寂しい
アルドたちが隊舎を出た頃、ルカは第二部隊の隊舎にいた。第一部隊とは空気が違う。広い作戦室へ続く廊下には大勢の足音が重なり、装備を運ぶ音や号令を確認する声が絶えず行き交っている。第一部隊なら、誰がどこにいるのかは何となく分かった。ノルが自室にいる時の静けさ。セレスとルシアンが厨房に立てば漂ってくる匂い。エディンが廊下を歩くゆったりした気配と、ゴードが装備を整える低い物音。アルドとレイスが言い合う声も、隊舎のどこにいても大体分かる。
ここでは違った。人の気配そのものが、一つの大きな塊になっている。
「ルカ」
名前を呼ばれ、ルカは背筋を伸ばした。作戦室の奥には第二部隊隊長ヴァルムと、副隊長エルヴィナがいる。二人の前の机には地図が広げられ、王都から離れた国境寄りの地域と国軍の作戦地点、その北東側にある荒地へ印が付けられていた。
「はい」
ヴァルムが一点を指で叩く。
「今回、お前に入ってもらうのはここだ」
「普段の巡回じゃないんですよね」
「ああ。国軍が今夜、メルグラント共和国軍の補給線を叩く。俺たちはその戦場そのものには入らん」
ルカは地図を覗き込んだ。国軍本隊の進路と共和国軍の補給路。魔法砲撃の予定地点から離れた北東側に、第二部隊の印がある。
「戦場から離れてるんですね」
「馬で一時間ほどです」
エルヴィナが答えた。必要なことを順番に置いていく、いつもの落ち着いた声だった。
「国軍の戦闘音や人の動きで、夜骸が広く動く可能性があります。私たち第二部隊は、戦場から外れた夜骸の流れをここで受け止めます」
「つまり、国軍と一緒に戦うわけじゃない」
「はい。展開地点は完全に別です。国軍兵と肩を並べて戦う場面はありません。ただし、こちらが抜かれれば夜骸が国軍の作戦区域へ向かう可能性があります。そうなれば、夜間作戦中の国軍は背後から夜骸を受けることになる」
「それを止めるのが第二部隊、ってことですね」
「その通りです」
ヴァルムが腕を組んだ。
「事前情報では雑級が十数体、低級が数体。中級は、出ても一体と見られている」
「第一部隊を呼ぶほどじゃない、って判断ですか」
「ああ。第二部隊を厚めに出せば対応可能だ」
「厚めって、どれくらいです?」
「九十七人」
ルカは少しだけ目を丸くした。
「……結構多いですね」
「戦場近くの夜だ。少なくは出さん。お前を入れて、討祓軍側は九十八人だ」
「僕も数に入れてもらえるんですね」
「当たり前だ。遊びで呼んだつもりはない」
「はい」
思わず浮かんだ笑みに、エルヴィナが目を向ける。
「ルカ」
「はい」
「いつもの巡回とは違います。怖いと思う場面もあるはずです」
「大丈夫です。僕、けっこう場数は踏んでますから」
「そうですね。あなたが経験を積んでいるのは知っています」
否定せずに受け止めたあと、エルヴィナは続けた。
「だからこそ、軽く扱わないでください。怖いと思ったなら、怖いまま持っていていい。無理に笑って薄める必要はありません」
ルカは返事に詰まった。いつものように笑いかけてから、それも見られている気がして少し口元を引く。
「……僕、そんなに笑ってます?」
「少し。でも、悪いことではありません。あなたの明るさに助けられる者もいると思います。ただ、今夜は自分を置き去りにしないように」
今度は、きちんと頷いた。
「分かりました」
ヴァルムが地図から顔を上げる。
「お前には左翼寄りの遊撃に入ってもらう。隊列の穴を埋めろ。単独で突っ込むな」
「僕、そんなに突っ走ってるように見えます?」
「見える」
「即答ですね」
「即答するくらいには見える」
ルカが苦笑すると、エルヴィナもわずかに口元を緩めた。
「第二部隊は、第一部隊とは違います。個人の強さで押し切る部隊ではありません。戦線を維持する部隊です。あなたが一体を鮮やかに倒すより、隊列の穴を一つ塞ぐ方が重要な場面があります」
「分かりました」
ルカは第二部隊の戦い方を何度も見ていた。盾で止め、槍で押し返し、後ろから核を狙う。負傷者が出れば下げ、空いた場所にはすぐ別の者が入る。派手ではない。けれど、崩れない。
「大丈夫です。僕、ちゃんと合わせます」
ヴァルムが少し目を細めた。
「その返事が軽いところが心配だな」
「失礼ですね。僕、けっこう真面目ですよ」
「真面目な奴は、自分でけっこう真面目とは言わん」
「第一部隊では言います」
「黒豹基準を持ち込むな」
ルカが笑うと、エルヴィナも小さく息を漏らした。
「出発は夕刻です。日没前に現地へ入ります。戦闘は夜になるでしょう」
「はい」
「繰り返します。今回は巡回ではありません」
エルヴィナは地図の上の第二部隊の印を指先で押さえた。
「でも、一人で抱えなくていい。第二部隊は、隊で戦う部隊です」
「はい」
◇
夕方、第二部隊派遣隊は王都を出た。第二部隊九十七人。第一部隊からの応援、ルカ一人。合わせて九十八人。国境方面へ進むほど街道は荒れ、踏み潰された草や乾いた土の向こうには折れた柱と焼けた屋根が見え始める。戦場そのものではなくても、昼の争いは周囲の土地まで傷つけていた。
ルカは馬上で腰の双銃を確かめる。短剣もある。弾も十分で、身体も軽い。大丈夫。前を行く第二部隊員たちは、低い声で時折言葉を交わす程度だった。
第一部隊なら、きっと誰かが余計なことを言う。アルドが雑に笑ってレイスが呆れ、ノルが短く刺す。セレスがため息をつけばルシアンが空気を柔らかくし、エディンが妙なことを言う横でゴードが黙って見ている。ふと浮かんだいつもの光景を、ルカは小さな息と一緒に吐き出した。今日は違う。
ここに第一部隊はいない。
◇
馬で一時間ほど離れた南側では、セリュヴェイン王国軍が夜の作戦準備を終えようとしていた。前線の丘では魔法砲撃部隊が杖と砲架の角度を合わせ、歩兵隊が暗い地面に膝をついて指揮官の合図を待っている。東部方面軍司令ガレス中将が地図から顔を上げた。
「第一波、予定通りだ。共和国軍の補給路を断つ」
「敵前線の反応は鈍いです。ですが夜です。こちらの動きも制限されます」
作戦参謀エルヴィオの報告を聞きながら、その奥ではクラウス大将が共和国軍の陣地を見ていた。
「王家の軍は?」
「北東の荒地に第二部隊が展開済みです。戦場そのものには入っていません」
「それでいい」
ガレスが続ける。
「夜骸の相手は討祓軍に任せる。我々は共和国軍を叩く」
合図の旗が下りた。王国軍の遠距離魔法砲撃が夜を裂き、遅れて低い爆音が丘を揺らした。
◇
遠い爆音は、北東の荒地にも微かに届いた。ルカが顔を上げる。
「始まったんですね」
「ああ」
ヴァルムは南を見なかった。
「だが、俺たちはあちらへは行かん。ここを守る」
第二部隊が展開したのは、崩れた集落跡に近い荒地だった。古い砲撃跡の窪みと倒木、半分土に埋もれた石垣が点在している。日が落ちれば、そのどれもが足を取る障害になる。エルヴィナの指示に従い、隊員たちが配置へ入る。
「前列、盾を厚く。左翼は瓦礫で足を取られやすいので、間隔を詰めすぎないでください。負傷者搬送路は後方二本。ルカは左翼寄りの遊撃。穴ができたら埋めてください」
「はい」
「もし中級が出た場合は、必ず隊列と合わせること。単独で止めようとしないでください」
「分かってます」
エルヴィナがルカを見る。
「本当に分かっているかは、今夜見ます」
「そこ、信用してくださいよ」
「信用しています。だから確認しています」
「……はい」
夜が降りた。最初に石垣の向こうから這い出てきたのは、泥と石と枯れ草が固まったような雑級五体だった。
「雑級五!」
見張りの声が飛ぶ。ヴァルムが大斧を肩から下ろした。
「構え!」
盾列が沈み、その後ろから銃口が上がる。
「撃て!」
銃声とともに先頭の雑級が砕け、残る個体が盾へぶつかった。前列が受け止めたところへ槍が突き出され、後方の射撃が核を狙う。ルカは左へ走った。瓦礫を蹴って半壊した壁へ乗り、そこから跳びながら右手の銃で一体の動きを止め、左手で脚を撃ち抜く。落ちた夜骸の首元へ短剣を投げて体勢を崩すと、着地と同時に懐へ入り、至近距離から核を撃ち抜いた。
「一体!」
誰かの声に振り返る。第二部隊の隊列は動いていない。盾が止め、槍が押し返し、銃が仕留める。負傷者が出ればすぐ後ろへ流す。強い。やっぱり、第二部隊は強い。
だが、次の影がもう石垣の向こうから現れていた。
「さらに雑級七! 低級三!」
盾列へ夜骸が押し寄せる。
「前列、下がるな! 間を空けるな!」
ヴァルムの号令で隊列が厚くなる。ルカも走り続けた。低級の横腹を撃ち、短剣で脚を裂いて隊列へ正面から当たらないよう進路を変える。抜けようとした雑級は蹴り飛ばし、そのまま近距離から撃ち抜く。
「助かった!」
「まだ来ます!」
ルカは右手の銃を口に咥え、空いた手で弾を込めた。左手で撃ちながら短剣を拾い、次の穴へ走る。身体は動いている。いつも通りに。それなのに、夜骸の数が減らない。その奥から、雑級を踏み潰し低級を押し退けるように大きな影が現れた。
「中級一!」
土と骨が絡み合った巨体を見て、エルヴィナの指示が即座に飛ぶ。
「右翼、槍を引いてください! 銃列、核を探して!」
ルカは反射的にそちらへ向かいかけた。
「ルカ、単独では行かない!」
「っ、はい!」
足を止めた一瞬、別の低級が隊列の隙間へ滑り込む。
「左、穴!」
ルカはすぐに向きを変えた。低級が若い隊員の盾へ食いつく。隣から槍が突き出され、ルカの銃弾も頭を弾いて体勢を崩した。倒した。そう思った直後、その後ろから別の低級が迫る。
「後ろ!」
隊員が振り返る。遅い。伸びた腕へ、ルカは短剣を投げた。肩へ突き刺さった刃で軌道が逸れ、隊員の身体から爪が外れる。間に合った。次の瞬間、中級の腕が横から盾ごと隊員を弾き飛ばした。
鈍い音とともに地面へ落ちた身体は、もう動かなかった。
「あ……」
助けたと思った。今、確かに助けたはずだった。
「止まるな!」
ヴァルムの怒声が飛ぶ。
「生きてる奴を守れ!」
ルカは歯を食いしばった。
「はい!」
走る。雑級を撃ち、低級を斬る。中級の脚へ弾を叩き込み、盾の隙間へ入ろうとする夜骸を蹴り戻す。第二部隊は崩れない。それでも削られていく。
一人が倒れれば、その穴へ別の一人が入る。さらに一人が倒れれば、後ろが身体を引き、その間にも次の者が盾を上げる。誰かが名前を呼んだ。返事はなかった。そして、中級は一体で終わらなかった。二体目。
三体目。その間にも雑級と低級が夜の奥から流れ込んでくる。
「事前情報と違いすぎる!」
「南へ流すな!」
ヴァルムの大斧が低級の前脚を叩き割り、返した柄で別の雑級を隊列から弾き出す。
「ここで止める! 国軍の戦場へは行かせん!」
その声で、押されかけた盾列がもう一度締まった。
◇
南では王国軍と共和国軍の戦闘が続いていた。遠距離魔法砲撃が補給線を叩き、王国軍の歩兵が暗い斜面を進む。共和国軍も退かず、遠距離魔法が横殴りに走って王国兵を押し返した。
「押し込め。夜明けまでに補給路を切る」
ガレスの指示を受け、エルヴィオが地図上の駒を動かす。
「共和国軍、第二線を前へ出しています。思ったより早い」
「合理的だな」
クラウスが低く言った。
「死者を悼む間を置かん。だが、戦争としては正しい」
誰も答えなかった。北東で第二部隊が夜骸を止めていることは知っている。それでも、そちらへ兵を回すことはできない。国軍は共和国軍を止める。討祓軍は夜骸を止める。
同じ夜の中で、それぞれ別の敵と戦っていた。
◇
荒地で戦うルカの呼吸は、いつの間にか荒くなっていた。肩を裂かれ、脇腹も掠められている。左足にも痛みはあるが、まだ動ける。動けるなら、助けられる。左側で盾列が崩れた。
低級二体と雑級数体が、負傷者の搬送列へ向かっている。
「行かせないです!」
双銃を撃ち、一体の脚を砕く。もう一体の顔面を弾いたところで、足元を這う雑級へ銃を捨てて短剣を抜いた。懐へ潜り込み、喉元を裂く。核を探す。ない。
「ここじゃない……!」
振られた腕を避け、蹴って距離を作る。背後で誰かが倒れた。ルカが振り返ると、自分が止めたものとは別の低級が搬送中の隊員へ食らいついていた。
「なんで……!」
なんで、そっちにいる。なんで僕の目が届かない。なんで間に合わない。
「ルカ!」
ヴァルムの声が飛ぶ。
「前を見ろ!」
前。見なければいけない。それでも後ろでは誰かが叫び、助けを求める声がした気がした。ルカは振り返った。その一瞬だった。瓦礫の陰を這っていた低級が、雑級の間から低く飛び出した。
小さい。けれど、速い。ルカの右手が反応する。短剣を上げ、落とした銃を拾おうとした。間に合わない。左から振られた爪が、顔を捉えた。
世界が白く弾けた。左目の奥で熱が破裂し、膝が落ちる。
「――っ!」
声にならない。右側だけが見える。左側がない。頬を何かが伝っている。血なのか涙なのかも分からなかった。
「ルカ!」
エルヴィナの声がする。それでも、ルカは倒れなかった。ここで倒れれば、後ろへ行かれる。右手が地面の銃を掴んだ。近すぎる距離で撃つ。夜骸がのけぞったところへ短剣を逆手で胸元へ突き立て、蹴りながら押し込み、もう一発を叩き込む。
核が砕けた。夜骸が崩れ落ちる。左側は見えない。それでも、まだ終わっていない。
「ルカ、下がれ!」
ヴァルムが怒鳴る。
「まだ動けます!」
「下がれ!」
「まだ、見えてます!」
嘘だった。半分しか見えていない。それでも右側は見える。手も足も動く。なら、まだ戦える。
「ルカ!」
エルヴィナがこちらへ寄ろうとしながら、途中で別の負傷者を見つけて搬送を指示する。その声は崩れない。
「無理をしないで。今のあなたが倒れたら、助けられるものも助けられません」
「……はい」
返事をした。それでもルカの足は、また前へ出た。世界の半分が消えたまま、夜の中へ戻っていった。
◇
そこから先は、時間の感覚が曖昧だった。最後に数えられた夜骸は、雑級二十体、低級十三体、中級四体。最初から全てがいたわけではない。南の戦場の音、人の気配、血、戦いそのものへ引かれるように、夜骸は次々と荒地へ流れ込んできた。第二部隊は踏み止まった。
盾で止め、槍を突き、銃列を開く。負傷者を後ろへ流し、死者が出ても空いた穴を次の者が塞ぐ。撤退すれば、もっと生き残れたかもしれない。だが、ここを抜かれれば夜骸は南へ流れる。共和国軍と戦っている国軍の背後へ。だから退かなかった。
ヴァルムは腕や肩から血を流しながらも前に立ち続け、大斧で中級の脚を叩き割り、隊列へ食い込む低級を引き剥がした。
「左を詰めろ!」
「負傷者を下げろ!」
「銃列、焦るな!」
「まだ崩れてない!」
エルヴィナも枯れた声で隊列の穴を潰し続ける。
「三班、後退してください! 四班、前へ!」
「ルカ、右から二体!」
「そこは追いすぎないで。戻って!」
ルカは右側の視界で動きを拾い、見えない左は足音と声で補った。一体を助ける。その間に別の誰かが死ぬ。一体を倒す。その間に隊列が割れる。負傷者を引きずれば、その背後へ夜骸が来る。
助けた。助けられなかった。それを繰り返すうち、夜が少しずつ薄くなっていった。最後の中級が倒れたのは、夜明け前だった。ヴァルムの大斧が片脚を断ち、崩れた巨体へ銃列の一斉射撃が入る。核が砕け、土と骨の塊が地面へ沈んだ。
誰も歓声を上げなかった。空だけが、灰色へ変わり始めていた。ルカはその場に膝をついた。
「ルカ」
肩へ手が触れる。エルヴィナだった。
「返事をしてください」
「……はい」
「見えますか」
「右は、見えます」
押し当てられた包帯の向こうで、左目が強く痛んだ。
「押さえて。少し痛みます」
「はい」
周囲では、生き残った隊員たちが仲間の名前を呼んでいた。返事を待つ。返らなければ、次へ行く。生きている者を担架へ乗せ、戻らない者には布を掛けていく。泥と夜骸の残滓にまみれたヴァルムが戻ってきた。
「数は」
エルヴィナの返答まで、少し間があった。
「派遣隊、生存確認四十二」
四十二。出た時は九十八人いた。第二部隊九十七人。それに、自分。四十二。ヴァルムは一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。
「南は」
「国軍側の戦闘は継続中です。ただ、夜骸は抜けていません」
「……そうか」
夜骸を倒した。南へ通さなかった。作戦は成功したはずだった。誰も、勝った顔はしていなかった。
「ヴァルム隊長」
「喋るな」
「僕……」
「喋るな」
低い声が落ちる。
「お前は生きている。それだけで今はいい」
ルカは黙った。そこでようやく、自分の手が震えていることに気づいた。
◇
南の戦場が終わったのも、夜明け頃だった。共和国軍の補給線は断った。王国軍も無傷ではなく、丘の斜面には負傷者が並び、魔法砲撃に焼かれた土から煙が残っている。戦果を読み上げるエルヴィオの声を聞きながら、ガレスは北東を見た。
「討祓軍は」
「夜骸の流入を阻止。ですが、第二部隊派遣隊に大きな損害とのことです」
ガレスはしばらく黙った。
「そうか」
クラウスが低く言う。
「我々は共和国軍と戦い、彼らは夜と戦った。どちらも、勝った顔はできんな」
返す者はいなかった。
◇
朝になり、第二部隊派遣隊は王都へ向かった。歩ける者は歩き、歩けない者は担架へ乗る。戻らない者たちは、別の荷に包まれた。ルカも途中までは歩こうとしたが、エルヴィナに止められて担架へ乗せられた。
「すみません。僕、邪魔になってますね」
「邪魔ではありません」
「今は休んでください。あなたが動くたびに、こちらの心臓に悪いです」
「エルヴィナ副隊長、けっこう心配してくれてます?」
「していないように見えましたか」
「少し」
「それなら、私の態度にも問題がありますね」
ルカは一瞬目を丸くしてから、小さく笑った。
「そういう返し、ずるいです」
「ずるくて構いません。寝てください」
「はい」
右側だけの世界を閉じるように、ルカは目を閉じた。
◇
王都の療養院へ運び込まれたのは、昼近くになってからだった。白い壁と薬草の匂いの中で寝台へ寝かされ、左目には厚い包帯が巻かれる。肩、脇腹、脚、腕にも処置が入り、身体のあちこちが白い布に覆われていった。医師は左目について、はっきりとは言わなかった。言われなくても分かった。
見えない。たぶん、もう。一人になった病室では、廊下の足音や遠くの話し声、水差しを置く小さな音まで妙に大きく聞こえた。第一部隊の隊舎なら、もっと騒がしい。誰かが扉を開け、勝手に入ってくる。誰かが余計なことを言う。
ここは静かすぎた。夕方近く、扉の外が急に騒がしくなる。
「ルカ」
最初に入ってきたのはアルドだった。その後ろからルシアン、レイス、セレス、ノル、ゴード、エディンまで続く。病室へ第一部隊が入ってきた。ルカは反射的に笑った。
「あ、皆さん。来てくれたんですね」
「当たり前だろ」
アルドの顔が歪む。
「いや、アルドさんたち昨日カワ村だったんですよね。疲れてるかなって」
「それどころじゃないよ」
ルシアンが寝台の横へ来た。包帯へ視線を落とし、ルカの顔を見る。
「痛い?」
「ちょっとです」
「ちょっとじゃないでしょ」
「じゃあ、まあまあです」
「ルカ」
「ごめんなさい」
ルシアンはそこで何かを飲み込んだ。反対側ではセレスが傷を確かめる。
「他の傷は?」
「肩と脇腹と脚と、あと細かいのがいっぱいです。でも、命に別状はないって言われました」
「それを軽く言わないの」
「軽く言わないと、重くなるじゃないですか」
セレスが唇を噛む。寝台の足元から、ノルが短く訊いた。
「左は」
ルカは一瞬止まった。それから笑う。
「まだ分からないです」
嘘だった。たぶん皆も分かっている。それでも、誰も今はその言葉を壊さなかった。レイスが口を開く。
「ローグ様から聞いた。第二部隊派遣隊は、かなり削られたらしいな」
「はい」
ルカの笑みが少し薄くなった。
「四十二人です」
誰も口を挟まない。
「戻ったのは、四十二人でした」
右目だけで皆を見る。
「でも、勝ちました。南には通してません。ヴァルム隊長も、エルヴィナ副隊長も生きてます。僕も、ほら、生きてますし」
「ルカちゃん」
エディンが呼んだ。いつもの柔らかい声だったが、茶化す響きはない。
「無理して笑わなくてもいいのよぉ」
「無理じゃないですよ。本当に、皆さんが来てくれて嬉しいんです」
それだけは本当だった。アルドがいる。レイスがいる。ルシアンもセレスも、ノルもゴードもエディンもいる。それだけで、少し息がしやすくなった。
「僕、頑張ったんですよ」
話し始めると、言葉が次々出てきた。
「第二部隊の人たち、すごかったです。全然下がらなくて。誰かが倒れたら、すぐ別の人が入って。盾が割れても、槍が折れても、前にいて」
ヴァルムの大斧。エルヴィナの声。自分が走り、撃ち、斬ったこと。
「僕も、けっこう助けたんです。本当に。僕、ちゃんと役に立ったんです」
「分かってる」
アルドが言った。
「お前が頑張ったのは、分かってる」
「はい」
ルカは頷き、また笑った。
「だから、そんな顔しないでくださいよ。僕、皆さんにそんな顔される方が困ります」
アルドは何も返せなかった。レイスがその肩へ手を置く。その横から、ゴードが寝台へ近づいた。何も言わず、大きな手をルカの頭へ置く。
「……ゴードさん、子ども扱いですか?」
ゴードが低く答えた。
「生きてる」
それだけだった。ルカの喉が詰まる。
「はい」
ルシアンが椅子に座り、持ってきた包みを開けた。
「食べられるか分からないけど、少しだけ持ってきたの」
「え、何ですか」
「柔らかいパンと、薄いスープ。療養院の人に確認してからね」
「ルシアンさんのご飯ですか?」
「今日は簡単なものだけ」
「それ、すごい元気出ます」
「本当に?」
「本当です」
今度は少し自然に笑えた。ノルが小さく息を吐く。
「食べて寝て」
「ノルさん、それだけですか」
「それだけ」
「もう少し優しい言葉とかないんですか?」
「生きててよかった」
あまりにも短く言われて、ルカは返事に詰まった。ノルはもう視線を逸らしている。
「以上」
「……はい。ありがとうございます」
セレスが目元へ手をやり、そっぽを向いた。
「ちょっと、皆、急にずるい」
「セレスさんも何か優しいこと言ってくれていいんですよ」
「調子に乗らないの」
「すみません」
少しだけ空気が緩み、エディンも柔らかく笑う。
「ルカちゃん、療養院でも相変わらずねぇ」
「僕、しんみりしすぎると似合わないじゃないですか」
「そうねぇ。でも、無理に似合わないことしなくてもいいのよぉ」
ルカは返事をしなかった。返したら、今まで保っていたものが少し崩れそうだった。それから皆で話した。第二部隊のこと。ヴァルムとエルヴィナのこと。南で国軍も夜明けまで戦っていたこと。療養院の食事や、しばらく安静にしなければならないこと。
アルドは何度か何かを言いかけて飲み込み、レイスはそれを見ても余計な言葉を挟まなかった。ルシアンは水差しや包帯を気にし、セレスは棚の位置を直す。ノルは窓際から短い相槌を返し、ゴードは静かに立っている。エディンもいつもの調子を少しだけ残しながら、長くルカの顔を見ていた。日が落ちる前、看護師が面会時間の終わりを告げに来た。
アルドはすぐには動かなかった。
「ルカ」
「はい」
「また来る」
「はい。待ってます」
「何か欲しいものはあるか」
ルカは少し考えるふりをする。
「皆さんがまた来てくれたら、それでいいです」
アルドの顔がまた歪んだ。
「……分かった」
「アルドさん」
「なんだ」
「そんな顔すると、僕が悪いことしたみたいじゃないですか」
「してねぇよ」
「じゃあ、いつもの顔してください」
「いつもの顔って何だよ」
「ちょっと馬鹿そうな顔です」
「お前、怪我人だからって何言っても許されると思うなよ」
「今だけ許してください」
アルドは笑おうとして、少しだけ口元を上げた。
「寝ろ」
「はい」
今度はレイスが寝台の横へ立つ。
「無理して起きてるな」
「レイスさんまで」
「俺は普通のことを言ってる」
「普通のことが一番厳しい時ありますよね」
「知ってるなら寝ろ」
「はい」
レイスは少しだけ目を細めた。
「……生きて戻った。それで十分だ」
ルカは右目でその顔を見る。
「はい」
ルシアンが最後に手を軽く握った。
「また来るね」
「待ってます」
「次はもう少しちゃんと食べられるもの持ってくる」
セレスの言葉に、ルカが笑う。
「楽しみにしてます」
ノルは短く手を上げた。
「寝て」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
ゴードはもう一度だけ頭に手を置く。最後にエディンが扉の前で振り返った。
「ルカちゃん」
「はい」
「寂しくなったら、ちゃんと寂しいって言うのよぉ」
ルカは笑う。
「大丈夫です」
「そういう子ほど、大丈夫じゃないのよねぇ」
「僕、けっこう大丈夫ですよ」
「三割くらい信じておくわぁ」
「低いですね」
エディンは柔らかく笑い、病室を出た。扉が閉まる。足音が遠ざかっていくと、さっきまで狭く感じていた病室が急に広くなった。ルカは天井を見た。右目だけで見る白い天井は、少し傾いているように見える。左側は包帯に塞がれたままだった。
皆が来てくれて嬉しかった。本当に嬉しかった。アルドが来た。レイスが来た。ルシアンもセレスも、ノルもゴードもエディンも来た。
第一部隊が来てくれた。だから、大丈夫だと思った。扉が閉じ、誰の声もしなくなるまでは。盾が割れる音が戻ってくる。名前を呼ぶ声と、返事のない時間。四十二という数字。
左から迫った爪。そこで途切れた視界。ルカは右手で布団を握った。ここでは笑わなくていい。誰も見ていない。明るくしておく相手もいない。
そのことが、少し怖かった。天井を見たまま、小さく息を吐く。
「……寂しいな」
誰にも届かない声が、白い病室の中へ消えた。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




