それぞれの答え
夜明けから、まだ間もない。白塔議室には朝の光が差し込んでいたが、円卓を囲む顔に眠気を隠せている者はいなかった。第一部隊隊長アルドと副隊長レイス。第二部隊のヴァルムとエルヴィナ、第三部隊のロザリアとクライス、第四部隊のフィオナとマリエル、第五部隊のベルンとラウラ。上座にはローグレス。その後ろでは、ジークが記録の準備を整えている。
昨夜、王都外縁へ現れた雑級およそ五十、低級およそ三十の大群は夜明け前に討たれた。民間人の死者もなく、外縁の集落にも大きな被害は出ていない。作戦だけを見れば、成功だった。だからこそ、今ここで話すべきなのは別のことだった。
「昨夜の件について、各隊の見解を聞く」
ローグレスが全員を見渡す。
「結論を急ぐな。だが、見なかったことにもするな。まずは第二部隊」
ヴァルムは腕を組んだまま口を開いた。
「数が多い。それだけなら珍しい話ではない。問題は、王都外縁であの規模が確認されたことだ。行進だの統率だのは後でいい。まず、外縁防衛の線が甘い」
南西旧街道付近は、国軍の巡回と討祓軍の夜間監視のどちらにも切れ目が生じやすい。そこを抜けられれば、すぐ先には農地と小集落がある。エルヴィナも資料を開いた。
「補足します。昨夜の群れは王都へ直進していません。しかし進路上には灯りの少ない農道と、水路沿いの細道がありました。群れが意図していたかどうかは別として、地形上、発見が遅れやすい経路です」
「つまり、穴を通っただけだと?」
ロザリアが微笑んだ。
「巨象らしい答えね。穴があったから、そこを通った。単純で可愛いわ」
「単純なことを潰せない軍は負ける」
「あら、怒った?」
「怒る価値もない」
「議事中です」
クライスが淡々と割って入ると、ロザリアは肩をすくめた。
「はいはい」
ローグレスはそのやり取りには触れず、次へ進める。
「第三部隊」
「私はね、夜骸そのものよりも、言葉の方が気になるわ」
「言葉?」
アルドが聞き返した。
「行進。誰が最初にそう言ったのかしら」
ロザリアは円卓を指先で軽く叩く。
「雑級と低級が列を作っていた。散らなかった。だから行進に見えた。そこまではいいわ。でも、その言葉が昨夜のうちに外縁の兵、農地の住民、伝令の口を通ってここまで来た。怖いと思わない?」
フィオナが資料から顔を上げる。
「噂の方を見ているんですね」
「ええ。夜骸が本当に行進したかどうかより、人間が『夜骸が行進した』と信じる方が厄介な時もあるわ」
クライスが続けた。
「第三部隊としては、目撃情報の出どころと広がり方を確認する必要があります。事実の確認と噂の制御は別です」
「制御だと?」
ヴァルムの声が低くなる。
「事実を伏せろと言うつもりか」
「違います。事実と呼べるものだけを残すべきだと言っています。『行進』は目撃者の印象です。記録上は『集団移動』で十分です」
「その言い換えで民が落ち着くなら苦労しない」
ベルンが重く言った。ロザリアがそちらを見る。
「鉄狼はどう見るの?」
「民は言葉ではなく、夜に反応する」
昨夜、外縁の住民は灯りを消すよう命じられ、農地から下げられた。詳しい理由も分からないまま、近くへ夜骸の群れが来ていることだけを知らされた。
「次に同じことが起きれば、勝手に荷をまとめて逃げる者が出る。墓を守ろうと残る者も、畑を捨てられない者も出る」
ラウラが続ける。
「さらに『王都の近くでも安全ではない』という話が広がります。そうなれば避難所へ人が集中し、入れなかった者が不満を抱きます。商人は街道を避け、物資は遅れる。結果として、夜骸ではなく人の流れで被害が出る可能性があります」
「だから封鎖を強める?」
フィオナが尋ねる。
「必要なら」
ベルンは迷わなかった。
「文句を言えるまま帰すのが第五の仕事だ」
「でも、強く閉じすぎれば隠れて逃げる人も出ます」
マリエルが思わず口を挟み、直後に少し肩を縮めた。フィオナは責めず、そのまま続きを促す。
「その……第五部隊の封鎖が悪いという意味ではありません。ただ、民が理由を知らないまま閉じ込められると、別の道を探すと思います。昨夜みたいに灯りを落とした時、勝手に森側へ逃げる人がいたら治療班も追えません」
ラウラはマリエルへ向き直った。
「正しい懸念です。だから言葉が必要になります。全てを話せなくても、どこへ行けば安全か、何をすれば危険か。それだけは届かせる必要があります」
「ほら。結局、言葉でしょう?」
ロザリアが微笑む。
「噂と通達を同じ場所に置かないでください」
「似てるじゃない」
「違います」
「つまらない子ねぇ」
「繰り返します。議事中です」
ヴァルムが低く唸る。
「話が逸れている。問題は、なぜ群れが散らなかったかだ」
「それも言葉の問題よ。散らなかったように見えたのか、本当に散らなかったのか」
「現場にいた俺の隊を疑うのか」
「疑うのではなく、切り分けているの」
そこで初めて、ロザリアの笑みが僅かに薄れた。
「あなたの隊が見たものは事実。でも、その事実の意味はまだ決まっていない。違う?」
ヴァルムは答えず、不快そうに目を細めた。ローグレスが視線を移す。
「第四部隊」
「第四部隊としては、原因を一つに絞る段階ではないと考えます」
フィオナの穏やかな声が、それまでぶつかっていた言葉の熱を少しだけ下げた。
「昨夜の群れについて、まず照合が必要です。出現地点、進行方向、月の位置、風向き、周辺の灯り、人の移動、家畜の有無、直前の戦闘音、血の匂い、巡回兵の経路。どれか一つが原因とは限りません」
マリエルも手元の資料を開く。
「過去の記録にも、雑級や低級が同じ方向へ移動した記録はいくつかあります。ただ、昨夜ほど数が多く、散開が少ないものは見当たりません。なので、珍しいのは確かです。でも、初めてかどうかはまだ断定できません」
「初めてでないなら問題ない、と?」
ベルンに問われ、マリエルは首を横に振った。
「逆です。初めてではないなら、これまで見落としていた可能性があります。初めてなら新しい異常です。どちらでも、記録の取り方を変える必要があります」
「第四部隊では昨夜の個体の残骸、移動痕、周辺土壌、血痕、家畜や野生動物の死骸の有無を確認します」
フィオナが引き継ぐ。
「加えて、キレイナ町の三つ首の記録とも比較します」
「また三つ首か」
「繋げるには早いです」
ヴァルムの一言へ、フィオナはすぐに返した。
「ですが、切り離すにも早いです」
「白鹿は慎重ねぇ」
「慎重でなければ見落とします」
「見落としすぎると、今度は何も決められないわ」
「決めるために調べます」
声を荒らげることなく、フィオナは譲らなかった。ローグレスの視線が第一部隊へ移る。
「アルド」
「はい」
「お前たちはどう見る」
アルドはすぐには答えなかった。薄い雲の下を、同じ方向へ進み続けていた夜骸。討たれて数を減らしても、ほとんど散らなかった群れ。そして夜明け前、留帳を閉じたレイスの顔が頭に残っている。
「正直、分かりません。ただ、普通ではないと思いました」
「根拠は」
ヴァルムが問う。
「勘です」
案の定、ヴァルムの顔が険しくなった。
「会議で勘を出すな」
「はい。なので、結論にはしません」
アルドはそのまま続ける。
「昨夜、俺たちは後方待機でした。ローグさんが『何か混ざっていた場合に備えろ』と判断したからです。結果として俺たちは出ませんでした。でも、もしあの群れの後ろに別のものがいたら、出るべきだったのは第一部隊だったはずです」
ローグレスは何も挟まない。
「俺が気にしているのは、群れの理由より、その後です。あの規模の群れを見た時、俺たちは何を警戒するべきなのか。群れそのものか、群れに混ざる何かか、それとも群れで隠される別の動きか」
ロザリアの笑みが少し深くなった。
「黒豹らしくなってきたわね」
その横でレイスが一歩前へ出る。
「第一部隊副隊長としては、記録項目追加に賛成します。昨夜の群れについて、統率と断じる根拠はありません。ただし、単なる偶然として切り捨てるにも材料が足りません」
「また材料か」
「判断には必要です」
レイスは円卓の各隊へ視線を移した。
「現在出ている見解は、大きく分けて五つです。第二部隊は外縁防衛上の穴。第三部隊は言葉と噂、あるいは人為的な利用可能性。第四部隊は環境要因と過去記録の照合。第五部隊は民間統制と避難導線。第一部隊は、群れそのもの以外への警戒」
「綺麗に並べたわね」
「並べただけです。まとまってはいません」
「自分で言うのか」
「はい。まとまっていません」
レイスは即答した。
「ですが、まとまっていないことが現状です」
同じ夜を見ても、各隊が最初に見るものは違っていた。第二部隊は防衛線を、第三部隊は言葉を、第四部隊は記録を、第五部隊は民を見ている。第一部隊が気にしているのは、群れの向こうにまだ何かあるのではないかということだった。どれか一つだけが間違っているとは、まだ言えない。
「面白いわね」
ロザリアが呟く。
「何がだ」
「全員、別々の正しさで怒っているところ」
「笑うことではない」
ベルンが返す。
「笑ってないわ。感心しているの」
「余計に悪い」
クライスも口を挟む。
「隊長、言い方を変えてください」
「じゃあ、こう言うわ」
ロザリアは円卓を見回した。
「昨夜の夜骸より、この会議の方がよほど散らかっている」
今度は誰も否定しなかった。ローグレスが深く息を吐く。
「十分だ」
全員の視線が上座へ集まった。
「原因は断定しない。断定できる段階にない。昨夜の件を公式記録上は『南西外縁集団移動事案』とする。『行進』という表現は外へ出すな」
背後でジークの筆が動き始める。
「第二部隊は南西外縁の夜間防衛線を見直せ。国軍には巡回経路の照会を出す。ただし、指揮権の話にするな。揉めるだけだ」
「承知した」
「第三部隊は噂の出どころを拾え。目撃者の言葉、兵の言葉、伝令の言葉を分けろ。人為的な混乱があるなら早めに潰せ」
「はいはい。梟らしい仕事ね」
「返事は一度でいい」
「はい」
「第四部隊は残骸と移動痕、環境要因を調べろ。キレイナ町の記録とも照合しろ。ただし、繋がっている前提で見るな」
「承知しました」
「第五部隊は外縁集落の避難導線を整理し直せ。民へ出す言葉はラウラが組め。怖がらせず、舐めさせるな」
「承知しました」
最後にローグレスがアルドとレイスを見る。
「第一部隊」
「はい」
二人の声が重なった。
「当面、特異個体、または群れに混ざる異常個体への即応待機を命じる。通常任務は続けろ。ただし、昨夜と同規模以上の群れ、または中級以上の混在が確認された場合、俺の判断で動かす」
「了解しました」
「承知しました」
「昨夜の答えを、今日ここで作るな。作れば楽になる。だが、間違えた答えは現場を殺す」
それを最後に、ローグレスは会議を切った。
「以上だ。解散」
椅子を引く音が重なり始める。真っ先に立ったヴァルムは、もう昨夜の配置図のことを考えていた。
「エルヴィナ、昨夜の配置図を持ってこい。南西だけでは足りん。外縁全周を見る」
「既に手配しています」
「早いな」
「必要な整理です、隊長」
「……便利な言葉だな、それは」
二人はそのまま議室を出ていく。続いてベルンが立った。
「ラウラ」
「はい」
「地区長を集める。説明は短くしろ」
「短く、誤解されにくく、命令に聞こえすぎないようにします」
「難しいことを言う」
「難しいから、私がやります」
ベルンは一度だけ頷き、ラウラを連れて出ていった。
「マリエル、少し休めましたか?」
フィオナに聞かれ、マリエルは小さく頷く。
「はい。少しだけ」
「では、無理をしない範囲で急ぎましょう」
「無理をしない範囲で急ぐの、難しいですね……」
「そうですね。でも、それが私たちの仕事です」
第四部隊の二人も資料を抱えて後を追う。最後まで椅子に残っていたロザリアが、ようやく立ち上がった。
「クライス」
「はい」
「噂を拾うわよ」
「承知しました」
「楽しそうに聞こえる?」
「聞こえます」
「あら、正直」
「不適切です」
「はいはい」
扉へ向かったロザリアが、一度だけアルドとレイスを振り返る。
「黒豹さんたち」
「はい」
「夜の奥ばかり見ていると、足元の昼に噛まれるわよ」
アルドは一瞬考えてから頷いた。
「覚えておきます」
「素直ねぇ。可愛くないわ」
「聞き流してください」
クライスが横から言う。
「いや、今のは聞き流さない方がいい気もします」
レイスが返すと、ロザリアは楽しそうに笑いながら議室を出ていった。残ったアルドは、まだ円卓を見ていた。
「行くぞ、アルド」
「ああ」
レイスが留帳を抱え直す。アルドは立ち上がる前にローグレスへ顔を向けた。
「ローグさん」
「なんだ」
「昨夜の件、本当に陛下へ?」
「報告する。王都外縁であの規模だ。黙って済む話じゃない」
「分かりました」
「お前たちは休め。隊にもそう伝えろ」
「はい」
二人が出ていくと、白塔議室にはローグレスとジークだけが残った。ジークは会議記録を揃えて束ねる。
「王城への報告書、必要分をまとめます」
「ああ」
「同行は」
「いらん。これは俺が直接言う」
「承知しました」
◇
王城の朝は、白塔議室よりずっと明るかった。磨かれた床と高い柱の間に深紅の絨毯が伸び、その奥で王国旗を背負うように現王オルディスが座している。ローグレスはその前で片膝をついた。
「王都討祓軍総隊長ローグレス、昨夜の件についてご報告に参りました」
「顔を上げよ」
ローグレスが顔を上げる。
「王都外縁に夜骸の大群が出たと聞いている」
「はい。雑級およそ五十、低級およそ三十。第二部隊、第五部隊、第四部隊にて対応。第一部隊は後方待機。民間人の死者は出ておりません」
「それはよい報せだ」
「ですが、良い報せだけではありません」
オルディスは続きを促した。
「群れは王都へ直進しておりません。しかし列を維持して移動していたとの目撃があり、現場記録でも散開が少なく、逃走個体もほぼ確認されておりません」
「夜骸が、何かに従っていたと?」
「断定はできません。現場ではそう見えた。記録上も異常です。ですが原因は不明。戦場の音、人の気配、地形、灯り、あるいは偶然。どれも切り捨てる材料がありません」
「正直だな」
「誤った断定は、現場を殺します」
「討祓軍としては」
「外縁防衛、民間統制、記録照合、噂の確認を進めます。特異個体、または群れに混ざる異常個体が確認された場合は第一部隊を即応させます」
「国軍との連携は」
「巡回経路の照会を行います。ただし、夜骸対応の指揮は王都討祓軍が維持します」
「よい」
短い返答だった。
「民へは」
「恐怖を煽らず、危険を隠しすぎず。第五部隊を中心に外縁集落へ通達します」
「難しい言葉だ」
「難しい現場です」
オルディスは僅かに息を吐いた。
「ローグレス」
「はい」
「王国を夜から守れ」
ローグレスは深く頭を下げる。
「命に代えても」
「命を捨てるな。王都討祓軍の者にも、捨てさせるな」
その言葉に、ローグレスの眉が僅かに動いた。
「……承知しました」
「下がれ」
「はっ」
深く礼をして、ローグレスは王の間を出ていった。扉が閉じても、オルディスはしばらくその方を見ていた。やがて、静かに名を呼ぶ。
「ジーク」
王の背後、光の届きにくい柱の陰から一人の男が姿を現した。先ほど白塔議室で秘書官として記録を取っていた時とは違い、今は静かに膝をついて頭を垂れる。
「お呼びでしょうか、陛下」
「聞いていたな」
「はい」
「どう見る」
ジークは少し間を置いた。
「夜骸の意図は分かりません。ですが、人は意図を作ります」
「ロザリアと似たことを言う」
「彼女は優秀です」
「危ういがな」
「危うさを自覚している者は、まだ扱えます」
オルディスは窓の外へ視線を向ける。朝の王都では、昨夜すぐ近くで大群が討たれたことをまだ知らない者もいるまま、一日が始まっていた。
「国をどう守る」
「表は、ローグレス様が守ります。夜の怪物、民の混乱、外縁の不安。それらは王都討祓軍が受けるべきものです」
「裏は」
「灰が被ります」
オルディスの表情は変わらない。
「踏みにじることになるぞ」
「既に数百年踏みにじっています。今さら清い手では守れません」
「我は王だ」
「はい」
「清くあれぬことを、民は知らん」
「知らぬまま生きられるなら、それが一番です」
オルディスは目を閉じた。
「調べろ」
「はい」
「昨夜の群れを利用しようとする者を。外縁の不安に火をつける者を。教会、貴族、商会、盗賊。どこからでもいい。揺れる場所を見つけろ」
「承知しました」
「だが、ローグレスの邪魔はするな」
王の声が僅かに低くなる。ジークは一拍置いて頭を下げた。
「承知しました」
ほどなくして、柱の陰には誰の姿もなくなった。オルディスは一人、何事もなかったように動き始めた王都を窓越しに見ていた。
◇
白天還教の大聖堂では、朝の鐘が鳴っていた。白い塔の内部に淡い青の布が垂れ、月と海をかたどった紋が朝の光を受けている。香の匂いが薄く残る祈りの間の奥で、大還師は白塔還師から報告を受けていた。
「王都外縁で、大きな夜が動いたそうですね」
「はい。王都討祓軍が討ったとのことです。墓地への被害は、現時点では確認されておりません」
「現時点では、ですか」
「外縁の墓地、墓守、周辺集落の確認は続けております。ですが昨夜の混乱で、墓地へ向かった者がいないとは断言できません」
大還師は窓の外へ目を向けた。遠くに王都の墓地の白い石が見える。
「恐怖は、人を墓へ走らせます。死者のそばにいれば守られると思う者もいる。死者を置いて逃げられぬ者もいる。墓を守るために、生者が夜へ出る」
そこで目を伏せる。
「それでは、祈りではありません」
「……はい」
「外縁の還師たちへ伝えなさい。夜間の墓地滞在を禁じます。墓守にも同じく。どうしても留まる者がいるなら説得しなさい。力で引き剥がす必要があるなら、王都討祓軍か国軍に繋ぎなさい」
白塔還師が僅かに顔を上げた。
「墓を離れよ、と伝えるのですか」
「命を残せ、と伝えるのです。死者は祈りで守ります。けれど、生者はまず生きていなければならない」
白塔還師はその言葉を受け止めるように黙っていた。
「周辺集落への還師の派遣も増やしなさい。ただし、不安を煽ってはなりません。夜骸の数を語る必要はない。行進などという言葉も使わない」
「では、どのように」
「夜には出ないこと。墓地へ向かわないこと。家族を一人にしないこと。死者を案じるなら、朝に祈ること」
「承知いたしました」
「祈りだけで民は落ち着きません」
大還師の視線が、月と海の紋へ向く。
「ですが、祈りのない恐怖は、すぐに怒りへ変わります。怒りは墓を荒らし、墓を荒らした者は自分が何を壊したのか分からなくなる」
「墓地を守るために、生者を守るのですね」
「逆です」
大還師はすぐに返した。
「生者を守るために、墓地を守るのです。死者の眠りが乱れれば、生きている者の心も乱れます。どちらかだけを選ぶ者に、祈りは扱えません」
白塔還師は深く頭を下げた。
「すぐに通達いたします」
「ええ」
大還師は再び墓地を見る。
「死者を白き天へ。生者を、まだこちら側へ。死者を守るために、生者を死なせてはなりません」
朝の鐘の余韻が消えていった。
◇
王都から離れた古びた酒場の地下には、まともな灯りがほとんどなかった。壁の小さなランプが濁った光を落とす床には、空の酒瓶も、半分だけ残った瓶も、割れて染みを作った瓶も転がっている。その中心で、赤い長髪の女が片膝を立てて座っていた。片手には酒瓶。腰には赤い短鎖。女が瓶を傾けて喉を鳴らしたところで、向かいに立つ男が声をかける。
「団長」
無精髭を生やし、頬には傷がある。腰に二本の短剣を下げた、見るからに柄の悪い男だった。
「外縁が騒がしくなってる。王都討祓軍も国軍も、巡回を増やすだろうよ」
「だろうな」
赤い長髪の女は酒瓶を下ろした。
「面倒だと思うか?」
「面倒だろ。道が締まる。荷も動かしにくくなる。貴族連中も護衛を増やす」
「だからいいんじゃねぇか」
女が笑う。
「何がいい」
「夜が怖くなれば、人は昼に動く」
赤い短鎖を指先で弄びながら続けた。
「昼に荷を運ぶ。昼に金を動かす。昼に兵を出す。夜骸が怖ぇからな。王家の犬共は夜を見る。軍は外縁を見る。狼は民を閉じる。教会は墓を見る」
女の口元が吊り上がる。
「じゃあよ、昼の道は誰が見るんだ?」
男は少し黙ったあと、にやりと笑った。
「俺たちか」
「分かってんじゃねぇか」
「けどよ、締まりはきつくなるぜ。下手に動けば梟に嗅がれる」
「嗅がせろ」
男の笑みが止まった。
「……団長?」
「梟どもが嗅ぎに来るなら、餌を置いてやりゃいい。赤い短鎖を一本、わざと見せる。古い道に足跡を残す。安い商人を一つ襲う。そうすりゃ、連中は『人間がこの騒ぎを使っている』と思う」
「実際、使うんだろ」
「違ぇな」
女は酒瓶を床へ置いた。
「俺たちは、王国が勝手に怖がって作った隙間を歩くだけだ」
男は頭を掻く。
「相変わらず、言い方が悪いな」
「褒めてんのか?」
「少しな」
「本音は?」
「怖えよ」
女が声を上げて笑い、酒場の地下にその声が響いた。
「王都の連中は夜骸に怯える。教会は墓を守る。王は国を守る。討祓軍は民を守る」
立ち上がった女の赤い髪が、ランプの光を受けて揺れる。
「じゃあ、踏まれた奴らは誰が守る」
男は答えない。女は腰の短鎖を握った。
「俺たちだ」
それだけは笑わなかった。
「夜骸が行進したんだろ?」
次にはもう、口元が歪んでいる。
「なら、俺たちも歩こうぜ」
「どこへ」
「王国が一番嫌がる道だ」
男も笑った。
「派手にやるか?」
「まだだ。まずは苦しませる。守るものが多い奴ほど、少し揺らすだけで勝手に傷つく」
女は残った酒を一気に飲み干し、空になった瓶を床へ落とした。乾いた音が地下へ転がる。
「王都に教えてやるよ」
赤い長髪の女は笑った。
「夜だけが怖ぇわけじゃねぇってな」
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




