水底と地脈
第一部隊隊舎の食堂には、焼いたパンの匂いが広がっていた。朝の光が窓から差し込み、低い机には湯気の立つスープと焼き目のついた肉、半分に割られた果物が並んでいる。誰かが取ろうとして、そのまま置き忘れた蜂蜜の瓶まで含めて、いつも通りの朝だった。
「セレス、今日だっけ」
ノルがパンを小さくちぎりながら言った。
「何が?」
「短剣」
「あ」
セレスの手が止まり、すぐに顔が明るくなる。
「そう。今日取りに行く」
「顔」
椅子に背を預けていたレイスが言った。
「何?」
「もう行きたそうだ」
「まだ朝ご飯食べてる途中でしょ」
「そういう顔をしている」
「みんな私の顔を見すぎじゃない?」
少し唇を尖らせたセレスに、アルドが笑う。
「分かりやすいからな」
「アルドまで」
「いいだろ。楽しみにしてたんだから」
ゴードは黙ってスープを飲んでいたが、セレスを見ると短く頷いた。
「楽しみだな」
「はい」
潤流鉱石の水色と、地脈鉱石の琥珀色。二つの箱を鍛冶屋へ預けた時の重さを、セレスはまだ覚えている。今日、それが短剣になって帰ってくる。
「ルシアンも行くのよねぇ?」
エディンが頬杖をつきながら訊いた。
「はい。私も見たいです」
「いいわねぇ。新しい武器のお迎えなんて、ちょっとした記念日じゃなぁい」
「お迎えって言うと、なんかかわいいね」
ルシアンが笑う。
「かわいいっていうより、私の武器だからね」
「でも嬉しいんでしょ?」
「嬉しい」
否定する余地もなく、セレスは即答した。その横で、ルカは皿の端に残った果物を見つめていた。手は動いているし、食べてもいる。ただ、いつもなら真っ先に「僕も見たいです」と乗ってきそうな話題なのに、今日は少しだけ遅い。
「ルカ?」
ルシアンが呼ぶと、ルカは顔を上げた。
「あ、はい」
「大丈夫?」
「大丈夫です。セレスさんの短剣、楽しみですね」
明るい声だったが、いつものように言葉が弾まない。セレスが僅かに眉を寄せると、ルカはすぐに笑った。
「完成したら見せてください。僕、そういうの好きです」
「うん。帰ったら見せる」
「絶対ですよ」
「絶対」
ルカは頷き、また果物を口へ運んだ。その向こうではノルが蜂蜜の瓶を引き寄せ、エディンが横から手を伸ばしている。
「ノルちゃん、ちょっとだけ」
「先に言えばいい」
「今言ったわよぉ」
「遅い」
「冷たいわねぇ」
食堂にはいつもの声が戻っていく。ただ、アルドとレイスだけは一瞬だけ視線を交わした。言葉はなかった。それで十分だった。
◇
朝食を終える頃には、セレスの片づけまでいつもより少し早くなっていた。
「セレス、焦りすぎ」
ルシアンが笑う。
「焦ってない」
「皿、二枚重ねるの早かったよ」
「効率」
「そういうことにしておくね」
セレスは最後の皿を置いて立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる」
ルシアンも隣へ並ぶ。
「アルド、本当に来ないの?」
「悪い。ちょっと用事がある」
アルドは少し残念そうに笑った。
「見たかったけどな。帰ったら見せてくれ」
「うん。すごく良かったら、すごく自慢する」
「そこそこでも自慢しそうだけどな」
「するかも」
セレスが笑い、アルドも笑う。レイスは腕を組んだまま二人へ目を向けた。
「寄り道しすぎるなよ」
「しないよ」
「ルシアン、止めてくれ」
「うん。頑張る」
「頑張るって何」
ルシアンが少しだけ視線を逸らす。
「楽しくなったら、止めるの大変かなって」
「ルシアンまで信用してない」
「信用してるよ。楽しみにしてるセレスを」
「それは信用してるの?」
「してる」
玄関まで出てきたアルドが片手を上げた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「ちゃんと見てこいよ」
「もちろん」
レイスも続ける。
「受け取ったら、扱い方を聞き忘れるな。魔力の通し方、手入れ、保管方法。最初に確認することは多い」
「分かってる」
「忘れたら鍛冶屋へ戻れ」
「忘れないって」
セレスが笑うと、レイスも僅かに口元を緩めた。二人が隊舎を出る。扉が閉まり、足音が遠ざかったところで、アルドの笑みが消えた。レイスも同じように表情を戻す。食堂からはノルとエディンの小さな言い合いと、ゴードが皿を運ぶ音が聞こえていた。ルカの声だけがない。
「少し話そう」
「ああ」
レイスはすぐに頷いた。
「分かっている」
二人はアルドの自室へ向かった。
◇
王都の朝は、昨日より少し涼しかった。まだ開ききっていない店先の布が揺れ、露店の主人たちは品物を並べている。水を撒かれた石畳が朝日を細く返す中を、セレスとルシアンは並んで歩いた。セレスは歩幅を抑えようとしていた。抑えようとしているだけで、あまり成功していない。
「早いよ」
ルシアンが言った。
「そう?」
「うん」
「普通じゃない?」
「いつもより二歩くらい早い」
「細かい」
「分かるよ」
ルシアンが笑う。
「楽しみだもんね」
「……うん」
もう隠す気もなく、セレスは頷いた。路地を一本曲がると鍛冶屋の煙突が見える。朝の薄い煙が空へ伸び、近づくほど鉄と炉の熱が鼻先に触れた。扉の前には、研ぎ待ちの包丁と農具が並んでいる。セレスは一度だけ息を吸った。
「緊張してる?」
「してない」
「本当?」
「ちょっとしてる」
「うん」
それ以上からかわず、ルシアンは隣にいた。セレスが扉を開ける。
「親父さん」
「お、来たか」
鍛冶屋の親父は炉の横に立っていた。腕には煤がつき、額には細かな汗が浮かんでいる。
「できてるぞ」
その一言で、セレスの心臓が跳ねた。
「ほんと?」
「嘘ついてどうする」
親父が指したカウンターには、細長い布が二つ並んでいた。勢いよく近づきたいのに、セレスの足はかえって慎重になる。親父が最初の布を開いた。淡い水色が現れる。潤流鉱石の短剣だった。
刀身は細く滑らかに伸び、水色の表面には薄い流れのような文様が幾筋も走っている。角度を変えると、その筋も刃の奥をゆっくり滑るように見えた。美しい。けれど、飾るための刃ではない。
「……すごい」
「流す刃だ」
親父は短剣を持ち上げた。
「余計な厚みは削った。水流魔法を通せば、刃の表面を滑るように魔力が走る。斬るだけじゃなく、力を流す時にも使える」
セレスはそっと手を伸ばす。
「持っていい?」
「そのために作った」
柄を受け取る。軽い。以前の短剣より手の中へ馴染み、握り込んでも指先を動かせる余裕が残っていた。親父の言っていた、角度を変えるための遊びだ。セレスがほんの少しだけ魔力を流すと、刀身の文様が淡く揺れた。魔力が引っ掛からず、刃先まで抜けていく。
「……いい」
「一つ目からそれか」
親父が鼻で笑う。
「二つ目も見ろ」
もう一枚の布が開かれた。今度は琥珀色だった。地脈鉱石の短剣は水色の刃ほど光を返さず、琥珀の奥へ鋼の波紋が沈んでいる。刃は少し厚く、台の上に置かれたままでも先ほどとは違う重さが伝わってきた。
「こっちは留める刃だ」
親父が柄を向ける。
「少し重い。刃も厚いが、動きを殺すほどじゃねぇ。受けた時に手の中で暴れないよう、柄も固めにしてある」
セレスは水色の短剣をいったん台へ置き、琥珀色を受け取った。確かに重い。けれど手首を引かれるのではなく、握った場所へそのまま居座る。振り回すためではなく、構えて受けるための重さだった。刃先を少し下げるだけで、地面へ噛みつく時の感覚まで想像できる。
「……こっちも、いい」
「語彙が減ってるぞ」
「しょうがないでしょ。いいんだから」
二本を並べてみる。片方は細く軽く、もう片方は厚く重い。形も役割も違うのに、握る位置と全体の長さは揃っていた。同じではない。それでも、間違いなく対の二本だった。
「手入れは少し気をつけろ」
親父が潤流鉱石の短剣を指す。
「こっちは魔力を流した後にそのまま放るな。乾いた布で拭いて、軽く魔力を抜け」
「うん」
「地脈の方は土や血を残すな。地面へ刺すなら特にな。使った後はきっちり落とせ」
「分かった」
「それと、最初から全力で魔力を通すな。馴染むまで何度か軽く使え」
「分かった」
「分かってる顔じゃねぇな」
「分かってるよ」
「使いたくて仕方ねぇ顔だ」
「それはそう」
親父が笑った。その少し後ろでは、ルシアンが壁際の姿見の前に立っていた。店に並ぶ細身の短剣を二振り手に取り、右を前へ、左を少し引いて鏡を見ている。首を傾げる。今度は左右を入れ替え、片足を引く。
「こっちの方が……」
最後に少し顎を引き、目元まできりっとさせた。
「ルシアン」
「ひゃっ」
セレスに呼ばれ、肩が跳ねる。短剣を落としかけて慌てて握り直すルシアンを見て、セレスは口元を上げた。
「な、何?」
「二回構えて、最後キメ顔までしてた」
「見てたの!?」
「見てた」
「説明聞いてたんじゃないの?」
「聞いてた。見てもいた」
「セレス……」
ルシアンの顔が赤くなる。親父も見ていたらしく、低く笑った。
「似合ってたぞ」
「親父さんまで見てたんですか!?」
「鏡の前でやってりゃ見える」
「うう……」
慌てて棚へ戻そうとするルシアンへ、セレスはにやりと笑う。
「ルシアンも短剣始める?」
「始めないよ」
「付き合ってくれたお礼。買ってあげようか?」
「い、いい! 買わない!」
「欲しそうだった」
「ちょっと持ってみただけ」
「キメ顔してた」
「そこは忘れて」
「無理よ」
「セレス!」
真っ赤になりながらも、ルシアンは二本を丁寧に棚へ戻した。
「でも、似合ってたよ」
「……ありがとう。でも、私は短剣じゃなくていい」
「そっか」
「うん。見てる方が好き」
「じゃあ、見てて」
セレスは新しい二本をそれぞれ鞘へ収めた。鞘も同じではない。水色の方は軽く、抜く時に手首の角度を変えやすい。琥珀色の方は少し硬く、腰へ差した時に重さがぶれない。親父は最後に古い布袋を差し出した。
「前の短剣はどうする」
セレスは少しだけ黙った。そこには、折れた二本がある。長く使った。何度も助けられた。けれど、もう戦場へ戻すものではない。
「持って帰る」
「直して飾るか?」
「ううん」
セレスは首を横に振った。
「そのままでいい。役目を終えたって分かる形のまま、持って帰る」
「そうか」
親父はそれ以上何も言わず、袋を渡した。
◇
工房を出ると、朝よりも陽が高くなっていた。腰に差した二本へ、セレスは何度も手を伸ばしそうになる。そのたび隣のルシアンが笑う。
「抜きたい?」
「抜きたい」
「ここでは駄目だよ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「また、たぶんって言った」
二人はそのまま王都を歩いた。途中で軽く食事を取り、親父から聞いた手入れの方法をセレスが何度も口にする。ルシアンは時々「それ三回目」と笑いながら、それでも最後まで聞いていた。夕方が近づいた頃、二人は鞘の細かな調整のため、もう一度鍛冶屋へ戻っていた。その作業が終わったところで扉が開く。
「終わったか?」
振り向くと、アルドが立っていた。外套を肩へかけ、腰には緋喰刃がある。
「アルド」
「どうだった?」
「すごくいい」
「それは顔見れば分かる」
「また顔?」
「分かりやすいんだよ」
アルドは笑いながら、セレスの腰へ収まった二本を見た。
「似合ってるじゃん」
セレスは一瞬だけ黙り、それから少し得意げに胸を張る。
「でしょ」
「ああ。ちゃんとセレスの武器って感じがする」
その言葉は、思ったより素直に嬉しかった。ルシアンも隣で頷く。
「本当に綺麗だよ。二本とも全然違うのに、ちゃんと対になってる」
「で、だ」
アルドは親父へ軽く頭を下げてから二人へ向き直った。
「新武器のデビュー戦にちょうどいい任務を、ローグさんが見繕ってくれた」
セレスの目が明るくなる。
「任務?」
「旧材木道方面に中級が一体。夜になれば動く可能性がある。今日のうちに潰す」
旧材木道。その地名に、ルシアンの表情が僅かに引き締まる。セレスも無意識に新しい二本へ触れた。赤い短鎖を持つ盗賊と遭遇した場所。人間と夜骸の両方を警戒しなければならない道だった。
「今から?」
「ああ。隊舎に戻って合流する。レイスたちも準備してる」
「分かった」
セレスは短剣の柄を軽く握る。片方は指先へ滑るように馴染み、もう片方は手の中へ静かに重さを返した。まだ戦場では一度も使っていない。だからこそ、今は親父に言われたことを守らなければならない。
「最初から無茶な使い方するなよ」
奥から親父の声が飛んできた。
「はい」
セレスが返す。
「ちゃんと軽く馴染ませろ」
「分かってる」
「ならいい」
アルドが外へ顎を向けた。
「行くぞ」
「うん」
セレスは頷き、ルシアンとともに工房を出た。王都の夕方は、少しずつ色を変えている。石畳の影が伸び、屋根の端に赤い光が残っていた。胸の中には、まだ新しい武器を受け取った嬉しさがある。けれど、歩き出せば少しずつ任務前の静けさも戻ってきた。
旧材木道で待っているのは、中級夜骸一体。セレスは二本の柄に一度だけ触れた。右には水底の刃。左には地脈の刃。そのまま隊舎へ向かった。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




