嘘と覚悟
キレイナ町に来てから、一週間が過ぎた。湖の見える借家は、少しずつ第一部隊の家になっていた。最初は空き家特有の乾いた匂いが残っていた廊下にも、今ではセレスが焼くパンや薬草、誰かが淹れた茶の匂いが混じっている。玄関脇にはゴードが運び込んだ大きな木箱が置かれ、裏手の物置にはエディンの大剣や予備の武器が収められていた。台所の棚には、ルシアンが用途ごとに分けた薬、茶葉、調味料の瓶が並んでいる。そして、ノルに見つからないよう奥へ隠された菓子。
「隠しても分かる」
朝食後、棚の前に立ったノルが言った。
「分からないで」
ルシアンが即座に返す。
「匂いがする」
「犬みたいなこと言わないで」
「菓子の匂い」
「やめて。怖い」
セレスは椅子に座ったまま笑いを堪えていた。机には焼いた卵とパン、薄く切った果物に温かいスープが並んでいる。王都の隊舎より台所も机も少し狭いが、その分だけ誰かの手や声が近かった。窓際ではエディンが茶を飲みながら、外の通りを眺めている。
「いい町ねぇ。朝から魚屋さんの声が元気だわぁ」
「昨日も言ってた」
「毎日言ってもいいじゃなぁい。おねぇさん、こういう賑やかさ好きよぉ」
「王都より明るい」
ゴードが低く言った。
「そうですね」
ルシアンも窓へ目を向ける。
「湖が近いからかな。空気が少し軽いよね」
その言葉に、ルカも顔を上げた。二階の部屋からなら湖が見える。この食堂から見えるのは、建物の隙間に覗く水面がほんの少しだけだ。
「本当に綺麗ですよね」
ルカが小さく笑う。肩から脇腹へ走った傷は、まだ完全には塞がっていない。動けば痛み、長く歩けば疲れる。それでも一週間前より、顔色は戻っていた。少なくとも、見た目には。
「今日は買い出しだったな」
アルドが椅子の背へ身体を預ける。こちらも包帯はまだ取れていないが、昨日あたりから本人は動けるつもりになっていた。
「アルドは留守番」
レイスがすぐに言った。
「なんでだよ」
「傷が開く」
「もうだいぶいい」
「フィオナ隊長から、無理をさせるなと言われている」
「ここにいないだろ、フィオナさん」
「いないから守らなくていい、という意味ではない」
アルドが少しだけ口を尖らせる。セレスが笑った。
「アルドはまだ留守番?」
「セレスまで言うのか」
「荷物持つ気でしょ」
「少しくらい」
「それが駄目なんだって」
レイスは短く息を吐いた。
「買い出しはセレス、ルシアン、ノル、エディンで行ってくれ。ゴードは家の修繕を頼む。裏口の蝶番が緩い」
「分かった」
ゴードはすぐに頷いた。
「僕は?」
ルカが顔を上げる。全員の視線が、一瞬だけ集まった。ルカはその間に気づいたのか、慌てたように笑う。
「あ、重いものは持ちません。少し歩くだけなら大丈夫です」
「傷は?」
ルシアンが訊く。
「大丈夫です」
「本当に?」
「……少し痛いです」
「正直でよろしい」
セレスが言うと、ルカは照れたように笑った。レイスはしばらく考えた。
「町歩き程度ならいい。ただし、途中で休むこと。荷物は持つな。疲れたらすぐ言え」
「はい」
「隠すな」
「はい」
「本当に?」
「……はい」
返事が、ほんの少し遅れた。気にしなければ、そのまま流れてしまう程度の間だった。アルドとレイスだけが目を合わせる。ルカはもう窓の外を見ていて、それには気づかなかった。
◇
午前のキレイナ町は明るかった。湖畔へ続く通りには露店が並び、魚や果物、焼き菓子、布、細工物が所狭しと置かれている。香辛料と焼き魚の匂いが混じる道を、人と荷車が行き交っていた。王都より道は狭い。その代わり、人の声が近い。
ルカは最初こそ遠慮がちに歩いていた。すぐ横にはルシアンがつき、少し後ろにはエディン。前を歩くセレスは買い物袋を持ち、ノルは露店に並んだ菓子を無表情で見比べている。
「ノル、それ買うの?」
「買うか考えてる」
「さっきから三軒目だよ」
「同じ菓子でも値段が違う」
「そういうところ細かいよね」
「大事」
ノルは二つの皿を見比べる。
「こっちの方が大きい」
「大きさで決めるんだ」
「大事」
ルカが小さく笑った。
「ノルさん、こっちの方が香りがいいですよ」
「食べた?」
「食べてません」
「じゃあ分からない」
「でも、見た目が」
「見た目では分からない」
「厳しいです」
店主から試食の欠片を受け取ったノルは、一口食べて少しだけ目を細めた。
「こっち」
「決まった?」
「決まった」
ルシアンが財布を出す。
「みんなで食べる分ね」
「うん」
「一人で食べない」
「分ける」
「今度こそ?」
「分ける」
今度は迷わない。セレスが感心したように頷いた。
「成長した」
「菓子は共有」
「都合いい時だけ共有にするじゃん」
話しながら通りを抜け、湖の近くまで出る。水面を渡ってきた風が髪を揺らした。遠くでは小舟がゆっくり進み、湖畔に座った子どもたちが石を投げている。水面を跳ねていく石を見て、ルカが少しだけ身を乗り出した。
「昔、あれやりました」
「石投げ?」
「はい。全然跳ねませんでしたけど」
「ルカなら上手そうなのに」
「銃とは違いますから」
ルカが笑う。
「でも、練習したらいける気がします」
「今は駄目」
ルシアンがすぐに言った。
「傷に響く」
「分かってます」
ルカは素直に頷き、また湖を見る。その横顔は穏やかだった。しばらくすると、右目の焦点が少しずつ遠くなる。水面を眺めているだけなら、おかしくはない。けれどルシアンは足を止めた。
「ルカ?」
返事がない。
「ルカ?」
「……あ、はい」
一拍遅れて、ルカが振り向いた。
「ごめんなさい。湖、見てました」
「疲れた?」
「いえ、大丈夫です」
「本当?」
「少しだけ」
セレスが近くの店を指した。
「じゃあ休もう。あそこ、座れそう」
「でも、買い出しが」
「急ぐ理由は何もないわよぉ」
エディンが笑う。
「ルカちゃん、今は座るのも任務よぉ」
「それ、最近よく言われます」
「大事な任務だからねぇ」
湖畔の店へ入り、全員で席についた。冷たい果実水を頼み、ノルは買ったばかりの菓子袋を机の中央へ置く。どうやら本当に分けるらしい。ルカは果実水を両手で持ち、少しずつ飲んでいた。
「おいしい?」
ルシアンが訊く。
「はい。すごく」
「よかった」
「ここにいると、任務中って感じがしませんね」
セレスが湖を見る。
「一応、任務なんだけどね」
「はい。でも、なんか……」
ルカは少しだけ考えた。
「家族みたいです」
誰もすぐには返さなかった。最初に口を開いたのはエディンだった。
「じゃあ、帰ったらもっと家っぽくしないとねぇ。カーテンでも替えましょうか」
「カーテンですか?」
「借家のカーテン、ちょっと地味じゃない?」
「そこ気にするんですか?」
「住む場所は気にするものよぉ」
ノルが菓子を齧りながら言う。
「台所の棚も増やした方がいい」
「菓子用?」
「共有用」
「怪しい」
ルカがまた笑った。その直後、小さく咳き込む。ルシアンがすぐに背へ手を添えた。
「大丈夫?」
「はい。ちょっと変なところに入りました」
「本当に?」
「本当です」
今度はすぐに答えた。それでも、ルシアンの手が離れるまでルカは少し俯いたままだった。
◇
その日の買い出しは、予定よりゆっくり進んだ。食料、布、日用品、薬草、掃除道具。そしてエディンは、本当にカーテンを買った。淡い色の布で、湖から入る光に透かすと少しだけ明るくなる。
「明るすぎません?」
セレスが訊く。
「いいのよぉ。暗い部屋よりずっといいわぁ」
「任務拠点っぽくないですね」
「家っぽいでしょ」
そう言われると、誰も強く反対できなかった。夕方前に借家へ戻ると、アルドとゴードが裏口の修繕を終えていた。アルドは自分も手伝ったと言い張ったが、ゴードがすぐに訂正する。
「座って見ていた」
「指示はしましたよ」
「一度だけ」
「十分だろ」
「十分ではない」
奥からレイスまで出てきた。
「書類整理の邪魔もしていた」
「それは違う。話しかけただけだ」
「邪魔だ」
「今日みんな俺に厳しくないか?」
「怪我人が動きたがるから」
買い物袋を置いたルシアンに言われると、アルドは口を閉じる。
「ルシアンには弱い」
ノルが言った。
「二回目だぞ、それ」
「事実」
家の中に声が重なる。新しいカーテンが窓へ掛けられ、台所の棚には買ってきた瓶が並んだ。玄関には掃除道具が置かれ、ゴードが大きな水桶を運ぶ。セレスは二階の窓を開け、エディンは勝手に椅子の位置を変え始めた。
「そこだと動線が悪い」
レイスが指摘する。
「でも、こっちの方が湖が見えるわよぉ」
「……」
レイスは窓と椅子を見比べた。結局、何も言わなかった。夜になる頃には、借家はまた少し第一部隊の家に近づいていた。
◇
夕食は、買ってきた魚と野菜にパン。セレスが味を整え、ルシアンが皿を並べ、ノルは先ほど買った菓子を食後用だと主張している。ルカも軽い皿を運ぼうとしたが、レイスに止められた。
「また座る任務ですか」
「そうだ」
「僕、座るの上手くなりそうです」
「いいことだ」
レイスは真面目に答える。ルカが笑った。食事が終わる頃には、少し疲れた顔をしていた。本人は何も言わなかったが、階段を上がる足取りは朝より明らかに重い。ルシアンが付き添い、傷の様子を見てから一階へ戻ってきた。
「眠った?」
アルドが訊く。
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「目は閉じてた。でも……」
ルシアンは少し言葉を止めた。
「眠れてるかは、分からない」
食卓の空気が変わった。昼間まで続いていた家の音が遠のく。机には茶が残り、菓子の袋も開いていたが、誰も手を伸ばさない。アルドは椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。やがて顔を上げる。
「話す」
誰も聞き返さなかった。何の話かは分かっていた。
「ルカを引き渡すつもりはない」
最初の一言で、逃げ道を塞いだ。ルシアンが息を呑み、セレスの指が机の下で動く。ノルは表情を変えない。ゴードは腕を組んだまま聞き、エディンもいつもの笑みを消していた。レイスだけが真っ直ぐアルドを見る。
「分かって言っているのか」
「分かってます」
「月酔い患者は、末期に近づけば国へ引き渡す。それが規則だ」
「知ってる」
「規則を破るということだ」
「知ってる」
「なら、なぜだ」
アルドは机の茶へ目を落とした。もう、ほとんど湯気は残っていない。
「月酔い患者が引き取られる理由は、末期になれば暴力的になって周りに危害を加える可能性があるからだろ」
「それだけではないが、大きな理由ではある」
「なら、俺たちなら問題ない」
アルドは顔を上げた。
「ルカが暴れても、俺たちなら止められる。ルカは強い。普通の家族に任せられる相手じゃない。でも、俺たちは違う」
「アルド」
「討祓軍で一番強いのは俺たちだ」
慢心でも、勢いでもなかった。アルドはそれを前提として話していた。
「国が月酔い患者をどう管理してるのかは知らない。けど、少なくともルカに関しては、俺たちが見てた方が安全だ」
「法を無視している」
ノルが言った。
「ああ、無視してる」
「でも、筋は通ってると思ってる」
「通っていても、破っている」
「ああ」
ノルは口を閉じた。納得したわけではない。アルドも、それは分かっていた。
「月酔いで引き取られて、帰ってきた人間はいない」
ルシアンの肩が僅かに揺れる。
「それが何を意味するか、俺たちは知らない。知らないけど、たぶん……最後は衰弱して死ぬんだろ」
誰も否定しなかった。否定できる材料がなかった。
「だったら」
アルドの声が低くなる。
「残りの時間くらい、自由に生きてほしい。湖を見て、飯を食って、菓子の取り合いして、怒られて、笑って。そうやって過ごしてほしい」
ルシアンの目に涙が溜まり、セレスは唇を噛んだ。
「ルカが死んだら」
アルドは続けた。
「任務で死んだことにする」
誰も動かなかった。
「アルド」
レイスの声が一段低くなる。
「分かってる。最低だってことは」
「分かっているなら」
「それでルカが、最後まで不自由なく生きられるなら」
アルドはレイスを見る。
「俺はその罪を背負う」
夜風に、古い借家の壁が小さく鳴った。
「もし露見したら?」
レイスが訊く。
「俺が責任を取る」
「どう取る」
「死刑でも何でも受ける」
ルシアンが顔を上げた。
「アルド」
「お前たちは知らなかったことにする。俺が勝手にやった。隊長命令で従わせた。そう言う」
「バカか、お前は」
レイスの声が鋭く落ちた。アルドは黙る。
「さすがのローグ様でも、お前の首一つで手打ちにできる話ではない。国の重要な法を破るんだ。第一部隊全体が問われる」
「だから」
「それに」
レイスが遮る。
「そもそも、お前一人で月酔いのルカを隠し通せるわけがない」
アルドの表情が僅かに歪んだ。
「最低でも、俺とお前の二つの首がいる」
「レイス」
「隊長と副隊長だ。責任の所在としては、それが最低ラインだ」
「お前にはミリナがいるだろ」
アルドの声が少し荒くなる。その名が出た瞬間だけ、レイスの目が揺れた。すぐに戻る。
「王都の療養院は優秀だ。少しずつではあるが、快復に向かっている」
「そういう話じゃない」
「金も残してある。少なくとも回復までは持つ。そのあと足りなくなれば、ドランさんが煤鳩亭で雇ってくれるだろう。あそこなら無理はさせない」
「レイス」
「そういうことだ」
レイスは静かに言った。
「責任は、隊長と副隊長で取る」
「そんなこと」
「お前が一人で背負おうとするなら、俺は止める。止めても聞かないなら、同じ場所に立つ」
アルドは何も返せなかった。
「あんた達に死なれるのは困る」
ノルが言う。声はいつもと変わらない。机に置いた指先だけが白くなっていた。
「ミリナが一人になるのも駄目。第一部隊には、隊長も副隊長も必要」
「ノル」
「だから反対」
ノルはアルドを見る。
「討祓軍の人間として、規則は破れない」
まっすぐだった。
「それに、ルカがそんな結末を望むとは思えない」
ルシアンが目を伏せる。セレスも何も言えなかった。ルカなら。自分のために仲間が法を破り、命を差し出す覚悟をしていると知ったなら、きっと喜ばない。自分を責める。誰に説明されなくても、それだけは分かった。
「私も……分からない」
セレスが言った。
「ルカを引き渡したくない。そんなの嫌に決まってる。でも、何が正しいのか分からない」
膝の上で両手が握られる。
「隠すのが正しいのか、規則に従うのが正しいのか。ルカのためって何なのか、分からない」
誰も責めなかった。ルシアンは目元を拭う。
「私は、アルドの覚悟を認めたい」
アルドが顔を上げる。
「ルシアン」
「怖いよ。正しいかも分からない。でも、ルカを連れていかれるのは嫌」
声は震えていた。
「知らない場所で、知らない人たちに囲まれて、私たちの声も届かないまま終わるなんて嫌」
それでも言葉は止まらない。
「最後になるかもしれないなら、ルカにはここで笑っててほしい。湖を見て、さっきみたいに笑っててほしい」
エディンが静かに目を伏せた。ゴードが低く言う。
「俺は、隊長の決定に従う」
「ゴード」
「考えていないわけではない」
ゴードは全員を見る。
「ルカを引き渡したくない。規則を破ることも分かる。危険もある。それでも隊長が決めるなら従う。俺は王都討祓軍第一部隊黒豹の隊員だ」
最後に、エディンが息を吐いた。
「おねぇさんはねぇ」
声はいつもの調子に近い。その奥だけが冷えていた。
「誰か一人が背負えばいい、なんて話が一番嫌いよぉ」
アルドが顔を上げる。
「決めるのはみんな。逃げるのも、隠すのも、守るのも、壊れるのも、みんなで決めるの」
「エディン」
「みんなが決めたことなら、罪だろうが、血だろうが、灰だろうが、おねぇさんは一緒に被るわぁ」
柔らかい声のまま、退かなかった。
「だからアルドちゃん。自分一人で格好つけるの、やめなさい」
アルドは何も言い返せない。レイスが全員を見た。
「これは確定事項だ」
視線が集まる。
「ルカを引き渡さないなら、必ずこの条件が付いてくる。法を破る。露見すれば処罰される。おそらく第一部隊全体が、ただでは済まない」
一度アルドを見る。
「そして、アルドはルカを引き渡すつもりがない」
アルドは否定しなかった。
「なら、決めろ」
レイスの声は冷静だった。
「反対でもいい。分からなくてもいい。従うでもいい。ただ、知らなかったふりだけはするな」
しばらく誰も答えなかった。最初はノルだった。
「反対」
短く言う。
「でも、アルドが決めるなら、ここにいる」
セレスが続く。
「分からない。でも、ルカを一人にはしたくない」
ルシアンは頷いた。
「私は、残る」
ゴードが言う。
「従う」
エディンは僅かに微笑んだ。
「一緒に被るわぁ」
最後にレイスがアルドを見る。
「俺は反対だ」
「ああ」
「今でも反対だ」
「分かってる」
「だが、もう諦める」
静かに息を吐く。
「お前に従う」
アルドは少しだけ目を伏せた。それから全員へ向き直る。
「ありがとう」
誰も返事をしなかった。礼を言われるために決めたことではない。それでも、誰一人席を立たなかった。
◇
その夜。
ルカは二階の部屋で目を覚ました。部屋は暗く、窓の外には湖が見える。昼間は明るく輝いていた水面が、今は夜の色を映して沈んでいる。遠くに灯る町の明かりだけが、細く揺れていた。ルカはしばらく天井を見ていた。眠ったはずなのに身体が重い。
傷はまだ痛む。それは分かる。けれど、痛みだけではなかった。指先が震えている。寒くない。熱があるわけでもない。
身体の奥だけが、自分のものではないようにざわついていた。
「……疲れ、かな」
小さく呟く。自分の声なのに、少し遠くから聞こえた。ゆっくり身体を起こそうとした瞬間、胸の奥が大きく波打つ。息が詰まった。喉が乾く。窓の向こうの湖が揺れた。
違う。揺れているのは、自分の視界だった。ルカは布団を握る。指に上手く力が入らない。呼吸が浅くなる。頭の奥で、何かが擦れるような音がした。
夜骸の声を聞いた時のような。旧材木道で、あの濁った土色の目に見られた時のような。背筋が冷える。
「違う」
声が漏れた。
「違う、これは……」
傷のせいだ。疲れのせいだ。慣れない町へ来たからだ。そう思おうとする。けれど、昼間のことが浮かんだ。湖を見ていた時、ルシアンの声に気づくのが遅れた。
呼ばれるまで、自分が何を見ていたのかも分からなかった。果実水を飲んだ時、一瞬だけ味が遠くなった。階段を上がった時も、ただ足が重いだけではなかった。身体ごと、どこかへ沈んでいくような感覚があった。ずっと気づかないふりをしていた。もう、それもできなかった。
これは傷のせいではない。疲れでもない。ルカは震える手で、自分の胸元を押さえた。鼓動がある。自分の中にあるはずのものが、少しずつ知らないものへ変わっていくようで怖かった。窓の外には湖がある。
昼間、綺麗だと思った。みんなに見せたいと思った。ここにいられて嬉しいと思った。だからこそ怖かった。こんなに綺麗な場所で。こんなに嬉しい場所で。
自分が壊れていくことが怖かった。
「……月酔い」
ほとんど息だけの声だった。口にした瞬間、それまで目を逸らしていたものが形を持った。ルカは誰も呼ばなかった。アルドの名も。レイスの名も。ルシアンの名も。
誰の名も呼べなかった。呼べば、それで終わってしまう気がした。布団を握る指先は、まだ震えている。窓の向こうで、湖だけは変わらず綺麗だった。ルカはその光を見たまま、掠れた声を落とした。
「バルトさん……」
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




