バルト
バルトは、最初から「俺様」だったわけではない。幼い頃の彼は、今よりずっと口数の少ない子供だった。身体は大きかった。
同じ年頃の子供達より、頭一つ分は背が高く、腕も太かった。庭で転べば膝を擦りむく前に地面を抉り、木剣を振れば、相手より先に自分の手首を痛めた。力はあった。
魔力もあった。だが、それを綺麗に扱うことができなかった。中級貴族の屋敷に生まれた子として、バルトはあまり器用ではなかった。
朝の食卓では、銀の皿が並んだ。
父は正面の席に座り、背筋を崩さなかった。磨かれた黒い上着。整えられた髭。低く、短い声。使用人達は父の前では足音まで抑え、母でさえ、食卓では少し背筋を伸ばした。
父は威厳のある人だった。笑うことは少ない。褒めることも少ない。
だが、その一言には重さがあった。
屋敷の者達は父を恐れ、敬っていた。バルトもまた、父が少し苦手だった。嫌いではなかった。
ただ、父の前に立つと、背中が勝手に固くなった。手の置き方。椅子の引き方。
食器の音。言葉の選び方。何もかもを見られている気がして、息が浅くなる。
父の視線は、いつもまっすぐだった。けれど、その視線がバルトに長く留まることは少なかった。父がよく見ていたのは、兄のガルトだった。
ガルトは、何でもできた。
まだ少年と呼ばれる年頃から、剣を握れば型が美しかった。魔法を使えば無駄がなく、書物を読めば大人でも舌を巻くほど理解が早い。礼儀作法も、乗馬も、舞踏も、父に求められたものを一つずつ正しく身につけていった。
父はガルトを見る時だけ、ほんのわずかに目を細めた。それは笑みと呼ぶには薄すぎた。けれど、バルトには分かった。
父は、ガルトを誇りに思っている。その視線を見ていると、バルトの胸は少しだけ痛んだ。
だが、兄を嫌いにはなれなかった。
ガルトは優しかった。稽古場でバルトが木剣を振り回し、勢い余って自分の足元を崩した時も、ガルトは笑わなかった。
「力はある」
そう言って、バルトの手を取った。
「でも、力をそのまま振ると、自分が振り回される。こうだ」
ガルトの手は、バルトより細かった。けれど、木剣を握ると、その細い手がまったくぶれなかった。刃の軌道がまっすぐ走る。
足の置き方。腰の向き。息の吐き方。バルトには難しかった。
何度やっても、木剣が重く感じた。力任せに振れば、ガルトにすぐ弾かれた。悔しくて唇を噛むと、ガルトは肩を軽く叩いた。
「悔しいなら、もう一回やるか」
バルトは頷いた。兄が好きだった。眩しかった。
自分にはできないことが、兄にはできた。父が兄を見る理由も、子供ながらに分かっていた。だからこそ、悔しかった。
悔しいのに、嫌いにはなれなかった。ガルトはバルトの兄だった。バルトが泥だらけになって屋敷へ戻った時、母はよく玄関で待っていた。
「あら、またそんなに汚して」
困ったように笑う声。叱られると思って身構えると、母はまずバルトの手を取った。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
母は膝をついて、バルトの手のひらを見た。擦り傷があると、少し眉を寄せる。
「これは怪我って言うのよ」
「痛くない」
「痛くなくても、傷は傷」
そう言って、柔らかい布で泥を拭ってくれた。兄のようにできなくても、父の期待に届かなくても、母は最初に傷を見つけた。失敗の理由を聞く前に、手を拭いてくれた。
それが、幼いバルトには嬉しかった。母が好きだった。
母の部屋には、いつも薄い花の香りがした。窓辺に白い花が飾られ、刺繍途中の布が置かれていた。バルトはそこにいると、肩の力が少しだけ抜けた。
母はよく言った。
「バルトはバルトよ」
幼いバルトは、その意味を深く考えたことはなかった。ただ、その言葉を聞くと、胸の奥が少し楽になった。兄は兄。
自分は自分。そう言われている気がした。だが、屋敷の外は、少しずつ変わっていった。
最初に変わったのは、使用人の数だった。庭の手入れをしていた者がいなくなった。厨房にいた若い娘が、別の家へ移った。
夜になると父の書斎に灯る明かりが、遅くまで消えなくなった。客人の数は減った。代わりに、父の机の上には書簡が増えた。
封蝋のついた手紙。数字の並んだ紙。地図。請求書。バルトには中身など分からない。
ただ、父がそれらを見るたびに、眉間の皺が深くなっていくことだけは分かった。家が傾いていた。貴族の家としての力が、少しずつ落ちていた。
父は前より厳しくなった。食卓での沈黙が増えた。小さな失敗にも、声が低くなった。
「ガルトを見習え」
その言葉を、何度も聞いた。
「お前も、この家の子だ。粗野な振る舞いをするな」
「はい」
「返事だけでは意味がない」
「……はい」
父の言うことは間違っていなかった。バルトは雑だった。力が強く、動きが大きく、礼儀もよく間違えた。
家の者としては、確かに未熟だった。だから、反論できなかった。できないことが悔しかった。できない自分が嫌だった。
ガルトは、そんな中でも父の期待に応え続けた。やがて、兄は国軍へ進むことになった。屋敷を出る朝、父は玄関前に立っていた。
母もいた。バルトもいた。
ガルトは国軍の制服に身を包み、背筋を伸ばしていた。見慣れた兄なのに、その日だけは少し遠く見えた。父はガルトの前に立つ。
「家の名に恥じぬよう努めろ」
「はい、父上」
「お前ならできる」
短い言葉だった。けれど、その一言は重かった。父は、ガルトを信じていた。ガルトは静かに頭を下げる。それから、バルトの前に来た。
「稽古、続けろよ」
「兄貴がいないとつまんない」
「俺が戻った時、弱くなっていたら笑うぞ」
「弱くならない」
「ならいい」
ガルトはバルトの頭に手を置いた。少し乱暴に撫でる。バルトはその手を振り払おうとして、やめた。
兄は笑った。
「またな、バルト」
「……またな」
馬車が遠ざかる。バルトはその背中を見ていた。父も見ていた。母も見ていた。
三人で見送っていたはずなのに、バルトには、父が見ているのはガルトだけのように思えた。ガルトが家を出てから、屋敷はさらに静かになった。
そして、母が病に倒れた。最初は軽い咳だった。季節の変わり目だから、と母は笑っていた。
だが、咳は長引いた。
母の部屋に薬の匂いが混じるようになった。窓辺の白い花は、前より早く萎れるようになった。バルトは何度も母の部屋へ行った。
母はいつも笑ってくれた。顔色が悪くても、手が冷たくても、バルトを見ると目を細めた。
「稽古は?」
「した」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「……ちょっとだけ」
母は弱く笑った。
「見せて」
バルトは手を差し出した。母の指は細く、以前より力がなかった。それでも、傷を見つけると、いつものように布で拭こうとした。
「自分でできる」
「そう」
母は少し寂しそうに笑った。
「大きくなったものね」
バルトは何も言えなかった。大きくなりたくなかった。大きくなれば、母に手を拭いてもらえなくなる気がした。
母はある日、静かに言った。
「バルト」
「何」
「お父様を、嫌いにならないであげて」
バルトは眉を寄せた。
「嫌いじゃない」
「そうね」
母は息を整える。
「でも、お父様は不器用だから。きっと、たくさん間違えるわ」
「父上が?」
「ええ」
母は天井を見た。
「人はね、大切なものを守ろうとして、守り方を間違えることがあるの」
幼いバルトには、よく分からなかった。父が間違えるなど、考えたこともなかった。父はいつも正しく、厳しく、揺るがない人だった。
母はバルトを見る。
「あなたは、あなたのままでいて」
その言葉を最後に聞いたのは、母が死ぬ少し前だった。母が死んだ日、屋敷の白い花は片づけられた。窓辺が空になった。
部屋から花の香りが消え、薬の匂いも、母の気配も、少しずつ薄くなっていった。ガルトは国軍にいた。葬儀には戻ってきた。
兄は父の横に立ち、静かに母の棺を見ていた。泣いてはいなかった。父も泣かなかった。
バルトだけが、棺の前で唇を噛んでいた。泣くなと言われたわけではない。それでも、父の前で泣くことができなかった。
母の棺が運ばれていく。淡い布に包まれたその箱が遠ざかるたびに、バルトの胸の中から何かが削られていった。葬儀の後、ガルトは再び国軍へ戻った。
残されたのは、父とバルトだけだった。そこから、父は変わっていった。いや、壊れていった。
書斎の明かりは、以前にも増して遅くまで消えなくなった。だが、机に向かっている時間より、酒瓶を見ている時間の方が増えていった。
父の上着は、少しずつ乱れた。髭を整えない日が増えた。使用人達は父の顔色をうかがい、廊下を歩く音をさらに小さくした。
食卓には、父の怒鳴り声が落ちるようになった。
「なぜできない」
声が低く、荒れていた。
「ガルトなら一度で覚えた」
バルトは黙っていた。返事をすれば怒られる。黙っていても怒られる。
何をしても、父の目の奥にある苛立ちは消えない。
「お前は、何をしている」
何をしているのか、自分でも分からなかった。父に見てもらいたかった。
でも、父の目が向くのが怖かった。
家にいたくなかった。けれど、出て行く場所もなかった。バルトは、稽古場にいる時間を増やした。
木剣を振る。拳を打ち込む。身体を動かす。息が切れるまで。腕が上がらなくなるまで。
何かを考えずに済むまで。そのうち、国軍の試験の話を聞いた。誰かが勧めたわけではない。
家のために受けようと思ったわけでもない。ただ、屋敷の外へ出る理由が欲しかった。父と二人だけの食卓から逃げたかった。
ガルトの影が残る屋敷から離れたかった。だから、バルトは国軍の試験を受けた。試験場は、屋敷とはまるで違っていた。
土がむき出しの広い訓練場。汗の匂い。革鎧の擦れる音。大声で指示を飛ばす試験官。
貴族の子も、平民の子も、地方から来た者もいた。家名ではなく、身体で見られる場所だった。バルトは走った。
重い荷を背負い、泥の上を走り、木剣を振り、魔力を放ち、何度も転んだ。膝が裂けた。拳の皮が剥けた。
息が喉に引っかかり、肺が焼けるようだった。それでも、屋敷にいるより息がしやすかった。試験官の一人が言った。
「力任せだな」
別の試験官が言った。
「だが、反応は悪くない」
「魔力量もある」
「近接戦向きか」
バルトは何を言われているのかよく分からず、ただ肩で息をしていた。国軍試験の結果は、悪くなかった。いや、悪くないどころではなかった。
身体能力。魔力量。近接戦での反応。打たれても前に出る気性。そのすべてが、試験官の目に留まった。
そして、さらにその中でも上澄みと見なされた者達の前に、別の制服を着た者が現れた。王都討祓軍。王家直属の軍。
夜骸を討つ者達。その男は、バルトを見て言った。
「夜の戦いに向いている」
バルトはその時、まだ意味をよく分かっていなかった。ただ、国軍の中でもさらに別の道があるのだと知った。そこへ行けば、もっと強くなれるかもしれない。
もっと実績を上げられるかもしれない。父が、今度こそ見るかもしれない。だから、バルトはその手を取った。最初は逃げだった。屋敷から。
父から。ガルトの影から。逃げるために試験を受けた。
だが、王都討祓軍での日々は、逃げただけで生き残れる場所ではなかった。夜は容赦がなかった。夜骸は人間の事情など知らない。
貴族の家名も、父に見てもらいたい願いも、母を失った痛みも、何も聞いてはくれない。来る。襲う。
喰う。夜骸は、こちらが何者かなど考えない。だから、バルトも考える暇を捨てた。拳を握った。最初は何度も転んだ。
低級の突進を受け止めきれず、地面を転がった。火炎魔法を拳に纏わせようとして、指先だけを焼いた。大地魔法で身体を硬化しようとして、動きそのものを鈍らせた。
先輩兵に怒鳴られた。
「前に出るなら、後ろを見ろ!」
「力任せに殴るな!」
「お前が倒れたら、後ろの奴が死ぬんだぞ!」
何度も言われた。何度も歯を食いしばった。前に出ろと言われたから出た。なのに、出すぎるなと言われた。殴れと言われたから殴った。
なのに、考えて殴れと言われた。面倒だった。腹も立った。
だが、間違ってはいなかった。
バルトの後ろには、いつも誰かがいた。支援を飛ばす者。治療を待つ者。倒れた仲間を引きずる者。守るべき村人。
夜骸の前では、父も兄も屋敷も関係なかった。殴り損ねれば、誰かが死ぬ。受け損ねれば、誰かが喰われる。
その単純さが、バルトには分かりやすかった。だから、必死に覚えた。大地魔法で、拳を硬くする。
腕を硬くする。肩を、胸を、脚を、衝撃に負けないよう固める。強く固めすぎれば、身体が重くなる。
弱ければ、夜骸の外皮に拳が弾かれる。硬化する場所を間違えれば、関節が軋む。硬化を解くのが遅れれば、次の一歩が遅れる。
何度も指を痛めた。肩を軋ませた。膝をついた。
それでも、覚えた。
バルトは器用ではなかった。地面を隆起させることも、足場を整えることも、理屈の上ではできた。だが、そうしようとすると、身体の硬化が甘くなる。
拳が鈍る。腕が軋む。炎を纏わせた時に、自分の身体が先に負ける。
だから、バルトは余計なことを捨てた。地面は弄らない。周囲も変えない。ただ、自分の身体を固める。硬化した拳に、火炎魔法を纏わせる。
大地で固め、炎で殴る。それが、バルトの戦い方になっていった。火炎魔法も、最初はうまく乗らなかった。
燃やしすぎれば自分の腕を焼く。弱ければ夜骸に通らない。大地で固めた腕に炎を巡らせる感覚を掴むまで、何度も失敗した。
包帯を巻いた腕で、また拳を握った。痛みを無視して前に出た。殴る。受ける。また殴る。
強くなれば、父が見てくれるかもしれない。実績を上げれば、ガルトの弟ではなく、バルトとして認めてもらえるかもしれない。その考えは、みっともないほどしつこく胸の奥に残っていた。
任務をこなす。夜骸を殴り潰す。仲間を庇う。前へ出る。痛みを笑い飛ばす。
笑えば、周囲も笑った。最初は、ただの強がりだった。腕が痛くても笑う。魔力が切れかけても笑う。怖くても笑う。
そうしているうちに、周囲はバルトをそういう男だと思うようになった。陽気な実力者。前衛で笑って突っ込む男。
大地で固めた拳に炎を纏わせ、低級を正面から砕く男。酒好きで、女好きで、声が大きくて、細かいことを気にしない男。そう見られるようになった。
いつからか、バルトは「俺」ではなく「俺様」と言うようになっていた。誰かに舐められないため。弱く見られないため。
傷ついた顔を見られないため。父に見てもらえない自分を、自分で笑い飛ばすため。
「俺様に任せろ」
そう言えば、周囲は笑った。笑われれば、痛みは少しだけ隠れた。それでよかった。それで生きていけると思った。
けれど、実績を上げても、父は見なかった。手紙を書いたこともある。返事はなかった。
任務で負傷したことを報告した時も、返ってきたのは短い文だけだった。家名を汚すな。それだけ。
たまに屋敷へ戻っても、父は酒の匂いをまとい、バルトを見る目は濁っていた。
「討祓軍か」
父はそう言った。誇るでもなく、驚くでもなく。
「ガルトは国軍で名を上げている」
その一言で終わった。バルトは笑った。
「俺様も頑張ってるんだけどな」
父は答えなかった。見ていなかった。その時、バルトは分かった。
自分がどれだけ拳を握っても、どれだけ夜骸を倒しても、父の中にいるのはガルトだけなのだと。
それでも、バルトは戦い続けた。
父に見てもらえないなら、せめて自分で自分を立たせるしかなかった。
◇
王都討祓軍の第一部隊に配属されることになったのは、それからしばらく後だった。再編された第一部隊。黒豹。
そう呼ばれる隊へ入ると聞いた時、バルトは少しだけ身構えた。また、何かを比べられるのだと思った。家柄か。
過去の部隊での戦果か。兄の名前か。どれでも面倒だった。
けれど、初めて会ったアルドは、拍子抜けするほど雑だった。細かい身の上話など聞かなかった。元貴族だとか、兄が優秀だとか、そんなものに興味を示さなかった。
ただ、バルトの拳を見て言った。
「前に出られるんだな」
「当然だろ。俺様だぞ」
「なら前に出ろ」
それだけだった。バルトは一瞬、言葉を失った。もっと何か聞かれると思った。なぜ討祓軍へ来たのか。なぜそんなに笑うのか。
なぜそんなに前へ出るのか。
何も聞かれなかった。
ただ、前に出られる者として扱われた。それが妙に楽だった。レイスは、うるさかった。
「突っ込みすぎです」
「周囲を見てください」
「魔力の無駄遣いです」
「報告書を書いてください」
何度も小言を言われた。腹が立つことも多かった。だが、レイスの言葉は、バルトを見ていなければ出てこないものばかりだった。
どこで踏み込みすぎたか。どこで魔力が荒れたか。どこで仲間の射線を塞いだか。レイスは見ていた。正面から、うるさいほど見ていた。
ルシアンは心配した。傷を負えば手当てをしようとし、飯を食べすぎれば腹を壊さないか気にし、無理をすれば眉を寄せた。バルトが笑って「平気だ」と言っても、すぐには引かなかった。
面倒だと思った。
でも、悪くなかった。
ノルは口が悪かった。
「邪魔」
「うるさい」
「燃費悪すぎ」
容赦がなかった。だが、バルトが馬鹿みたいに前へ出ても、ノルの弾は背中を抜かなかった。邪魔と言いながら、必要な時には援護が飛んできた。
見ていないふりをして、見ていた。セレスは、戦場の見方が違った。アルドのように正面を焼き払うわけではない。
レイスのように複数の魔法を当然のように組み合わせるわけでもない。バルトのように拳で敵を砕くわけでもない。それでも、セレスがいると、戦場の流れが変わった。
雑級が泥に混じって村の柵へ這い寄ろうとした時、セレスの水流がその泥を横へ流した。低級が突進する進路へ、浅い水膜を広げて足を滑らせた。
味方が踏み込む瞬間だけ、水を引き、敵が踏み込む場所だけをぬかるませた。戦場の端で、誰かが孤立しそうになると、逃げ道を作った。
視界を塞ぐ土煙を流し、血で滑る地面を洗い、ルシアンが治療に走れる道を一瞬だけ整えた。派手ではない。だが、セレスの魔法があると、仲間が一歩進みやすくなった。
バルトが前へ出る時も、足元の泥が少しだけ流されていることがあった。気づかないほど自然に。気づいた時には、もう助けられている。
食堂でも、似たようなところがあった。誰かの皿が空けば、何も言わずに追加を置いた。ルシアンが治療道具を探していれば、先に棚から出した。
ノルが窓際で眠りかけていれば、薄い布を近くに置いた。バルトが騒ぎすぎて水差しを倒せば、怒る前に布巾を渡した。戦場でも、食堂でも、セレスは人の動きを見ていた。
本人はたぶん、そんなことをしている自覚も薄い。けれど、バルトは知っていた。あいつがいると、誰かが一歩、動きやすくなる。
ゴードは何も言わなかった。最初は何を考えているのか分からなかった。
だが、気づけば隣にいた。
バルトが前に出すぎれば、後ろに盾があった。馬鹿を言えば、短い言葉で返された。兄弟、と呼ぶと、否定しなかった。
否定しないことが、バルトには妙に嬉しかった。その後、ルカが加わった。丁寧な言葉で、妙に辛辣なことを言う後輩。
「バルトさん、それは雑すぎます」
「今のは褒められた動きではないですね」
「飲みすぎです。明日また文句言いますよ」
言い方は礼儀正しいのに、刺す時はしっかり刺してくる。テンポがよかった。腹が立つのに、笑えた。
エディンもいた。姐さんと呼ぶと、嬉しそうに笑った。飄々として、色気があって、何を考えているのか掴めない。
だが、強かった。
笑っているのに隙がなく、ふざけているのに見落とさない。あの人が本気を出したら、自分でも怖い。そう思わせる強さがあった。
煤鳩亭での飲み会は騒がしかった。ドランは黙って肉を出し、ミナは笑って黒豹さん達と呼んだ。バルトが騒ぎ、ノルが呆れ、ルカが丁寧に突っ込み、レイスが小言を言い、アルドが雑に笑う。
ルシアンは止めようとして巻き込まれ、セレスは「こぼすと思った」と言いながら水を拭き、ゴードは静かに飲み、エディンは皆を眺めて笑っていた。うるさかった。
本当に、うるさかった。でも、そのうるささの中で、バルトは初めて、父の目を探さずに笑えた。ガルトの背中を見なくてもよかった。
誰かの代わりではなかった。失敗作でもなかった。余計なものでもなかった。第一部隊で、バルトはバルトだった。
その事実が、胸の奥に深く根を張っていった。任務で前へ出る時、背中に仲間がいる。飯を食う時、横に誰かがいる。
帰る場所がある。名前を呼ぶ声がある。バルトは、何度も拳を握った。この場所を守る。誰かに命じられたからではない。
父に認められるためでもない。ガルトの代わりになるためでもない。自分がそうしたいと思った。だから、思った。俺は。
俺様は。この場所を守る。なのに、手紙が届いた。
それは、いつもの報告書とは違っていた。薄い紙だった。封は固く、差出人の印は国軍のものだった。
バルトは自室でそれを受け取った。何の気なしに開いた。そして、文字を見た。ガルトの名があった。戦死。
その二文字が、紙の上で妙に小さく見えた。兄が死んだ。最初に来たのは、理解ではなかった。
音が遠くなった。部屋の壁が、少しだけ離れたように見えた。指先に力が入らない。
紙を握っているはずなのに、握れている感覚がなかった。ガルトが死んだ。あの兄が。
何でもできた兄が。父が誇っていた兄が。国軍の制服が似合っていた兄が。
稽古場で木剣の握り方を教えてくれた兄が。またな、と言って頭を撫でた兄が。
死んだ。
悲しかった。本当に、悲しかった。胸の奥が裂けるようだった。膝から力が抜けそうになった。叫びたかった。
嘘だと言いたかった。
だが、声が出なかった。
手紙の文字だけが目に入る。ガルト。戦死。報告。形式的な文。
感情のない文字。それを読んでいるうちに、涙より先に、別の考えが胸をよぎった。では、父は。
今度こそ、俺を見るのか。ほんの一瞬だった。
だが、確かに思った。
ガルトが死んだなら。父が見ていた兄がいなくなったなら。父は、今度こそ、自分を見るのではないか。
その瞬間、吐き気がした。何を考えている。兄が死んだ。好きだった兄が死んだ。尊敬していた兄が死んだ。
なのに、その死の向こうに、自分が父に見てもらえる可能性を探した。自分が、気持ち悪かった。バルトは手紙を握りしめた。
紙がぐしゃりと潰れる。手が震える。背中が丸くなる。誰にも見られたくなかった。
誰にも、今の自分を知られたくなかった。兄の死を悲しむ資格すら、自分にはないような気がした。
それでも、悲しかった。
それでも、どこかで期待してしまった。
その二つが同じ胸の中にあることが、どうしようもなく苦しかった。
◇
ガルトの墓の前に立った日、空は曇っていた。国軍の墓地は整っていた。同じ形の墓標が並び、風に白い布が揺れていた。
バルトはその中の一つの前に立った。ガルトの名が刻まれている。兄の名。何度も聞いた名。何度も比べられた名。
何度も憧れた名。石に刻まれたそれは、もう返事をしなかった。父は来なかった。
来られなかったのか。来なかったのか。バルトには分からなかった。ただ、父の姿はそこになかった。墓前には、バルト一人だった。
「兄貴」
声に出した。返事はない。当たり前だった。バルトは拳を握る。何を言えばいいのか分からなかった。
悲しい。悔しい。寂しい。置いていくな。何で死んだ。
父はどうする。俺はどうすればいい。言葉はいくつも胸にあった。
でも、どれも墓前に置ける形にならなかった。兄が死んでも、兄は消えなかった。むしろ、死んだ兄は、父の中で永遠に完璧なまま残るのだと思った。
もう失敗しない。
老いない。崩れない。父を怒らせることもない。自分のように、余計なこともしない。
ガルトは、死んでなお、父の誇りであり続ける。そう思った自分が、また嫌になった。兄の墓の前で、バルトは泣けなかった。
泣いたら、何かが壊れそうだった。ただ立っていた。風が吹く。白い布が揺れる。
墓石に刻まれたガルトの名が、曇り空の下で静かにそこにある。バルトは、拳を握りすぎて爪が手のひらに食い込んでいることに気づかなかった。
その後も、バルトは第一部隊へ戻った。笑った。騒いだ。飯を食った。飲んだ。
任務へ出た。拳を振るった。今まで通りに振る舞った。
そうすれば、今まで通りでいられると思った。
だが、胸の奥には手紙の文字が残った。
墓前で立ち尽くした時の風が残った。そして、猫を探したあの日。王都の路地で、父と会った。ぼろぼろの外套。伸びた髪。
痩せた頬。薄汚れた服。かつて威厳ある厳格な父だった男は、そこにいた。
バルトは猫を抱えたまま、動けなかった。父は冷めた目で見た。懐かしさも、驚きも、怒りすらもなかった。
ただ、見る価値のないものを見る目だった。そして言った。ガルトだけで十分だった。
お前は必要なかった。お前は俺の失敗作だ、余計だった。兄が死んでも、父はバルトを見なかった。
ガルトがいなくなっても、バルトは選ばれなかった。むしろ、ガルトがいなくなった世界でなお、お前はいらないと突きつけられた。その言葉は、月の光のように白く、冷たく、胸の奥へ落ちていった。
守りたい場所を得た。ようやく、自分がバルトでいられる場所を見つけた。俺は、俺様は、この場所を守ると決めた。
なのに。父の言葉は消えなかった。兄の名は消えなかった。
手紙の文字も、墓前の風も、母のいない屋敷も、父の濁った目も、全部が胸の奥に残っていた。それから、ときどき身体がおかしくなった。
仲間の声がひどく遠く聞こえる。敵へ向けたはずの拳が、違う場所へ流れかける。笑って返そうとしても、言葉が一拍遅れる。
月を見た瞬間、呼吸の仕方まで分からなくなることがあった。何がどこまで父の言葉のせいで、何が自分の中で起きていることなのか、バルトにはもう切り分けられなかった。
ただ、怖かった。第一部隊にいるのに、皆の声へ手を伸ばしにくくなる瞬間がある。守ると決めた場所で、自分の拳がルカへ向きかけた。
それだけは、笑って流せなかった。バルトは拳を握る。俺様は大丈夫だ。俺様は強い。俺様に任せろ。
いつもの言葉を、胸の中で何度も繰り返す。顔を上げると、白い月が見えた。目を逸らそうとして、すぐには逸らせなかった。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




