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喰らう夜

 夕方の第一部隊隊舎には、昼とは違う静けさがあった。窓から差し込む赤い光が廊下へ長い影を落とし、食堂からは片づけの音が聞こえている。外では出発の準備をするたび、馬具の金具が小さく鳴った。セレスとルシアンが戻った時には、もう全員が装備を整えていた。ゴードは盾の留め具を確かめ、ノルは翠穿《すいせん》のトライアングルケースを並べて残数を数えている。エディンは大剣を肩に乗せたまま髪を軽くまとめ、ルカは双銃の弾倉を確認していた。


「おかえりなさい、セレスさん」


 ルカが顔を上げる。


「ただいま」


 セレスは腰へ収まった二本を軽く叩いた。


「見たい?」


「見たいです」


 返事は早かった。ノルも手を止めて視線を向け、エディンは身を乗り出す。


「見せなさいよぉ」


「はいはい、見せますよ」


 セレスは少し得意げに右の短剣を抜いた。淡い水色の刀身へ夕陽が差し、刃の奥を流れるような文様が揺れる。


「潤流鉱石《うるるこうせき》の方。名前は流涙《るるい》」


「うわ……」


 ルカの右目が明るくなった。


「いい名前です。刀身の中に水が入ってるみたいですね」


「でしょ? でも入ってないんだよ」


「入ってるようにしか見えませんね」


「綺麗」


 ノルが短く言う。


「でしょ」


 続いて左側。鞘から抜かれた地脈鉱石《ちみゃくこうせき》の刃は、流涙のように光を跳ね返さなかった。琥珀色の奥へ鋼の波紋が沈み、動かしても重さだけが手元へ残る。


「こっちは地咬《ちがみ》」


 ゴードがじっと刀身を見る。


「良い重さだ」


「分かります?」


「分かる。名前も合ってるな」


 短い言葉に、セレスの頬が緩んだ。


「あらぁ、似合ってるじゃなぁい。右が水で、左が地面ねぇ」


「はい」


「いいわねぇ。ちょっと生意気なくらい綺麗」


「それ、褒めてます?」


「褒めてるわよぉ」


 隣ではルシアンが自分のことのように嬉しそうに二本を見ている。


「本当に、ちゃんと対になってる」


 少し離れたレイスだけは、刀身だけでなく柄の長さや鞘の位置、腰へ収めた時の具合まで順に確認していた。


「無理に振るなよ」


「最初にそれ?」


「最初に言うべきことだ。馴染む前に全力で魔力を通すな。鍛冶屋にも言われただろう」


「言われた」


「なら守れ」


「分かってる」


 レイスはそれで頷いた。


「見せびらかしはそこまで。行くぞ」


 扉の近くで外套を肩へ掛けたアルドが声を上げる。


「見せびらかしてない」


「顔が見せびらかしてる」


「また顔?」


「今日はずっと出てるだろ」


 セレスは言い返しかけてやめた。嬉しいのは事実だ。隠す意味もない。


         ◇


 旧材木道へ向かう頃には、空の赤が紫へ変わり始めていた。王都を離れるにつれて人の気配は薄れ、道端の草を揺らす風と、踏みしめる土の音だけが残っていく。任務地までは徒歩でもそう遠くない。だが、日が落ちれば距離の意味も変わる。背後の王都の灯りが小さくなるほど、道を挟む林は黒く沈んでいった。


 旧材木道は、かつて切り出した木を王都へ運ぶために使われていた道だ。今では草に半ば呑まれ、道端には朽ちた木杭が残っている。乾いた土の下には古い轍が薄く続き、雨で削られた溝には枯れ葉が溜まっていた。セレスは周囲を見回す。以前にも来た場所だった。


 盗賊と戦い、赤い短鎖を見つけた場所。人間を相手にした直後、夜骸まで現れた。


「嫌な場所ねぇ」


 エディンが大剣を肩へ乗せたまま言った。


「前から嫌な場所だったけど、また来ると余計にねぇ」


「夜が深くなる前に片づける」


 アルドが返す。


「標的は?」


 レイスに訊かれ、ノルが道の先にある斜面へ顔を向けた。


「音がある。大きい」


「数は?」


「一つ」


 ルカが双銃を抜き、握り直す。


「中級一体なら、いつも通りですね」


 明るい声だった。けれど、少しだけ急いでいるようにも聞こえた。


「ルカ」


 アルドが振り返る。


「前に出すぎるなよ」


「分かってます」


「ほんとか?」


「本当です」


 すぐに笑う。レイスは何も言わず、その横顔を見ていた。森の奥で枝が折れた。全員の足が止まる。暗くなり始めた木々の間で、大きな影が動いた。最初に見えた輪郭は狼に近い。


 だが、肩だけで人の背を越えていた。胴には余分な脚が生え、泥と黒い肉が絡み合った背には、鳥の骨を突き刺したような突起と土色の瘤が並んでいる。頭部も狼に似ていた。ただし顎は左右へ大きく裂け、牙の隙間から黒い液を垂らしている。目はない。それでも、こちらを捉えていることだけは分かった。


「中級だな」


 レイスの声に、アルドが緋喰刃《ひくいじん》を抜く。


「相変わらずでかいな」


「セレス」


「分かってる」


 右手に流涙。左手に地咬。水色の刃が薄闇の中で淡く揺れ、琥珀色は光らず手の中へ重さを返す。心臓が速くなった。怖さはある。それでも同時に、この二本で自分が何をできるのか確かめたい気持ちもあった。


 夜骸が地面を蹴った。巨体からは想像しにくい速度で、一気にアルドへ迫る。


「ゴード!」


「止める」


 大盾に大地の魔力を通し、ゴードが正面へ入った。巨体が盾へ激突する。重い音とともにゴードの足が土へ沈んだが、身体は下がらない。夜骸はその盾へ食らいつくように顎を開き、喉の奥へ黄色い光を灯した。


「散れ!」


 レイスの声で全員が動く。吐き出された雷が地面を裂いた。ゴードは大盾を斜めへ向け、正面から受けずに雷を逸らす。それでも衝撃は足元を走り、土が弾けた。セレスは左手の地咬を地面へ突き立てた。


「大流壱式 泥縛《でいばく》!」


 刃が土へ噛み込む。地面へ流した魔力が散らず、夜骸の足元へ集まるように走った。泥が前脚へ巻きつき、巨体が僅かに沈む。


「止まった!」


 ルカの声が飛ぶ。


「今!」


 翠穿が鳴った。三発の弾丸が軌道を曲げ、夜骸の肩と顎、背の瘤へそれぞれ食い込む。黒い肉と土色の塊が弾けたところへ、エディンが踏み込んだ。


「邪魔な脚ねぇ」


 大剣が横薙ぎに抜け、余分な脚を二本まとめて斬り飛ばす。崩れた体勢へアルドが入った。


「火炎弐式 緋裂《ひれつ》!」


 赤い炎を纏った斬撃が胴を裂く。中級が吠えた。林の空気が震え、その巨体から伸びた尾のような肉の束がセレスへ横薙ぎに走る。避けきれない。セレスは流涙を斜めに当て、水の魔力を通した。刀身の文様が揺れる。


 受け止めない。流す。肉の束が刃の上を滑り、力の向きが逸れた。セレスの身体を掠めることなく、そのまま横の地面へ叩きつけられる。


「……いける」


 左の地咬で留め、右の流涙で流す。頭の中にしかなかった二本の役割が、初めて戦いの中で噛み合った。後方ではルシアンが手を掲げる。


「旋風弐式 風槍《ふうそう》!」


 飛んだ風の槍が夜骸の胸へ突き刺さり、巨体が僅かに仰け反った。そこへルカが横から回り込む。双銃が続けて鳴った。膝、顎、背の瘤。狙いは正確だった。着地して撃ち、すぐに場所を変える動きにも大きな乱れはない。


 ただ、効きが浅い。弾は泥のような表面へ沈むが、夜骸の動きまでは止まらない。開いた穴も黒い肉が寄り集まり、すぐに塞がっていく。


「……っ」


 ルカがもう一度撃つ。また塞がる。さらに距離を詰めて背の瘤を砕いても、夜骸はこちらを向きすらしなかった。


「ルカ、距離を保て」


 レイスが言う。


「分かってます!」


 返事だけが強くなる。ルカは弾倉を替え、また別の位置へ移った。速い。けれど、以前のような余裕がなかった。撃っても止まらない。避けて、また撃つ。


 どこへ入れば自分が役に立てるのか、それを探して夜骸の周りを回っているようだった。中級が再び口を開いた。今度は喉へ光が集まらない。代わりに地面が盛り上がり、土の槍が後方のルシアンへ突き出した。


「ルシアン!」


「水流弐式 水壁《すいへき》!」


 指輪を嵌めた手の前に水の壁が立ち上がり、土の槍を受け止める。砕けた泥が水と混ざって地面へ落ちた。


 その瞬間、ルカが走った。


 夜骸の意識がルシアンへ向いたと見たのだろう。


「僕が引きます!」


「ルカ、待て!」


 アルドの声より早く、ルカは懐へ入っていた。双銃を収め、短剣を抜く。夜骸の前脚を蹴って身体を持ち上げ、そのまま肩へ駆け上がろうとする。速さだけなら、見事だった。だが夜骸の頭がルカへ向いた。目などないはずなのに、最初から来ることを知っていたように。


 裂けた顎が開く。黄色い雷光。ルカの顔から血の気が引いた。


「アルド!」


 レイスの声が飛ぶ。その時にはもう、アルドがルカとの間へ滑り込んでいた。緋喰刃へ炎を纏わせ、吐き出された雷を横から逸らす。赤い炎と黄色い光がぶつかり、耳を刺す音とともにアルドの足元が砕けた。流しきれなかった雷が左肩から脇腹へ走る。さらに中級の前脚が振り下ろされ、アルドの身体を横殴りに弾き飛ばした。


「アルド!」


 古い木杭が一本折れた。叩きつけられたアルドの背後で土が跳ねる。ルカは地面へ落ちたが、ほとんど傷を負っていない。アルドが間へ入ったからだ。


「……あ」


 ルカの口から細い声が漏れた。まだ中級は立っている。戦闘は終わっていない。それなのにルカはアルドへ駆け寄ると、その場へ両手をついた。


「ごめんなさい」


 肩が震える。


「ごめんなさい、アルドさん。僕、僕が、勝手に……」


「ルカ!」


 レイスが叫んでも、顔を上げない。涙が土へ落ちる。アルドは膝をついたまま口元の血を拭った。左肩から脇腹まで隊服が裂け、雷に焼かれた焦げ臭さが残っている。軽傷とは言えない。


 それでもアルドはルカの頭へ手を乗せた。


「気にするな」


「でも」


「何の問題もない」


「あります! 僕が――」


「生きてるだろ」


 ルカが顔を上げる。


「なら、問題ない」


 アルドは頭を軽く押した。


「謝るのは後だ。今は立て」


 唇を震わせながら、ルカは頷いた。


「……はい」


 二人と中級の間には、レイスが立っていた。剣を構えたまま、一度だけ横目でルカを見る。土へ落ちた涙。戦闘の最中なのに上がらない顔。ここ最近の遅れと、逆に前へ出すぎた動きが頭をよぎる。


 レイスは奥歯を噛む。


「セレス」


 声だけは冷静だった。


「止めろ。今すぐ」


「分かってる!」


 セレスは地咬を深く地面へ突き立てた。


「大地弐式 縛杭《ばっこう》!」


 泥と石の杭が一斉に突き上がり、中級の前脚と余分な脚、腹の下へ食い込む。巨体が暴れ、杭が軋んだ。地咬を握る左手にも重い反動が返ってくる。それでも刃は抜けない。


「ルシアン、補助!」


「うん!」


 流れた水が泥へ混ざり、杭の根元を締める。ノルの弾丸が関節を狙い、ゴードが盾で正面の突進を押し留めた。


「エディン!」


「任せなさい」


 エディンが踏み込む。大剣が首へ届こうとした。その直前、森の奥から別の影が飛び出した。一体。二体ではない。七体。


「低級……!」


 狼に似たもの、獅子に似たもの、大きな鳥を無理やり地へ這わせたようなもの。形の違う七体の低級夜骸が、一斉に中級との間へ割り込んだ。エディンの大剣が先頭の一体を斬り飛ばす。残り六体がその隙を埋め、中級を囲んだ。


「邪魔ねぇ」


 エディンが低く吐く。低級たちは牙を剥き、第一部隊へ身体を向けている。傷だらけになった中級を背後へ庇うように。


「守った……?」


 セレスの声が漏れた。


「全員、距離を取れ!」


 レイスの指示で第一部隊が下がる。ゴードは盾を向けたまま距離を取り、ノルは射線を確保できる木の根元へ移る。ルシアンはアルドとルカの前へ水壁を張り、セレスも地咬を引き抜いた。アルドが傷を押さえながら立ち上がる。


「低級七体に中級一体か。面倒だな」


「笑ってる場合か」


「笑ってないと痛い」


「なら黙っていろ」


「心配しろよ」


 レイスは返さず、夜骸から視線を外さない。ルカも双銃を握って立っていた。ただ、その指先はまだ震えている。低級たちも動かなかった。中級を囲み、こちらへ牙を向けたまま低く唸っている。次の瞬間だった。


 七体が一斉に振り返る。


「……え?」


 ルシアンの声が漏れた。低級たちは中級へ襲いかかった。牙が裂けた肉へ食い込む。爪が傷口を広げ、鳥型の嘴が背の瘤へ突き刺さる。守っていたのではない。弱った中級を狙っていた。


 喰うために。


「何、これ……」


 中級が暴れる。七体が食らいつき、黒い液が傷口から噴き出した。土と腐った獣のような臭いが混ざり、旧材木道へ広がっていく。誰もすぐには動けなかった。攻撃するのか。


 離れるのか。どちらを先に倒すのか。これまで見たことのない光景が、一瞬だけ判断を奪った。低級の一体が中級の喉へ牙を立てた。その時、中級が咆哮した。腹が大きく裂ける。


 そこから黒い触手のようなものが飛び出し、噛みついていた低級の首と胴へ巻きついた。引き込む。肉の潰れる音がした。低級の身体が歪み、そのまま中級の腹の中へ消える。セレスの息が止まった。


 中級が、低級を喰った。


「下がれ!」


 アルドの声で全員が動く。だが中級は止まらない。牙で噛み砕き、触手で捕らえ、腹の裂け目へ押し込んでいく。低級の脚が地面を掻く。翼が折れ、顎が砕ける。一体。


 また一体。七体あった影が、次々と泥と黒い肉の中へ消えた。ノルは翠穿を向けたまま撃たない。エディンの顔からも笑みが消えている。ゴードが盾越しに呟く。


「……喰っている」


「見れば分かります」


 レイスの声は硬かった。


「だが、理由が分からない」


「夜骸同士で、こんな……」


 ルシアンが指輪を嵌めた手を握り込む。


「共食いか」


 アルドも中級を見たまま動かなかった。


「目の前で見ると、気分悪いな」


 最後の低級が喰われた。音が止む。残ったのは、傷だらけの中級一体だけだった。脚は何本も失われ、背の瘤も砕けている。顎も歪み、身体のあちこちから黒い液が垂れていた。


 それでも倒れない。第一部隊も攻め込まなかった。何が起きたのかを掴むための数秒だけ、旧材木道から戦いが消える。中級が顔を上げた。咆哮。今までの声とは違った。


 空気を叩く振動が身体の奥まで入り、ルシアンとセレスが耳を塞ぐ。ノルは片膝をつき、翠穿を抱えたまま耐えた。エディンとゴードもその場で踏ん張り、レイスは剣を構えたまま目を細める。ルカだけは身体を支えきれず、尻餅をついた。顔色が悪い。呼吸も浅い。


 それでも右目だけは中級へ向いていた。アルドが前へ出る。傷ついた脇腹から血が滲み、雷を受けた肩もまともな状態ではない。それでも緋喰刃を肩へ担いだ。


「やる気満々か。上等だ」


「アルド」


 レイスの声が鋭くなる。


「分かってる」


「分かっていない顔だ」


「分かってるって」


 一歩。アルドが進んだところで、中級の身体が音を立て始めた。肉が縮む。泥の殻が剥がれ、余分な脚が内側へ引き込まれていく。背から突き出していた骨が折れ、そのまま別の位置へ組み替わった。


 巨大だった胴も小さくなる。


「……縮んでる?」


 ルシアンが呟く。弱って崩れているわけではない。地面へ垂れていた肉が巻き取られ、四肢が組み直されていく。狼に近い輪郭が強くなり、頭は低く、背からは黒い骨の突起が二本だけ伸びた。余計なものが削がれていく。最後に、目のなかった顔へ穴が開いた。


 暗い二つの穴。そこから、初めて明確な視線を感じた。アルド。傷ついたルカ。後ろのルシアンとノル。前へ立つゴード。


 一人ずつを確かめるように顔が動く。レイスの表情が険しくなる。


「……厄介だな」


「さっきより、小さい」


 ノルが小さく息を吐く。


「小さくなっただけなら楽なんだけどなぁ」


 エディンが大剣を構え直した。ゴードも盾を前へ出す。


「来る」


 ルシアンは指輪へ魔力を通す。セレスは右に流涙、左に地咬を構えた。先ほどまでとは違う。顔が動くたび、誰を見ているのかが分かる。次に誰を狙うのかまで選んでいるように見えた。


 セレスは二本の柄を握り直した。夜骸が低く身を沈める。アルドは緋喰刃を前へ向けた。


「第二幕だ」


 地面が弾けた。形を変えた夜骸が、第一部隊へ飛び込んだ。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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