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空いた席

 葬儀の翌朝。第一部隊の隊舎には、朝が来た。当たり前のように。誰かが眠れなかった夜の後でも。誰かが泣き疲れて目を腫らしていても。


 誰かが一度も布団に入れなかったとしても。


 窓の外では、王都の荷車が石畳を鳴らしていた。遠くの店先では、開店準備をする声が聞こえる。鳥が屋根の上を跳ね、朝の光が食堂の床に細い線を落としていた。


 世界は止まらなかった。それが、ひどく残酷だった。セレスは厨房に立っていた。


 昨日も、一昨日も、その前の日も、料理を作っていた。


 手を動かしていれば、何かを考えずに済む気がした。鍋に水を入れ、火を入れ、野菜を切り、肉を焼く。塩を振る。香草を少し落とす。匙で味を見る。


 けれど、味がよく分からなかった。美味しいのか。薄いのか。濃いのか。


 自分の舌が、どこか遠くにあるようだった。


 それでも、手は動いた。


 朝食を作らなければならない。誰かが食べる。誰かが席につく。そう思って、皿を並べた。一枚。


 二枚。三枚。四枚。五枚。六枚。


 七枚。八枚。九枚。


 そこまで並べて、セレスの手が止まった。皿が、一枚多かった。食堂の卓に、当然のように置いてしまった一枚。


 そこは、バルトの席だった。セレスは皿を見つめた。ただの皿だった。白い皿。


 少し端が欠けている。以前、バルトが「俺様の皿が小せぇ」と騒いで、うっかり卓にぶつけた時の欠けだった。セレスはその皿へ手を伸ばした。


 下げようとした。けれど、指が皿の縁に触れたところで止まった。下げられなかった。


 そこに置かれていることが間違いなのに、下げてしまうことの方が、もっと間違いのような気がした。


「セレス」


 背後からルシアンの声がした。セレスは振り返る。


 ルシアンは食堂の入口に立っていた。目元は赤い。けれど、無理にいつもの顔を作ろうとしている。


 その視線が、卓の上の皿に向いた。ルシアンは何も言わなかった。ただ、唇を結んだ。


「……間違えちゃった」


 セレスは小さく笑った。


「まだ、数えられないや」


「うん」


 ルシアンは近づき、セレスの隣に立った。


「そのままでいいんじゃないかな」


「いいのかな」


「うん」


 ルシアンは、皿を見た。


「そのままでいいと思う」


 セレスは頷いた。皿は、バルトの席に残った。


         ◇


 朝食の時間になっても、食堂は静かだった。いつもなら、誰かが眠そうに入ってくる。誰かが席を間違えたと騒ぐ。


 誰かがパンの数に文句を言う。誰かが水をこぼす。誰かが「邪魔」と言う。誰かが「飲みすぎです」と刺す。誰かが小言を言う。


 誰かがそれに笑う。


 でも、その朝は違った。


 アルドは一番最後に食堂へ入ってきた。顔色は悪い。目元も赤い。昨夜、眠れたようには見えなかった。


 ルシアンはその横にいた。何も言わず、ただ少し近くを歩いていた。レイスは先に席についていたが、書類を広げていなかった。


 ノルは窓際の席に座り、新しい長銃には触れていない。ただ、水の入った杯を見つめていた。


 ルカは短剣を持っていなかった。いつもより背筋が固く、席につく時に椅子を引く音だけがやけに丁寧だった。


 ゴードは壁際に立っていた。食卓ではなく、バルトの席を見ていた。


 エディンは静かに食堂へ入ってきた。いつものように「おはよう」と甘く言うことはなかった。ただ、皆を一度見てから、何も言わず席についた。


 セレスは料理を配る。パン。スープ。焼いた肉。野菜の煮込み。


 バルトの席にも、料理を置いた。


 誰も止めなかった。


 置かれた料理から、湯気が立つ。そこに座る者はいない。


 それでも、湯気だけが上がっていた。


 アルドはその席を見て、少しだけ息を止めた。それから、自分の席についた。


「食べよう」


 ルシアンが小さく言った。


 誰も返事をしなかった。


 けれど、皆、匙を取った。食べなければならない。眠れなくても。泣いていても。昨日、仲間を埋葬したばかりでも。


 生きている者は、食べなければならない。そのことが、ひどく重かった。


「……肉」


 ノルがぽつりと言った。誰かが顔を上げる。ノルは皿の上の肉を見ていた。


「多い」


 セレスの手が止まる。


「ごめん。いつもの量で焼いちゃって」


 いつもの量。その言葉が、食堂の中に落ちた。いつもの量には、バルトの分が入っていた。


 バルトが一番食べるから、少し多めに焼く。皿が空く前に追加を用意する。勝手に手を伸ばしても足りるように、予備を置く。


 セレスの身体が、それをまだ覚えていた。ルカが肉の皿を見て、小さく息を吸った。


「バルトさんなら、足りないって言いますね」


 声は丁寧だった。


 でも、途中で少し震えた。


「この量でも、きっと」


 ノルが低く言う。


「言う」


「はい」


「絶対言う」


 ノルは肉を一切れ取った。口に入れる。噛む。しばらくして、呟いた。


「うるさい」


 誰も何がとは聞かなかった。


 ノルの中で、きっとバルトの声がしたのだろう。もっとよこせ。俺様の分が少ねぇ。


 ノル、お前食わねぇなら寄越せ。そんな声が。ノルはもう一度、肉を噛んだ。目は赤くならなかった。


 でも、箸を持つ手が震えていた。


 ルカが何か言いかけた。


「バルトさん、飲み――」


 そこで止まった。水の杯を見る。酒ではない。朝食だ。


 それでも、癖のように口から出かけたのだ。


 飲みすぎです。明日また文句言いますよ。


 もう言えない言葉。


 ルカは唇を結んだ。


「……すみません」


「謝るな」


 レイスが言った。声は硬かった。ルカは頷いた。


 だが、顔は上げなかった。


 ゴードは壁際から動かなかった。皿にも手をつけていない。アルドが見た。


「ゴードさん」


「……食べる」


 ゴードは短く答え、席についた。


 だが、食べるまでに時間がかかった。


 エディンはスープを一口飲み、静かに器を置いた。


「美味しいわよぉ、セレスちゃん」


 いつもの甘い声に近かった。


 だが、少しだけ薄い。


 セレスは頷いた。


「ありがとう、エディンさん」


「でも、無理して作らなくてもいいのよぉ」


「……作ってないと、何をしていいか分からなくて」


 セレスは笑おうとした。


「だから、作る」


 エディンはそれ以上言わなかった。ただ、セレスの手元を見ていた。レイスは食事を進めていた。ゆっくり。義務のように。


 だが、時折、バルトの席へ視線が向く。


 アルドはほとんど食べられなかった。匙を持ち、スープを口へ運ぶ。味はした。


 でも、喉を通らなかった。


 ルシアンは隣で何も言わず、ただアルドの杯に水を足した。


 誰も大きな声を出さない。


 誰も笑わない。


 それでも、食堂にはバルトの気配があった。


 空いた席。多すぎる肉。一枚余った皿。言いかけて止まった言葉。


 その全部が、そこにいない男を連れてきていた。


         ◇


 朝食の後、誰ともなくバルトの部屋へ行くことになった。誰が言い出したわけでもない。ただ、いつまでもそのままにはしておけないと、全員が分かっていた。


 だが、階段の前で足が止まった。


 上がれば、バルトの部屋がある。昨日まで、彼がいた部屋。昨日の朝食が置かれた部屋。扉を開ければ、そこにバルトはいない。それを確認しなければならない。


 アルドが最初に一歩踏み出した。


「俺がやる」


「一人でやるな」


 すぐにレイスが言った。アルドは振り返る。


「でも」


「一人でやるな」


 レイスはもう一度言った。その声には、反論を許さない硬さがあった。ルシアンが頷く。


「一緒に行こう」


 ノルも立ち上がった。


「行く」


 ルカも続く。


「僕も行きます」


 セレスは何も言わず、胸元で手を握った。ゴードは静かに階段へ向かう。エディンも立ち上がった。


「おねぇさんも行くわぁ」


 誰も止めなかった。


 全員で階段を上がる。足音が重なる。バルトの部屋の前に立った。扉は閉まっている。


 あの日の朝食の盆は、まだ置かれたままだった。セレスが息を呑む。アルドはまず、それを見た。


 昨日の朝、セレスが置いたもの。スープ。肉。包み焼き。パン。


 どれも、冷めていた。パンにはカビが生えている。セレスはゆっくり膝をついた。


「片づけなきゃ」


 そう言って、盆に手を伸ばす。スープには手がついていない。肉も、そのまま。包み焼きも、そのまま。けれど、セレスの手が止まった。


 パン。パンだけが、少し欠けていた。端が一口分だけ、かじられている。小さな歯形。ほんの少し。


 食べたと言えるほどではない。腹を満たすには、あまりにも足りない。けれど、確かに、誰かが口をつけていた。


 セレスは動けなくなった。指先が震える。


「……食べてたんだ」


 声がこぼれた。


 誰も何も言わない。


 セレスはパンを見つめたまま、唇を震わせる。


「バルト、食べて……くれてたんだ」


 涙が落ちた。床に、小さな跡を作る。


「全部じゃなくても……一口だけでも……」


 セレスはカビの生えたパンを両手で包むように持った。冷たいパンだった。数日前の朝には温かかったはずのパン。


 それを、バルトは一口だけ食べた。セレスが置いたことに気づいて。食べようとして。


 きっと、味なんて分からなかったかもしれない。食欲もなかったかもしれない。


 それでも、一口だけ。


 セレスはその場に崩れるように座り込んだ。


「食べてたんだ……」


 同じ言葉を、もう一度言った。今度は、泣き声だった。ルシアンがそっと隣に膝をつき、セレスの背に手を添える。


 セレスはパンを抱えたまま泣いた。声を押し殺そうとして、できなかった。ノルは顔を逸らした。ルカは目元を押さえた。ゴードは目を閉じる。


 エディンは唇を結び、何も言わなかった。アルドは壁に手をついた。立っていないと、その場に崩れそうだった。


 レイスは扉の前で、静かに目を伏せた。一口だけ。それだけだった。


 でも、その一口で、分かってしまった。


 バルトは拒んでいたわけではない。届いていなかったわけでもない。最後まで、受け取ろうとしていた。第一部隊の誰かが差し出したものを。セレスが作った朝食を。


 あの騒がしい場所へ戻るための、細い糸のようなものを。掴もうとしていた。掴みきれなかっただけだった。


         ◇


 バルトの部屋は、思っていたよりもバルトらしかった。雑だった。


 机の上には、使い古した拳帯が片方だけ転がっていた。もう片方は床に落ちていた。棚には、飲み屋の割引札がいくつか挟まっている。


 煤鳩亭の古い勘定札もあった。ドランの字で「次は払え」と書かれている。隅には、バルトが後から書き足したのか、「俺様は払った」と大きく書かれていた。


 払っていないことが、字の大きさで分かった。ルカがそれを見つけて、涙声で呟いた。


「絶対、払ってませんね」


 ノルが小さく言う。


「払ってない」


「ですよね」


 少しだけ、空気が揺れた。バルトがそこにいたような気がした。別の箱からは、古い肩当てが出てきた。小さな弾痕のような跡がある。ノルがそれを見て、眉を寄せた。


「これ」


「お前が撃ったやつか?」


 アルドが聞く。


「足元を撃った」


「肩当てに当たってるぞ」


「跳ねた」


「危ねぇな」


「バルトが邪魔だったから」


 ノルは肩当てを抱えた。そして、小さく呟く。


「……邪魔、だったから」


 その声は、もう怒っていなかった。ただ、空っぽだった。棚の奥からは、古い布が出てきた。汗を拭くためのものだろう。ゴードがそれを見て、手を伸ばした。


「筋トレの時のだ」


 短く言う。


「バルトさん、よく使っていたんですか」


 ルカが聞く。


「よく忘れた」


「忘れてたんですか」


「ああ」


 ゴードは布を見つめる。


「俺が持って帰ることが多かった」


 ルカは何か言おうとして、やめた。ゴードはその布を丁寧に畳んだ。エディンは机の引き出しから、小さな紙片を見つけた。


 何かが書きかけてある。字は大きく、少し雑だった。セレスの飯、うまそこで止まっていた。エディンはしばらくそれを見た。それから、セレスへ渡した。


「セレスちゃん」


 セレスは涙で赤くなった目で紙を見る。そして、また泣いた。


「なんで、最後まで書かないの……」


 誰も答えられなかった。


 バルトだからだ。そう言えば少し笑えたかもしれない。


 でも、今は誰も言えなかった。


 ルシアンは寝台の横に座り、枕元を見ていた。そこには、包帯の切れ端があった。自分が巻いたものかもしれない。


 いつのものかは分からない。ただ、バルトは何度も傷を負い、何度も手当てされ、何度も笑っていた。ルシアンは包帯を指で撫でた。


「痛かったよね」


 小さな声だった。


「ずっと、痛かったんだよね」


 アルドは部屋の中央に立っていた。バルトの匂いがする。酒。汗。革。


 火薬ではない。火と土と、男の生活の匂い。その全部が、少しずつ薄れていくのだと思うと、呼吸が苦しかった。


 レイスは机の上にある紙を整理していた。報告書ではない。ほとんど落書きだった。


 大きな丸。拳の形。肉。よく分からない何か。


 その中に、一枚だけ、比較的まともな紙があった。第一部隊全員の名前が書かれている。アルド。


 レイス。ルシアン。ノル。セレス。ゴード。


 ルカ。エディン。その横に、短い言葉が書かれていた。カシラ 強いレイス うるさいルシアン 優しいノル 口悪いセレス 飯うまいゴード 兄弟ルカ 刺す姐さん 怖い最後に、大きく一言。


 俺様の隊レイスはその紙を見たまま、動かなかった。アルドが近づく。紙を見る。


 そして、顔を伏せた。


「俺の隊だ馬鹿野郎」


 声が震えていた。


 誰も突っ込まなかった。


 誰も笑わなかった。


 ただ、その紙は、バルトが第一部隊をどう見ていたかを、あまりにも雑に、あまりにも正直に残していた。


         ◇


 昼過ぎ。ローグレスが隊舎を訪れた。知らせはなかった。


 いつものようにジークを連れているわけでもない。ただ一人で、第一部隊の隊舎へ来た。アルドが迎えに出る。


「ローグさん」


 ローグレスは頷く。


「邪魔するぞ」


「はい」


 ローグレスは食堂へ入った。第一部隊の面々が立ち上がろうとする。ローグレスは片手を上げて制した。


「座っていろ」


 誰もすぐには座れなかった。


 ローグレスはバルトの空いた席を見た。朝食の時に置かれた皿は、まだそこにあった。料理は片づけられている。


 けれど、皿だけが残っていた。ローグレスはしばらくその席を見ていた。それから、静かに言った。


「しばらく任務は入れない」


 誰も返事をしない。


「休め」


 その言葉は命令だった。


 だが、いつもの命令よりずっと重かった。


「眠れるなら眠れ。食べられるなら食べろ。泣けるなら泣け。泣けないなら、それでもいい」


 ローグレスは全員を見る。


「立てるようになったら戻ってこい」


 アルドが顔を上げる。


「戻れますかね」


 ローグレスは少しだけ目を細めた。


「戻るしかない」


 冷たい言葉ではなかった。


 だが、優しい嘘でもなかった。


「戻れ。バルトが守りたかった場所を、空のままにするな」


 その言葉に、セレスがまた涙を落とした。ノルは顔を伏せる。ルカは拳を握る。


 ゴードは目を閉じる。エディンは静かに息を吐く。レイスは深く頭を下げた。アルドは、バルトの席を見た。空いている。


 どうしようもなく、空いている。


 でも、そこがあった。


 バルトがいた場所が。第一部隊の中に。


「……はい」


 アルドは答えた。声はまだ弱かった。


 それでも、確かに答えた。


         ◇


 その夜。食堂の灯りは、遅くまで消えなかった。誰かが大きな声で話すことはなかった。酒を飲んで騒ぐ者もいなかった。


 それでも、皆、食堂にいた。


 自室に戻ることができなかったのかもしれない。一人になるのが怖かったのかもしれない。


 誰も、それを口にはしなかった。


 アルドは棚から杯を一つ取った。木の杯。バルトがよく使っていたものだった。少し縁が欠けている。アルドはそれをバルトの席に置いた。


 中には何も入れない。酒も、水も。ただ、置いた。ノルがそれを見て言った。


「空」


「ああ」


 アルドは答える。


「今日は空でいい」


 ルカが小さく頷いた。


「バルトさんなら、文句を言いますね」


「言う」


 ノルが即答する。


「絶対言う」


 セレスが涙を拭いながら、少しだけ笑った。


「明日は、何か入れてあげようか」


「酒は駄目です」


 ルカが言った。少しだけ、いつもの調子だった。


「飲みすぎますから」


 誰も笑えなかった。


 でも、全員の中に、バルトの笑い声が一瞬だけ蘇った。俺様の杯が空じゃねぇか。気が利かねぇな。


 そう言って騒ぐ姿が。食堂は静かだった。バルトの席だけが空いている。


 その前には空の杯があり、皿には一口だけ欠けたパンが残っていた。近くには、雑な字で「俺様の隊」と書かれた紙。食事を終えても、誰もそれを片づけろとは言わなかった。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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