誰の支援か
アルドたちは来た道を戻り、分岐していた右側の跡を追った。こちらは左の細道よりも轍が深く、湿った土を大きく削っている。それでも左右へ揺れた跡は少なく、重い荷をできるだけ安定させて運んだことが分かった。昼の陽は少しずつ傾き始めていたが、林の中はまだ明るい。夜骸の気配はなく、聞こえるのは枝葉の擦れる音と遠くの鳥の声だけだった。
先頭を歩いていたロザリアが足を止める。
「ここで一度、荷を下ろしているわね」
足元では轍が乱れ、荷車を止めて方向を変えた跡が残っていた。少し離れた地面には、重いものを置いたような窪みもある。クライスがしゃがみ込んだ。
「複数人で運び直しています。足跡は四人分。うち二人は荷を持ったまま移動しています」
レイスも周囲へ視線を走らせる。
「俺も同じ考えです。ここから先は、荷車ではなく手で運んだ可能性があります」
「どうしてわざわざ?」
ルカが眉を寄せた。
「荷車の跡を残したくなかった、とかですか」
「それもあるでしょうね」
ロザリアは足跡の先を見る。
「でも、それだけなら、ここまで綺麗に運ばない。捨てればいいもの」
ハインは地面へ残った跡をしばらく見つめてから、膝をついた。
「油です」
アルドが振り向く。
「分かるのか」
「はい。匂いが少し残っています」
土には触れず、顔だけを近づけて確認する。
「樽の外側に少し染みていたんだと思います。うちが運んでいた油の樽は、全部で四つでした。ここで下ろしたのは、おそらく二つ。地面に丸い跡があります」
ロザリアが楽しそうに目を細めた。
「本当に、荷に関してはよく見えるのね」
「それだけが取り柄ですので」
「そういう卑屈な言い方、あまり好きじゃないわ」
ハインが一瞬言葉に詰まる。
「……では、商人として当然です」
「そちらの方が少しはましね」
ロザリアはそのまま歩き出した。
「行くわよ。油を隠すなら、火気から離すか、逆に火を使う場所の近く。どちらかよ」
「火を使う場所?」
セレスが聞き返す。
「炭焼き小屋、鍛冶場、古い窯。あるいは、火事にしても不自然ではない場所」
声は軽かったが、口にされた使い道は軽くない。ルシアンが眉を曇らせた。
「火事にするために、油を……?」
「可能性の一つよ。救援物資として配る。国への不満を煽る。使い道はいくつもある。油なら、温めることもできるし、燃やすこともできる」
「嫌な荷」
ノルが短く言った。
「荷が嫌なのではありません。使う人間が嫌なのです」
ハインの返答に、ノルが少しだけ目を動かす。
「商人っぽい」
「商人です」
「そうだった」
ルカが笑いかけたところで、鼻先を薄い煙の匂いが掠めた。アルドが手を上げる。全員の足が止まり、ゴードが大盾を構え直した。ノルは翠穿を肩から下ろし、セレスは足元を確かめ、ルカも双銃へ手を添える。ロザリアはそんな第一部隊を横目で見た。
「反応は早いのね」
「褒めているんですか」
ルカが小声で訊く。
「まさか」
「ですよね」
クライスは風向きと煙の濃さを確かめる。
「煙は細いです。火災ではありません。煮炊き、あるいは焚き火程度かと」
「盗賊か」
アルドが問う。ロザリアは少しだけ首を傾けた。
「そうだと楽ね」
その言い方にセレスが僅かに眉を寄せたが、何も言わなかった。一行は音を抑えて進む。林を抜けた先にあったのは、古い炭焼き小屋だった。黒ずんだ木壁に、屋根の一部は苔で覆われており、普段から人が住んでいるようには見えない。だが、小屋の前にはまだ新しい焚き火の跡があった。
火は消えているものの、残った灰には僅かに熱がある。その横には木箱が二つ置かれていた。ハインが駆け寄りかけ、アルドが腕で止める。
「待て」
ハインはすぐに足を止めた。
「すみません」
ロザリアが木箱へ近づき、白い手袋越しに表面を確認する。
「触った跡が多いわね。開けたり閉めたりしている」
「人影はありません。足跡は複数ありますが、ここを離れています」
周囲を見ていたクライスが答える。レイスは箱の側面へ目を向けた。
「印があります」
離れたところからそれを見たハインの表情が変わる。
「うちの箱です。保存食の箱です」
「開けるわよ」
ロザリアがクライスへ視線を送った。クライスが慎重に蓋を開ける。中には確かに保存食が残っていた。ただし満杯ではなく、半分ほどが抜き取られている。もう一つの箱も同じような状態だった。
「抜かれています」
「見れば分かるわ。どれくらい?」
ハインは中身を確認する。
「半分弱。ですが、均等ではありません。保存性の高いものを優先して抜いています。乾燥肉、硬いパン、豆の袋。逆に、嵩張るものや壊れやすいものは残している」
「つまり」
レイスが箱を覗き込む。
「すぐに配る分ではなく、持ち運びやすい分を選んだ」
「はい。売るにも配るにも、移動するにも、都合がいいものです」
ロザリアは炭焼き小屋の入口へ向かった。扉は半分開いており、その先は暗い。アルドが前へ出ようとすると、ロザリアが手を上げた。
「待ちなさい。黒豹さん」
アルドは足を止める。
「先に見ます」
「いいえ。先に見るのは私」
ロザリアは笑った。
「こういう場所は、あなたたちより第三の方が得意よ」
アルドは僅かに眉を寄せたものの、一歩退いた。先にロザリアとクライスが入り、少し遅れてアルドとレイスが続く。小屋の中は炭の匂いが強かった。壁際には使われなくなって久しい道具が並び、棚には割れた壺、床には乾いた枝が散らばっている。その奥に、油の樽が一つ置かれていた。
「うちの樽です」
ハインが息を呑む。ロザリアは樽ではなく、その周囲を見た。
「一つだけ?」
「朝方に奪われたのは、油の樽が四つです」
ハインも中へ入って樽を確認する。
「右の跡から見て、少なくとも二つはここへ運ばれたと思います。ですが、ここにあるのは一つだけです」
「もう一つは持っていった」
レイスが言う。
「あるいは、使った」
ロザリアの返答で、小屋の中の空気が僅かに変わった。
「ここで火を使った跡があります」
ルシアンが床の隅を見ていた。炭焼き小屋なら焦げ跡自体は珍しくない。それでも、そこだけは古い黒ずみとは違い、最近ついたものだと分かる。セレスが屈み込む。
「火種を作ったんでしょうか」
「油を試したのかもしれません」
クライスが答えた。
「試すって、何のために」
ルカが顔をしかめる。
「燃え方を見るため」
ノルの短い返事に、ルカは黙った。ハインも油の樽を見たまま、低く言う。
「油は、集落で使うためのものです。灯りや暖を取るためで、火を放つためじゃない」
「物に善悪はないわ。使う側の問題よ」
先ほどハイン自身が口にしたものと似た言葉だった。ハインは一瞬だけ口を閉じる。ロザリアは小屋のさらに奥へ進み、壁に貼られていた紙を見つけた。古い帳面を破ったような切れ端で、雑な字でいくつかの地名らしきものが並んでいる。
「クライス」
「はい」
剥がした紙を受け取ったクライスが目を通す。
「外縁集落の名前が三つ。先ほどの集落を含みます」
「配布先かしら。随分と親切な盗賊ね」
ハインも紙を確認した。
「これは……商人の帳簿ではありません。けれど、荷を分けるための覚え書きです」
「読めるのか」
レイスが訊く。
「はい。量の書き方が雑ですが、意味は分かります。毛布、薬草、保存食。それぞれの横に数があります」
「油は」
アルドが訊いた。ハインは紙の端まで見てから首を振る。
「油だけ、行き先が書かれていません」
ロザリアの笑みが深くなった。
「分けていない荷、ね」
クライスが記録板へ書き込む。
「油は別用途の可能性あり。保存食は一部抜き取り。軽量物資は複数集落へ分配予定」
「国への不満を煽るだけなら、毛布と薬草で十分」
レイスが静かに言う。
「油を別に動かした理由がある」
「俺もそう思う」
アルドは小屋の外へ目を向けた。木々の間には細い道が見えている。荷を運んだ者たちがまだ近くにいるのか、それとも既に別の場所へ移っているのかは分からない。外に立っていたゴードの視線だけが、林のさらに奥へ向いていた。
「ゴード?」
セレスが呼ぶ。
「跡がある」
全員の視線が動いた。小屋の裏手、倒木の脇で草が踏まれている。そこから獣道のような細い道が、さらに林の奥へ伸びていた。
「いい目ね」
ロザリアが言った。ゴードは返事をしない。
「褒められても嬉しくなさそう」
ノルがぼそりと言う。
「ノルさんもでしょ」
ルカが小声で返した。
「嬉しくない」
「ですよね」
アルドは奥へ続く道を見る。
「追えるか」
「追うしかないでしょう」
ロザリアは即答し、小屋の中へ一度目を戻した。
「ただし、ここからは少し変わるわよ」
「どういう意味ですか」
「ここまでは、民に見せるための動き。毛布を置く。薬草を置く。言葉を置く。でも、この奥は違う」
ロザリアの指が油の樽へ向く。
「油を隠した。保存食を抜いた。地名の紙を残した。つまり、この場所は一時的な分配所。けれど、奥に続く跡がある」
クライスが続ける。
「指示役、または次の保管場所へ繋がる可能性があります」
「指示役まで行けると思うか」
レイスが訊く。
「そこまで親切なら、私は退屈しないでしょうね」
「つまり、期待はしていないと」
「ええ。下っ端の尻尾くらいなら掴めるかもしれないけれど」
アルドは林の奥を見たまま言う。
「それでも追う」
「もちろん。追わなければ、向こうの思うままよ」
外へ出ると、木々の間の空気は少し冷えていた。日が傾き、影も長くなり始めている。ハインは開けられ、抜き取られ、また閉じられた保存食の箱を見ていた。自分の荷が勝手に使われている怒りと、それをただ取り戻せば済む話ではないという計算が、同じ顔に残っている。
「大丈夫ですか?」
ルシアンが声をかける。
「大丈夫ではありません」
ハインは正直に答えた。
「ですが、立っていられます」
「無理はしないでください」
「はい。でも、見ます。見ないと、次に同じことをされた時、また奪われます」
ルシアンは小さく頷いた。
「分かりました」
「優しいお医者さんに励まされると、人は強くなった気になるものね」
ロザリアが横から言う。ルシアンはそちらを見た。
「強くなった気になるだけでも、立てる時があります」
声は柔らかい。それでも引かなかった。
「それが必要な時もあります」
「あら」
ロザリアは少しだけ目を細める。
「黒豹は、本当に居心地が良さそうね」
その視線がエディンへ流れた。エディンは微笑んでいたが、何も言わない。ロザリアはつまらなさそうに視線を戻した。
「行くわよ」
獣道は予想以上に長かった。途中では何度も足跡を消した跡が見つかった。枝で土を払い、石の多い場所を選び、踏んだ草まで戻している。完全に消せているわけではない。ロザリアが最初の違和感を拾い、クライスが記録する。レイスが痕跡の繋がりを確かめ、ハインは箱や樽が触れた跡を見つける。
見ているものは違っていても、追っている先は少しずつ一つへ絞られていった。やがて獣道は、小さな沢へ出た。水は浅く、荷を担いだ人間でも渡れる程度しかない。川岸の泥へ残った足跡を、ルカがしゃがんで覗き込む。
「ここ、かなり人数いますね」
「六人以上」
ノルが言った。
「たぶん八人」
クライスも確認する。
「少なくとも八人。うち二人は荷を持っていない。見張りか、先行役かもしれません」
ロザリアは足跡の向きを追った。
「急いだ跡があるわね。ここから先は、かなり近いかもしれない」
アルドの手が剣の柄へ移る。
「盗賊か」
「ええ」
ロザリアが笑った。
「やっと、人間の匂いが濃くなってきたわ」
セレスが嫌そうに眉を寄せたが、誰もそこで足を止めなかった。沢を越えると林はさらに深くなり、地面へ届く日差しも細くなる。しばらく進んだところで、前方に灰色の岩場が見えた。木々の間から突き出した岩の根元に、黒い穴が開いている。洞穴だった。
入口は低く、人がかがめば入れる程度しかない。その周囲では土が踏み固められ、草も刈られており、木箱を引きずった跡まで残っている。
「あそこに……」
ハインが喉を鳴らす。ロザリアが手を上げた。全員が止まる。
「見つけたな」
アルドが洞穴を見据える。
「ええ」
ロザリアは笑った。
「梟の仕事になりそうね」
「人数は不明。中の構造も不明。人質がいる可能性もあります」
レイスが洞穴の周辺まで確認する。
「救援物資が残っている可能性もあります」
ハインが言った。
「油の樽も」
セレスが続ける。ルカは呼吸を整えて双銃へ手を掛け、ノルも翠穿を構え直す。ゴードが大盾を上げ、ルシアンは鞄の位置を確かめた。エディンも大剣の柄へ指を添える。ロザリアは洞穴から目を離さず、静かに指示を出した。
「第一部隊は正面。第三部隊は逃げ道を潰す。捕らえられる者は捕らえる。けれど、毒に気をつけなさい」
その一言で、アルドの頭に旧材木道での光景が蘇った。捕らえた盗賊たちが、自ら毒を飲んで死んだ。聞き出せるはずだった言葉も、その先にいた何者かへ繋がる手掛かりも、そこで途切れた。同じことが、ここでも起こるかもしれない。
「分かった」
アルドは短く息を吐いた。
「昼の盗賊ごっこも、ここまでね」
洞穴の奥から、男たちの笑い声と木箱を床へ擦る音が聞こえた。まだこちらには気づいていない。アルドは剣の柄を握り直した。
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