半年後の黒豹
王都の北に、キタ村という小さな村がある。王都から馬で半日ほど。街道沿いには畑が広がり、晴れた日には王都の白い塔が遠く霞んで見える。その夜、村外れの林で三つの影が確認された。複数の獣を無理に継ぎ合わせたような輪郭。鳥のような翼を持ちながら地を這う四肢を備え、狼に似た顎の奥から濁った息を吐いている。背には角とも骨ともつかない突起が不揃いに並んでいた。
雑級でも、低級でもない。中級夜骸、三体。以前なら、それだけで村一つが夜を越せなくなってもおかしくない数だった。
◇
王都討祓軍本部へ報せが届いたのは、日が傾き始めた頃だった。ローグレスは報告書を閉じると、執務机の前に立つアルドを見た。
「第一部隊を出す」
「了解しました」
「中級三体だ。油断はするな」
「分かってます」
隣に立つレイスは報告書の写しへ目を通しながら、僅かに眉間へ皺を寄せた。
「村人の避難はどうなっていますか」
「国軍が昼のうちに済ませている。だが、夜が更ければ周辺に被害が広がる」
ローグレスは椅子から立ち上がった。
「アルド」
「はい」
「怪我人を出すな。無理だと思えば退け」
アルドは少しだけ口の端を上げる。
「退く判断も、半年で多少は覚えましたよ」
「多少か」
「かなり、です」
ローグレスが目を細めた。
「ならいい。行け」
「はい」
アルドとレイスは踵を返した。扉へ向かう途中、隣から小声が飛んでくる。
「多少は、じゃない。かなりでも足りない」
「うるさい」
「本当のことだ」
「お前、副隊長っていうより俺の減点係だよな」
「今さら気づいたのか」
アルドは言い返しかけたが、そのまま扉を開けた。バルトの墓前で再び剣を握ってから、半年が経っていた。長いとは言えない。それでも第一部隊は、その時間を止まったまま過ごしてはいなかった。
◇
キタ村の夜は静まり返っていた。避難を終えた家々に灯りはなく、月明かりを受けた畑では風に揺れる麦の音だけが続いている。その向こう、林の奥から低い唸りが三つ重なった。第一部隊は村と林の間に広がる畦道へ展開していた。先頭にアルド、その少し後ろにレイス。右にはゴードとエディン、左にはルカとセレスが立ち、後方の納屋の屋根ではノルが翠穿を構えている。ルシアンは誰にでも動けるよう、中央寄りに位置を取った。
背後には、避難を終えた村がある。三体とも、そこへ通さない。林の枝を折りながら、一体目が姿を現した。狼に似た頭と鳥の脚を持ち、片側だけ肥大した腕を引きずっている。背を突き破った肋骨のような突起が歩くたびに擦れ、乾いた音を鳴らした。
続いて、二体目が地面を這うように現れる。蛇のように長い胴へ獣の前脚が六本生え、顔ではなく喉元近くに口が裂けていた。三体目は木々の上から落ちてきた。翼を畳んだまま四肢で地面を掴み、月を背にしてゆっくりと首を傾ける。アルドは緋喰刃の柄へ手を置いた。
「三体。村側には通すな」
「了解」
レイスが周囲を一度見回す。
「ルカ、左を引っ張れ。セレス、足場を崩せ。ゴードとエディンは右、頼む。ルシアン、抜けたのを止めろ。ノル」
屋根の上で翠穿の銃身が僅かに動いた。
「見えてる」
「頼む」
「言われなくても」
その声を合図に、ルカが左の夜骸へ駆けた。正面から迫る顎の下へ身体を沈め、牙が頭上を抜ける間に双銃を撃ち込む。首を弾かれた夜骸がルカを追って振り向くより早く、片方の銃を宙へ放って短剣を抜き、前脚を斬りながら跳び上がった。落ちてきた銃を掴み直した時には、もう顎の届く場所から離れている。
「こっちですよ」
夜骸が地面を噛み砕いた。
「相変わらず動きがうるさい」
屋根の上からノルの声が落ち、続けて翠穿が鳴る。
「褒め言葉として受け取ります!」
「違う」
風を纏った弾丸は首を振る夜骸に合わせて軌道を変え、ルカが裂いた傷へ食い込んだ。黄色い雷が弾けたことで前脚が半拍遅れ、ルカはその隙にさらに村から離れる方向へ夜骸を引いていく。その横では、地を這う二体目が六本の脚で一気に距離を詰めようとしていた。
「水地参式 泥蓮陣!」
セレスが畑へ魔力を流すと、乾いていた土が水を含んで沈んだ。踏み込んだ六本脚がまとめて泥へ取られ、長い胴体が勢いを殺されて大きく傾く。
「ルカ、右に抜ける」
「見えてます!」
ルカは双銃を撃ちながら横へ滑り、追ってきた一体目の進路をさらに外へ向けた。敵を引きつけたまま、ノルの射線もセレスの足場も塞がない。半年の間に、その速さは一人で先へ飛び込むためだけのものではなくなっていた。一方、右側では肥大した腕を持つ夜骸がゴードへ突っ込んでいた。巨体ごとの突進を大盾で受けた瞬間、ゴードの足元で土が深く沈む。それでも一歩も退かずに盾を支え、押し返そうとする夜骸の正面をその場へ縫い止めた。
「止めた」
「ゴードちゃん、ほんと頼もしいわぁ」
エディンは大剣を肩から下ろすと、ゴードの盾へ意識を奪われた夜骸の側面へ滑り込んだ。一撃で肥大した腕を断ち、傾いた巨体へ返す刃を走らせて首元を深く裂く。黒い飛沫を身を捻って避けた頃には、アルドが開いた正面へ踏み込んでいた。
「アルドちゃん、開いたわよぉ」
「助かります」
緋喰刃が鞘を離れ、刃を包んだ炎へ風が絡む。
「豪炎参式 豪炎刃!」
伸びた炎の刃が胸を深く裂き、奥に隠れていた核を捉えた。手へ返った硬い感触が砕けると、炎が内部へ流れ込み、夜骸の身体がその場へ崩れ落ちる。だが、一体目を倒したことで戦線の中央に隙間ができた。三体目が翼を大きく開き、地面すれすれを滑るようにそこを抜ける。向かう先は村だった。
「行かせない」
ルシアンが進路へ入る。
「水流参式 護水壁!」
広げた両手の前に水が立ち上がり、突っ込んできた夜骸を真正面から受け止めた。水壁は大きく撓み、ルシアンの靴も土の上を滑ったが、巨体を村側へ抜かせない。
「セレス、左下」
「分かった!」
セレスは水壁へ押し留められた夜骸の側面へ走り込み、脚の付け根へ毒を含んだ短剣を入れた。痛みに翼が大きく振られたところへノルの弾丸が傷口を追い、さらに毒を押し込む。
「毒入り。効きは悪いけど、十分」
「十分だ」
レイスの足元から水が走り、夜骸の脚と翼へ絡んだ。
「雷流参式 雷鎖!」
雷を帯びた水が締まり、飛び上がろうとした巨体を地面へ引き戻す。拘束された夜骸が翼を振って暴れる間に、ルシアンも水壁を解いて攻撃へ切り替えた。
「旋風弐式 風槍!」
風の槍が翼を貫く。地へ落とされた夜骸の首元へルカが駆け込み、至近距離から双銃を浴びせた。追って首が動けばセレスの泥が脚を奪い、反対へ逃れようとすればレイスの雷鎖が引き戻す。
「深く行きすぎです!」
ルカが叫んだ。
「それはこっちの台詞だ!」
アルドは返したが、追いかけて助けに入ろうとはしなかった。ルカがどこまで踏み込み、ノルがどこへ撃ち、セレスがいつ足場を奪うのか。今は互いに、それが見えている。その時、泥へ沈められていた二体目が長い身体を縮めた。六本脚へ一気に力が入り、拘束を抜けて跳ねようとする。
「レイス!」
「分かってる」
「大流参式 沈沼!」
レイスが進行方向の地面を沈ませた。踏み切ろうとした脚が深く落ち、跳躍の角度を失った夜骸へゴードが横から大盾を叩き込む。押し戻された頭部の反対側へエディンの大剣が入り、長い胴体を横から深く裂いた。そこへノルの弾丸が飛ぶ。一度外へ膨らんだ軌道が再び曲がり、喉元に開いた口の奥へ潜り込むと雷が弾けた。
「アルド!」
レイスに呼ばれた時には、アルドはもう走っていた。
「豪炎参式 豪炎刃!」
緋喰刃から伸びた炎が裂かれた喉を通り、その奥にある核まで焼き切る。長い胴体が泥の中で大きく跳ね、二体目も動かなくなった。残る一体は、雷鎖に縛られたまま地面を抉っている。中級夜骸の力なら、この拘束も長くは持たない。だが、解かせる必要はなかった。
「仕留める。ルカ、誘導」
「はい!」
ルカが正面へ回り込み、夜骸の顔の前を横切る。怒りに任せて首が追ったところへ、セレスが地面の泥を脚へ絡ませた。
「水地弐式 泥衣!」
「ノル」
「もう撃ってる」
弾丸が肩へ入り、麻痺した前脚が沈む。
「ルシアン」
「旋風弐式 風槍!」
風槍が首筋を裂き、逃れようとした四肢へレイスの水と雷が広がった。
「雷流参式 縛陣!」
四肢がまとめて止まる。アルドは開いた正面へ踏み込み、緋喰刃を振り抜いた。
「豪炎参式 豪炎刃!」
炎が胸を抜き、核を焼いた。三体目が濁った声を漏らしながら崩れ落ちると、畑には麦を揺らす風の音が戻った。村の方から悲鳴は聞こえない。アルドは緋喰刃の炎を消し、仲間を見回した。
「負傷は」
「僕はありません」
ルカが答えながら双銃を回す。
「回すと落とすよ」
ルシアンが言った。
「落としませんよ」
「前に落とした」
「それは訓練中です」
「任務中に落としたら、おねぇさん笑っちゃうわぁ」
エディンが大剣を肩へ戻す。
「笑うだけですか?」
「拾ってあげるわよぉ。笑いながら」
「最悪ですね」
屋根から降りてきたノルが二人を見る。
「うるさい。勝った後くらい静かにしなよ」
「ノルさんが一番最初に文句言いましたよね?」
「気のせい」
「気のせいじゃないです」
セレスは自分の靴へまとわりついた泥を見下ろした。
「村の畑、あとで戻せるところは戻した方がいいね」
「そうだな。村長には俺から説明する。損害の記録も取る」
レイスが答える横で、ゴードは大盾についた黒い汚れを黙って拭っている。アルドは改めて全員を見た。中級三体を相手にして、誰も倒れていない。大きな傷もない。半年前なら、もっと力任せに押し返していた。今は誰かが作った隙へ次の一手が入り、その一手がさらに別の仲間へ渡っていく。
「帰るぞ」
「はい」
ルカが明るく返す。
「ミナさんに何か残してもらえる時間ですかね」
「任務後に飯の心配か」
「大事じゃないですか」
「大事だな」
アルドは笑った。夜はまだ深い。それでも第一部隊は、全員で王都へ戻れる。
◇
「中級三体。討伐完了しました」
翌朝、王都討祓軍本部の執務室でアルドが前夜の任務を報告していた。隣ではレイスが留帳を開き、補足を加える。
「村側の人的被害はありません。畑の一部に損傷。俺とセレスで可能な限り復旧しましたが、完全ではありません。補償の確認が必要です」
「分かった。手配する」
ローグレスは報告書へ書き込んだ。
「負傷者は」
「軽い打撲と擦過傷程度です。ルシアンが処置済みです」
「そうか」
筆先が止まり、ローグレスが顔を上げる。
「中級三体を、大きな負傷なしで処理したか」
アルドは肩をすくめた。
「楽ではなかったですよ」
「楽だったとは思っていない。だが、強くなったな」
すぐには返事が出なかった。剣も、魔法も、連携も変わった。変わらなければ、バルトを失った後でも夜へ戻ることなどできなかった。
「……全員、必死でしたから」
「そうか」
ローグレスはそれ以上踏み込まず、机の上へ数枚の報告書を並べた。
「近年、王都近郊で中級夜骸が確認される件数が増えている」
レイスが紙面へ目を落とす。
「今回だけではない、ということですね」
「ああ。北部、東部、南東の街道沿い。数はまだ多くないが、以前なら低級までで済んでいた地域に中級が出ている」
「原因は」
「断定はできない」
ローグレスの声が少し低くなった。
「だが、戦争の激化で国境付近の混乱が増えている。夜骸を引き寄せているだろうし、討ち漏らしも増えているはずだ。国境に近い村々で処理しきれなかったものが、王都近郊へ流れている可能性がある」
戦争も、国境も、夜骸も、もう遠い場所だけの話ではない。
「国軍からは?」
「昼の治安維持と避難誘導で手一杯だ。夜骸対応は我々に回る。だが、これ以上中級以上が増えるなら、第一部隊だけで処理し続けるわけにはいかない」
ローグレスは報告書を閉じた。
「獣章会議を開く」
「各部隊を集めるんですね」
「ああ。お前達は今回のキタ村任務について、現場の報告をしろ」
「了解しました」
レイスも静かに頭を下げた。
◇
白塔議室の中央には、大きな円卓が置かれていた。壁に掲げられているのは、王都討祓軍の五つの獣章。第一部隊の黒豹、第二部隊の巨象、第三部隊の梟、第四部隊の白鹿、第五部隊の鉄狼。その全ての隊長と副隊長が、円卓を囲んでいる。上座にはローグレス。
第一部隊隊長として席についたアルドの隣にはレイスが控え、第二部隊隊長ヴァルムは入室した時から腕を組んでいた。その隣ではエルヴィナが資料を整えている。第三部隊隊長ロザリアは椅子へ腰掛けて爪先を揺らし、副隊長クライスは無表情に控えていた。第四部隊隊長フィオナはすでに何枚かの資料を広げ、マリエルが少し緊張した顔で補助についている。第五部隊隊長ベルンは、いつも通り表情を変えない。副隊長ラウラがその前へ資料を並べたところで、ローグレスが口を開いた。
「始める。議題は、王都近郊における中級夜骸の確認件数増加についてだ」
紙が配られ、レイスが目を通してアルドへ小さく頷く。アルドは席を立った。
「昨夜、王都北部キタ村にて中級夜骸三体を確認。第一部隊で討伐しました。人的被害はありません。畑の損傷が一部あります」
「中級三体で人的被害なし。誇張はないな」
ヴァルムがすぐに訊いた。
「ありません」
「なら、第一部隊の処理能力は以前より上がっていると見ていい」
「そこは否定しません」
ロザリアが頬杖をつく。
「でも、それって喜ぶ話じゃないわよねぇ。第一部隊が強くなったからよかったね、で済むなら会議なんて開かないし」
「その通りだ」
ローグレスが頷いた。フィオナは手元の資料を指で押さえる。
「第四部隊で確認している限り、王都近郊での中級確認は、ここ数年で緩やかに増加しています。ただ、発生地点に規則性があるかはまだ不明です」
「あ、あの……低級の群れが中級に変わっている、というよりは、最初から中級として確認される例が増えています。移動してきた可能性も、発生条件が変わっている可能性も、どちらも消せません」
マリエルの言葉にヴァルムが眉を寄せた。
「発生条件が変わっている?」
「断定ではありません」
フィオナが引き取る。
「ただ、戦地周辺の環境悪化が影響している可能性はあります。死者、破壊された墓地、避難の遅れ、記録の混乱。表に出ている情報だけでも、要素は多い」
そこでベルンが口を開いた。
「月酔い患者の引き取り件数も、東部からのものが増えている。戦争が激しくなれば、人は壊れる。家を失い、家族を失い、眠れなくなる。月酔いの報告が増えること自体は、不自然ではない」
アルドはベルンを見る。第五部隊。その名を聞けば、半年経った今も胸の奥に固いものが残る。それでも何も挟まず、続きを聞いた。ロザリアが円卓を指先で叩く。
「でもさ、それだけ? 国境で増えたか集まった夜骸が、勝手に王都近くまで来ました。はい大変です。そんな綺麗な話?」
ヴァルムがそちらを見る。
「何が言いたい」
「人間が絡んでる可能性」
ロザリアは笑っていなかった。
「盗賊、密輸、戦争で荒れた街道。夜に動く連中もいる。夜骸そのものを操れるなんて馬鹿なことは言わないけど、夜骸が出る場所へ人を追い込むことはできる。逆もね」
クライスが低く補う。
「人為的な誘導、または隠蔽の可能性は排除できません」
赤い短鎖、旧材木道、捕縛後の服毒。アルドの脳裏にいくつかの記憶が掠めたが、今ここで結びつけられる材料はない。レイスも同じなのか、何も言わず資料を見ていた。
「国軍との連携はどうする」
ヴァルムがローグレスへ視線を戻した。
「昼の避難と街道封鎖は国軍。夜骸討伐は討祓軍。役割分担は維持するべきです。ただし、現場で情報が遅れれば被害が出る」
エルヴィナが続ける。
「第二部隊としては、国軍との連絡経路を増やすべきだと考えます。特に北部と東部。夜になる前に、怪しい移動や被害報告をこちらへ回す仕組みが必要です」
「同意する」
レイスが静かに言った。ローグレスが視線を向ける。
「第一部隊副隊長として、現場で感じたことは」
「中級三体が村のすぐ近くまで来ていた時点で、発見が遅いです。避難が間に合ったのは幸いでしたが、次も同じとは限りません。夜骸そのものへの対応だけでなく、報告速度を上げる必要があります」
「具体案は」
「国軍の昼間巡回に、討祓軍側の夜骸判別用の簡易項目を渡す。足跡、臭い、家畜の反応、墓地周辺の異常、森の中の痕跡。専門的すぎるものではなく、兵が見て判断できる形にするべきです」
フィオナがすぐに頷いた。
「第四部隊で作れます。現場用の簡易書式なら、数日で」
「お、仕事増えたねぇ、フィオナ」
「必要な仕事です」
ロザリアの声にも、フィオナは淡々と返す。隣でマリエルが小さく口を開いた。
「あ、が、頑張ります」
アルドも手元の資料から顔を上げる。
「第一部隊からは、王都近郊の中級対応に即応できる部隊を増やすべきだと考えます」
ヴァルムが片眉を上げた。
「自分達だけでは足りないと?」
「足りる足りないの話じゃありません。第一部隊が出ている間、別の場所で中級が出れば穴が空きます」
「まともな意見だ」
「どうも」
「褒めてはいない」
「でしょうね」
横からレイスが口を挟む。
「揉めるな」
「まだ揉めてない」
「揉める前の声だった」
ローグレスが短く息を吐き、僅かに張っていた空気が緩む。ベルンが資料を閉じた。
「第五部隊としては、月酔い患者の報告遅れも問題視しています。戦争の影響で、家族が報告をためらう例が増えている。国軍、教会、村役の連携も必要です」
今度は誰も軽口を挟まなかった。報告が遅れれば被害は広がる。だから早く引き渡す必要がある。それが正しいことも、その判断だけでは済まないことも、第一部隊は知っている。ローグレスが全員を見渡した。
「方針をまとめる」
白塔議室が静まった。
「第一に、国軍との連絡経路を増やす。第二部隊を中心に調整しろ」
「了解」
「第二に、夜骸兆候の簡易判別書式を作成する。第四部隊」
「承知しました」
「第三に、王都近郊の巡回範囲を見直す。第一部隊だけに中級対応を集中させない。第二、第三も即応可能な体制を作れ」
「了解」
ヴァルムとロザリアがそれぞれ答える。
「第四に、月酔い報告遅延への対応を第五部隊と協議する。ベルン」
「承知しました」
「第五に、人為的関与の可能性について、第三部隊は街道と盗賊筋を洗え」
ロザリアの目が少しだけ鋭くなった。
「そういうの、嫌いじゃないわ」
「遊びではない」
「分かってまぁす」
ローグレスは最後にアルドを見る。
「第一部隊は、当面これまで通り即応部隊として動け。ただし、無理に全てを抱えるな」
「了解しました」
「強くなったからといって、壊れないわけではない」
アルドは静かに頷いた。
「分かっています」
◇
会議が終わった頃には、空は夕方に近づいていた。アルドとレイスが隊舎へ戻ると、食堂には第一部隊の面々が集まっている。任務明けの疲れは残っているが、誰も寝込んではいない。ルカは椅子へ腰掛けて銃を手入れし、ノルは机に頬杖をつきながら翠穿の弾を確認していた。セレスは人数分の茶を並べ、ゴードは壁際で静かに立っている。
ルシアンは二人の姿を見ると、小さく息を吐いた。
「おかえりなさい」
「ああ」
エディンは椅子の背へ身体を預けたまま、アルドたちへ顔を向けた。アルドは席につかず、食堂の中央に立つ。
「獣章会議の内容を共有する」
レイスが資料を机へ置いた。
「王都近郊で中級夜骸の確認が増えている。ローグ様の見解では、戦争の激化で国境付近の夜骸が増え、処理しきれなかったものが王都近郊まで流れている可能性がある」
「つまり、これからもっと忙しくなるってこと?」
セレスが訊く。
「そうなる。国軍との連絡強化、第四部隊による判別書式、第三部隊の街道調査、第五部隊の月酔い報告遅延対応。各隊が動くことになった」
ノルが弾を卓上へ置く。
「中級が近場に増えるの、普通に嫌なんだけど」
「嫌で済めばいいんですけどね」
ルカが銃の部品を組み直す。
「でも、昨日みたいなのが続くなら、村の人達は夜を越せなくなります」
ルシアンが静かに頷いた。
「避難が間に合ったからよかっただけだよね。次もそうとは限らない」
エディンが茶を一口飲む。
「おねぇさん達も、のんびりしていられないわねぇ」
「今までのんびりしてたみたいに言わないでください」
ルカが返した。
「あら、ルカちゃんはずっと跳ね回ってたわよぉ」
「僕だけ子犬扱いしてません?」
「子犬はもっと素直」
ノルがぼそりと言う。
「ノルさん?」
「何?」
「今のは聞き捨てならないです」
「事実」
「事実じゃないです」
セレスが少し笑い、ルシアンもつられて口元を緩めた。半年の間に、こうしたやり取りも少しずつ戻ってきた。以前と同じ形ではなくても、同じ食堂でまた言葉が転がるようになっている。アルドはその声を聞いてから、改めて全員を見る。
「これから、戦闘は激しくなる。中級が当たり前になる可能性もある。大級が近郊に出ることだって、ないとは言えない」
食堂の空気が引き締まった。
「だから、今まで以上に無理はするな。誰か一人が穴を埋めようとするな。全員で動く。昨日みたいにだ」
ゴードが静かに頷く。
「それでいい」
レイスが続けた。
「今後は任務前の確認を増やす。装備、弾、治療具、退路、合図。面倒でも省略しない」
「面倒って言いながら一番細かいの、レイスさんですよね」
「必要だからだ」
「否定しないんですね」
「事実だからな」
ノルが小さく鼻を鳴らす。
「細かい副隊長、燃費悪そう」
「燃費の問題ではない」
「ほら、すぐ返す」
エディンが楽しそうに笑った。
「みんな元気で何よりねぇ」
誰も、その言葉を特別なものにはしなかった。茶を飲み、武器を手入れし、くだらないことを言い合う。任務へ出た全員が帰ってきて、また同じ食堂にいる。
「今日は早めに休め。明日からまた動く」
「はい」
ルカが返事をする。
「アルド」
ルシアンに呼ばれ、アルドが振り向いた。
「行く?」
それだけで意味は通じた。
「ああ。行こう」
◇
バルトの部屋は、もう散らかっていなかった。かつて床に転がっていた服も、食べかけのものも、雑に置かれていた訓練道具もない。机と棚は整えられ、少し開いた窓から夜風だけが入っている。机の上には、以前撮った第一部隊の写真が置かれていた。アルドは少し面倒そうな顔をし、レイスは姿勢よく立ちながら眉間に皺を寄せている。ルシアンは緊張気味に微笑み、ノルは明らかに撮影を嫌がっていた。
セレスは控えめに立ち、ゴードは無表情のまま前を見ている。エディンは今ではあまり見ない真剣な顔だった。その中で、バルトだけがやけに大きく笑っている。写真の横には、使い込まれた拳帯が綺麗に畳まれていた。第一部隊は何も言わず部屋へ入る。この半年、何度も来た。
最初の頃は、入るだけで足が止まった。泣く日もあれば、何も言えないまま出ていく日もあった。それでも任務へ出る前や帰ってきた後に寄ることを繰り返すうち、ここへ来ること自体が第一部隊の日常へ混ざっていった。アルドが写真の前で手を合わせ、レイスが隣に立つ。ルシアンは静かに目を伏せ、セレスは拳帯を見つめていた。ノルは何も言わず僅かに顎を引き、ルカもいつもの軽口を口にしない。
ゴードは写真の中のバルトを見て短く息を吐く。エディンは柔らかく微笑んでいた。誰も泣かなかった。アルドは写真の中で大きく笑うバルトを見る。
「また、夜が濃くなる」
返事はない。
「でも、行く」
写真の中のバルトは笑ったままだった。レイスが静かに言う。
「行こう」
「ああ」
アルドは頷いた。第一部隊は部屋を出る。最後にルカだけが一度振り返り、写真へ小さく頭を下げてから扉を閉めた。廊下には食堂から茶器の触れる音や誰かの足音が届き、窓の向こうでは王都の夜が始まっている。半年が経っても、失った一人が戻ることはない。
それでも黒豹は、また夜へ向かう。
今回もお読みいただきありがとうございました。
今回から第三章開幕です、皆さんお楽しみに!
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。
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