梟の爪
洞穴の入口は低く、外から覗ける範囲も狭かった。奥へ向かってすぐに道が曲がっているのか、傾いた陽の光は入口から数歩で途切れている。湿った岩と古い土の匂いに混じって、中から男たちの笑い声や木箱を動かす音が聞こえていた。まだ、こちらには気づいていない。アルドは剣の柄を握ったまま暗がりを見据えた。
少し離れた場所では、ロザリアが白い手袋を整えている。その姿だけ見れば、これから盗賊の巣へ踏み込む者には見えない。クライスは洞穴周辺の足跡と退路を確認し、第三部隊の隊員たちもすでに左右へ散っていた。
「第一部隊は正面」
ロザリアが静かに告げる。
「第三部隊は左右と裏を押さえる。逃がさないこと。捕らえられる者は捕らえること。ただし、毒には気をつけなさい」
その一言で、旧材木道の光景が蘇った。捕らえたはずの盗賊たちが、聞き出せるはずだった言葉ごと服毒自決した。隣を見ると、レイスも僅かに目を細めている。
「口元と手元を優先して押さえます」
「ええ。分かっているじゃない」
アルドは一度息を吐いた。
「行くぞ」
先頭にアルドとゴード、その後ろへルカとセレスが続く。ノルは入口から奥まで射線を取れる位置に残り、ルシアンは負傷者が出た時にすぐ動ける後方へついた。エディンは大剣の柄へ指を添え、少し横へずれて進む。ハインだけは洞穴から距離を取り、第三部隊員に守られる形で待機していた。顔色は悪いままだが、視線は洞穴から逸らしていない。
アルドが中へ踏み込む。暗さへ目が馴染みきるより早く、奥にいた男の一人が振り向いた。
「誰だ――」
最後まで言わせず、アルドは間合いを詰めた。抜刀せず剣の柄を腹へ打ち込み、膝を折らせる。その脇へゴードが出ると、別の男が振り下ろした粗末な斧を大盾で受け、そのまま体勢ごと押し返して岩壁へ叩きつけた。
「敵襲だ!」
叫びとともに、洞穴の奥が一気に騒がしくなる。盗賊たちは武器を掴んだものの、誰も同じ動きをしていなかった。怒鳴りながら前へ出る者もいれば、逃げ道を探す者、木箱の陰へ隠れようとする者までいる。数はいても、第一部隊と第三部隊を相手に戦える集団ではなかった。
「右、二人!」
ルカの双銃が鳴った。狙ったのは身体ではない。二人の足元へ弾を入れて進路を潰したところへ、セレスが水を床へ走らせる。
「転ばせるだけでいい!」
「分かってる!」
足を滑らせた男の手首を蹴り、握っていた刃を弾き飛ばす。別の男は入口へ逃げようとしたが、外から狙う翠穿がその前方へ三発を並べて撃ち込んだ。石片が足元へ飛び、男の身体が硬直する。
「次は当てる」
ノルの声に、男は青ざめたまま両手を止めた。奥ではエディンへ盗賊が斬りかかっていた。大剣で刃を軽く外へ流し、その勢いのまま柄を顎へ入れる。盗賊は声も出せずに崩れた。
「あらぁ、弱い子ばかりね」
声はいつものように柔らかい。それでも、エディンの目は笑っていなかった。戦う者が減れば、盗賊たちはますます逃げ始めた。横穴へ飛び込もうとする者、入口へ戻る者、積まれた荷箱の奥へ身を隠す者。だが、外へ続く道は第三部隊がすでに塞いでいる。一人の盗賊が第三部隊員へ組み伏せられた。
その口元が動く。
「毒!」
レイスの声が飛んだ時には遅かった。男は喉を一度鳴らすと身体を痙攣させ、そのまま力を失った。すぐ近くでも、拘束された別の男が歯を強く噛みしめる。顔色が変わり、身体から力が抜けていった。
「くそっ!」
アルドは歯を食いしばる。また、同じだった。捕らえたはずの人間が、言葉を残さず死んでいく。次の男が口元へ手を伸ばした。だが、その手首は毒へ届かなかった。いつ動いたのか、ロザリアがすでに目の前にいる。
白い指が手首を掴み、僅かに捻る。男の掌から小さな包みが落ちるのと同時に、隣の盗賊も歯を噛みしめようとした。ロザリアはそちらへ身体を流し、肘で顎を跳ね上げる。黒い粒が口からこぼれた。そのまま首筋へ手を入れると、男は意識を失って崩れる。一つの動きが終わった時には、二人とも毒を使えなくなっていた。
「二人」
ロザリアは息一つ乱さず告げる。
「生かして」
第三部隊員たちはすぐに二人を引き取り、口元を確認して手足を拘束した。服の内側、袖口、腰紐、靴の中まで探っていくと、小さな毒包みが次々と出てくる。
「そんなところにも……」
ルカが息を呑む。
「死ぬ準備だけは丁寧なのね」
ロザリアの声は冷たかった。それを最後に、洞穴の抵抗は止まった。武器を失って倒れた盗賊たちと、服毒した者たち。生きたまま拘束されたのは二人だけで、床には蹴散らされた武器と半端に開いた木箱が残っている。勝ったことに間違いはない。それでも誰も喜ばなかった。
ハインが洞穴の入口まで来ると、中を見て顔色をさらに悪くした。ルシアンがすぐ横へ寄る。
「無理なら、外で待っていてください」
「いえ……見ます」
ハインは震える声のまま答えた。
「見ないと、分かりませんから」
アルドは一度だけその顔を見てから、洞穴へ視線を戻した。
「検分する。生存者の拘束を確認。毒にも気をつけろ」
「承知しました」
◇
洞穴は入口から見えていた以上に広かった。奥には二つの小部屋があり、一方は物資置き場、もう一方は盗賊たちが寝泊まりするために使っていたらしい。物資置き場へ積まれていた木箱を見た瞬間、ハインが低く息を吐いた。
「うちの荷です。全部ではありませんが、かなり残っています」
保存食、包帯、薬草、毛布。その横には、油の樽も一つあった。
「使われた分もあるか」
アルドが訊く。
「あります。保存食はだいぶ減っています。油も……樽が足りません」
ハインは並びを確認しながら指を動かす。
「一つ、ここにある。炭焼き小屋に一つ。残り二つのうち、一つは使われたかもしれません。もう一つは、まだどこかへ動かされた可能性があります」
「油の行方は継続して追う必要があるな」
「はい」
レイスの言葉に、ハインは頷いた。別の小部屋では、クライスが壁際を調べている。粗末な棚に雑な帳面、欠けた杯と空になった酒瓶。ロザリアはその一本を見つけ、小さく笑った。
「統制が甘いわね。いい酒だけ盗んだ子がいたのかしら」
「たぶん、馬車で見た男です」
「覚えている?」
「声と笑い方は」
「十分」
ロザリアは酒瓶を見下ろした。
「生きていれば、聞けたかもしれないわね」
ハインは何も返さなかった。小部屋の隅からは、街道と周辺集落の名前だけを書きつけた粗い地図も見つかった。先ほど立ち寄った集落、炭焼き小屋、周辺の小道。それ以上はない。指示した者の名前も、他の拠点も、赤い短鎖の意味も記されていなかった。
「薄いわね」
ロザリアが紙を見下ろす。
「用意した者の名前も、次の行き先もない。下っ端に持たせるには、ちょうどいい薄さ」
「指示系統に関する記載なし。他拠点情報なし。分配経路の一部のみ確認」
クライスがそのまま記録へ残していく。その横で、レイスだけは地図ではなく床を見ていた。木箱を引いた跡も、足跡も残っている。だが、それらは途中から不自然に薄くなっていた。
「……消そうとしているな」
ロザリアが振り向く。
「気づいた?」
「はい。荷を動かした跡は残っています。ですが、途中で土を戻している。足跡も踏み荒らしたままではない。奥の小部屋へ続く跡は、わざと古い足跡に重ねています」
「道中もそうだったわ」
ロザリアは床へ目を落とした。
「足跡は残っていた。でも、残したままではなかった。枝で払って、石場へ逃がして、沢で切ろうとしていた。折れた枝も、いくつかは茂みの下へ押し込んであったわね」
「荷を引いた跡も途中で草を戻しています。処理は粗いですが、手順はあります」
クライスが記録へ加える。
「粗い」
ロザリアが笑った。
「とても粗いわ。第三なら半日もあれば拾える。レイス副隊長でも、ほとんど見落とさないでしょう」
「国軍の通常巡回なら、見逃す可能性があります。第二部隊の中堅でも、戦闘後や夜間であれば厳しいかもしれません」
「でしょうね」
ロザリアは満足そうに頷いた。
「上手くはない。でも、知らない人間の消し方ではない。使い捨ての下っ端にまで、存在を消す意識がある」
アルドは洞穴の奥へ目をやった。戦えば弱かった。第一部隊と第三部隊が踏み込めば、まともな抵抗にもならず崩れた。それでも、ここへ辿り着くまでに残された痕跡は、ただ場当たり的に逃げ回る盗賊のものではない。
「本体を探すのは、骨が折れそうだな」
ロザリアは拘束された二人へ目を向けた。
「折れるだけならいいわ」
笑みは消えない。
「折らされるかもしれない」
クライスが記録板を閉じた。
「隊長。準備しますか」
「ええ」
ロザリアは白い手袋をゆっくり外す。
「ここからは第三部隊の仕事よ」
アルドの眉が動いた。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味」
「尋問なら、俺たちも」
「必要ないわ」
最後まで言わせず、ロザリアは遮った。
「黒豹さんたちは外へ。あなたたちの仕事は、夜骸を斬ることと、民を安心させることでしょう?」
ルシアンの表情が強張り、セレスも唇を結ぶ。
「人間の口を割る仕事まで、綺麗な顔で見たいの?」
アルドが何か言う前に、レイスが静かに訊いた。
「ロザリア隊長。得られた情報は共有していただけますか」
「もちろん。共有できる形にしてあげる」
「承知しました」
それ以上、レイスは踏み込まなかった。アルドが横を見る。小さく首を振られる。今ここで言い争うな。その意味だけは分かった。
「二人は分けて。片方ずつ。口元、手元、足元、全部確認。隠し毒が残っていないか、もう一度調べなさい」
「了解しました」
第三部隊員たちが拘束した二人を、それぞれ奥の小部屋へ連れていく。一人が激しく身を捩った。
「やめろ! 何する気だ!」
誰も答えなかった。もう一人は青ざめたまま、抵抗すらしない。ロザリアが振り返る。
「黒豹さんたち」
そこには、いつもの笑みが戻っていた。
「外で待っていなさい」
◇
洞穴の入口には第三部隊員が三人残り、中への道を塞いだ。無表情ではない。それでも、感情を表へ出さないようにしている顔だった。第一部隊とハインは、その少し外で待つことになった。西へ傾いた陽はまだ木々の隙間から差し込んでいる。風も少し冷たくなってきただけで、夜にはまだ早い。
最初に聞こえたのは、男の怒鳴り声だった。
「知らねぇ! 本当に知らねぇんだよ!」
続いて、洞穴の奥から鈍い音が響いた。ルカの肩が僅かに跳ねる。セレスは両手を強く握り、ルシアンは何も言わず唇を噛んだ。ノルも翠穿を抱えたまま視線を落としている。ゴードだけは黙って入口を見ていた。エディンも、今は笑っていなかった。
次に椅子の軋む音と、何かが床を擦る音が聞こえた。その直後、男の叫び声が岩肌へ反響する。ハインが少し離れた木へ手をついた。ルシアンがそちらへ動きかける。
「……大丈夫です」
ハインは首を振った。大丈夫な顔ではなかった。やがて、ロザリアの声が洞穴の奥から届いた。
「誰に指示されたの?」
怒鳴ってはいない。急かしてもいない。いつもと変わらないほど静かな声だった。
「知らない! 知らないんだ、本当に!」
男の声が返る。その後に、水音がした。誰も口を開かなかった。少しずつ、叫び声が変わっていく。
「本当に、知らないんです……お願いします……もう……」
先ほどまで武器を持っていた盗賊とは思えないほど、声は細くなっていた。しゃくり上げる息が言葉を途切れさせ、何度も謝罪だけが混じる。入口を塞いでいた第三部隊員が、一度だけ奥を見た。
「……少し、離れられた方がよろしいかと」
命令でも、追い払う声でもなかった。ただ、聞かない方がいいと分かっている者の言葉だった。アルドは動かなかった。
「やめてください……本当に、何も……!」
また声が上がる。気づけば、アルドの手は剣の柄へ伸びていた。
「そこまでやる必要があるのか」
自分でも、どこへ向けた言葉なのか分からなかった。指に力が入る。その手が柄を握った瞬間、レイスがアルドの肩を掴んだ。
「抜くな」
「レイス」
「相手は盗賊じゃない。第三部隊だ」
アルドは振り向かなかった。肩へ食い込む手は強い。そして、震えていた。レイスも平気なわけではない。納得しているわけでもない。それでも、ここで剣を抜けば何が起こるのかを分かっている。
だから、止めている。洞穴の奥からロザリアの声がした。
「知らないなら、知らないと分かるまで続けるわ」
再び、男の声が上がった。アルドは剣を抜かなかった。レイスも肩から手を離さない。そこからどれだけ時間が経ったのか、アルドには分からなかった。懇願する声は少しずつ弱まり、謝罪と泣き声へ変わっていく。やがて最初の男の声が途切れると、今度はもう一人の怒鳴り声が聞こえた。
同じように叫び、否定し、やがて泣き、懇願する。その間もロザリアの声は変わらなかった。クライスの声も、時折だけ外まで届く。
「記録します。指示役不明。他拠点不明。荷の分配理由、本人は把握せず」
最後には、その声さえ聞こえなくなった。洞穴の奥が静まる。入口に立つ第三部隊員が、僅かに目を伏せた。誰も何も言わない。しばらくして、ロザリアが洞穴から出てきた。
先ほどまで着けていた白い手袋はない。新しい手袋を片手に持ち、顔にはいつもの笑みが浮かんでいる。
「残念」
ロザリアは言った。
「何も知らなかったわ」
アルドはその顔を見る。
「殺したんですか」
「ええ、お願いされたから」
ルシアンの声が震えた。
「もう、喋れない人だったんですか」
ロザリアはルシアンを見る。そして、優しく笑った。
「いいえ。もう、喋るものがなかった人よ」
ルシアンの表情が固まる。セレスが一歩前へ出かけたところで、ゴードがその腕の前へ僅かに盾を出した。止めるように。レイスはロザリアではなく、続いて出てきたクライスへ訊いた。
「得られた情報は」
クライスは記録板を閉じる。
「指示役不明。他拠点不明。赤い短鎖の意味も把握していません。彼らが理解していたのは、荷を奪うこと、指定された場所へ置くこと、残りをこの洞穴へ運ぶこと。それだけです」
「それだけのために」
アルドが言いかける。
「それだけかどうかを確かめるためよ」
ロザリアが遮った。風が抜け、木々の枝を揺らす。西陽はもうかなり低い。ロザリアは新しい手袋へ指を通しながら、洞穴を振り返った。
「この連中は駒。自分が何をしているのかも、誰のために動いているのかも、ほとんど分かっていなかった。ただ、指示された通りに荷を奪い、置き、隠し、死ぬ準備をしていた」
「上に繋がる情報は、持たされていない」
レイスが言った。
「ええ。持たせる必要がないもの」
「下っ端には、下っ端の仕事だけを渡す。捕まったら死ねるように毒を持たせる。死ねなければ、知らないから喋れない」
アルドの拳が固くなる。
「使い捨てか」
「そうね」
ロザリアは微笑んだ。
「とても丁寧に使い捨てられている」
ハインは何も言わなかった。自分の荷を奪った盗賊たちだった。困っている民へ盗品を置き、国への不満を煽った者たちでもある。それでも、その盗賊たち自身が何も知らされず、捕まれば死ぬことまで仕事の中へ組み込まれていた。ハインは俯いたまま、床に残った血と空の酒瓶を見ていた。
アルドも洞穴の奥へ目を向ける。半端に開いた木箱と、蹴散らされた武器が残っていた。
「さて、戻りましょう。報告することが増えたわ」
ロザリアが歩き出す。第一部隊の誰も、すぐには続かなかった。洞穴の外には、まだ西陽が残っていた。
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