黒と赤と白
ルカの退院が決まったのは、あの夜から数日後のことだった。療養院の窓から見える空はよく晴れている。白い壁と薄い薬草の匂い、廊下を行き来する足音、水差しを置く小さな音。数日過ごしただけなのに、その静けさにも少し慣れてしまっていた。寝台の上から棚へ右手を伸ばし、水杯を取ろうとする。指先が空を掴んだ。
「あ」
思っていたより、少し左だった。笑って誤魔化す相手もいない病室で、ルカは小さく息を吐いた。右目だけでもう一度距離を測って手を伸ばし、今度は水杯を掴む。左目には、まだ白い覆いが当てられていた。医師からは傷口が落ち着くまで無理に触らないよう言われている。見えるようになるかについては最後まではっきり言われなかったが、ルカにはもう分かっていた。
左側の世界は、戻ってこない。水を一口飲むと、喉を通る冷たさだけが妙にはっきりしていた。扉が叩かれる。
「はい」
入ってきたのは医師と看護師だった。
「今日で退院です。ですが、すぐ任務に戻れるわけではありません」
「分かってます」
「走る、跳ぶ、撃つ、斬る。全部しばらく禁止です」
「全部ですか」
「はい。全部です」
医師は淡々と続ける。
「特にルカさんは、動けると思うと動くでしょう」
「……僕、そんなに信用ないですか?」
「療養院では、動く怪我人ほど信用されないんですよ」
「厳しいですね」
「生きて帰すためです」
言い返せず、ルカは少しだけ笑って頷いた。
「はい。気をつけます」
「しばらくは今の視界にも慣れてください。距離感がずれますし、左側から来るものに気づくのも遅れます。日常の動きですら転ぶことがあります」
「転ぶのは嫌ですね」
「嫌なら急がないことです」
「はい」
看護師が荷物をまとめてくれた。着替えと療養院で使っていた細かな布、それから処方された薬草の包み。数日しかいなかっただけあって、大した量ではない。ルカは寝台の端へ腰掛け、足を床へ下ろした。立ち上がると、世界が少しだけ傾く。
右目だけで見る部屋は、以前より狭いような広いような、まだ掴みづらい形をしていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
すぐに答えたあと、自分で少し苦笑する。
「……たぶん」
「そのくらいでいいと思いますよ」
医師が扉の方を見る。廊下が少し騒がしくなっていた。聞き慣れた足音が一つではなく、いくつも近づいてくる。ルカの顔が自然に明るくなった。扉が開く。
「ルカ」
最初に入ってきたのはアルドだった。その後ろにレイス、ルシアン、セレス、ノル、ゴード、エディン。第一部隊が病室の入口へ揃う。
「あ」
ルカは笑った。
「皆さん、本当に全員で来たんですね」
「退院だろ。来るに決まってる」
「暇だったんですか?」
「お前、退院初日にそういうこと言うか?」
「退院初日だから許してください」
「許せないな」
アルドが返すと、ルシアンが少し笑った。
「元気そうでよかった」
「はい。元気です」
「それ、どこまで信じていい?」
「七割くらいですかね」
「じゃあ三割は?」
「療養院に置いてきました」
「置いてこないで」
ルシアンの声は柔らかかった。けれど、目はルカの左側を見ないようにしている。気を遣われていることは分かった。それが嫌ではなかった。セレスが一歩前へ出る。
「歩けるの?」
「歩けます」
「ふらついたら言いなさい」
「大丈夫ですよ」
「言いなさい」
「……はい」
ノルは入口にまとめられた荷物を見る。
「少ない」
「数日ですからね」
「持つ?」
「いえ、自分で――」
「持つ」
ノルは短く言うと、荷物の一つを取った。ルカは少しだけ目を丸くした。
「ありがとうございます」
「別に」
その様子を見て、エディンがゆるく笑う。
「みんな過保護ねぇ」
「エディンさんも人のこと言えないでしょ」
「あらぁ、おねぇさんは見守ってるだけよぉ」
「一番見てますよね」
「見守ってるものぉ」
ゴードは何も言わず、ルカのそばへ立った。大きな影が左側にできる。ルカはそちらを見ようとして、見えないことを思い出した。動きが一瞬止まったが、ゴードは何も言わず、そのままルカの左側で扉の方を見ている。それだけで少し歩きやすい気がした。その間に、レイスは医師から書類を受け取っていた。
「退院後の注意事項は?」
「そこの紙にまとめてあります。薬は一日二回。傷口の布は清潔に。無理は厳禁です」
「こいつが無理をしそうになったら?」
「止めてください」
「分かりました」
レイスは紙を折って懐へしまう。ルカが苦笑した。
「レイスさん、それ僕が持つやつじゃないですか?」
「お前が持つと都合の悪いところを読まないだろ」
「そんなことしませんよ」
「その顔はする」
「ひどい」
「信用だ」
「信用の形が変じゃないですか?」
レイスは答えず、代わりにルカの足元を一度確認した。
「段差は気をつけろ。左を見ようとして身体ごと傾けるな」
「はい」
「返事だけ軽い」
「気をつけますって」
「ならいい」
医師はそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「いい仲間だな」
ルカは笑った。
「はい」
今度は迷わなかった。
◇
療養院を出ると、昼の光が眩しかった。馬車の音、商人の声、通りを走る子どもの足音、遠くの鐘。病室よりずっと賑やかな王都の音が、一度に身体へ入ってくる。ただ、左側だけは静かだった。ルカは歩幅を少し小さくする。
気づかれないようにしたつもりだったが、隣のアルドがすぐにこちらを見た。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
「今、歩き方変だったぞ」
「よく見てますね」
「見てるよ」
短く返され、ルカは一瞬言葉を失う。アルドはすぐ前へ視線を戻した。
「悪いかよ」
「いえ」
ルカは小さく笑った。
「ちょっと嬉しいです」
「そうか」
「はい」
石畳の端に小さな段差がある。右目では見えていたつもりだったが、足を置く位置がほんの少しずれた。身体が傾きかけたところで、背中へゴードの手が添えられる。強く掴むのではなく、倒れない分だけ支えていた。
「……ありがとうございます」
ゴードは頷く。
「まだ慣れてない」
「ですね」
「そのうち慣れる」
それだけだった。ルカは少し笑う。
「はい。慣れます」
◇
隊舎へ戻る頃には、少し疲れていた。それを隠そうとして、ルカはいつもより明るい声を出す。
「いやぁ、久しぶりの隊舎ですね。数日しか離れてないのに、なんか懐かしいです」
「無理して喋らなくていいわよ」
セレスが言う。
「してないです」
「してる」
ノルもすぐに返した。
「そんなに分かりやすいですか?」
「分かりやすい」
「二人がかりで言わないでくださいよ」
玄関を開ける。木の床、磨かれた装備、厨房の奥から漂う薄いスープの匂い。療養院とは違う。ここは静かでも、空っぽではなかった。
「おかえり」
ルシアンが言った。セレスも少し照れたように続く。
「おかえり」
ノルが短く頷く。
「おかえり」
エディンも笑った。
「おかえりなさい、ルカちゃん」
ゴードが低く言う。
「おかえり」
レイスは少し間を置いてから、いつもの調子で口を開く。
「ようやく戻ったな」
最後にアルドがルカの前へ立った。何か言おうとして、一度口を閉じる。それから短く言った。
「おかえり」
ルカは右目を瞬かせた。喉の奥が少しだけ熱くなる。それでも笑った。
「はい。ただいま」
◇
広間には簡単な食事が用意されていた。柔らかいパンに温かいスープ、小さく切った蒸し野菜。それから、消化に良さそうな肉の煮込みが少し。豪華な料理ではない。退院したばかりのルカが食べられるように作られた食卓だった。
席へ着くと、セレスが皿を置く。
「退院したばっかりだから、軽めよ」
「十分豪華ですよ」
「本当はもっと食べさせたいけど、ルシアンに止められた」
「セレス、療養院の人に言われたでしょ。急に重いものはだめだって」
ルシアンが苦笑する。
「分かってるわよ」
「分かってる顔じゃなかったよ」
「それ、今日よく言われますね」
ルカが笑うと、セレスの頬も少し緩んだ。
「食べられそう?」
「はい」
「無理はしない」
「はい」
「返事が軽い」
「今日、本当に皆さん厳しいですね」
「退院初日だからねぇ」
向かい側でエディンが頬杖をつく。
「今日くらいは、みんなに甘やかされておきなさいな」
「甘やかされるの、慣れてないんですよ」
「慣れて」
ノルが言った。
「命令ですか?」
「助言」
「ノルさんの助言、命令に聞こえるんですよね」
「気のせい」
小さく笑いが起きる。ルカはスープを口へ運んだ。温かい。療養院の食事も悪くはなかった。それでも隊舎で食べる味は違う。
誰かが近くにいる。誰かが食べる速さを見ている。何かあれば、すぐに手を伸ばせる距離に皆がいる。少し恥ずかしくて、それ以上に安心した。食事が半分ほど進んだ頃、ゴードが席を立った。厨房へ行くのかと思えば、広間の隅に置いてあった小さな包みを持って戻ってくる。
布で包まれた手のひらほどの箱が、ルカの前へ置かれた。
「え?」
箱とゴードを交互に見る。
「これ、僕にですか?」
ゴードが頷く。
「退院祝い」
低く短い声だった。ルカは驚いた顔のまま包みを開く。中には小さな焼き菓子が入っていた。蜂蜜と木の実の匂いがして、一口で食べられる大きさに綺麗に割られている。
「お菓子……」
「食える時に食え」
「ゴードさんが選んでくれたんですか?」
「ああ」
「もしかして、片手でも食べやすいやつですか?」
ゴードは少し黙った。それだけで答えになっていた。ルカは焼き菓子を一つ摘まんで口へ入れる。蜂蜜の甘さがゆっくりと広がった。
「……おいしいです」
「そうか」
「ありがとうございます」
ゴードが頷く。
「また買う」
「そんなに気に入った顔してました?」
「ああ」
「そっかぁ」
ルカは少し笑った。療養院で何度も作った笑顔より、ずっと自然に頬が動いた。セレスが横から箱を覗く。
「私も一つもらっていい?」
「だめだ」
ゴードが即答した。
「即答するの?」
「ルカのだ」
「一つくらいいいじゃない」
「だめだ」
ノルが小さく笑う。
「珍しい」
「ゴードさん、意外と厳しいですね」
ルカが言うと、ゴードは真面目に答えた。
「退院祝いだ」
「はい。大事に食べます」
「いや、食え」
「どっちですか」
また少し笑いが起きる。ルカは箱の蓋を閉じ、そっと自分の近くへ寄せた。その様子を見ていたアルドが、少しだけ視線を落とす。何か言おうとしてやめたのを、レイスは見逃さなかった。
「アルド」
「なんだよ」
「渡すなら今だろ」
「お前、なんで分かんだよ」
「分かりやすい」
「今日そればっかりだな」
ルカが首を傾げる。
「何ですか?」
「いや」
アルドは気まずそうに頭を掻いた。
「その……退院祝い」
「え、アルドさんも?」
「悪いかよ」
「悪くないです。びっくりしただけです」
アルドが懐から小さな包みを取り出す。ゴードの菓子箱より薄く、黒い布で包まれていた。
「これ」
ルカは両手で受け取り、包みを開いた。中に入っていたのは眼帯だった。余計な飾りのない黒地の布。その縁には細い白の線が走り、留め紐の付け根にだけ控えめな赤い糸が入っている。黒。白。
赤。第一部隊の色だった。ルカは何も言わず、指先で黒い布地へ触れた。今つけている包帯とも、療養院で渡された白い覆いとも違う。ただ傷を覆うためだけの物には見えなかった。
「……これ」
「包帯のままだと動きづらいだろ」
アルドは視線を少し逸らしたまま言う。
「それに、白いのだと目立つし。お前、そういうの気にしそうだし」
「僕、そんなに気にします?」
「するだろ」
「しますね」
「ほら」
アルドは少しだけ息を吐く。
「ルシアンとセレスにも聞いた。ちゃんと傷に触れないようにできるやつだ。療養院の人にも確認した」
「アルドさんが?」
「ああ」
ルカは笑おうとして、少し失敗した。
「嬉しいです」
誰も余計な言葉を挟まなかった。ルシアンは柔らかく笑い、セレスは腕を組んだまま少し満足そうにしている。ノルは眼帯をじっと見た。
「似合いそう」
「まだつけてないですよ」
「分かる」
エディンも頷く。
「いいじゃなぁい。黒豹の子って感じがするわぁ」
「エディンさん、黒豹の子って何ですか」
「可愛いってことよぉ」
「それ褒めてます?」
「もちろん」
レイスがアルドを見る。
「お前にしては気が利いてるな」
「うるせぇ」
「褒めてる」
「褒め方がむかつく」
ルカはもう一度、眼帯を見た。黒地に白と赤。第一部隊の色。これをつけることに、少しだけ怖さがあった。左目を失ったことを、自分で認めるような気がした。けれど、それだけではない。
傷を隠すためだけの物でもない。第一部隊へ戻るための物にも見えた。ルカは白い覆いを外しても問題がないことを確認してもらい、ゆっくりと黒い眼帯を左目へ当てた。紐を整えようとして、少し手間取る。ルシアンが手を伸ばしかけたが、途中で止める。ルカは自分で結んだ。
少しだけ曲がった。
「右、少し上」
ノルが言う。
「あ、はい」
言われた通りに直す。
「今度は?」
「いい」
セレスも頷く。
「悪くないわね」
「そこは素直に褒めてくださいよ」
「似合ってる」
「ありがとうございます」
ゴードも頷いた。
「いい」
「ゴードさんに言われると、すごい本当っぽいですね」
「本当だ」
エディンが笑う。
「ほらぁ、やっぱり締まって見えるわよぉ」
「僕、締まりなかったですか?」
「ちょっとねぇ」
「ひどいですよ」
ルカは笑った。それからアルドを見る。
「どうですか?」
アルドは少しだけ黙った。黒い眼帯をつけたルカが、自分たちの広間に座っている。顔色はまだ万全ではなく、身体にも傷が残っている。失った左側の視界が戻るわけでもない。それでもルカは、自分たちの席へ戻ってきた。アルドはいつものように、少しだけ口元を上げた。
「似合うじゃん」
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