カワ村の跡
昼を少し過ぎた頃、第一部隊の隊舎は静かだった。任務明けでもなければ、緊急の呼び出しもない。夜になればどこかで夜骸が出るかもしれず、街道や外縁集落の警戒が完全に途切れることもないが、今日の第一部隊はひとまず休みに近い扱いだった。ルカは朝から第二部隊の応援に出ている。ノル、ゴード、エディンはそれぞれ自室にいるらしく、広間まで聞こえてくる足音もない。
その広間の長椅子で、アルドは仰向けになっていた。片腕を目の上へ乗せ、もう片方の手を腹に置いている。眠っているわけではない。かといって、起きていると言い張るには少し気が抜けすぎていた。
「アルド」
扉の方から声がした。
「んー」
「暇だろ」
「暇じゃねぇ。休んでる」
「休んでるだけなら暇と同じだ」
「違うだろ」
足音が近づき、レイスが長椅子のそばで止まった。腕を目へ乗せたままのアルドをしばらく見下ろしてから、唐突に言う。
「カワ村に行かないか」
アルドの腕が少しだけ浮いた。
「……カワ村?」
「ああ」
「任務か?」
「違う。俺が行きたいだけだ」
そこでようやく身体を起こし、背もたれへ肘を乗せる。
「お前が、行きたいだけ?」
「ここ最近のことを考えていた」
レイスは広間の窓へ目を向けた。昼の光が差し込み、床へ細長い白い線を作っている。
「赤い短鎖。夜骸の大きな移動。人間側の襲撃。全部が直接つながっているとは言えない。ただ、分からないことが増えている」
「それでカワ村か」
「最初に、明らかに普通じゃない異常体を見つけた場所だ。あの時は分からないことが多すぎた。今の情報なら、何か拾えるかもしれない」
アルドは黙ってレイスを見た。カワ村。忘れた名前ではない。墓地、柳、土の下から現れた異常体。あの夜に見たものは討った。それでも、分からないものをいくつも残して帰ってきた場所だった。
「ローグさんには?」
「戻ってから報告する。大きなものがあれば、先に使者を出す」
「完全に私用じゃねぇな」
「休みの日に考え事をして、ついでに現地を見るだけだ」
「言い方がずるい」
「お前ほどじゃない」
アルドは小さく笑い、長椅子から立ち上がった。
「分かった。行くか」
「助かる」
「礼を言うほどじゃねぇよ。俺も、気にならないわけじゃない」
二人が装備を取りに向かおうとしたところで、廊下の向こうからセレスがやってきた。二人の顔を見たあと、アルドの腰の剣とレイスが持つ留帳へ視線を落とす。
「どこか行くの?」
「カワ村だ」
レイスが答えると、セレスの表情が少しだけ変わった。
「任務?」
「違う。俺の個人的な再調査だ」
「じゃあ、私も行く」
迷いはなかった。レイスが僅かに眉を寄せる。
「嫌な場所だぞ」
「知ってる」
「何か分かる保証はない」
「それも知ってる」
セレスは腰のナイフの位置を確かめた。
「だから何?」
レイスが言葉を返せずにいると、アルドが肩をすくめる。
「お前が止めても無理だろ」
「……そうだな」
「決まりね」
セレスはそれだけ言い、自分の装備を取りに戻っていった。
◇
隊舎を出る前、ルシアンが玄関まで見送りに来た。
「三人で出るの?」
「ああ。ちょっとカワ村までな」
アルドが答えると、ルシアンの目が僅かに細くなる。
「カワ村……」
「俺が見たいだけだ」
レイスが言った。ルシアンはそれ以上深く聞かなかった。三人の顔を順に見てから、声を少しだけ柔らかくする。
「着く頃には夜だよね。気をつけてね」
「分かってる」
「アルドだけに言ってるんじゃないよ」
「俺だけ信用なさすぎないか?」
「自覚ある?」
「少しある」
ルシアンが小さく笑った。
「何かあったら、無理しないで戻ってきて。ルカが帰ってきたら、私から伝えておくね」
「頼む」
「ルカには伝えておいてくれ」
「うん」
セレスも少しだけ笑う。
「帰りが遅くなったら、ごめんね」
「それはいいけど、怪我はしないで」
「気をつける」
ルシアンは玄関の前に立ったまま、三人を送り出した。
「いってらっしゃい」
◇
王都の昼は、まだ人の声で満ちていた。市場へ向かう馬車や店先で品を並べる商人、路地を走る子どもたち。その間を抜けて王都から離れていくにつれ、人の気配は少しずつ薄くなっていった。カワ村へ続く道も、以前とは違っている。道そのものが消えたわけではない。ただ、使う者が減ったのだろう。両脇から草が伸び、轍は以前より浅くなり、ところどころに小石が溜まっていた。
セレスは足元を見ながら歩く。
「前に来た時も、静かな村だったよね」
「ああ。静かっていうか、嫌な感じだった」
「夜骸が出たわけでもないのに、村全体が息を殺しているようだった」
レイスの言葉に、以前訪れた時の村が浮かぶ。あの頃はまだ人がいた。戸を閉める者も、墓地を案内する者もいた。夕方には祈りがあり、淡青の棺を村の男たちが担いで墓地まで歩いた。三人はしばらく、道を踏む音だけを連ねた。
陽が傾くにつれ、草の影が長くなる。夕方の赤が薄れ、代わりに青黒い色が空の端から広がっていった。
「今さら行って、何か残ってると思うか?」
アルドが訊く。
「分からない」
「お前にしては弱気だな」
「期待しすぎると、見えないものを見たことにする」
「それは困るな」
「かなり困る。だから、分かるものだけ拾う。分からないものは、分からないまま持ち帰るしかない」
セレスが小さく息を吐いた。
「それが一番気持ち悪いのよね」
「同感だ」
◇
カワ村へ着いた時には、完全に夜になっていた。村の入口で最初に目へ入ったのは、古い木柵だった。片側は折れて地面へ倒れ、残った方も斜めに傾いている。そこへ結ばれた古い布切れだけが、夜風を受けて揺れていた。アルドの歩みが自然と遅くなる。
「……人の気配がねぇ」
明かりが一つもない。家々の窓は黒く、外れた戸や崩れかけた屋根の隙間から夜の暗さだけが見える。鍋や話し声はもちろん、家畜の鳴き声も聞こえなかった。
「行くぞ」
レイスが先に木柵を越え、アルドとセレスも村へ入った。中は入口から見えた以上に荒れていた。壁に穴の開いた家があり、柱の折れた納屋は屋根の半分が潰れている。道には椅子や割れた食器が転がり、庭先に置かれた道具も泥にまみれたまま放置されていた。それでも、戦場の跡とは違う。
燃えた匂いもなければ、砲撃を受けたような大きな穴もない。家の中を覗いても、引き出しや箱だけを狙って金目の物を探した形跡には見えなかった。アルドは近くの家の壁へ手を当てた。割れた木板は、外から硬いものをぶつけられたように内側へめり込んでいる。その奥には炉の跡があり、床には割れた皿と小さな木椀が転がっていた。
「ここに、人が住んでたんだよな」
セレスは答えなかった。誰の椀だったのか、今となっては確かめようもない。
「逃げたのか」
「逃げられたのか」
セレスが低く続ける。
「それとも……」
その先は、誰も口にしなかった。レイスは戸口へしゃがみ、地面と壁の傷を見比べる。
「戦争の直接被害ではなさそうだ」
「砲撃じゃないってこと?」
「ああ。焦げ跡も、破片の散り方も、衝撃の中心もない。国軍や共和国軍がここで大きく動いた痕跡も見当たらない」
立ち上がり、今度は家の中へ目を向ける。
「人間の略奪とも違う。金目の物を探した跡じゃない。壊す目的にしては、壊れ方に意思が薄すぎる」
「意思が薄い?」
「狙って壊したというより、暴れて壊した。そんな印象だ」
セレスが別の場所へしゃがみ、板壁の下へこびりついた泥を指先で確かめた。
「……これ、泥が変にこびりついてる。踏まれたっていうより、擦られた跡ね。何かが引きずったみたい」
「夜骸の痕に近い」
レイスの声に、アルドは村の奥へ目を向けた。
「墓地は?」
「見る」
◇
カワ村の墓地は、家々よりもさらに荒れていた。倒れた墓石の間で囲いが折れ、土は何箇所も深く抉られている。花を供えるための小さな台も砕け、元の位置さえ分からなくなっているものがあった。アルドは入口で足を止めた。
「……なんだよ、これ」
「ひどいね」
セレスは近くの墓石へ寄り、崩れた土を見た。
「ここだけ、特に」
「ああ。家屋よりも墓地の損傷が激しい。偶然にしては偏りすぎている」
レイスは倒れた石の角度や周囲の土、折れた囲いを一つずつ確認していく。
「夜骸がやったのか?」
「その可能性が高い。ただ、なぜ墓地がここまで荒らされたのかは分からない」
月明かりが、倒れた墓石の縁を白く浮かび上がらせていた。アルドの目が墓地の奥へ向く。以前ここへ来た時も、最初から答えがあったわけではない。足跡のない盛り上がった土。柳の根元から伸びた異常体。そこへ絡み込んでいた古い淡青棺の破片。そして異常体を討った後も、新しい墓の下から聞こえた音。
分からないことばかりを留帳へ残して帰った。
「レイス」
「なんだ」
「あの時のあれと、関係あると思うか」
レイスはすぐには答えなかった。
「分からない」
「お前でも?」
「ああ。今は分からないと言うべきだ。似ている部分はある。土。墓地。死者に関わる場所。だが、それだけで繋げるのは危険だ」
「そっか」
レイスは墓地から村の方へ視線を移した。
「ただ、この村は、人知れず襲われた可能性が高い」
セレスが顔を上げる。
「村の人たちは?」
「痕跡だけでは断定できない。逃げたのか、連れて行かれたのか、襲われたのか。あるいは、その全部が混ざっているのか。今ここで言えることはない」
「最悪ね」
「ああ」
その時、墓地の奥から何かが崩れる音がした。三人が同時にそちらへ向く。アルドは緋喰刃の柄へ手を掛け、セレスも腰を落としてナイフを抜いた。レイスは半歩位置を変え、墓石の向こうへ視線を走らせる。やがて壊れた墓石の陰から、泥の塊のようなものが這い出てきた。
土に木片や布が混ざったような小さな夜骸だった。歪な脚を一つ引きずりながら、三人へ向かってくる。
「一体」
「他は?」
「今のところない」
「なら」
アルドが前へ出る。
「火炎壱式 炎刃」
緋喰刃に炎が走り、そのまま一息で間合いを詰めた。泥の腕が持ち上がるより早く刃が斜めに抜け、身体の内側にあった核まで断ち切る。夜骸は勢いを失ったまま崩れ、湿った土の上へ黒く沈んだ。アルドは剣についた泥を軽く払う。
「終わり」
「早いね」
セレスがナイフを収める。
「雑級一体だぞ」
「昔なら、もう少し全員で身構えてた気がする」
「そうか?」
「そうよ。バルトなら突っ込んで、夜骸ごと地面をめちゃくちゃにして、あとでレイスが報告書に困ってたところまで見える」
レイスが小さく息を吐いた。
「実際、困った」
「書きづらかった?」
「かなりな」
アルドが笑う。
「夜骸討伐。周辺被害、味方によるもの。とか書くのか?」
「できれば書きたくなかった」
「あいつ、雑級相手でも加減しなかったからな」
「加減という概念を持っていなかった」
「迷惑なやつだな」
「ああ。迷惑だった」
レイスの声は静かだった。けれど、その一言を重く扱う者はいない。セレスも小さく笑っただけで、墓石の間を抜ける夜風が三人の間を通っていった。アルドは崩れた雑級を見た。
「俺たちも、強くなったんだな」
「そうだな。形は変わったが」
「変わらない方が無理だろ」
「ああ」
三人はそのまま調査へ戻った。
◇
レイスは墓地の損傷を一つずつ確認し、セレスは土の動きや残った泥を見て回った。アルドも家々へ戻り、壊れた戸口や壁、庭先へ置き去りにされた道具を確かめていく。夜が深くなっても、村から新しい答えは出なかった。やがて墓地の入口からレイスに呼ばれ、アルドとセレスが戻る。
「整理する」
レイスは留帳を開いた。
「まず、戦争による廃村ではない可能性が高い。砲撃、火災、大規模な兵の移動痕は見当たらない」
「人間の略奪でもない」
「ああ。価値ある物だけを狙った形跡ではない。破壊が雑で、目的が見えない」
「夜骸の痕はある」
「ある。先ほどの雑級も含めて、この村に夜骸が入ったことはほぼ間違いない」
アルドが墓地へ目を向けた。
「墓地は?」
「損傷が最も激しいのは墓地だ」
「理由は」
「分からない」
レイスはそこで筆を止めた。
「夜骸が荒らした可能性は高い。だが、なぜ墓地を中心に荒れたのか。以前の異常体と関係があるのか。村人がどうなったのか。そこまでは分からない」
セレスが唇を噛む。
「結局、何も分からなかったってこと?」
「違う」
レイスは首を横へ振った。
「分かったことはある。この村は、ただ人が減って廃れたんじゃない。戦争に巻き込まれて壊れたわけでもない。人間が金目の物を奪って去っただけでもない」
留帳へ最後の一行を書き加える。
「何かが、この村を壊した」
アルドは壊れた柵の向こうへ続く帰り道を見た。
「それが分かっただけでも、来た意味はある」
そう言ったレイス自身の声は硬い。留帳を閉じてから、少し間を置いて二人を見る。
「悪かったな」
「何が」
「俺が言い出したのに、決定的なことは何も分からなかった。二人を付き合わせて、嫌なものを見せた」
「私は勝手についてきただけよ。謝られる筋合いはないわ」
「そうだな。俺も来るって決めた」
アルドは少しだけ笑った。
「お前一人で来させるよりはマシだしな」
「……それはどういう意味だ」
「そのままの意味」
「一人でも問題ない」
「そういうところが問題なんだよ」
レイスは何か言い返そうとして、結局やめた。セレスが墓地を振り返り、小さく息を吐く。
「帰ろう。ここに長くいるの、気分が悪い」
「ああ」
アルドも、最後にもう一度だけ墓地を見た。倒れた墓石と抉られた土。そのどれが誰のものだったのかも、今はもう分からない。三人はカワ村を出た。
◇
帰り道では、誰もあまり話さなかった。伸びた草を夜風が揺らし、遠くから鳥とも獣ともつかない声が届く。月明かりだけが荒れた道を淡く照らしていた。アルドの少し前を歩くレイスの手には、閉じた留帳がある。戦争や略奪だけでは説明しきれない痕跡。夜骸が村へ入った形跡。とりわけ激しく荒らされた墓地。
書けることは増えた。それでも村人の行方も、墓地がなぜあれほど壊されたのかも分からない。やがて振り返っても、カワ村の家々はもう見えなくなった。三人はそのまま王都への道を歩いた。
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