王家の犬
洞穴を離れようとした時だった。
「待て」
レイスの声に、アルドが足を止める。ロザリアも出口へ向けていた身体を戻した。
「何かしら」
レイスが見ていたのは、物資置き場の横にある崩れた岩の陰だった。一見すればただの窪みにしか見えないが、近づいて膝をつくと、岩肌へ手を触れずに表面を目で追う。
「ここだ。岩に薄い擦過痕があります。新しい。荷を担いだまま、肩か箱の角を当てた跡に見える」
クライスもすぐ隣へ膝をつき、岩肌と床の土を見比べた。
「確認します。……床の土も僅かに色が違います。表面だけ戻してありますが、奥の湿りが合っていません」
「あら」
ロザリアがゆっくりと笑う。
「よく拾ったわね、レイス副隊長」
「見落としかけました」
「見落としかけたものを拾ったなら十分よ」
アルドも岩の陰を覗き込んだ。そこには人一人がようやく通れるほどの細い横穴があり、奥へ暗闇が続いている。使われていないようにも見えるが、今見つけた痕跡を知れば、そう見せるために整えられているだけだと分かった。
「……匂いがします」
少し離れていたハインが、顔を強張らせたまま言った。
「油か」
「はい。ほんの少しだけですが」
ハインは横穴の奥へ顔を向け、慎重に鼻から息を吸う。
「樽そのものではないと思います。布か箱か、何かに移った匂いです。でも、うちの荷の油に近い」
「残りの荷が、ここから運ばれた可能性がある」
レイスの言葉に、ロザリアが横穴を見る。
「本体へ、かもしれないわね」
軽い声音だったが、もう先ほどまでの余裕は薄かった。アルドは剣の柄へ指を添える。
「追うか」
「追うしかないでしょう。本体への道よ」
横穴へ残された痕跡は、ここまで追ってきた下っ端のものとは明らかに違っていた。足跡も土の乱れもほとんどない。あるのは岩肌の擦れ、落ち葉の僅かな向きの違い、油の匂い、ところどころに残った荷紐の繊維程度だった。ロザリアが違和感を拾い、クライスが記録し、レイスがそれを確かめる。ハインも油の匂いや荷の癖から進路を補い、第一部隊は周囲を警戒しながら後に続いた。
ルカは何度か何かを言いかけたものの、結局口にはしなかった。ノルも黙り、セレスは足元のわずかな痕跡を追っている。ルシアンはハインが遅れないよう歩調を見て、ゴードは後方を押さえる。エディンも少し離れた位置から、いつものように全体を見ていた。洞穴の奥から聞こえていた泣き声は、もう聞こえない。誰も、それについて話さなかった。
◇
横穴を抜けると、林の奥へ出た。日はほとんど落ちかけ、空の端に残った赤が枝の間から細く見えている。道と呼べるものはなく、人が通ったかもしれない場所だけが微かに続いていた。
「こっちです」
ハインが前方の枝を指す。
「荷を覆っていた布です。うちのものと同じ織りです」
小さな布片が引っかかっていた。
「触るな」
レイスが言う。
「はい」
伸ばしかけた手をハインが引き、代わりにクライスが確認する。
「間違いありません。故意に落としたようには見えません。引っかかって千切れた跡があります」
「なら、まだ拾える」
ロザリアはすぐ先へ進んだ。笑みは残っている。だが、薄かった。さらに追ううちに森は暗さを増し、やがて最後の陽も木々の向こうへ沈んだ。視界を満たしていた色が消え、枝葉の間から夜が降りてくる。
夜骸の時間だった。アルドが周囲を確認してから仲間へ声を掛ける。
「ここからは夜骸にも気をつけろ」
「はい」
ルカが双銃へ手を添え、ノルは翠穿を構え直す。ゴードも盾を上げ、セレスは短剣の柄へ手を置いた。ルシアンは治療鞄を身体へ寄せる。それでもロザリアだけは足を止めない。
「隊長。暗くなっています」
クライスが一歩近づく。
「見えているわ」
「夜骸の出現も考慮すべきです」
「考慮しているわ」
クライスはそれ以上言わず、横へ並んだ。道なき道は次第に下り始めた。しばらくすると木々の向こうから水音が聞こえ、林を抜けた先に川が現れる。幅はそれほど広くないが流れは速く、暗い水面が僅かな空の光を細く揺らしていた。川岸へ出た瞬間、レイスが止まった。
「痕跡がない」
対岸を見る。こちら側も見る。荷を運んだ跡はどこにもなかった。足跡も草の倒れもなく、それまで頼りにしていた油の匂いさえ、川の水に消されている。残っていたのは流れる水と、川岸に立てられた一枚の看板だけだった。クライスが書かれている文字を読む。
「……『お疲れ様。ここでお仕事はおしまい、わんこは早く家に帰りなさいな』」
水音だけが続いた。
「……最悪ですね」
ルカが吐き捨てる。
「ここまで来ることを読まれていた」
レイスは川の向こうを見たまま言った。
「洞穴を見つけることも、横穴の痕跡を拾うことも、この川で足が止まることも」
ハインは青ざめた顔で看板を見る。
「荷だけじゃない。私たちの動きまで使われていたんですね」
「ああ」
アルドの拳に力が入った。誰かが自分たちより先にここへ来て、看板を立てた。いつ来るかではない。来ることそのものを知っていた。
「もう追えないの?」
セレスが川の向こうを見ながら訊く。クライスは岸沿いへ視線を走らせ、静かに首を横へ振った。
「少なくとも、今すぐには。ここから先の痕跡は完全に切れています」
「本当に嫌なやり方」
ルシアンが呟く。
「むかつく」
ノルが続けた。
「同感です」
ルカも、今度は冗談を挟まなかった。その時だった。乾いた破裂音が川辺へ響いた。看板の支柱が、ロザリアの蹴りでへし折れていた。裂けた木片が跳ね、板が泥を巻き上げながら倒れる。川岸の石へぶつかった看板は端を割り、そのまま動かなくなった。
クライスの記録板を持つ手まで止まった。ロザリアは倒れた看板を見下ろしている。怒鳴らない。何も言わない。笑ってもいない。誰も声を掛けなかった。
追ってくることも、ここで足を止めることも、相手には最初から分かっていた。その上で、わざわざ犬と呼ぶ言葉を置いて待っていた。いつもロザリアの口元にある笑みは、今はどこにもなかった。森の奥で枝が折れた。全員の意識がそちらへ向く。川音に混じって低い唸りが聞こえ、暗がりから雑級夜骸が数体、その奥から低級が二体姿を現した。
アルドが剣を抜こうとする。その前に、ロザリアが歩き出した。
「隊長」
クライスが呼んでも止まらない。最初の雑級が爪を振り上げるより先に間合いへ入り、細い刃で首を断つ。落ちた頭が地面へ触れる頃には次の一体へ身体を流し、顔を片手で押さえながら喉を裂いた。三体目が横から飛び込む。ロザリアは身を沈めて爪を外し、そのまま足を払って膝を崩すと、倒れかけた首へ刃を滑らせた。
雑級が三体、続けざまに沈む。低級の一体が跳びかかった。今度も大きく避けることはせず、身体を半歩ずらして爪を肩の外へ流す。懐へ入った肘が顎を跳ね上げ、そのまま逆手へ返した刃が首筋を貫いた。巨体が傾く間にも、もう一体が側面から迫る。アルドが動きかけた。
「待て」
レイスの一言で止まる。ロザリアは振り返りもせず、最後の低級の脚を払った。体勢を失った夜骸の頭を踏みつけ、動きを止める。刃が落ちた。夜骸は動かなくなった。
川辺には、再び水音だけが残った。ロザリアは夜骸の残骸の中に立っている。息を乱してもいない。傷もない。クライスだけが静かに近づいた。
「隊長」
呼ばれて、ようやくロザリアが振り返る。その時にはもう、口元へいつもの笑みが戻っていた。
「あら、ごめんなさい。少し、足が滑ったわ」
ルカが何か言いかけて、やめる。
「滑りすぎ」
代わりにノルが言った。
「そうかしら」
ロザリアは刃についた汚れを払いながら首を傾げる。
「夜は足元が悪いもの」
いつものロザリアに戻った。少なくとも、そういう顔はしていた。アルドは倒れた看板とロザリアを順に見たが、何も言わなかった。
「戻るぞ。夜骸が増える前に王都へ戻る」
「ああ」
レイスが答える。ハインも倒れた看板と夜骸の残骸を見比べ、何も言わず頭を下げた。
◇
帰路では、その後も二度夜骸が現れた。どちらも雑級が数体。第一部隊が処理し、第三部隊が周囲を押さえた。ロザリアはもう前へ出なかった。いつものように笑っている。
それでも川辺で何を見たかを知っている者には、その笑みまで同じものには見えなかった。王都へ戻った時には、夜も深くなっていた。ハインは第三部隊員とルシアンに付き添われ、いったん商会へ戻る。盗まれた荷の確認と帳簿の整理は、翌日以降に行うことになった。ロザリアとクライスはそのまま第三部隊の報告へ向かい、残る第一部隊は宿舎へ戻される。アルドとレイスだけが、総隊長室へ足を向けた。
扉を叩く。
「入れ」
中にはローグレスとジークがいた。机の上にはすでに幾つかの報告書が積まれている。第三部隊からの簡易報告も、一部は先に届いているのだろう。
「戻ったか」
「はい」
「報告しろ」
アルドは順を追って話した。盗まれた救援物資の一部が外縁集落へ置かれ、国への不満を煽る形で利用されていたこと。炭焼き小屋では保存食と油の一部が見つかり、その先の洞穴で盗賊を制圧したこと。盗賊の大半は服毒自決し、ロザリアが二人を生け捕りにした。しかし尋問しても、上へ繋がる情報はほとんど得られなかった。
そこまでを聞いて、ローグレスの視線がレイスへ向く。
「続けろ」
「洞穴の横穴から、残りの荷が運ばれたと思われる痕跡を発見しました。追跡しましたが、川で完全に途切れています」
「途切れた?」
「はい。川辺には看板がありました。こちらがそこまで追うことを、事前に読まれていた可能性が高いです」
ローグレスの目が細くなった。
「読まれていたか」
「誘導されていた可能性もあります」
ジークは何も言わず、報告を書き留めていく。
「赤い短鎖の本体には届かず、か」
「はい」
アルドは頷いた。
「ただ、下っ端でも痕跡を消す意識はありました。国軍の通常巡回や、第二部隊の中堅程度では見逃す可能性があると、レイスとロザリア隊長が判断しています」
「第三がそう見たなら、軽くは扱えんな」
ローグレスは椅子の背へ身体を預けた。
「ロザリアは」
「怒っていました」
アルドが答えると、レイスが横を見た。ローグレスも僅かに眉を動かす。
「ロザリアが?」
「はい。表には出してません。でも、相当だったと思います」
何に、とまでは言う必要がなかった。
「そうか」
ローグレスはそれだけ返した。
「分かった。今日は休め。赤い短鎖の件は、明日以降に第三と合わせて整理する。ハインの荷については第五とも連携が要る。民へ出す言葉を間違えるな」
「承知しました」
レイスが答える。
「アルド」
「はい」
「人間相手の任務は、夜骸より後味が悪い」
アルドは黙っていた。
「だが、後味が悪いから見ない、という選択はない」
「……分かっています」
「ならいい。休め」
「はい」
◇
総隊長室を出ると、夜の白塔は静かだった。窓の外では王都の灯りがまだ消えず、酒場や遅くまで開く店、家路を急ぐ人影が石畳の間に見える。アルドとレイスは並んで廊下を歩いた。
「なあ、レイス」
「なんだ」
「夜骸の方が、分かりやすいな」
少し間を置いて、レイスが答える。
「分かりやすいだけだ」
「ああ」
「楽ではない」
「分かってる。でも夜骸は斬れば止まる。少なくとも、その場では」
「人間は違う」
「違うな」
足音が二つ、静かな廊下へ続いていく。
「ロザリア隊長のやり方を、どう思う」
今度は答えが返るまで少し長かった。
「肯定はしない。だが、あの場で情報を取る役目は第三部隊だった。俺たちではない」
「それで納得できるか」
「できない」
アルドは隣を見る。レイスの顔は普段と変わらない。それでも洞穴の外で、剣を抜こうとした自分の肩を掴んだ手が震えていたことを覚えている。
「できないが、理解はする」
レイスは前を向いたまま続けた。
「理解と納得は違う」
「そうだな」
王都では、人がまだ笑い、眠る前の支度をしていた。誰かが夜骸を斬り、誰かが避難路を塞ぎ、誰かが人間の闇へ手を入れている。その全部が、同じ灯りの下で暮らす人間を守るための仕事だった。アルドには、まだそれを一つの答えとして飲み込めない。
「レイス」
「なんだ」
「俺たちは、どこまで見るべきなんだろうな」
「見えるところまでだ」
「全部は見えないぞ」
「それでもだ」
少し歩いてから、レイスが続ける。
「見えないものを見えないままにしないために、俺たちは記録する。追う。聞く。間違えたら戻る」
「戻れるか」
「戻るしかない」
アルドは少しだけ笑った。
「厳しいな」
「優しく言っても状況は変わらない」
「それもそうだ」
廊下の先には宿舎へ続く階段がある。その向こうには、ルカもノルもセレスもルシアンも、ゴードもエディンもいる。今日見たものを、それぞれの形で抱えたまま待っている。
「明日、ハインの荷の整理にも顔を出す」
「必要ならな」
「必要だろ」
「そうだな。荷だけの問題ではなくなった」
「ああ」
盗まれた救援物資。集落へ置かれた毛布。消された足跡。川辺の看板。その一つ一つが、まだどこにも繋がりきっていない。王家直属の王都討祓軍。
夜を走り、時には人間の闇まで追う彼らを、誰かは犬と呼んだ。
「行くぞ」
レイスが言った。
「ああ」
二人は宿舎へ向かって歩き出した。王都の夜は、今日も灯っている。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




