後ろには、クライスが控えていた。


 表情は薄い。感情を消しているのではない。ただ、必要以上に外へ出さないだけだ。第三部隊の隊員が差し出した記録板を受け取り、ロザリアの横へ歩み寄る。


「隊長。借家跡の確認が終わりました」


「聞くわ」


「遺体はありません。第一部隊の装備品と断定できるものも、現時点では確認できません」


 ロザリアは細く目を伏せた。


「あら、綺麗にないのね」


「血痕は多数。瓦礫の下、崩れた壁材、入口だったと思われる周辺に集中しています。量から見て、重傷者が複数出ている可能性が高いかと」


「可能性、ね」


 ロザリアはゆっくりと、入口だった場所へ視線を向けた。そこには、まだ赤黒い跡が残っていた。誰かが倒れた跡。誰かが踏み込んだ跡。誰かが、そこで何かをした跡。だが、そこに誰もいない。残っているのは、血だけだった。


「大級発生の報告。第一部隊の交戦。借家跡に残された大量の血痕。けれど、遺体はなし。第一部隊の所在も不明」


 ロザリアは、まるで舞踏会の招待状でも読み上げるような声で言った。


「嫌なほど、出来すぎているわね」


「隊長」


 クライスが短く制した。


「現場報告を優先してください」


「あら。しているでしょう?」


「感想が混じっています」


「感想も情報よ。人間は、事実だけで動かないもの」


「総隊長の前です」


 その言葉で、ロザリアはようやく少しだけ横を見た。ローグレスは、借家跡の前に立っていた。総隊長の外套は、土埃を含んだ風に揺れている。いつものように背筋は伸びている。だが、その視線はロザリアにも、クライスにも、調査中の隊員にも向いていなかった。崩れた瓦礫を見ている。血の跡を見ている。そこにいるはずのない者たちを、探している。


「総隊長」


 ロザリアが呼んだ。ローグレスは返事をしない。


「総隊長。聞こえているかしら」


 少し間があった。


「……聞いている」


 声だけは、かろうじて返った。ロザリアは薄く笑う。


「聞いていない顔ね」


「隊長」


 クライスが低く言う。ロザリアは肩をすくめた。


「責めていないわ。無理もないもの」


 ローグレスの目が、ようやくロザリアへ向いた。


「報告を続けろ」


「ええ」


 ロザリアは手にした記録板を軽く指で叩いた。


「事前報告通り、キレイナ町で大級夜骸が発生。第一部隊が交戦したと見てよいでしょう。町内の破壊状況と、住民の証言にも大きな矛盾はありません」


「第一部隊は」


 ローグレスの声が、ロザリアの言葉にかぶった。ロザリアは一拍置いた。


「所在不明です」


「……全員か」


「全員です」


 ローグレスは口を閉じた。借家跡の瓦礫の上を、第三部隊の平隊員が横切る。膝をつき、血痕の一部を布に移し、瓶へ納める。その動きは手慣れていた。淡々としていた。だからこそ、ローグレスには余計に現実味がなかった。ここに、アルドがいたはずだった。火を振るい、無茶をして、報告では何でもないような顔をする男が。レイスがいたはずだった。


 淡々と事実を並べ、アルドの余計な言葉を削り、必要な部分だけを残す副隊長が。ルシアンが、ノルが、セレスが、ゴードが、ルカが、エディンが。全員が、ここにいたはずだった。だが、誰もいない。


「重傷者が出ている可能性が高い、と言ったな」


「ええ」


「誰だ」


「そこまでは」


 ロザリアは静かに答える。


「血だけでは、誰のものかまでは断定できません」


 ローグレスの指が、わずかに握られた。


「遺体はないんだな」


「ありません」


「なら、生きている可能性はある」


「もちろん」


 ロザリアの口元に、ほんの薄い笑みが戻った。


「黒豹さんたちは、そう簡単に死ぬほど可愛らしい部隊ではないでしょう?」


 その言い方には、いつもの毒があった。だが、今は弱かった。彼女なりに事実を細く撫でただけだった。ローグレスはそれにも答えなかった。ただ、借家跡の瓦礫に残る血痕を見ていた。


「報告もなく、姿を消す部隊ではない」


「ええ。普通なら」


「普通なら、アルドかレイスが戻る。戻れないなら、誰かを走らせる。誰も戻らないなど……」


 ローグレスの声が、そこで途切れた。言葉が続かない。怒鳴ることはできた。命令を出すこともできた。捜索範囲を広げろ、と。周辺を封鎖しろ、と。国軍へ連絡しろ、と。第二部隊へ応援を出せ、と。総隊長としてなら、いくらでも言葉はあった。だが、その前に、頭の中で一つの問いだけが何度も跳ね返っていた。なぜ、戻らない。なぜ、誰もいない。お前たちは、どこへ行った。


 ロザリアはローグレスを見た。その目が、ほんのわずかに細くなる。


「第一部隊には、あの人もいたわね」


 クライスの視線が横へ動いた。


「隊長」


「分かっているわ。余計なことは言わない」


 ロザリアは、入口だった場所から町の通りへ目を移した。


「ただ、厄介な人がいると思っただけよ」


 その声は、少しだけ冷えていた。ローグレスは気づかない。気づく余裕がなかった。


「捜索は」


「町内は継続中です。周辺への拡大は指示待ちです」


 クライスが答える。ローグレスは頷いた。頷いたが、その動きは遅かった。


「……続けろ」


「了解しました」


 クライスが平隊員へ手で合図を送る。第三部隊が再び動き出した。ロザリアはその場を離れ、別の隊員の報告を聞きに行く。クライスもそれに続く。だが、ローグレスだけは借家跡の前から動かなかった。壊れた町。残された血。消えた黒豹。どれだけ見ても、答えはなかった。


「……アルド」


 小さく、名が落ちた。


「レイス」


 返事はない。ローグレスは、誰もいない借家跡を見つめたまま、低く呟いた。


「一体、何があったんだ……」


 風が、血の匂いをわずかに揺らす。


「無事なのか、お前たち……」


 その問いにも、答える者はいなかった。


         ◇


 滝の音が、闇を塞いでいた。町から遠く離れた林の奥。細い獣道を抜け、苔むした岩場を下りた先に、小さな滝壺があった。低く小さな滝だ。けれど、水は絶え間なく落ち続け、白い飛沫を上げている。岩肌を伝う水音は、夜の静けさを塗り潰すほど大きかった。滝の裏に、小さな洞窟がある。


 外から見れば、ただ水が岩を覆っているようにしか見えない。だが、飛沫を潜ると、人が数人座れるほどの空洞があった。奥は浅い。逃げ道もない。けれど、今だけ身を隠すには十分だった。エディンが、最初に中へ入った。アルドを担いだまま、足元を確かめるように一歩ずつ進む。水で濡れた岩は滑りやすい。肩口には、アルドの血と水が混じって落ちていた。


「ここで少し止まるわよぉ」


 声はいつもの調子に近い。けれど、軽くはなかった。エディンは洞窟の奥へ膝をつき、アルドの体をそっと下ろした。アルドは目を開けない。呼吸は浅い。濡れた髪が額に張りつき、口元には乾ききらない血が残っている。緋喰刃《ひくいじん》を握っていた右手は、もう力が抜けていた。その傍らには、煤けたルカの小銃と、ゴードから外した黒豹の隊章も置かれていた。


「アルド」


 ルシアンがすぐに横へ滑り込む。濡れることも、冷たい岩に膝をつくことも気にしなかった。左手をアルドの胸元に重ねる。指輪に、弱い光が灯った。光は揺れていた。滝の水音に震えるように、淡い輪が何度も崩れる。


「……お願い」


 ルシアンは小さく言った。誰に向けた言葉か、自分でも分かっていないようだった。


「止まって……」


 指輪の光が、アルドの体へ沈む。けれど、深くは届かない。ルシアンの肩が小さく震えた。魔力も体力も、もう底をついている。それでも手を離さない。離せば、その瞬間に何かが終わってしまう気がしていた。セレスが隣に座った。濡れた布を絞り、アルドの口元の血を拭う。それから、ルシアンの手元を見た。


「布、替えるね」


 ルシアンは頷くこともできなかった。セレスは返事を待たず、裂いた布を差し出す。動きは静かだった。慌ててはいない。だが、指先には力が入りすぎていた。


「ルシアン、手、震えてる」


「大丈夫」


「大丈夫って言わなくていい」


 セレスは、少しだけ声を柔らかくした。


「今は、誰も大丈夫じゃない」


 ルシアンの唇が、何かを言おうとして動いた。けれど、声にはならなかった。ノルは洞窟の入口近くに座っていた。翠穿《すいせん》を膝に置き、滝の水越しに外を見ている。水の膜の向こうは歪んで見えた。木の影も、月の光も、追っ手の姿も、すべてが揺らいでいる。


「見えるか」


 レイスが低く聞いた。


「見えない」


 ノルは短く答える。少し置いて、続けた。


「音も、滝で潰れる」


「追われているかどうかも分からないな」


「うん」


 ノルは銃を抱え直した。


「でも、来たら撃つ」


 その声は平らだった。強がりにも、勇ましさにも聞こえない。ただ、そうするしかないという声だった。レイスは洞窟の壁に背を預けた。立っていようとして、途中で諦めたように腰を下ろす。濡れた岩の冷たさが背中に染みた。だが、今はそれすら遠い。目の前には、意識のないアルド。治癒魔法を続けるルシアン。それを支えるセレス。入口を見ているノル。アルドの血で肩を汚したエディン。


 それだけだった。レイスは、一度だけ目を閉じた。閉じれば、足りないものが浮かぶ。入口を塞ぐ盾がない。誰も言わなくても、そこに立ってくれる背中がない。こんな沈黙に耐えきれず、わざと明るい声を出す少年もいない。滝の音だけが、空いた場所を埋めていた。


「レイスちゃん」


 エディンが呼んだ。レイスは目を開ける。


「何だ」


「休みなさいなぁ」


「休んでいる」


「壁に寄りかかって睨んでるのは、休んでるって言わないのよぉ」


「なら、何だ」


「倒れる準備」


 レイスは返さなかった。返す気力がなかった。エディンはそれ以上、軽口を続けなかった。洞窟の入口へ視線を向け、滝の向こうを見ている。普段なら笑っているはずの横顔に、柔らかさはほとんど残っていない。ルシアンの指輪が、また弱く光った。アルドの呼吸が少しだけ深くなる。


 ルシアンはその変化に気づき、息を止めるようにして見守った。だが、アルドの瞼は動かない。意識は戻らない。


「……まだ」


 ルシアンが呟く。


「まだ、足りない」


「ルシアン」


 レイスが言った。


「今は、繋げ」


 ルシアンが顔を上げる。


「治せじゃない。繋げ。朝まででも、一刻でもいい。今は、それでいい」


 その言葉に、ルシアンの表情が一瞬だけ歪んだ。それでも、ルシアンは頷いた。


「……分かった」


 指輪の光が、再び淡く灯る。セレスが布を替え、アルドの体を冷やしすぎないように濡れた外套をずらした。ノルは入口から目を離さない。エディンは片手を大剣の柄に添えたまま、静かに水音を聞いている。それ以上、誰も話さなかった。滝の音に隠れるように、それぞれが自分の役目だけを続けた。アルドは、最後まで目を覚まさなかった。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き明日の20時頃更新予定です。

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