↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/160

黒灰の外套

 林の中を、足音が裂いていく。湿った草が踏み潰され、低い枝が肩を打ち、夜露を含んだ葉が頬を掠めた。誰も文句を言わない。息を整える余裕も、後ろを振り返る余裕もなかった。走る。ただ、それだけだった。先頭をレイスが走り、少し後ろにノルとセレスが続く。ルシアンは何度も後ろを振り返り、そのたびに唇を噛んだ。エディンは足音を殺すように、列から少しずれた位置を走っている。


 そして、最後尾にアルドがいた。緋喰刃《ひくいじん》を握る右手は、もう上がっていない。肩が上下するたび、胸の奥で何かが軋むような音がした。さっきの戦いで受けた初撃が、まだ体の芯に残っている。そこへ重ねるように、何度も攻撃を受けた。足は動いていた。だが、それだけだった。


「アルド」


 ルシアンの声に、アルドは返事をしなかった。返せなかった。喉の奥が熱くなる。次の瞬間、アルドの体が大きく揺れた。


「っ、が……!」


 吐き出された血が、暗い草の上に散った。走っていた足が止まる。膝が折れ、アルドは片手を地面についた。緋喰刃の切っ先が土を削り、湿った匂いが跳ね上がる。


「アルド!」


 ルシアンが駆け寄った。レイスが振り返る。ノルが即座に銃口を林の奥へ向け、セレスが短剣を構えた。エディンは一歩遅れて止まり、何も言わずに周囲へ視線を流す。


「止まるな……」


 アルドが掠れた声で言った。だが、その言葉は途中で崩れた。口元からまた血が垂れ、肩が落ちる。


「喋らないで」


 ルシアンは膝をつき、アルドの胸元に手を当てた。左手の指輪に、淡い光が灯る。けれど、その光は弱かった。いつものように澄んだ輪を描かない。震え、滲み、すぐに崩れる。ルシアンの額にも汗が浮いていた。呼吸は浅く、指先はわずかに震えている。


「……っ」


 ルシアンはもう一度、魔力を込めた。指輪が光る。しかし、治癒魔法はアルドの傷へ届く前にほどけた。


「ルシアン、無理をするな」


 レイスが言う。


「でも」


「お前も限界だ」


 ルシアンは答えなかった。答えずに、もう一度手を重ねた。アルドの体を支えながら、どうにか呼吸だけでも整えようとする。その横顔には、焦りだけではないものがあった。恐怖だった。これ以上、誰かが崩れることへの。ノルが短く息を吐く。


「足、止めすぎ」


「わかってる」


 レイスは低く返した。だが、わかっていても動けない。誰もが限界だった。夜骸《やがい》との戦闘で魔力を削られ、体力を削られ、傷を負った。勝った。確かに勝った。だが、その勝利は第一部隊から余力というものを根こそぎ奪っていた。そして、失ったものは余力だけではない。林は静かだった。静かすぎた。虫の声もない。風に揺れる葉の音だけが、暗闇の上を薄く撫でていく。


 アルドが、わずかに顔を上げた。


「……行け」


「行ける状態じゃないでしょ」


 ルシアンの声が震えた。


「俺はいい」


「よくない」


 その言葉だけは、強かった。アルドの視線が一瞬だけルシアンを見る。そこに何かを返す前に、夜が動いた。誰も気づかなかった。レイスも、ノルも、セレスも、ルシアンも。アルドの背後。木の影と闇の境目から、一本の短剣が滑り出ていた。黒い刃が、音もなく首筋へ迫る。あと指一本分。その寸前。横から伸びた脚が、短剣の主を蹴り飛ばした。鈍い音が林に響く。


 影は吹き飛んだ。だが倒れない。木の幹にぶつかる直前、体を捻り、片手で幹を掴み、足から地面へ降りた。土を滑った音さえ小さい。エディンが、アルドの前に立っていた。大剣は抜いていない。ただ、いつもの柔らかい笑みだけが消えていた。


「……危ないわねぇ」


 声は軽い。けれど、目が笑っていない。蹴り飛ばされた影が、ゆっくりと立ち上がった。黒灰色の外套を頭まですっぽりと被っている。顔は布のようなマスクで覆われ、目元すら闇に沈んでいた。背丈も、体格も、判然としない。右手には短剣。刃は夜を吸い込んだように暗い。セレスが息を呑む。


「今の……」


「見えなかった」


 ノルが言った。その声に、わずかな苛立ちが混じっていた。レイスが一歩、アルドの前へ出る。だが、その足はわずかに重い。いつもなら、そこへさらに厚い守りが重なっていた。誰かが一歩前に出て、何も言わずに盾を構えていた。誰かが軽口を叩きながら、死角を潰していた。今は、いない。レイスはその空白ごと、目の前の影を睨んだ。


「エディン。こいつは何者だ」


 エディンは影から目を離さなかった。


「わからないわぁ」


「わからない?」


「ええ。でも、王国にはねぇ」


 エディンの声が、少しだけ低くなる。


「表に出せないものを見た人間を、人知れず消す連中がいるって……風の噂で聞いたことがあるわぁ」


 レイスの眉が動いた。


「第三部隊とは違うのか」


「……違うわねぇ。第三部隊なら、おねぇさんが直前まで気づけないはずないもの」


 エディンは、そこでわずかに口角を上げた。笑みに見えた。だが、誰もそれを笑みだとは思わなかった。


「たぶん、もっと上よ」


 冷たいものが、林の中に落ちた。ルシアンの手がアルドの肩を強く掴む。セレスが唇を噛み、ノルの銃口がわずかに揺れる。レイスは目の前の影を見据えたまま言った。


「なら、こいつを退けて抜ける」


「レイスちゃん」


 エディンが静かに遮った。


「こいつ、じゃないわ」


 レイスの視線が、わずかにエディンへ動く。エディンは言った。


「こいつら、よ」


 その瞬間、レイスが周囲を見た。いた。木の陰に一人。低い枝の上に一人。倒木の向こうに二人。斜面の上、闇の濃い場所に三人。さらに奥にも、気配が揺れている。八。いや、十に近い。同じ黒灰色の外套。同じように顔を隠し、同じように音を殺していた。完全に囲まれている。セレスが短剣を握り直した。


「そんな……いつから」


「最初からでしょうねぇ」


 エディンが答えた。ノルが舌打ちした。


「最悪」


「同感だ」


 レイスが返す。だが、その声にも疲労が滲んでいた。戦える。まだ戦える。けれど、勝てるとは誰も言えなかった。相手が何者かもわからない。数もある。気配も読みにくい。こちらは満身創痍で、アルドは立っていることさえ危うい。ルシアンの治療も万全ではない。ノルも弾を残してはいるが、魔力の消耗が濃い。セレスの動きにも重さがある。


 背中を預ければ受け止めてくれた盾はない。死角へ飛び込み、敵の目を奪っていたルカもいない。誰も口を開かなかった。黒灰色の外套たちは動かず、逃げ道だけを潰している。アルドが、ルシアンの腕の中で息を吸った。


「……エディン」


「なぁに、アルドちゃん」


「こいつらの注意を逸らせたら、逃げ切れるか」


 エディンはすぐには答えなかった。林の暗さを見る。敵の配置を見る。残った仲間の傷を見る。アルドを見る。


「半々ね」


「十分だ」


 レイスがアルドを睨む。


「アルド」


 アルドは、ゆっくりとルシアンの手を外した。


「立たないで」


「立つ」


「アルド」


「ルシアン」


 名前を呼ばれて、ルシアンが言葉を失う。アルドは膝に力を込めた。血が喉に絡む。視界の端が白く滲む。それでも、緋喰刃を杖代わりにして立ち上がった。立っている。それだけで、もう無茶だった。レイスが一歩近づく。


「お前、何をする気だ」


 アルドは答えず、周囲を見た。レイス。ルシアン。ノル。セレス。エディン。もう、それだけだった。


「お前ら、用意しろ」


 声は掠れていた。それでも、その場の全員に届いた。ノルが銃を下げ、走る姿勢に移る。セレスがルシアンの位置を確認する。レイスは一瞬だけ歯を噛み、それでも従った。ルシアンはアルドを見上げたまま、指先を握りしめる。エディンだけが、静かに目を細めた。アルドの足元で、火が生まれた。小さな火ではない。呼吸に合わせて、炎が逆巻く。


 湿った草が一瞬で乾き、黒く縮れた。空気が鳴る。炎はアルドの体を包み、肩へ、腕へ、緋喰刃へ、そして背後へと広がっていく。黒灰色の外套たちが、初めて動いた。短剣が上がる。数人が同時に踏み込む。アルドの口元から、また血が落ちた。それでも、笑った。ほんの少しだけ。


「エディン」


 炎が高くなる。


「後は頼む」


 エディンが大剣の柄を握り直す。


「……任されたわぁ」


 アルドが緋喰刃を地面へ突き立てた。炎が、林を照らす。


「豪炎肆式 炎禍嵐遷《えんからんせん》」


 次の瞬間、夜が燃えた。爆発だった。アルドを中心に、赤が咲く。炎は地を這い、幹を舐め、枝を巻き、空気ごと噛み砕くように広がった。熱が一気に膨れ上がり、黒灰色の外套たちを呑み込む。ただし、仲間のいる場所だけが抜けていた。炎は、五人を避ける。まるで、そこにだけ道を残すように。


「走れ!」


 レイスが叫んだ。アルドの体が崩れる。ルシアンが反射的に手を伸ばすより早く、エディンが動いた。大剣を背へ回し、アルドの体を片腕で抱え上げる。ほとんど意識のないアルドの腕が、力なく垂れた。血の混じった息が、エディンの肩口に落ちる。


「軽くなっちゃって、嫌ねぇ」


 エディンはそう言って、笑わなかった。


「行くわよぉ!」


 ノルが先の闇へ銃口を向けたまま駆け出す。セレスがルシアンの背後を守るように続いた。ルシアンは一瞬だけアルドへ手を伸ばしかけ、それでも唇を噛んで走り出す。レイスは最後に残った。炎の縁をなぞるように、黒灰色の外套が一人、火を裂いて出てくる。短剣が低く走った。レイスは半歩だけ踏み込む。刃が届くより早く、その足が追っ手の胸元を蹴り抜いた。鈍い音がした。


 黒灰色の外套が炎の中へ弾き飛ばされる。体勢を立て直そうとする影へ、レイスは冷えた目を向けた。


「邪魔だ」


 それだけ言って、背を向ける。炎が背後で唸る。木々が赤く照らされ、林の影が暴れた。熱が背中を追ってくる。肺が焼ける。足がもつれる。誰かの息が乱れる。誰かが枝を踏み折る。それでも止まらない。止まれば、終わる。


 エディンはアルドを担いだまま、闇の中を駆けた。普段の柔らかさは消えている。足音は軽いのに、速度は落ちない。片腕でアルドを支え、もう片方の手で枝を払い、迷いなく林の薄い場所を選んでいく。


「右」


 ノルが短く言う。


「倒木がある」


 セレスが続ける。


「越えて」


「はいはい、任せなさいなぁ」


 エディンは低く身を沈め、アルドを抱えたまま倒木を越えた。ルシアンが足を取られかける。セレスがその腕を掴んだ。


「大丈夫?」


「……大丈夫」


 大丈夫ではなかった。それでも、ルシアンは走った。レイスが最後尾で一瞬だけ振り返り、追撃の気配を探る。ない。まだ、ない。背後で炎がまた膨れた。追っ手の気配が一瞬、遠のく。アルドの魔法は、敵を焼き払うためのものだった。広範囲をまとめて焼き潰す、強すぎるほどの火だった。だからこそ、追っ手たちは踏み込めない。


 炎に巻かれた黒灰色の外套たちが、腕で火を払い、外套を裂き、地面を転がる。数人は炎を避けて横へ跳んだ。だが、その目が第一部隊を捉え直した時には、もう姿はなかった。赤い火だけが、林の闇を食っている。燃え上がる木々の向こう。黒灰色の外套の一人が、ゆっくりと立ち上がった。外套の端が焼け落ちている。マスクの奥で、息が低く揺れた。視線の先には、誰もいない。焦げた草。


 折れた枝。逃走の跡さえ、炎に潰されている。影は短剣を下ろした。そして、低く呟いた。


「黒豹め……」

お読みいただきありがとうございます。

引き続き毎日20時頃更新予定です。

続きが気になる!と思ってくださった方は、ぜひ【★評価】や【ブックマーク】で応援をよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。