ルカ
キレイナ町に来てから、さらに数週間が過ぎた。湖の見える借家は、もう完全に第一部隊の生活の場所になっていた。台所にはルシアンとセレスが並べた調味料の瓶があり、棚の奥にはノルに見つかっていないはずの菓子が隠されている。裏手の物置には武器と予備装備が整えられ、玄関脇にはゴードが直した古い椅子が置かれていた。エディンが選んだ淡い色のカーテンには、朝になると湖からの光が柔らかく透ける。窓を開ければ魚屋の呼び声が入り、子どもたちの笑い声や、石畳を鳴らす荷車の音が聞こえた。
穏やかな町だった。穏やかな家だった。ただ、二階の奥の部屋だけは、少しずつ違う時間を持つようになっていた。ルカは窓辺の椅子に座っていた。日中は湖を見るでもなく、部屋を見るでもなく、ただ右目を開けている。
「ルカ」
ルシアンが呼ぶ。少し遅れて、顔が動いた。目が合う。ルカは、にっこりと笑った。前と同じ笑顔だった。そう思いたくなるほど、穏やかな笑顔だった。
「お茶、飲める?」
ルシアンが小さな杯を持ち上げる。返事はない。ルカはルシアンを見たまま、もう一度笑った。それから、ゆっくりと窓の外へ顔を戻す。昼の湖が陽を返している。その光を見ているようで、見ていない。
ルシアンは杯を持ったまま、唇を軽く噛んだ。
「ルカ」
今度はセレスが近づく。返事はない。肩へそっと手を置く。
「ルカ」
触れられて、ようやくルカが振り向いた。右目を少し細める。笑う。それだけだった。
「……うん」
セレスは小さく頷いた。何に対して頷いたのか、自分でも分からない。
「今日は暖かいよ」
そう言うと、ルカはまた窓の外へ顔を戻した。
◇
夜になると、変化はもっとはっきりした。ルカは月を見ていた。眠ることも忘れたように窓辺へ座り、白い月を見上げている。名前を呼んでも反応しない。水を勧めても、薬を見せても返事はない。手へ触れ、肩へ触れ、もう一度名前を呼ぶ。
そこでようやく少しだけこちらを見る。笑う。そして、また月を見る。暴れない。誰かを襲うこともない。物を壊さない。
怒鳴らない。ただ、遠くなっていった。呼んでも届かない場所へ、静かに沈んでいく。第一部隊は交代でルカを見守った。昼はルシアンとセレスがつくことが多く、ノルは食事や水がどれだけ減ったかを確認した。ゴードは夜の見回りを増やし、エディンは以前ほど冗談を言わなくなった。
アルドは、それでも普段と同じように話しかけ続けた。レイスは記録した。食堂の机には、いつの間にか何枚もの紙が置かれている。月を見る時刻、呼びかけへの反応、食事量、睡眠時間、魔力の乱れ、視線の動き、誰が付き添っていたか。一つずつ、レイスの整った字で残されていた。
◇
ある夜。食堂には、ルカ以外の全員が集まっていた。二階の奥の部屋では、ルカが目を閉じている。眠っている。そう言い切れる者は、もういなかった。
「おかしい」
最初に言ったのはノルだった。机の端に並べられた記録を見ている。
「国の説明と違う」
ルシアンが顔を上げた。
「……暴れないってこと?」
「うん」
ノルが頷く。
「月酔い患者は末期になると暴力的になる。身内に危害を加える。だから安全のために国が引き取る。そう聞いてる」
「でも、ルカは何もしてこない」
セレスの声は小さかった。
「ずっと月を見てるだけ」
「そうねぇ」
エディンが椅子の背へ身体を預ける。
「触っても怒らないわぁ。声をかけても笑うだけ。むしろ静かすぎて、そっちの方が怖いくらいよぉ」
ゴードも腕を組んだまま言う。
「危害を加える様子はない」
「今は、な」
レイスは記録から目を上げなかった。
「今はそうだ。だが、国の説明が完全に間違っているとは限らない。これから暴れる可能性もある」
「でも、違う可能性もある」
ノルが返す。レイスは否定しなかった。
「ああ」
短く答える。
「違う可能性もある」
アルドは窓の外へ目を向けた。夜の湖へ細い月明かりが落ちている。
「国は何か隠してる」
誰もすぐには返さなかった。
「そこまでは、もう間違いないだろ」
「問題は、何を隠しているかだ」
レイスの指が、記録の端を押さえる。
「月酔い患者は国へ引き取られた後、帰ってこない。遺体も戻らない。残るのは、国が最期まで看取るという説明だけだ」
「嘘だと思う?」
ルシアンの声が僅かに震えた。レイスは少し黙った。
「分からない」
セレスが顔を上げる。
「レイスが分からないって言うの、珍しいね」
「分からないことを、分かったように扱う方が危険だ」
それだけ言うと、レイスは再び記録へ目を落とした。アルドが椅子から立ち上がる。
「俺、上見てくる」
「交代にはまだ早い」
「分かってる。ただ見てくるだけだ」
そのまま階段へ向かった。食堂には短い沈黙が残る。やがてレイスも記録をまとめ、留帳を持って自室へ戻った。
◇
借家の二階。湖とは反対側にあるレイスの部屋には、机と椅子、それに本部から持ってきた書類箱が積まれていた。窓は閉じている。わずかに湖の匂いが入り込んでいたが、部屋の中では紙と古い木の匂いの方が濃い。レイスは机の前へ座った。目の奥が重い。
肩も固い。ここ数週間、まともに休んだ記憶がなかった。それでも机の上から目を離せない。留帳を開く。指先で紙面をなぞると、何もなかった頁へ薄い灰色の文字が浮かび始めた。日付、場所、記録者。短い報告には、旧材木道、中級夜骸一体、低級七体、低級による中級への捕食行動、中級による低級の捕食、捕食後の形態変化とある。
少し前の自分の筆跡だった。レイスはその文字を追う。低級が中級を喰おうとした。中級が低級を喰った。そして、変わった。
巨大になったわけではない。むしろ身体は小さくなった。余分なものを削ぎ、速くなった。こちらの配置を見るようになった。負傷している者を選ぶようになった。あれは、ただ暴れただけではない。
変化していた。レイスは頁の端へ指を滑らせる。文字が沈み、次の記録が浮かんだ。月酔い患者、国への引き渡し、帰還例なし。正式な任務記録ではない。任務の合間に聞いた話。
療養院で耳へ入った断片。古い報告書の余白。誰かが何気なく口にした言葉。小さな点として残していたもの。月酔い患者は末期に近づけば国へ引き渡される。暴力的になり、家族や周囲へ危害を加える可能性があるため。
国が最期まで看取る。そう説明されている。そう説明されているだけだ。レイスの指が止まった。なぜ、帰ってこない。遺体も。
最期を見た者の証言も。何も戻らない。国が何かを隠している。そこまではもう疑っていない。問題は、何を。死因か。
扱いか。場所か。それとも。レイスはもう一度、旧材木道の記録を浮かべた。低級が中級を喰おうとした。中級が低級を喰った。
捕食後、変化した。夜骸は喰う。喰って、変わる。なら、人を襲う理由は何だ。ただ殺すためなのか。夜骸は、人を喰う。
喰うことで何かを得ている可能性がある。レイスの喉が小さく鳴った。顔から血の気が引いていく。そんなはずはない。そう思いたかった。だが、これまで別々だった記録が並ぶ。
捕食と変化。帰ってこない月酔い患者。そして、今この家の二階にいるルカ。暴れない。誰も襲わない。
ただ月を見る。呼べば、少しだけこちらを向いて笑う。また月を見る。国が説明している末期の月酔いとは違う。少なくとも、今のルカは違う。なら。
国が恐れているものは何だ。暴力ではないとしたら。身内への危害ではないとしたら。留帳を押さえる指に力が入った。月酔いの末期。帰ってこない患者、人を喰う夜骸、喰って変わる夜骸。
もし、夜骸が人から生じるものだとしたら。もし月酔いの終わりが、死ではなく変化なのだとしたら。レイスの眠気が消えた。
「……まさか」
小さな声が漏れる。まだ仮説だ。証拠はない。ただ、繋がったように見えているだけかもしれない。それでも留帳の上では、今まで別々に記してきた言葉が同じ場所へ集まっていた。
月酔い、遺体、捕食、形態変化、夜骸。
◇
その頃、ルカは二階の奥の部屋で月を見ていた。窓は開いていない。それでも白い月の光はカーテンを通り、床へ落ちている。ルカは椅子へ座ったまま、顔を上げていた。右目は月だけを見ている。
湖の光も、町の灯りも、もう映してはいなかった。その白さの中で、別の夜が浮かんだ。
◇
ルカは王都で生まれた。特別に貧しい家ではなかった。裕福というほどでもない。それでも食べる物に困ったことはなく、寒い夜に震えた記憶もない。父は王都の倉庫管理を手伝い、母は近所の仕立て屋で働いていた。この世界の多くの子どもたちと比べれば、恵まれていた。
家には、少し古い本が何冊もあった。ルカは文字を覚えるのが早かった。難しい言葉もすぐに覚えた。近所の子どもたちは最初、それを面白がった。
「ルカ、これ読める?」
「読める」
「じゃあこれは?」
「読める」
「これは?」
「それ、逆さまだよ」
笑い声が起こる。ルカも笑った。笑われることも、褒められることも嫌いではなかった。神童。誰かがそう呼んだ。最初は大人たちの冗談だったのかもしれない。
けれどルカは嫌がらなかった。頭がよかった。覚えも早かった。身体もよく動いた。そして、少し調子に乗っていた。ある日、近所の空き地で年上の子どもたちが模擬戦をしていた。
木の棒を剣に見立て、布を巻いた棒を槍にして、泥だらけになりながら笑っている。
「やりたいのか?」
年上の少年が訊いた。ルカは少しだけ考え、頷いた。
「うん」
「お前、まだ小さいだろ」
「大丈夫!」
「泣くなよ」
「泣かない」
渡されたのは、木の短剣だった。少年たちは笑っている。小さな子どもの相手をしてやるつもりだったのだろう。その笑いは、すぐに消えた。ルカは速かった。
振り下ろされた棒を横へ抜け、木の短剣で手首を叩く。踏み込みに合わせて足を蹴り、懐へ入ればすぐに離れた。
「痛っ!」
「ごめん」
「謝るなら蹴るな!」
「でも、隙があったから」
「生意気!」
別の少年が前へ出る。ルカは木の短剣を逆手へ持ち替えた。今度は受けずに横へずれ、踏み込んできた足を引っかけて肩を押す。少年が綺麗に地面へ転んだ。空き地が静かになった。ルカは首を傾げる。
「あれ」
「何だよ」
「もっと強いと思ってた」
「生意気!」
「もう一回!」
「今のなし!」
ルカは笑った。悪気はなかった。本当に、そう思っただけだった。それから何度も模擬戦をした。年上が相手でも、ルカはよく勝った。木の短剣と蹴り、低い姿勢。それに相手の視線や重心、隙を見るのが、最初から得意だった。
大人たちは感心した。あの子は頭がいい、動きもいい、将来は討祓軍かもしれない。そんな言葉を聞くたび、胸の奥が少し浮いた。自分は特別なのかもしれない。そう思った。
◇
十五歳になった年、ルカは試験を受けた。筆記ではほとんど迷わなかった。実技では同い年や年上の受験者に混じって動き、短剣も銃も、すでに身につけていた基礎を見せた。足の速さと反応の良さも目立った。試験官の一人が記録板から顔を上げる。
「自信は?」
「あります」
即答した。試験官が少しだけ笑う。
「言うな」
「でも、できます」
それも即答だった。結果は合格。ただし、訓練期間は通常とは違い、特例で二年。国軍訓練所で一年、通常二年を要する討祓軍訓練所を一年。その二年で、さらに伸びた。銃を覚え、近接を磨き、足の使い方を知り、仲間と動くことも身につけた。調子に乗る癖は、少しだけ残っていた。
叱られれば直そうとし、褒められれば嬉しかった。失敗すれば悔しく、強い相手と戦うのは好きだった。難しい課題を越えるのは楽しかった。そして十七歳の時、ルカは王都討祓軍第一部隊――黒豹へ入った。王都討祓軍の中でも、強い者たちが集められた部隊。初めて隊舎へ入る日、扉の前で深呼吸した。
自分はできる。そう思っていた。中へ入って、すぐに分かった。ここには、自分よりずっと先にいる者たちがいる。アルド、レイス、バルト、ゴード、ルシアン、セレス、ノル、エディン。強い人たち、怖い人たち、優しい人たち、変な人たち。
自分が特別だと思っていた場所から、さらに上へ引き上げられるようだった。
「新人か」
バルトが大きく笑う。
「ちっせぇな!」
「小さくないです」
反射的に返した。バルトはさらに笑った。
「言うじゃねぇか!」
横にいたアルドが苦笑する。
「気にすんな。あいつ、誰にでもああだから」
「はい」
「ルカだったな」
「はい。ルカです」
「無理すんなよ」
その言葉だけは、少し意外だった。頑張れでもない。ついてこいでもない。無理するな。第一部隊で最初にもらった言葉だった。ルカは胸を張る。
「大丈夫です。僕、できます」
アルドは少しだけ笑った。
「そっか」
その笑顔を、ルカは覚えていた。
◇
月が白く滲んだ。過去の光が薄れていく。笑い声も、木の短剣が打ち合う音も、初めて入った隊舎の空気も、全部が遠くなる。現実の部屋へ夜が戻った。ルカは窓辺の椅子に座っている。
その目が、白かった。月明かりを映しているのではない。白そのものが、瞳の奥から滲み出しているようだった。椅子の横にはアルドがいる。その変化にまだ気づかず、いつものように話しかけていた。
「今日はエディンがまた椅子動かしてさ。レイスが文句言ってたぞ。まあ、結局そのままになったけど」
返事はない。それも、いつものことになっていた。
「ノルは菓子の場所、また見つけてた。ルシアンが本気で困ってたな。あいつ、鼻がいいのか?」
アルドは笑った。少なくとも、笑おうとはした。
「なあ、ルカ。聞いてるか?」
ルカの顔が動いた。月を見ていた白い目が、アルドへ向く。アルドの息が止まった。
「おお、ルカ。どうした?」
返事はない。白い目だけが、自分を見ている。見ている。けれど。そこにルカがいない。
そう感じた瞬間、喉が凍った。
「え? ルカ……?」
◇
レイスの自室。机の上で、留帳の頁が震えた。二階の奥から、何かが軋む。小さな音だった。木が鳴っただけかもしれない。誰かが立ち上がっただけかもしれない。
それでもレイスは顔を上げた。椅子を蹴るように立ち上がり、机へ手をつく。
「まさか!!」
◇
アルドはルカの名を呼ぼうとした。声になる前に、ルカの口が開いた。聞いたことのない絶叫が放たれる。甲高く、細い。耳ではなく、頭の内側を引っかくような声だった。アルドが反射的に耳を塞ごうとする。
その前に、部屋の空気が爆ぜた。ルカの身体が内側から押し広げられた。骨が軋む。肉が裂ける。服が破れる。
周囲の魔力が渦を巻くようにルカへ吸い込まれ、窓が割れた。壁板がめくれ、足元の床まで軋む。アルドは動けなかった。目の前にいるのはルカだった。ルカだったものだった。だから、最初の一瞬だけ緋喰刃へ手が伸びなかった。
その一瞬で、部屋が壊れた。天井が押し上げられ、壁が裂け、窓枠が外へ吹き飛ぶ。白い目が膨れ上がる黒い影の中へ沈んでいく。腕だったものが伸びる。肩だった場所が割れる。背から白い骨が突き出す。
広がる影が、部屋の形そのものを押し潰していく。
「ルカ!」
ようやくアルドが叫んだ。巨大な影の一部が横へ振られた。それが声に反応したのか、ただ近くのものを払い除けただけなのかは分からない。衝撃がアルドを捉えた。身体が壁を突き破り、借家の二階から瓦礫とともに外へ弾き出される。地面へ叩きつけられ、息が潰れた。
視界が白く弾ける。背中が痛む。肩も脇腹も、治りたての傷も、一斉に痛みを返した。それでも、アルドは起き上がろうとした。借家が半分崩れている。
二階の奥の部屋は、内側から食い破られたように裂けていた。屋根の一部が落ち、壁が崩れ、エディンが選んだ淡いカーテンが破れて風に舞っている。その中に、巨大な影が立っていた。中級ではない。それよりも遥かに大きい。黒い肉と白い骨。
膨れ上がった胴から幾つもの骨が突き出し、長い腕のようなものが瓦礫を押し退ける。人とも獣とも呼べない形の顔には、白く濁った目が二つあった。周囲の空気まで押し潰すような圧がある。そこに、ルカの姿はなかった。
「何だ!?」
レイスが外へ飛び出してくる。続いて、セレス、ルシアン、ノル、ゴード、エディン。全員が武器を手にしていた。それでも、誰もすぐには構えきれない。半壊した家。瓦礫の中のアルド。
月明かりの下に立つ巨大な夜骸。
「大級……?」
ノルの声が僅かに漏れた。
「なんで……」
セレスが立ち尽くす。
「なんでここに、夜骸が……」
ルシアンの顔から血の気が引いていた。指輪を嵌めた手が震えている。ゴードは盾を構えたが、視線は夜骸ではなく倒れたアルドへ向いていた。エディンの顔からも、いつもの笑みが消えている。
「アルド!」
レイスが駆け寄った。アルドは瓦礫の中で身体を起こそうとしていた。口元から血が落ちる。それでも、目だけは巨大な影から離れない。
「何が起きた」
レイスが低く問う。答えられなかった。喉が震える。手も震えていた。緋喰刃へ伸びた指が、途中で止まる。夜骸がゆっくりと顔を上げた。
白く濁った二つの目が、第一部隊へ向く。
その瞬間、アルドの唇が動いた。
「ルカが……」
掠れた声だった。誰も聞き返さない。聞きたくない。それでも、アルドは言った。
「ルカが……夜骸になった……」
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