願いの町へ
形を変えた夜骸が地面を蹴った。先ほどまでの巨体は縮み、余分な脚も泥の瘤も、無秩序に突き出していた骨もほとんど削がれている。それでも軽くなったという印象はなかった。狼に似た胴を低く沈め、閉じた顎から牙を覗かせる。背から後方へ伸びた二本の黒い骨の下では、乾いた泥の殻の隙間から黒い筋肉が脈打っていた。
腹には、低級を喰らった時に裂けた傷が残っている。呼吸するたびに閉じきらない傷口が僅かに開き、黒い液を滲ませていた。そして、目がある。濁った土色の穴に光はない。それでも今度は、どこを見ているのかが分かった。
「来る!」
ゴードが大盾を前へ出した。夜骸は正面からぶつかってこない。低く地面を滑るようにアルドの右側へ抜け、緋喰刃が届くより僅かに早く間合いの外へ逃れた。
「速いな」
アルドが笑う。その額には汗が浮いていた。先ほど雷と前脚を受けた傷が響いているのは、誰の目にも明らかだった。
「笑うな」
レイスが言う。
「笑ってないと、ちょっと痛い」
「なら黙れ」
「だから心配しろって」
夜骸が木々の陰へ潜る。
「右」
ノルが翠穿を向け、三発を撃った。風を纏った弾丸が軌道を曲げながら木々の間へ飛び込む。しかし夜骸は着弾の直前に身体を沈め、弾は黒い骨の一本を掠めて背後の幹を削った。
「避けた」
「見てから動いてるわねぇ」
エディンが後衛の前へ出た。ルシアンとノルを背に隠す位置で大剣を下段へ構え、いつでも振り上げられるよう腰を落とす。
「セレス!」
「分かってる!」
セレスは地咬を地面へ突き立てた。
「大流壱式 泥縛!」
刃が土を噛み、魔力を受けた泥が夜骸の足元へ走る。先ほどなら絡め取れていた。だが夜骸は迫る泥を見ていたかのように横へ跳び、流れの外へ着地する。
「外した……!」
「続けろ」
レイスが横から剣を向けた。
「雷流弐式 絡縛」
細い雷が地面の水気を拾い、セレスの泥を伝って走る。そのまま夜骸の着地点へ先回りし、前脚へ絡みついた。動きが一瞬だけ鈍る。
「今!」
アルドが踏み込んだ。燃え上がった緋喰刃を振り抜くが、夜骸は正面から受けず、身体を沈めて斬撃の下へ潜る。炎は背の黒い骨を一本削っただけで、深くは入らない。直後、尾がしなった。骨と筋が束になった鞭のような尾が、アルドの傷ついた脇腹を正確に狙う。
「アルド!」
セレスが流涙を滑り込ませた。水の魔力を通すと刀身の文様が揺れ、振り抜かれた尾が刃の上を滑る。真正面から止めず、勢いの向きだけを変える。尾はアルドの腹を裂く寸前で逸れ、脇の地面を抉った。
「助かった」
「後で礼言って」
「今言った」
「雑」
セレスは地咬を引き抜く。右で流し、左で留める。二本は思った通りに働いている。問題は、その先だった。夜骸が速い。こちらの一手を見てから、次の動きを変えている。
「ルカ、前に出るな」
レイスの声が飛ぶ。ルカは中衛寄りで双銃を構えていた。本来なら敵の視線を乱すため前へ入り、撃っては抜ける位置だ。しかし今はアルドとセレスが前を押さえ、ゴードとレイスが中を支えている。後方のルシアンとノルにはエディンまでついていた。
ルカだけが、いつもより少し後ろにいる。
「分かってます」
返事が揺れた。双銃が鳴る。狙いは正確だった。肩、脚、顎へ弾が飛ぶが、そのたび夜骸は着弾寸前に身体をずらす。削れるのは泥の殻だけで、その下の黒い肉には届かない。
「当たってるのに……」
ルカの呼吸が荒くなる。夜骸の目が、ルカへ向いた。僅かな動きだった。レイスはすぐに指示を変える。
「ゴード、左を頼む」
「分かった」
「ノル、後ろから頭を狙え。ルシアンは水壁を残せ」
「了解」
「うん」
全員が動く。夜骸の視線も動いた。ルカからノルへ。ルシアンへ。その前に立つエディンへ。
前脚が土を掻く。
「来るわよぉ」
エディンが大剣を構えた。夜骸が低く駆ける。三発の弾丸が正面から迫ったが、身体を捻って二発を抜け、一発を肩へ受けながらも速度を落とさない。
「後ろは通さないわよぉ」
エディンの大剣が振り下ろされた。夜骸は着地の直前で身体を横へ折る。大剣が地面を割る脇を滑り抜け、そのまま後衛へ迫った。
「ちっ」
ルシアンが手を前へ出す。
「水流参式 護水壁!」
厚い水壁が立ち上がり、夜骸の前脚を受け止める。だが夜骸は止まらなかった。爪を水へ引っかけ、その端を足場にして身体を反転させる。狙いが変わった。中衛にいるルカ。
「ルカ!」
レイスが叫ぶ。ルカも動こうとした。足が一瞬だけ遅れる。夜骸がそこへ落ちてきた。爪が振り上がる。アルドが踏み込もうとして、傷に身体を引かれた。
セレスは地咬を地面へ突き立てる。
「大地弐式 縛杭!」
土と石の杭が突き上がり、夜骸の身体を僅かに傾けた。止まりきらない。ルカが咄嗟に腕を上げる。爪が肩から脇腹へ走った。
「っあああ!」
血が飛び、ルカの身体が地面を転がった。
「ルカ!」
ルシアンの声が震える。アルドの顔から笑みが消えた。夜骸は倒れたルカへ追撃しようとする。その前へゴードが入った。
「行かせない」
大盾が前脚を受ける。衝撃にゴードの膝が沈んだ。それでも一歩も下がらない。
「セレス!」
「分かってる!」
流涙を握る手へ力が入る。怒りに任せて振るうな。流す。留める。今、自分がやるべきことを外せば、次は誰かが傷つく。
地咬で夜骸の足元を押さえ、流涙で振るわれる尾を外へ逃がす。その正面をゴードが受け、レイスが側面へ回り込んだ。
「ノル!」
「撃つ」
三発。今度の弾丸は夜骸そのものだけではなく、避ける先を塞ぐように曲がった。一発が前脚を裂き、二発目が背の黒骨を砕く。三発目が、片方の目を撃ち抜いた。夜骸が初めて大きく怯んだ。
「エディン!」
「今度こそ、邪魔させないわよぉ」
エディンが踏み込む。
「旋風壱式 追風!」
ルシアンの風が背を押し、その速度をさらに上げた。大剣が横から首へ迫る。夜骸が逃れようと足を動かす。
「止まって」
地咬を通して、セレスが魔力を沈めた。土が夜骸の足を掴む。ほんの一瞬。それで足りた。エディンの大剣が首を半ばまで断つ。
黒い液が噴き上がり、夜骸が暴れた。尾が振り回され、背の骨が軋む。それでも倒れない。
「アルド!」
「言われなくても」
アルドが傷ついた身体を前へ出した。緋喰刃へ炎が集まる。残った片目がアルドを捉えた。今度は笑わなかった。
「終わりだ」
「火炎参式 緋断」
炎の刃が、エディンの作った傷へ重なる。夜骸の首が落ちた。遅れて胴が崩れる。泥の殻が割れ、その内側にあった黒い肉が焼け、骨の突起が土へ転がった。残っていた片目も黒い液の中へ沈む。風が旧材木道を抜けた。
「ルカ!」
ルシアンが走る。ノルもすぐに続き、エディンは大剣を収めることもせず、二人の横で周囲を警戒した。ルカは朽ちた木杭のそばに倒れていた。肩から脇腹まで深く裂かれ、腕にも傷がある。隊服へ広がった血が、そのまま下の土を濡らしていた。
意識はある。顔は白かった。
「……すみ、ません」
「喋らないで」
ルシアンが傷へ手を当てる。
「大丈夫。大丈夫だから」
指輪を通した魔力の光が手元へ集まる。
「出血、多い」
ノルが布を取り出し、すぐに傷口を押さえた。
「止める」
ルシアンの手が震えていた。エディンが肩へ触れる。
「ルシアンちゃん、息して」
「……うん」
「大丈夫。今のあなたならできるわぁ」
ルシアンは一度目を閉じて息を吸い、もう一度ルカの傷へ手を当てた。今度は震えを抑え、治癒魔法を流していく。少し離れた場所では、アルドが膝をついていた。自身も肩と脇腹から血を流している。それでも視線はルカへ向いたままだった。
「アルド」
レイスが隣へ立つ。
「分かってる」
「お前も治療を受けろ」
「分かってる」
「分かっている返事じゃない」
「後で受ける」
「今だ」
アルドが少しだけ黙る。
「……俺の判断ミスだな」
「違う」
レイスは間を置かなかった。
「今それを言うな。隊長が折れた顔をするな」
「厳しいな」
「必要なことを言っている」
「ああ」
アルドはようやく目を伏せた。
「分かってる」
◇
王都へ戻る道では、ほとんど言葉がなかった。応急処置を受けたルカはゴードが背負い、ルシアンが何度も状態を確認する。ノルはその隣で布や薬を手渡し続け、エディンは後方の警戒についた。レイスは先頭寄りで道と周囲を見ている。アルドは自分で歩いた。
肩と脇腹には布が巻かれ、顔色も悪い。それでも足を止めなかった。王都の灯りが見えた時、セレスは腰の二本へ触れた。流涙と地咬。初めて戦場で使った。流せた。
留められた。守れた場面もあった。その一方で、ルカはゴードの背で目を閉じている。セレスは二本から手を離した。帰還すると、ルカはそのまま療養院へ運ばれた。ルシアン、ノル、ゴード、エディンが付き添う。
セレスも向かおうとしたが、レイスに止められた。
「セレスは隊舎へ戻れ」
「でも」
「ルシアンがいる。ノルもゴードもいる。今は人数を増やしても邪魔になる」
「……分かった」
「それと、短剣を手入れしておけ」
レイスの視線が腰へ落ちる。
「初戦で無茶をさせた。放置するな」
セレスは少しだけ言葉に詰まり、頷いた。
「うん」
アルドとレイスは、そのまま総隊長室へ向かった。
◇
ローグレスはすでに二人の報告を待っていた。机の灯りだけが室内を照らし、窓の外は完全に夜へ沈んでいる。壁際ではジークが記録用の紙を用意していた。
「戻ったか」
ローグレスの視線がアルドの傷へ落ちる。
「その傷で報告に来るな、と言いたいところだが」
「すみません」
アルドは笑わなかった。
「先に報告します」
レイスが一歩前へ出る。
「旧材木道方面にて中級一体を討伐。途中、低級七体が乱入しました」
「低級が?」
「はい。当初は中級を守るように見えましたが、直後に中級へ襲いかかりました」
ジークの筆が止まる。ローグレスの目が細くなった。
「続けろ」
「弱った中級を低級が捕食しようとしたように見えました。しかし中級が反撃し、低級七体を捕食。その後、形態が変化しました」
「変化」
「はい。巨体から余分な部位が削がれ、動きが速くなりました。こちらの配置や負傷者を見て、狙いを変えるような動きも確認しています」
ローグレスは黙って聞く。アルドが続けた。
「ルカが負傷しました。深いです。療養院へ送っています」
「アルド」
「俺も怪我してます。後で行きます」
「今すぐ行けと言いたいが、まだ聞くことがある」
「分かってます」
ローグレスの指が机へ触れた。
「夜骸同士の捕食と、捕食後の変化か」
「初めて見ました」
レイスが答える。
「少なくとも、第一部隊で確認した範囲では」
「記録へ回す。ジーク」
「はい」
筆が再び動き始める。
「今日はそれ以上はいい。詳細は明日改めて聞く。二人とも治療を受けろ」
「はい」
アルドが頷いた。
◇
その夜、第一部隊隊舎の食堂にはルカ以外の全員が集まっていた。食事はない。机に置かれているのは、湯気の立つ茶だけだった。ルシアンの目元は赤い。ノルは椅子に座り、膝の上で手を組んでいる。エディンは壁際に立ったまま笑みを消し、ゴードも黙って腕を組んでいた。
セレスは手入れを終えた流涙と地咬を布へ包み、机の端に置いていた。泥も血も落ちている。アルドとレイスが食堂へ入る。アルドの肩と脇腹には新しい包帯が巻かれていた。
「ルカは?」
ルシアンが答える。
「命は、大丈夫。傷は深いけど、処置は間に合ったって」
「そうか」
アルドは目を伏せ、それから全員を見た。
「話がある」
食堂の空気が止まる。
「ルカのことだ」
ルシアンの指が僅かに動き、ノルが顔を上げる。エディンも壁から背を離した。
「俺は少し前から、ルカに月酔いの兆候があるんじゃないかと思ってた」
誰も声を出さなかった。
「……月酔い」
セレスが小さく繰り返す。
「ルカが?」
「まだ断定したわけじゃない」
アルドは言った。
「でも、今日の任務で疑いのままにはできなくなった」
「いつから?」
ルシアンが訊く。アルドは少しだけ黙った。
「今朝、レイスと話した」
◇
朝。セレスとルシアンが鍛冶屋へ向かい、隊舎を出た後だった。アルドはレイスを自室へ呼んだ。扉を閉めても、食堂の物音が微かに届いている。
「ルカのことだ」
「ああ」
レイスは壁際へ立ったまま答えた。
「俺も気になっていた」
「早いな」
「お前が話すとしたら、それしかない」
「だよな」
アルドは机へ片手をついた。
「朝から変だった。いや、朝だけじゃない。ここ最近、少しずつズレてる」
「任務中の判断も遅れている」
レイスが続ける。
「遅れる時と、逆に前へ出すぎる時がある。どちらも普段のルカとは違う」
「本人は隠してるつもりだろうな」
「隠せていない」
「だな」
アルドは息を吐いた。
「月酔いだと思うか」
すぐには返事がなかった。
「可能性は高い」
やがてレイスが言った。
「だが、今ここで断定するには材料が足りない」
「分かってる」
「ただの疲労や、負傷後の不調で済めばいい」
「ああ」
「そうではなかった時の準備は必要だ」
アルドの視線が机へ落ちる。
「今日の任務」
「受けるのか」
「ローグさんに見繕ってもらった。中級一体。簡単すぎず、無茶すぎない」
「ルカを見るためか」
「セレスの新武器のデビュー戦って理由もある」
「それだけではないだろう」
「……ああ」
アルドは認めた。
「ルカが、どこまで戦場で自分を保てるか見る」
「危険な判断だ」
「分かってる」
「中級相手なら、判断の遅れが傷になる」
「だから俺とお前が見る」
「それでも危険だ」
「なら、ずっと隠しておくか?」
アルドの声が低くなる。
「本人が崩れるまで、見ないふりするか?」
レイスは答えなかった。
「俺は、それはできない」
アルドが続ける。
「ルカを守りたい。でも守るために全部から遠ざけたら、たぶんあいつは壊れる」
「分かっている」
「だから、見極める」
「ああ」
「俺が前に出る。お前は全体を見てくれ」
「最初からそのつもりだ」
レイスは僅かに目を伏せた。
「ただし、アルド」
「なんだ」
「疑いが確信に変わった時、お前は笑って誤魔化すな」
アルドは答えなかった。
「ルカのために笑うのと、現実から目を逸らすのは違う」
「……分かってる」
「本当か?」
「たぶんな」
アルドは少しだけ笑った。すぐに、その笑みを消した。
◇
食堂へ戻る。アルドは朝にレイスと話したことを、必要な分だけ全員へ伝えた。
「今日、俺とレイスは見てた」
アルドが言う。
「ルカが焦ってたこと。弾が効かなくて前へ出たこと。俺が庇った後、戦場で膝をついたこと」
ルシアンの目に涙が溜まった。
「ルカは……悪くないよ」
「悪いって話じゃない」
アルドはすぐに返した。
「誰が悪いかの話じゃない。ルカに何が起きてるのか、俺たちが見ないといけないって話だ」
「ルカ、怖がってた」
ノルが小さく言う。
「ああ」
「でも、謝ってた」
「ああ」
「ずっと、自分のせいだと思う」
アルドは一度目を伏せた。
「そうだな」
誰も次の言葉を出せなかった。その時、エディンが口を開く。
「引っ越しましょう」
全員が顔を上げた。
「……何ですか?」
セレスが訊く。
「だから、引っ越しましょうって言ったのよぉ」
エディンは壁から離れ、机へ近づいた。声はいつもの調子に近い。ふざけてはいなかった。
「王都からですか?」
ルシアンが訊く。
「そう。キレイナ町」
「なんで急なんです?」
レイスが眉を寄せる。
「あら、急じゃないわよぉ。ずっと誰かさんが言ってたもの」
「誰かさん?」
ノルが顔を上げる。少しして、表情が変わった。
「あ」
「覚えてるでしょ、ノルちゃん」
「覚えてる」
ノルが頷く。
「前にキレイナ町の任務に行った時」
あの日は夜骸がなかなか現れなかった。昼間、ルカとノルとエディンで町を歩いた。湖を見て、店を回った。
「湖が綺麗だった。店も多かった。ルカが、あちこち見てうるさかった」
「あったわねぇ」
「その時、ルカが言った」
ノルは机の上の茶を見る。
「いつか、みんなでここに住みたいって」
少しの間、誰も何も言わなかった。
「……言いそう」
セレスが呟く。
「すごく言いそう」
ルシアンも小さく笑った。
「うん。ルカなら言うね」
「しかも本気で言うわよぉ」
エディンが続ける。
「王都の隊舎とか任務とか、そういうの全部忘れて、湖が綺麗だからって理由で」
「あと、食べ物がおいしいから」
ノルが付け足した。
「それも言いそう」
ゴードが低く言う。ルカは療養院にいる。月酔いの疑いも消えない。何も解決していない。それでも今、全員の頭には同じ町が浮かんでいた。アルドが立ち上がる。
「キレイナ町か」
「本気か」
レイスが訊く。
「本気だ」
「簡単な話じゃない。隊舎、任務範囲、移動、ローグ様への申請、第一部隊の扱い。全部調整がいる」
「分かってる」
「分かっている顔じゃない」
「でも、やる顔だろ」
アルドが少しだけ笑う。レイスは否定しなかった。アルドは食堂にいる仲間たちを順に見た。そして、空いているルカの席へ視線を止める。
「ルカがそう言ったなら」
静かな声だった。
「その願い、叶えるぞ」
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




