ありがとう
翌朝。バルトは、食堂に来なかった。第一部隊の隊舎には、いつも通りの朝が来ていた。
窓の外では、王都の通りを荷車が進む音がする。厨房では湯が沸き、鍋の中で野菜の煮える匂いが広がっていた。セレスはいつもより早く起きていた。
寝不足の目元を少しだけ指で押さえてから、包丁を握る。切った野菜を鍋に入れ、香草をほんの少しだけ加える。肉は小さめに切った。昨日の夜よりも食べやすいように。喉を通りやすいように。味は薄すぎず、濃すぎず。
何度も味見をした。
それでも、よく分からなかった。
美味しいのか。食べやすいのか。バルトが食べてくれるのか。
考えれば考えるほど、手元が止まりそうになった。
「セレス」
背後からルシアンが声をかけた。
「大丈夫?」
セレスは振り返り、笑おうとした。
「うん。大丈夫。今日はちゃんと、朝から食べられるものにしたから」
「昨日も美味しかったよ」
「……ありがとう」
セレスは小さく頷いた。
それでも、胸の奥は晴れなかった。
料理はできた。皿に盛りつける。食堂の卓に並べる。湯気が立つ。
いつもの席に、いつもの皿が並んでいく。けれど、バルトの席だけが空いていた。アルドは食堂へ入ってくるなり、その空席を見た。
何も言わない。
レイスも同じように見て、視線を落とした。
ノルは椅子に座る前から、バルトの席を見ていた。ルカは食堂の入口で一瞬足を止め、それから何も言わずに席へ向かった。ゴードは壁際に立ったまま、動かなかった。
エディンはいつものように柔らかく笑っていたが、杯に口をつける動きが少し遅かった。ルシアンは何度も階段の方へ目を向ける。セレスはしばらく待った。
湯気が細くなる。
それでも、バルトは来なかった。
「……私、持っていくね」
セレスは小さな盆を取り出した。バルトの分の朝食をそこに乗せる。温かいスープ。柔らかく焼いたパン。小さく切った肉。
水。それから、昨日バルトが短く「うまい」と言った包み焼きを、少しだけ。セレスは盆を持って、階段を上がった。
バルトの部屋の前に立つ。扉は閉まっていた。中から物音はしない。セレスは息を整えて、軽く扉を叩いた。
「バルト」
返事はない。
「朝ごはん、持ってきたよ」
返事はない。セレスは扉の向こうの静けさに耳を澄ませた。起きているのか。
眠っているのか。それすら、分からない。
「食べられそうだったら、食べてね」
セレスは声を柔らかくした。
「無理しなくていいから。少しだけでも」
やはり、返事はなかった。セレスは扉の前に盆をそっと置いた。皿が床に触れないよう、布を敷く。
少しでも冷めないように、スープの器に蓋をした。
「置いておくね」
少し待った。扉は開かなかった。セレスは唇を結び、ゆっくり立ち上がる。
「……あとで、片づけに来るね」
そう言って、食堂へ戻った。階段を下りる足音は、普段よりずっと小さかった。
◇
朝食は、重かった。
誰も大きな声を出さない。
皿と匙が触れる音だけが、やけに響く。バルトの席は空いたままだ。そこに誰かが座ることはない。
でも、皿も置かれていない空席は、そこにいない者の存在を一番強く示していた。アルドはしばらく黙っていた。やがて、匙を置く。
その音に、皆の視線が向いた。
「昨日、ローグさんに報告した」
ルシアンが顔を上げる。ノルの目が細くなる。ルカは杯を持つ手を止めた。ゴードは動かない。セレスは手を膝の上で握った。
エディンは何も言わず、アルドを見ていた。アルドは続ける。
「バルトの月酔いのことだ」
言葉にした瞬間、食堂の空気がさらに沈んだ。
誰も驚かなかった。
もう、誰も気づかないふりはできなかった。
「ローグさんは、しばらく見守れって言った。すぐに第五部隊へ回す話にはしない。けど、見落とすな、無理させるな、笑ってても笑いだけで判断するなって」
ルシアンが小さく頷いた。ノルは水の杯を持ったまま、何も言わなかった。レイスは静かに言葉を足す。
「ローグ様は、この件を一度預かると仰った。正式な判断はまだだ。ただし、俺たちもこれまで通りには扱えない」
「これまで通りって、何」
ノルが低く言った。誰に向けた怒りなのか、分からない声だった。レイスはノルを見た。
「昨日までのように、ただの不調として流すことはできないという意味だ」
「分かってる」
ノルは杯を置いた。水面が揺れる。
「よくないけど、分かってる」
誰も返せなかった。
ルカが小さく息を吐いた。
「僕、昨日も思ったんです。バルトさんが笑っている時ほど、どう声をかければいいのか分からない」
その言葉に、ルシアンが目を伏せた。
「……うん」
エディンは静かに言った。
「笑っている顔だけ見て、安心しちゃ駄目ねぇ」
いつもの柔らかい声だった。けれど、その奥には冷たい現実があった。
「でも、笑っている顔を疑い続けるのも、つらいわぁ」
セレスの指が震えた。ゴードは短く言う。
「見るしかない」
その一言は重かった。アルドは拳を握る。ローグレスの声が、まだ耳に残っていた。
後悔は残すな。その言葉を、アルドは食堂の全員へ伝えた。
「それと、ローグさんが言ってた」
皆が顔を上げる。
「後悔は残すなって」
ルシアンが目を伏せた。セレスの指がさらに強く握られる。ノルは唇を噛んだ。ルカは俯いた。エディンは杯を置いた。
ゴードは一度だけ、深く息を吐いた。重い言葉だった。優しい言葉ではない。救いの言葉でもない。
けれど、今の第一部隊には、それしかなかった。後悔を残すな。どうすれば後悔が残らないのか、誰にも分からない。
何をしても残る気がする。何を言っても足りない気がする。それでも、何もしないことだけはできなかった。
食堂の上階には、バルトの部屋がある。その前には、セレスが置いた朝食がある。扉は開かない。
誰も、その扉を無理に叩くことができなかった。
◇
バルトは、自室の床に座っていた。背中を寝台に預け、膝を立てている。部屋は薄暗い。
窓の隙間から朝の光が差し込んでいるが、カーテンが半分閉まっているせいで、光は床の一部を白く照らすだけだった。外で、誰かが扉を叩いた。
声もしたのかもしれない。けれど、バルトには届かなかった。音はあった。遠くに。
水の底で何かが揺れたような、ぼやけた音だけがした。それが誰の声なのか、何を言っているのか、分からなかった。分かろうとする気力も、なかった。
バルトはただ、床に座っていた。どれくらいそうしていたのか、自分でも分からない。朝が過ぎた。
昼が過ぎた。窓から入る光の角度が変わり、部屋の白い線が少しずつ移動していく。その間、バルトはほとんど動かなかった。
腹は減っているのかもしれない。喉も渇いているのかもしれない。けれど、その感覚は全部、身体の外側に置き去りにされているようだった。
自分の身体なのに、自分のものではない。そんな感じがした。夕暮れが近づいた頃、ようやくバルトは立ち上がった。
身体が重い。膝が少し笑う。それでも、部屋にいることに耐えられなかった。
扉を開ける。床に置かれた盆が目に入った。温かいはずだったスープ。柔らかく焼かれたパン。小さく切られた肉。
包み焼き。蓋も布も、きちんと整えられている。多分、セレスが置いた飯だ。朝から、ここにあったのだろう。バルトはしゃがみ込む。
器に触れる。
もう冷めていた。
それでも、蓋の置き方や布の敷き方だけで、セレスがどれだけ気を遣ったのか分かった。最近、セレスは色んな飯を作ってくれている。昨日もそうだった。
一昨日も、その前も。きっと、気を遣ってくれている。食べやすいものを。味が分かりやすいものを。少しでも口に入れられるものを。
そう考えると、バルトは少しだけ笑ってしまった。第一部隊、黒豹。王都討祓軍の中でも異端と呼ばれる隊。
夜骸の前線に立つ、勇ましい名を持った部隊。なのに、そこにいる奴らは、朝飯を部屋の前に置いてくる。包帯を替えようとする。
飯の味を気にする。黙って隣に立つ。口悪く心配する。丁寧に刺してくる。うるさく正論を言う。
馬鹿みたいに走って探しに来る。
「……変な隊だよな」
声が小さく漏れた。いつまでもこんなままでは駄目だ。分かっている。
分かっているのに、どうしようもなかった。
もう、自分でも分かっていた。
これは月酔いだ。疲れではない。寝不足ではない。気のせいではない。発症したら終わり。
治す方法はない。持ち直した例も聞いたことがない。第二段階なら、まだ管理される。
第三段階まで行けば、第五部隊の管理対象になる。第五部隊に引き取られた者が戻ってきた話は、聞いたことがない。なら、その先に何があるのかなど、考えなくても分かる。
少なくとも、第一部隊には戻れない。朝、皆で飯を食うことも。煤鳩亭で騒ぐことも。ルカに丁寧に刺されることも。ノルに邪魔と言われることも。
ルシアンに手当てされることも。セレスの飯を食うことも。ゴードに黙って見られることも。エディン姐さんに笑われることも。レイスに小言を言われることも。
カシラに雑に呼ばれることも。全部、遠くなる。バルトは拳を握った。手のひらに爪が食い込む。
「離れたくねぇなぁ」
その声は、誰にも届かなかった。自分でも驚くほど弱い声だった。バルトはしばらく朝食の前でしゃがんでいた。
食べなければと思った。食べれば、少しは安心させられるかもしれない。けれど、口に入れても味が届かない気がした。
味が分からないまま食べるのが、セレスに悪い気がした。バルトはゆっくり立ち上がった。部屋を出る。
どこかに用事があるわけではなかった。ただ、ここにいると、皆の声が聞こえてしまう気がした。聞こえないはずなのに。
届かないはずなのに。
それでも、聞きたくて、聞くのが怖かった。
◇
夕暮れ。隊舎の中には、いつものようで、いつもではない時間が流れていた。ノルは窓際で銃の手入れをしている。
ルカはその近くで短剣を拭いていたが、視線は何度も階段の方へ動いていた。ルシアンは治療道具の整理をしているが、何度も手を止めて階段を見ていた。
セレスは厨房で夕食の準備をしながら、廊下の音に耳を澄ませている。ゴードは壁際に立ち、腕を組んでいた。エディンは窓辺に腰掛け、何も入っていない杯を指で回している。
アルドは広間の椅子に座り、何も読んでいない紙を見ていた。レイスは向かい側に座っている。
誰も、バルトの名前を口にしない。
口にしないだけで、全員が考えていた。その時だった。上階で、扉の開く音がした。全員が動きを止める。足音。
ゆっくりとした足音が、階段へ向かう。バルトが姿を見せた。服は着替えている。顔色は悪い。目は少し遠い。
けれど、歩いている。
「バルト」
ルシアンが声をかけかけた。
だが、アルドが小さく手で制した。
バルトは広間を見ない。そのまま玄関へ向かう。外に出るつもりだ。
誰もすぐには止めなかった。
街を歩くことが、気晴らしになるかもしれない。閉じ込めることが、正しいとは限らない。
でも、もう見失うわけにはいかなかった。
バルトが隊舎を出る。少し間を置いて、アルドが立ち上がった。
「ルシアン」
「うん」
ルシアンも立ち上がる。レイスが目を向ける。
「距離は取れ。刺激するな」
「分かってる」
「何かあればすぐ戻れ」
アルドは頷いた。ルシアンも、治療鞄を手に取る。二人は静かに隊舎を出た。
◇
バルトは、ふらふらと歩いていた。足取りは不安定だった。酔っているわけではない。
けれど、目的地へまっすぐ向かっているようにも見えなかった。王都の夕暮れは、人の流れが多い。仕事帰りの者。
店じまいをする商人。買い物袋を抱えた親子。路地から聞こえる笑い声。
バルトはその中を、少しだけ浮いたように歩いていく。アルドとルシアンは距離を取って追った。
「煤鳩亭の方向じゃない」
「そうだね」
アルドは思った。夜の店のある通りでもない。バルトは、大通りを外れた。昨日の公園へ続く道。月がよく見える、王都外れの古い公園。
そこへ向かっている。アルドの胸に嫌なものが広がった。
「アルド」
ルシアンが不安そうに名前を呼ぶ。
「まだ声はかけるな」
「うん」
バルトは歩く。街の喧騒を抜け、少し人通りの少ない道へ入る。夕暮れの色が石畳に伸びていた。
その時、バルトの足が止まった。
◇
目の前に、男がいた。ぼろぼろの外套。伸びた髪。痩せた頬。薄汚れた服。
バルトは一瞬、呼吸を忘れた。なぜここにいる。そう思った。
だが、言葉にならなかった。
周囲の音が少しずつ遠ざかる。人の声。荷車の音。夕暮れの街のざわめき。全部が、薄い膜の向こうへ沈んでいく。
男はバルトを見た。冷めた目。猫を抱えていたあの日と同じ目。見る価値のないものを見る目。沈黙が流れた。
長かったのか、短かったのか分からない。男の口が動く。
「目障りだ」
声は低かった。
「消えろ」
何かが、切れた。悲しみではなかった。恐怖でもなかった。
それらが全部、真っ赤なものに飲まれていく。ガルトだけで十分だった。お前は必要なかった。
俺の失敗作だ、余計だった。目障りだ。消えろ。男の声が、頭の中で何度も重なった。バルトの喉から、獣のような声が出た。
「テメェが消えろォォォォ!!!!」
拳が硬化する。大地魔法が腕を覆う。火炎がその上に走る。身体が勝手に前へ出た。男を殺す。
その思考だけが、頭の中を埋め尽くした。
◇
アルドは、バルトが止まった瞬間に嫌な予感を覚えた。前方に、みすぼらしい格好の男が立っている。男が何かを言った。
距離があって、言葉までは聞こえなかった。
だが、次の瞬間、バルトの空気が変わった。
拳に大地魔法が走る。腕が硬化する。アルドは考えるより先に走っていた。その上から炎が噴き上がる。バルトが男へ飛びかかる。
拳が振り下ろされる。アルドは男とバルトの間へ滑り込んだ。剣を抜く。炎を纏う暇もない。鋼の刃で、バルトの拳を受け止めた。
衝撃が、全身を貫いた。
「ぐっ……!」
足が石畳を削る。腕が痺れる。とんでもない重さだった。低級夜骸を殴り砕く拳。大地魔法で硬化した腕。
その上に火炎を纏った一撃。それが、今、男へ向けられていた。
「落ち着け! バルト!」
アルドが叫ぶ。バルトの目は、アルドを見ていなかった。焦点が合っていない。
怒りと男への殺意で、顔が歪んでいる。
「アルド! どけ!」
「どけるか!」
「そいつを殺す!」
周囲から悲鳴が上がった。通行人が逃げ惑う。店先の木箱が倒れる。誰かが子供を抱えて走る。
ルシアンが青ざめた顔で立ち尽くしていた。アルドは振り返らずに叫ぶ。
「ルシアン! 隊舎に向かえ! 全員連れてこい!」
「第五部隊じゃないの!?」
「この騒ぎだ! 奴らなら呼ばなくても勝手に来る!」
アルドはバルトの拳を押し返す。
「お前は第一部隊を呼べ!」
ルシアンは一瞬だけ迷った。
でも、すぐに走り出した。
「分かった!」
その背中を見送る余裕はなかった。
「どけぇ! アルドォ!」
バルトが叫ぶ。次の拳が来た。アルドは剣で受ける。受けきれない。身体が吹き飛んだ。
背中から石畳へ叩きつけられる。肺の空気が抜けた。
「がっ……!」
視界が揺れる。バルトが男へ向かう。男は腰を抜かしていた。
恐怖に目を見開き、地面を這うように後ずさっている。かつて威厳ある人だった男。今は、ただ怯えている。
アルドは歯を食いしばった。立て。立て。立て。剣を杖にして立ち上がる。
「バルト!」
アルドは炎を纏わせた。火炎が刃を包む。バルトの拳が男へ届く寸前、アルドは横から斬り込んだ。
殺すためではない。軌道を逸らすため。炎の刃がバルトの腕を弾く。拳が地面へ叩き込まれた。石畳が砕ける。
破片が飛び散る。男が悲鳴を上げた。
「逃げろ!」
アルドが怒鳴る。男は這うように逃げた。バルトがそれを追おうとする。アルドが前に立つ。
「どけって言ってんだろ!」
「聞けねぇ!」
「そいつが……そいつが……!」
バルトの声が割れた。
「俺に消えろって言ったんだぞ!」
アルドの胸が痛んだ。
だが、剣は下ろせなかった。
「だからって殺すな!」
「殺す!」
「バルト!」
「殺してやる! あいつだけは、俺が殺す!」
拳が来る。アルドは受ける。弾く。避ける。腕が痺れる。
足が滑る。バルトの動きは荒い。
だが、力が異常だった。
大地魔法の硬化が制御を失い、腕だけでなく肩、胸、脚へ不均等に走っている。火炎は拳から漏れ、石畳を焦がす。
それでも、強い。
普段のバルトとは違う。技ではない。怒りそのものが、拳になっている。
アルドは通行人の逃げ道を背で守りながら戦った。バルトを傷つけすぎないように。男へ行かせないように。
周囲を巻き込まないように。その全部を同時に考えるには、バルトの拳は重すぎた。
「くそっ!」
アルドの頬を拳圧が掠める。後ろの壁が砕けた。人々の悲鳴がまた上がる。遠くから、鐘の音が聞こえた。騒ぎを知らせる鐘。
王都の警備兵・王都討祓軍第五部隊が動き出す音。そして、別の足音。まだ遠いが、近づいてくる。
誰かが来る。
だが、間に合うかどうかは分からない。
「バルト、聞け!」
アルドが叫ぶ。
「お前はこんなことしたいんじゃねぇだろ!」
バルトの動きが、一瞬だけ鈍った。ほんの一瞬。アルドはその隙に近づこうとする。
だが、バルトの顔が歪む。
「うるせぇ……」
低い声。
「うるせぇんだよ……」
バルトは頭を押さえた。呼吸が荒い。目が揺れている。
「声が、遠いんだよ……何も、聞こえねぇんだよ……!」
「バルト」
「でも、あいつの声だけは聞こえるんだよ!」
バルトは叫んだ。
「消えろって! 目障りだって! ガルトだけでいいって! 何回も、何回も!」
アルドは言葉を失った。その瞬間、バルトが再び走った。男はまだ逃げきれていない。足をもつれさせ、道の端で倒れている。バルトはそこへ一直線に向かう。
アルドは追う。間に合え。間に合え。バルトの拳が振り上がる。大地で硬化した拳に、炎が纏わりつく。
あれが当たれば、人間の身体など残らない。男が顔を上げる。恐怖に歪んだ顔。
バルトの背中。アルドの剣。時間が、ひどく遅くなった。殺させるな。バルトに、父を殺させるな。
それをしたら、もう戻れない。いや。
もう、戻れないのかもしれない。
それでも。
これだけはさせない。アルドは剣を構えた。狙う場所を決める。手は震えていた。
だが、剣先は逸らせなかった。
「バルトォォォ!!」
叫びながら、アルドは踏み込んだ。バルトの拳が振り下ろされる寸前。アルドの剣が、バルトの背に突き立った。
刃が肉を裂く。炎が消える。硬化が解ける。バルトの身体が、大きく震えた。拳は男の顔のすぐ横で止まった。
石畳に触れることなく、力を失って落ちる。バルトの口から、血がこぼれた。時間が戻った。
周囲の悲鳴。駆け寄る足音。誰かの叫び。全部が一気に押し寄せる。アルドは剣から手を離した。
バルトの身体が崩れる。アルドはそれを抱き止めた。
「バルト……」
声が震えた。
「バルト、バルト……!」
バルトはアルドの腕の中で、浅く息をしていた。口元から血が流れている。目が、少しずつ焦点を取り戻していく。
さっきまでの怒りは、消えていた。さっきまで目を覆っていた濁りも、ほんの少しだけ薄れていた。バルトはアルドを見た。
ゆっくりと、口元を動かす。
「……カシラ」
いつもの呼び方だった。アルドの涙が落ちた。
「喋るな」
「悪ぃ……」
「喋るなって言ってんだろ!」
アルドは叫んだ。
それでも、バルトは少し笑った。
ひどく弱い笑みだった。
でも、確かにバルトの笑みだった。
「止めて……くれたんだな」
「……っ」
「俺……あいつ、殺すとこだった」
バルトの目が少しだけ横へ動く。男は、少し離れた場所で震えていた。バルトはそれを見たのか、見ていないのか分からない。
ただ、息を吐いた。
「よかった」
「よくねぇよ」
アルドはバルトを抱きしめる。血が服に染み込む。熱い。命の熱が、腕の中から流れていく。
「何もよくねぇよ、バルト……!」
足音が集まってくる。
ノル。ルシアン。セレス。ルカ。ゴード。エディン。レイス。
少し遅れて、第五部隊の隊員達も駆け込んできた。
「バルト!」
ルシアンは膝から落ちるように傍へ入り、血に濡れた背へ両手を添えた。
「水流弐式 清癒膜」
淡い光を帯びた水膜が傷を覆う。流れ出る血は弱まった。それでも、バルトの浅い呼吸は戻らない。
「お願い……喋らないで。今、止めるから」
ルシアンの指が震える。水膜を保ったまま、何度も魔力を流し込んだ。
セレスは口元を押さえ、ノルは目を見開いたまま動けない。ルカは何かを言おうとして、声にならなかった。
ゴードは一歩前に出て止まり、エディンの顔からはいつもの笑みが完全に消えていた。レイスの顔も白い。第五部隊の隊員達は状況を見て動こうとしたが、誰もアルドからバルトを引き離せなかった。
バルトは、アルドだけを見ていた。
「カシラ……」
「いる。ここにいる」
「俺……第一部隊、好きだったわ」
「知ってる」
「うるさくて……飯うまくて……みんな、面倒で……」
「知ってる」
「守りたかった」
アルドは歯を食いしばる。
「守ってたよ」
「そっか」
バルトは小さく笑った。血が唇からこぼれる。
「なら……よかった」
「よくねぇ」
「カシラ」
「なんだ」
バルトは、最後の力で笑った。いつものような豪快な笑みではない。けれど、確かに、バルトの笑顔だった。
「カシラ……ありがとう……な……」
その言葉のあと、バルトの息が細くなった。アルドは首を横に振る。
「バルト」
返事はない。
「バルト」
呼びかける。
もう一度。
もう一度。
「バルト!」
腕の中の身体から、力が抜けた。バルトは動かなかった。アルドの背後には、第五部隊と第一部隊の面々が並んでいた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
ルシアンの唇が震える。セレスの頬を涙が伝う。ノルは拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んでいる。
ルカはその場に立ち尽くし、視線を逸らせずにいた。ゴードは目を閉じた。エディンは、何かを押し殺すように唇を結んでいた。
レイスは何かを言おうとして、言葉を失った。アルドはバルトを抱えたまま、俯いていた。喉の奥から、声にならない音が漏れる。
泣き声とも、叫びともつかない。胸の奥から引き裂かれるような声。それは少しずつ大きくなり、王都の夕暮れに震えた。
アルドは叫んだ。声にならない声で。バルトの名を呼ぶことすら、うまくできなかった。
アルドは何度も息を吸おうとした。それでも、喉から出るのは掠れた音だけだった。腕の中のバルトは、もう返事をしなかった。
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