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昼の赤鎖

 朝の食堂には、いつもより少し遅い時間の光が差し込んでいた。昨夜の王都外縁戦。そのまま夜明け後まで続いた獣章会議。夜骸《やがい》の大群は討たれ、王都も守られたが、食卓を囲む第一部隊にはまだ夜明け前の冷えが残っていた。


「……で、僕たちは今日も待機ですか?」


 ルカがパンをちぎりながら、少し不満そうに言った。向かいではノルが水を飲んでいる。


「不満そう」


「不満っていうか、出番がないのはいいことなんですけど、見てるだけって疲れません?」


「楽でいい」


「ノルさん、そういうところ正直ですよね」


「嘘ついても弾は真っ直ぐ飛ばない」


「それ、何かいいこと言ってる風ですけど、たぶん関係ないですよ」


「でも、射撃に心の乱れは影響するんじゃない?」


 真面目な顔で拾ったセレスへ、ルカがすぐに振り向く。


「セレスさんまで拾わないでください」


「なるほど」


「納得もしないでください」


 ルシアンがくすりと笑い、張っていた食卓の空気が少しだけ緩んだ。ゴードはそのやり取りには加わらず朝食を口へ運び、エディンは椅子にもたれながら湯気の立つ茶を片手で揺らしている。


「あらぁ、ルカちゃんが暇を嫌がるなんて、頼もしくなったわねぇ」


「暇が嫌なんじゃないです。待機が嫌なんです」


「それを暇って言うのよ」


「エディンさんまで」


 レイスが食後の水を置いた。


「待機も任務だ」


「はい。それは分かってます」


「分かっている顔には見えない」


「レイスさん、そういうところは見逃してください」


「見逃す理由がない」


「まあ、でも、いざという時は僕が出ますから」


「不安」


「早い!」


 ルカが即座にノルを見る。


「ルカ、調子に乗ると撃つ場所間違える」


「間違えません。というかノルさん、僕に対する信頼薄くないですか?」


「薄くない。細いだけ」


「ほぼ同じ意味ですよ、それ」


 ルシアンがまた笑い、セレスも口元を緩めた。その頃には朝食もほとんど終わっていた。レイスが総隊長室から届いた通達を手に席へ戻ってくる。


「アルド」


「どうした」


「ローグ様から呼び出しだ。俺とお前だけで来るように、と」


 アルドはすぐに椅子を引いた。


「分かった」


 食卓の空気がわずかに変わり、ルカが顔を上げる。レイスはそれを見て首を横に振った。


「まだ任務かどうかも分からん。お前たちは待機していろ」


「はい」


         ◇


 総隊長室には、すでにジークがいた。ローグレスの机には数枚の報告書が置かれている。届いたばかりなのか、まだ紙の端が僅かに反っていた。


「来たか」


「はい。ローグさん」


「ローグ様」


 アルドとレイスが並んで立つと、ローグレスは報告書の一枚を指で押さえた。


「朝の襲撃だ」


 アルドの表情が変わる。


「商人か、集落ですか」


「王都南西へ向かう街道で、商人の馬車が襲われた」


 ジークが静かに補足した。


「襲撃を受けたのは、ハインという商人です。最近、自身の商会を立ち上げたばかりの者で、王都と外縁集落の間で小規模な輸送を請け負っていました」


「護衛は」


「なしだ」


 ローグレスが短く答える。


「資金に余裕がなかったらしい。立ち上げたばかりの商会だ。今回の輸送で実績を作りたかったんだろう」


 アルドは机の報告書へ目を落とした。金がないからこそ、大きな仕事が必要になる。その仕事を受けるための金が足りない。無謀だと切り捨てるのは簡単だった。


「死者は」


 レイスが訊く。


「ハインは生きている。雇いの御者が一人、腕を斬られたが命はある。盗賊側の人数は不明。現場には国軍の先発が入り、その後、第三部隊が先に調査へ向かった」


「第三が」


 レイスの声が僅かに低くなる。ローグレスは頷いた。


「赤い短鎖が見つかった」


 アルドとレイスの視線が同時に上がった。旧材木道で遭遇した盗賊。捕らえた直後に服毒した男。そして、同じ色、同じ長さ、同じ留め具を持つ赤い短鎖。


「ただの盗賊ではない可能性がある、ということですね」


「可能性だ。断定するな」


「承知しました」


 ローグレスは別の報告書を二人の方へ滑らせた。


「第一部隊は現場へ向かえ。第三部隊が調査を進めている。お前たちは第三の見立てを確認し、赤い短鎖が過去の件と繋がるかを見ろ」


「第一部隊全員で向かいますか」


「ああ。戦闘になる可能性は低いが、万が一を考えて全員で行け。ただし、現場の主導は第三部隊だ」


 その言い方に、アルドはすぐ頷いた。


「分かりました」


「承知しました」


「アルド」


「はい」


「ロザリアはやりにくいぞ」


「知っています」


「ならいい。行け」


         ◇


 現場は、王都から少し離れた街道脇だった。道端には片輪を痛めた馬車が止まり、荷台を覆っていた布は裂かれている。車体に残っているのは夜骸の爪痕ではなく刃物でつけられた傷で、開けられた木箱の周囲には中身がいくつか散らばっていた。昼の光の下で見る血の跡は、夜よりも生々しい。馬は国軍兵に引かれて少し離れた場所におり、御者らしい男は腕を吊ったまま青い顔で座り込んでいる。


 その馬車の前に、一人の若い男が立っていた。商人らしく整えた服を着ているが、袖口には土がつき、襟も乱れていた。顔色は悪く、周囲を追う目にはまだ襲撃の恐怖が残っている。ハイン。さらに少し先、街道の中央ではロザリアが白い手袋の指で小さな赤い短鎖をつまんでいた。直接触れないよう薄い布を挟み、その後ろではクライスが現場を囲う位置に立っている。


 第一部隊に気づいたロザリアが、優雅に微笑んだ。


「あら、ようやく来たのね。黒豹さんたち」


 アルドが一歩前へ出る。


「遅くなりました。ロザリア隊長」


「いいのよ。夜の英雄は朝が苦手でしょうし」


 ルカの眉が僅かに動き、セレスも唇を引き結ぶ。レイスが二人より先に口を開いた。


「状況を教えていただけますか」


「ええ。あなたたちが到着するまでに、見るべきものはだいたい見ておいたわ」


 ロザリアは赤い短鎖をクライスへ渡す。クライスは受け取ったそれを布袋へ静かに収めた。


「まず、襲撃は昼。夜骸ではない。盗賊ね。人数は少なく見積もっても六人以上。馬車の前方を塞ぎ、後方からも回り込んでいる。手際は悪くない」


 そこでロザリアは馬車へ視線を流した。


「けれど、盗み方が下手」


「下手、ですか」


 アルドが訊く。


「ええ。金目の物が残っているの。宝石も、高級食材も、王都の料理屋へ卸す予定だった香辛料もね。金貨も全部は持っていかれていない」


「盗賊にしては雑」


 ノルが呟く。


「そう。けれど、雑にしては選び方が綺麗すぎる」


 ロザリアは開いた木箱の一つを指した。


「持っていかれたのは、薬草、包帯、油、保存食、毛布。外縁集落向けの救援物資ばかり」


「救援物資……」


 ルシアンの顔が変わる。


「昨夜の件で、王家が買い上げる予定だった荷だそうよ。外縁の集落へ回すためにね」


 ロザリアがハインへ向き直った。


「そうよね、ハインさん?」


「……はい」


「もっと大きな声で」


 ハインは喉を鳴らした。


「はい。王都で買い上げてもらう予定の荷でした。外縁の集落へ配られるはずのものです。薬草、包帯、油、保存食、毛布……昨夜、灯りを消して避難した集落にも、回る予定でした」


「それをあなたは、護衛なしで運んだ」


 ハインの顔色がさらに悪くなる。


「ロザリア隊長」


 アルドが呼ぶ。


「何かしら」


「今、それを責める必要がありますか」


「ええ、あるわ」


 返事は早かった。


「護衛を雇えない商人が、護衛の必要な荷を運んだ。結果、救援物資は奪われた。これは感情ではなく、事実よ」


 ハインの拳が震える。反論は出なかった。


「隊長。言い方が過剰です」


 クライスが静かに口を挟む。


「そう?」


「証言者を追い詰めすぎると、証言の精度が落ちます」


「あら、それは困るわね」


 少しも困っていない顔で答え、ロザリアはハインへ一歩近づいた。


「では、聞き方を変えましょう。襲われた時、あなたは何をしていたの?」


 ハインは唇を噛んだ。


「……抵抗しませんでした」


「できなかった、ではなく?」


「できなかった、もあります。私は戦えません。武器もありませんでした。けれど、それだけではありません」


「続けて」


「あの人数に囲まれて、積荷を守るのは無理だと判断しました。私が荷を抱えたり、声を上げたりすれば、私は殺される。御者も巻き込まれる。そう思いました」


 震えは残っている。それでもハインは途中で言葉を止めなかった。


「だから、馬車の隅で動きませんでした。目を逸らして、脅威に見えないようにしました。……情けない話ですが、それが一番、生き残れる可能性が高いと思ったんです」


 ロザリアはしばらく黙ってから、薄く笑った。


「情けないけれど、悪くない判断ね」


 ハインの肩が小さく揺れる。


「褒めているのですか」


「まさか。けれど、死んだ商人より、生きて覚えている商人の方がずっと使えるわ」


 嫌な言い方だった。それでもハインは目を伏せずに答えた。


「……証言なら、できます」


「いい返事ね。では、あなたが“脅威に見えないようにしていた”間、盗賊たちは何をしていたの?」


「荷を選んでいました。宝石や高級食材は見ていましたが、持っていきませんでした。金貨も一部だけです。けれど、薬草、包帯、油、保存食、毛布の箱は、印を見て選んでいました」


「印?」


 アルドが訊く。


「王家買い上げ予定の荷には、受け渡し用の印をつけています。中身が分かるように、商人同士で使う簡単な印もあります」


「盗賊は、それを知っていた?」


「そう見えました。少なくとも、迷ってはいませんでした。箱の印を見て、これだ、と」


 レイスが目を細めるより先に、ロザリアが言った。


「つまり、荷の中身をある程度知っていた。あるいは、印の意味を知っていた者が混ざっている」


「俺も同じ考えです」


 レイスが頷く。


「ようやく、役に立つ証言が出たわね」


 ハインは悔しそうに目を伏せたが、すぐにもう一つ思い出したように顔を上げた。


「……盗賊の一人が、酒を見つけて笑っていました」


「続けて」


「他の男が、それを持っていくなと言ったんです。でも、そいつは……一本くらいいいだろって。笑いながら、荷袋に入れました」


「つまり、統制は完全ではない」


 クライスが言う。


「はい。ただ、救援物資の箱を運ぶ時は早かった。迷いがなかったんです」


 ロザリアは布袋へ収められた赤い短鎖へ目をやった。


「金目の物を残し、救援物資を奪い、酒だけは盗んだ。襲われた商人は戦えず、護衛もいない。盗賊は荷の印を知っていた。現場には赤い短鎖」


 一つずつ事実を並べてから、微笑む。


「金目当ての盗賊なら、下手。嫌がらせなら、上手い。組織的な盗賊なら、統制に穴がある。単なる野盗なら、狙いが綺麗すぎる」


「嫌な事件ね」


 レイスも静かに頷いた。


「俺も同じ考えです。現時点では、赤い短鎖を残す一連の盗賊事件と関連する可能性が高い。ただし、目的は断定できません」


「まともな副隊長ね」


「ありがとうございます」


「褒めていないわ」


「承知しています」


 ロザリアは少しつまらなさそうに目を細め、それから第一部隊全体へ視線を巡らせた。


「さて、黒豹さんたち。あなたたちはどう見る?」


 アルドは馬車を見た。割られた木箱と残された宝石。手つかずの高級食材。その一方で、薬草や包帯を入れていた箱だけが空になっている。


「金目当てだけの盗賊じゃない」


「それは誰でも分かるわ」


 すぐに返された。


「もっと言いなさい」


「混乱に乗じた襲撃ではある。けど、ただ混乱していたから襲ったわけじゃない。少なくとも、何を奪うかは決めていた」


「ええ」


 ロザリアが笑う。


「ようやく、少し会議に参加できたわね」


「ロザリア隊長、それはさすがに」


 ルカが思わず口を挟んだ。


「何かしら、ルカちゃん」


「……いえ」


「賢いわ」


 ルカは口を閉じた。代わりにセレスが静かに言う。


「救援物資を盗むなんて、最低です」


「最低。そうね。とても分かりやすい言葉」


「違いますか」


「違わないわ。ただ、分かりやすすぎる」


 セレスの眉が僅かに動いた。その横で、エディンが柔らかく笑う。


「ロザリアちゃん、うちの子をあんまりいじめないでくれる?」


 ロザリアの視線がエディンで止まった。


「うちの子、ね」


 笑みは残っているのに、声から温度だけが引いていく。


「相変わらず、居場所を作るのがお上手ね。エディン」


「あらぁ、褒めてくれてるの?」


「まさか」


 ルカが二人を見比べ、ルシアンも僅かに眉を寄せる。ノルとゴードは黙ったまま動かなかった。


「あなたがいると、現場の匂いが薄まるのよ」


 ロザリアは言った。


「血も、汗も、恐怖も。全部、笑って包むでしょう?」


「それは悪いことかしら」


「ええ。私は嫌いよ。そういうの」


 エディンは少しだけ間を置いた。


「怖いわねぇ」


「怖がっている顔ではないわ」


「おねぇさん、顔に出にくいの」


「でしょうね」


 それ以上、ロザリアは理由を語らなかった。エディンも聞かず、いつもの笑みを残している。


「隊長。現場検証に戻ってください」


 クライスが低く告げる。


「戻っているわ。今のも現場検証よ」


「違います」


「つまらない子」


「繰り返します。違います」


 ロザリアは笑い、そのまま仕事へ戻った。


「ハインさん」


「は、はい」


「あなたの商会は、立ち上げてどれくらい?」


「……まだ、一年も経っていません」


「今回の輸送は大きな仕事だった?」


「はい」


「失敗すれば、商会は傾く?」


 ハインは答えに詰まる。ロザリアは待たなかった。


「傾くわね。だから護衛を雇えなかった。雇う金がない。けれど断れば実績を失う。だから受けた。違う?」


「……違いません」


「甘いわ」


 ハインの肩が落ちる。


「ただ、襲われた後の判断は悪くない。抵抗しない。脅威に見えないようにする。見られる範囲だけ見る。生き残って証言する」


 ハインが顔を上げる。


「商人としては弱い。けれど、頭は回るのね」


「……ありがとうございます」


「礼を言われるようなことは言っていないわ」


 ルシアンがハインを見る。


「ハインさんは、あの状況でできることをしたんですね」


「できることが少なすぎたとも言えるわ」


 ロザリアはすぐに返したが、そこで切り捨てはしなかった。


「けれど、ゼロではなかった。そこだけは、評価してあげる」


 ハインは唇を噛み締める。


「次は、護衛を雇います」


「雇える商会になれたらいいわね」


 また鋭い言葉が返ってきた。それでも、今度のハインは目を伏せたまま終わらなかった。


「あの荷が届かなければ、困るのは外縁の人たちです」


 声はまだ震えている。


「商会の信用も落ちます。もちろん、それも怖いです。でも……でも、あれは昨夜、灯りを消して震えていた人たちに届くはずのものでした。薬草も、包帯も、油も、保存食も、毛布も」


 ロザリアは黙って聞いている。


「私は積荷を守れませんでした。だから、偉そうなことは言えません。でも、あの荷だけは……取り戻したいです」


 ルシアンの表情が少し柔らかくなり、セレスもハインを見る目を変えた。ノルが小さく言う。


「最初からそれ言えばよかったのに」


「ノルさん」


 ルカが小声でたしなめる。


「何?」


「いや、でも、ちょっと分かります」


「でしょ」


 エディンは何も言わずハインを見ていた。ロザリアの視線が一瞬だけそちらへ流れたが、今度は何も言わない。アルドは街道脇の林を見る。夜骸ではない。人間が昼間に、人間へ届けるための荷を奪っていった。


「追跡は」


 クライスが答える。


「第三部隊が追跡を継続しています。ただし、荷車の跡は林の奥で消されています。途中で荷を分けた可能性があります。全てをすぐに追うのは難しいでしょう」


「第一も動けます」


 アルドが言うと、ロザリアが笑った。


「もちろん、動いてもらうわ。あなたたち、そういうの得意でしょう? 夜骸を斬るより、少し面倒な相手だけれど」


「相手が人間でも、被害が出ているなら動きます」


「綺麗な言葉」


 ロザリアの声が少し低くなる。


「でも気をつけなさい、アルド隊長。人間相手に綺麗でいようとすると、足を掬われるわよ」


 アルドは何も返さず、その言葉を受け止めた。


「あなたたち黒豹は、夜に強い。夜骸に強い。民にも好かれている。けれど昼の盗賊は、そういう綺麗な評判を嫌な場所から噛んでくる」


 その視線がエディンへ流れる。


「特に、隠し事の多い人がいる部隊はね」


 空気が止まった。エディンは笑ったままだったが、レイスの声が低くなる。


「ロザリア隊長。それはどういう意味ですか」


「あら、怖い顔」


「質問に答えてください」


「意味なんてないわ。ただの嫌味よ」


「なら、不要です」


 クライスも続く。


「隊長。不要です」


「二人に言われると、さすがにしつこいわね」


 ロザリアは肩をすくめた。


「ごめんなさいね、エディン。あなたを見ると、どうも余計なことを言いたくなるの」


「おねぇさん、人気者だから」


「そういうところよ」


 二人は笑っている。だが、先ほどまでの軽口と同じ空気ではなかった。ハインも不安げに視線を動かしている。アルドが一歩前へ出た。


「ロザリア隊長。第一部隊は何をすれば」


 ロザリアはすぐに仕事の顔へ戻る。


「林の先の集落を当たって。盗まれた荷は量がある。どこかで隠すか、売るか、配るか、燃やすかしなければならない」


「燃やす?」


 セレスが反応した。


「嫌がらせならね。けれど、それは一番つまらない使い方。薬草も包帯も油も毛布も、必要な人間に渡せば感謝される。必要な人間から奪えば恨まれる。どちらにも使える荷よ」


 レイスが小さく頷く。


「俺も同じ考えです。奪った側が物資をどう扱うかで、目的が見えてくる可能性があります」


「そう。だから急ぎなさい」


 ロザリアは林へ目を向けた。


「盗賊が金ではなく安心を盗んだのなら、次に売るのは恐怖かもしれないわ」


 風が街道を抜け、馬車の裂けた布を揺らした。赤い短鎖はすでに布袋へ収められている。それでも、襲撃の跡は何一つ消えていなかった。


「お願いします」


 ハインが小さく頭を下げる。


「あの荷を、取り戻してください。私は……守れませんでした。けど、あれが届かないと、本当に困る人たちがいます」


 アルドは若い商人を見る。護衛を雇えず、襲われた時には抵抗しなかった。それでも生き残るために身を縮め、盗賊が何を選び、何を話したかを覚えていた。


「分かった」


 アルドは答えた。


「取り戻せるとは、まだ言い切れない。でも、追う」


「ありがとうございます」


「優しいわねぇ、黒豹さん」


 ロザリアが小さく笑う。


「優しさだけで追うわけじゃありません」


「あら」


「赤い短鎖がある。過去の件とも繋がるかもしれない。なら、俺たちが追う理由はあります」


「そう。なら、せいぜい昼の道で転ばないようにね」


 ロザリアは背を向けた。


「クライス、記録を」


「既に」


「本当に可愛げがない」


「必要ありません」


 第一部隊も林へ入る準備を始める。ルカが双銃の位置を確かめ、ノルは翠穿《すいせん》を肩に掛け直した。セレスは地面へ残った荷車の跡を追い、ルシアンは出発前に御者の腕をもう一度確認している。ゴードは黙って傾いた馬車の車輪を支えた。最後にエディンがロザリアの横を通る。


 すれ違いざま、ロザリアが低く囁いた。


「あなた、いつまで黒豹の中で笑っているつもり?」


 エディンは足を止めなかった。


「みんなが笑ってくれる間は、かしらねぇ」


「白々しい」


「よく言われるわ」


「嫌いよ、そういうところ」


「知ってる」


 返した声は軽いが、いつもの甘さは薄かった。ロザリアは遠ざかる背中を見送る。


「本当に、嫌い」


 誰にも届かないほど小さな声だった。昼の陽は高く、月も出ていない。街道に残っているのは裂かれた馬車と血の跡、震えの残る商人、奪われた救援物資、そして人間の手で落とされた赤い短鎖だった。アルドは荷車の跡が消えていく林の奥へ目を向けた。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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