闇に消ゆ
「ルカが……夜骸になった……」
アルドの声が、瓦礫の上へ落ちた。誰も動かなかった。半分崩れた借家。砕けた窓枠。風に揺れる、破れた淡いカーテン。
そして月明かりの下には、大級夜骸が立っている。そこにいたはずなのはルカだった。窓辺で月を見ていたルカ。呼べば少し遅れてこちらを向き、笑っていたルカ。その姿と、目の前の巨大な影が繋がらない。
セレスは流涙を握ったまま立ち尽くしていた。ルシアンは指輪を嵌めた手を胸元で握り、ノルの翠穿も銃口がわずかに下がっている。エディンは大剣を抜いていた。それでも切っ先は、まだ夜骸へ向かなかった。レイスだけが剣を構えている。その剣先さえ、僅かに揺れていた。
大級が動いた。骨と黒い肉が絡み合った腕が持ち上がる。家の梁より太い腕の先には、白い爪が幾つも並んでいた。振り下ろされる。避けなければ死ぬ。
分かっているのに、誰も最初の一歩を出せなかった。その腕の奥に、白く濁った目がある。
「下がれ!」
低い声が全員を叩いた。ゴードが前へ出る。大盾へ大地の魔力が走り、踏み込んだ足元の土が盛り上がった。直後、大級の腕が盾へ落ちる。衝撃が地面を走った。
瓦礫が跳ね、残っていた壁が軋み、窓の破片が宙へ舞う。ゴードの膝が沈んだが、大きな身体は退かなかった。
「立て!」
盾の縁が悲鳴を上げる。大級がさらに腕を押し込んでくる。
「戦え!」
ゴードは歯を食いしばり、それでも盾を下げなかった。
「俺たちは、王都討祓軍第一部隊黒豹だ!」
アルドの指が、緋喰刃を掴んだ。
「夜骸を倒す。それが俺たちの役目だ!」
盾へ流れた魔力が弾け、大級の腕が僅かに押し返される。
「立て!」
アルドが緋喰刃を抜いた。レイスの剣へ雷が走る。その音で、ようやく戦場が戻ってきた。エディンはまだ前へ出なかった。ノルとルシアンとセレス。戻りきれていない三人の前へ立ち、大剣を横に構える。
「しっかりしなさい!」
普段の甘い声音ではなかった。
「死にたいの!?」
セレスの肩が跳ねた。ノルが翠穿を上げる。ルシアンも震える手を握り直した。その頃には、周囲の通りから悲鳴が上がり始めていた。
「夜骸だ!」
「逃げろ!」
「湖側へ行くな!」
「子どもを連れて下がれ!」
宿から人が飛び出し、魚屋は屋台を捨て、子どもを抱えた者たちが石畳を走っていく。昨日まで家だった場所を中心に、キレイナ町の夜が崩れていった。大級が咆哮する。腹の奥まで押し込んでくるような低音に湖面が震え、周囲の窓が一斉に鳴った。アルドが踏み込む。
「レイス!」
「分かっている!」
剣先から雷が走った。
「雷流弐式 絡縛!」
細い雷が瓦礫に残った水気と石畳の亀裂を伝い、大級の脚へ絡みつく。黒い肉と白い骨の隙間を焼きながら縛るが、大級は止まらない。一歩踏み込まれただけで、石畳が砕けた。
「セレス!」
「分かってる!」
地咬を地面へ叩き込む。
「大流参式 泥鎖!」
水を含んだ土が鎖のように跳ね上がった。だが、ずれる。大級の脚を掴むはずだった泥鎖は脇の石畳へ叩きつけられ、それだけを砕いた。
「っ……!」
セレスは地咬を握り直した。手が震えている。目の前にいるのは夜骸だ。そう分かっている。それでも狙いを定めるたび、白い目がこちらを向く。ノルが翠穿を構えた。
三つの銃身が開き、トライアングルケースが噛み合う。
「旋風参式 三牙穿」
三発が同時に放たれた。風へ噛み合った弾丸が一本の牙となって白い眼窩を狙う。僅かに逸れた。大級の頬を掠めた三牙穿が、後方の石壁を砕く。
「外した」
ノルが呟いた。
「ノル」
「分かってる」
誰も責めていない。ノル自身がもう一度言った。
「分かってる」
アルドの緋喰刃へ火が集まった。
「豪炎参式 炎断!」
炎と風を纏った刃で瓦礫を蹴り、大級の胴へ斬り込む。黒い肉が裂ける。浅い。斬り抜く直前、腕が鈍った。アルド自身にも分かった。
「くそ……!」
裂けた肉が寄り合う。白い骨の隙間から黒い筋が伸び、炎に焼かれた傷を内側から塞いでいった。
「再生した……?」
横薙ぎの腕が迫る。
「水流参式 護水壁!」
ルシアンの前へ厚い水壁が立った。大級の腕がそのまま突っ込み、水の壁を叩き割る。飛び散った水と衝撃が後衛まで抜けた。エディンが一歩前へ入り、大剣で腕の軌道を外す。それだけで石畳が捲れ、土砂が吹き上がった。大級の背から、何本もの黒い骨が伸びる。
弓のようにしなった骨が地面へ突き刺さると、逃げる住民たちの前方へ土槍が次々と突き上がった。
「町側に行かせるな!」
レイスが剣を振る。
「雷風弐式 迅閃!」
雷を纏った風が斜めに走り、大級の進路そのものを削り取る。砕けた瓦礫が町側への道を塞ぎ、巨体が強引に向きを変えた。大級の口が開く。黒い霧が吐き出された。鼻を刺す臭いに、アルドが叫ぶ。
「吸うな!」
「旋風弐式 風槍!」
ルシアンの指輪を起点に風槍が飛び、広がる毒霧を裂く。押し戻された霧の中で、黄色い光が走った。雷。
「水地弐式 滑床!」
セレスが流涙を振る。石畳へ薄く水が走り、その下から大地の魔力が持ち上げる。地面が僅かに傾き、毒霧の中を走った雷の軌道を外した。そこへレイスが剣先を向ける。
「雷流参式 鳴瀑!」
残った水気を拾い、雷が大級の肩から腕へ流れ落ちた。黒い肉が焼ける。毒霧ごと地面へ叩き落とす。それでも、焼けた肉がもう膨れ始めていた。黒い筋が骨を引き寄せ、形を戻していく。
「戻るのが早すぎる……!」
セレスが歯を食いしばる。火が上がる。雷が走る。水と土が巨体を削り、風が毒を押し返す。そのたびに壊れたはずの肉と骨が戻る。目の前にいるものを倒すための戦いなのに、誰も攻撃へ最後まで力を乗せきれない。
その中心には、ルカだったものがいる。大級の白い目が動いた。後方。ルシアン。防御と補助を重ね、すでに足元がふらついている。肩から細い骨が伸びた。
槍より細く、爪のように尖った骨が一直線にルシアンを狙う。
「ルシアン!」
アルドが叫ぶ。ルシアンは手を上げようとした。上がらない。魔力を集める前に、白い爪が迫った。ゴードが走る。大きな肩でルシアンの身体を横へ押し飛ばした。
「え――」
転がったルシアンの前で、ゴードが大盾を構える。
「大地参式 岩塞」
大盾の前へ岩が噛み合い、厚い壁となって立ち上がった。爪が岩壁へ突き刺さる。止まらない。岩を貫く。続いて、大盾が裂けた。金属を引き千切る音の向こうから、白い爪が突き抜ける。
ゴードの身体を貫いた。誰も声を出せなかった。
次の瞬間、アルドの絶叫が夜を裂いた。
「クソォォォォ!!」
緋喰刃へ炎が爆ぜる。赤を越え、白く見えるほどの熱が刃を覆った。
「火炎肆式 緋獄!」
炎が地面を這い、大級の足元へ噛みつく。次々と火柱が立ち、巨体を赤い炎の中へ閉じ込めた。石畳が熱で割れ、黒い肉が焼ける。エディンがアルドの隣へ並んだ。頬には涙が伝っていた。
もう大剣の切っ先は迷っていない。
「どきなさい」
低い声だった。
「おねぇさん、もう手加減できないわぁ」
二人が同時に踏み込む。大級の腕が迫る。
「豪炎参式 炎断!」
アルドは炎と風の刃でそれを裂いた。その先の白い骨をエディンの大剣が砕いた。傷が戻ろうとする。戻る前に、また斬る。アルドが焼き、エディンが断つ。初めて大級の再生が追いつかなくなった。
「セレス!」
レイスの声に、セレスが地咬を握り直す。
「大流参式 泥鎖!」
今度は外さなかった。湖から引いた水が流涙から地面へ走り、土と混ざって大級の脚へ絡みつく。
「止まって……!」
泥鎖が軋む。石畳が割れる。
「止まってよ……!」
セレスは地咬を離さなかった。レイスが剣を地面へ突き立てる。
「雷流参式 鳴瀑!」
泥と水を伝った雷が大級の身体へ流れ込んだ。黒い肉が焼け、戻りかけた筋が断たれる。
「ノル!」
「撃つ」
ノルはゴードとルシアンの前に立ったまま翠穿を構えた。涙で頬が濡れている。それでも銃口は大級から外れない。
「旋風参式 三牙穿」
三発が風へ噛み合い、その中心へ雷荷を抱きながら一本の牙となって飛ぶ。狙いは膝。白い骨が砕け、黒い肉が弾けた。奥へ食い込んだ雷が再生しかけた筋を焼き、大級の脚が初めて大きく崩れる。咆哮が響いた。その前で、ルシアンはゴードの傍へ這うように戻っていた。
「ゴード、ゴード……!」
割れた盾の破片が腕へ食い込み、身体を貫いた傷から血が流れ続けている。ルシアンの指輪が光る。治癒魔法を流す。血が止まらない。
「ごめん、ごめん、私が、私が動けなかったから……!」
「止まって、お願い、止まって……!」
ゴードの目が、ゆっくりと開いた。
「ルシアン」
「喋らないでください!」
「無事か」
ルシアンの息が止まる。
「私は大丈夫、でも、ゴードが……!」
「そうか」
ゴードの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「それなら、よかった」
「よくない! よくないよ!」
それ以上、返事はなかった。ゴードの目から、光が消えた。ノルは前を向いたまま泣いていた。銃を下げない。ルシアンとゴードの前から動かない。大級はまだ暴れている。
土槍が地面を割り、口から雷を吐く。背の骨から毒霧が広がり、足元から流れた黒い水が石畳を崩していく。さらに風が巻き上がり、瓦礫を空へ持ち上げた。いくつもの骸技が入り乱れ、町の夜を引き裂く。
「水流参式 護水壁!」
ルシアンが泣きながら手を掲げた。水壁が立つ。雷と瓦礫を受け、すぐに砕ける。
「旋風壱式 追風!」
砕けた水の向こうから風が抜け、アルドとエディンの背を押した。
「雷風弐式 迅閃!」
レイスの雷風が大級の骨の隙間を裂く。
「水地弐式 滑床!」
セレスが地面を滑らせ、アルドの踏み込みに合わせて傾けた。
「豪炎参式 炎断!」
緋喰刃が腕を焼き切り、その先に残った骨をエディンの大剣が叩き割る。一歩。大級が下がった。もう一歩。踏み砕かれた石畳から黒い水が跳ねる。それでも二人は追う。
修復が追いつかない。
「レイス!」
「分かっている!」
レイスが剣を握り直す。
「雷流参式 鳴瀑!」
雷が大級の脚へ落ちた。膝が沈む。
「セレス、押さえろ!」
「やってる!」
セレスの両手が震えている。それでも流涙から水を走らせ、地咬を深く地面へ噛ませた。
「大流参式 泥鎖!」
泥の鎖がさらに伸びた。脚から腰へ。腰から胸へ。大級の身体を地面へ縛りつける。
「エディン!」
「開けるわぁ!」
エディンが駆ける。
「旋風壱式 追風!」
ルシアンの風がその背を押した。踏み込みが加速する。大剣が大級の胸を横から裂いた。黒い肉が割れ、その奥の白い骨まで断たれる。さらに奥。胸の中央に、小さな空洞のようなものが見えた。
「アルド!」
エディンが叫ぶ。すでに走っていた。開いた傷から血を流し、口元にも赤が滲んでいる。それでもアルドは緋喰刃を振り上げた。刃へ火が集まる。
「終わらせる」
誰へ向けた言葉なのかは、アルド自身にも分からなかった。
「火炎参式 緋断」
炎の刃が、大級の胸を貫いた。赤い光が夜を裂く。短い絶叫が響いた。黒い肉が崩れ始める。白い骨が割れ、修復しようと伸びた筋も炎の中で途切れていく。腕が落ちる。
脚が沈む。背から伸びていた骨が折れた。巨大な身体は、もう形を保てない。白い目が最後に一度だけ上を向く。月を見たように見えた。そのまま全身が黒く崩れた。
風が通り過ぎる。大級がいた場所には、肉も骨も残っていなかった。ルカもいない。瓦礫の中に、一つだけ小さなものが落ちている。アルドが歩いた。何度も足をもつれさせながら、そこまで行って膝をつく。
焼け焦げた小銃。泥へ半分埋まった、ルカの双銃のうち一丁だった。拾い上げる。手の中に収まったそれは、ひどく軽かった。アルドは何も言わなかった。
◇
戦いが終わった後、立っている者は全員が血と泥に汚れていた。アルドは肩と脇腹から血を流し、レイスの額にも赤い筋がある。セレスの腕には裂傷が入り、流涙と地咬には泥と黒い液が残っていた。ノルの頬は涙と煤で濡れている。ルシアンの両手は、ゴードの血で赤かった。
エディンも大剣も、黒い液と血に汚れていた。全員がゴードの前に集まる。つい先ほどまで炎と雷が飛び交っていた場所には、町の遠い悲鳴と風の音だけが残っていた。ゴードは動かない。割れた盾の傍で、大きな身体が横たわっている。
もう、誰かの前へ立つことはない。ルシアンがまた手を伸ばした。指輪に光を集めようとする。一度。もう一度。
淡い光は途中で消えた。治すものが、もう残っていなかった。
「また」
セレスが呟く。
「また、守れなかった」
誰も否定できなかった。ルカはいない。ゴードも動かない。湖の見える家は崩れた。しばらくして、レイスが顔を上げた。
「逃げるぞ」
セレスがゆっくり振り向く。
「え……?」
「逃げる」
レイスはもう一度言った。
「国の闇を知った以上、ここで捕まるわけにはいかない」
アルドが、手にした小銃からレイスへ視線を上げた。
「暴く。必ずだ」
それ以上、レイスは言わなかった。アルドが小銃を握り締める。ここに残れば、次に何が来るか分からない。
「動け!」
怒声にセレスの肩が震えた。
「でも、ゴードが」
「いいから動け!」
アルドは立ち上がった。
「逃げるぞ! 急げ!」
ルシアンは動けない。ノルもゴードの前から離れようとしなかった。エディンが二人の肩を掴む。
「行くわよ」
「でも」
「今は、行くの」
声は震えていた。それでも二人を立たせる。レイスが先頭へ向かう。セレスが続き、ノルは泣いたまま翠穿を抱えた。ルシアンは何度も振り返りながら、エディンに支えられて歩き出す。
アルドだけが残った。ゴードを見る。割れた盾を見る。崩れた家を見る。風に揺れている、破れたカーテンを見る。最後にゴードの傍へ膝をついた。
肩へ手を伸ばす。黒豹の隊章を掴んだ。布が裂ける。剥がしたゴードの隊章を、アルドは強く握った。
「……すまない」
返事はない。アルドは隊章を懐へ押し込み、立ち上がった。月は白かった。湖は静かなままだった。
その夜。
王都討祓軍第一部隊黒豹は、キレイナ町から姿を消した。ルカの小銃と、ゴードの隊章を抱えたまま。
お読みいただきありがとうございます。
第3章完結になります。まだまだ続きますので引き続きよろしくお願いします!
今後も変わらず20時頃更新になります。
続きが気になる!と思ってくださった方は、ぜひ【★評価】や【ブックマーク】で応援をよろしくお願いします!




