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月の下で

 朝食は、静かだった。食堂には、いつもの匂いがある。焼いたパン。温かいスープ。昨日の残りを少し焼き直した肉。


 それから、セレスが朝早くから用意していた、小さな野菜の包み焼き。どれも、いつもの第一部隊の朝にあるものだった。けれど、食卓に流れる空気だけが違っていた。


 ルカはいない。第二部隊の応援に出ている。エディンもいない。


 野暮用があると言って、朝早くに隊舎を出ていた。残った面々は、それぞれの席についていた。


 アルドは黙ってパンを割り、レイスは今日は書類を広げていなかった。ノルは水を飲みながら窓の外を見ている。ルシアンは皿を配り、セレスは少し緊張した様子でバルトの反応を窺っていた。


 ゴードは壁際の席で、静かに食事を取っている。バルトは、食べていた。淡々と。


 昨日の夕食の時と同じように。大げさに騒がない。皿を持って「うめぇ」と叫ばない。誰かの料理を褒めちぎることもない。


 目の前に置かれたものを、ただ順番に口へ運んでいく。


「バルト」


 ルシアンが声をかけた。バルトは少し遅れて顔を上げる。


「ん?」


「包帯、あとで替えようね」


「ああ」


 短い返事。それだけだった。セレスがそっと言う。


「包み焼き、味薄くなかった?」


「うまい」


 バルトは答えた。嘘ではないのかもしれない。でも、その言葉は皿の上を滑っただけで、誰の胸にも届かなかった。


 セレスは「そっか」とだけ言って、視線を落とした。ノルは無言でパンをかじる。アルドはバルトを見ていた。


 レイスも、見ていた。ゴードはもっと静かに、ただ見ていた。やがて、バルトは皿を空にした。


「ごちそうさん」


 椅子を引く。その音に、全員の視線が向く。バルトは気づいているのか、いないのか、いつものように片手を上げた。


「ちょっと部屋戻るわ」


「バルト」


 アルドが呼ぶ。バルトは振り返る。


「なんだ、カシラ」


「……いや」


 言葉が出ない。何を言えばいいのか、分からなかった。


「たまにはゆっくりしろよ」


 バルトは少しだけ笑った。笑ったように見えた。


「心配すんなって」


 それだけ言って、食堂を出ていく。階段を上る足音が遠ざかり、自室の扉が閉まった。食堂に、沈黙が残る。


 ルシアンが胸元で手を握った。


「……また、静かだったね」


 誰もすぐには答えなかった。


 アルドは椅子から立ち上がった。


「レイス」


「なんだ」


「デート行くぞ」


 食堂が止まった。ノルがわずかに目を上げる。ルシアンが「え」と小さく声を漏らした。


 レイスは、心底不快そうに眉を寄せた。


「お前、何をふざけて……」


 アルドはふざけていなかった。真面目な顔で、まっすぐレイスを見る。


「いいから、デートに行くぞ」


 レイスの表情が変わる。ほんのわずかに。長く一緒にいる者にしか分からないくらい、小さく。


 レイスは数秒だけアルドを見ていた。それから、静かに息を吐く。


「お前との付き合いは長いが、デートに誘われたのは初めてだ」


「うるせぇ。行くのか、行かねぇのか」


「たまには悪くない」


 レイスは立ち上がった。そのまま椅子の横に置いていた上着を取る。ルシアンが不安そうに二人を見る。


「アルド……」


 アルドは少しだけ振り返った。


「デートの邪魔するなよ」


「うん」


 それ以上は聞かなかった。聞けなかった。ノルが水の杯を持ったまま、ルシアンへ視線を向ける。


「アルド、レイスに取られちゃったね」


 茶化すような声だった。


 でも、目は笑っていない。


 ルシアンも、それに気づいていた。だから、少しだけ無理に笑った。


「たまにはレイスにあげてもいいよ」


「太っ腹」


「でしょ」


 二人とも、笑っているふりをした。アルドとレイスは、食堂を出た。扉が閉まる音が、いつもより重く響いた。


         ◇


 王都討祓軍本部の廊下は、いつものように整っていた。兵達が行き交い、報告書を抱えた者が足早に歩いている。けれど、アルドとレイスの間に会話はなかった。


 二人は並んで歩く。冗談を言い合う余裕はない。目的地は決まっていた。ローグレスの執務室。


 扉の前に立つと、アルドは一度だけ深く息を吸った。レイスは何も言わない。アルドが扉を叩く。


「入れ」


 中から、ローグレスの声がした。二人は扉を開けた。執務室には、ローグレス一人だけがいた。


 普段なら近くに控えているジークの姿はない。机の上には書類が積まれているが、ローグレスは手を止め、二人を見た。


「アルド、レイス。どうした」


 アルドはまっすぐ立った。その顔は、任務報告の時よりも硬い。


「ローグさん」


「なんだ」


「レイスとのデートで来ました」


 レイスは何も言わなかった。訂正もしない。茶化しもしない。


 いつものように「馬鹿か」とも言わない。ローグレスは一瞬だけ二人を見た。次の瞬間、表情が変わった。


「なにがあった」


 早かった。余計な言葉はなかった。アルドの喉が動く。言葉が、少しだけ詰まった。


 それでも、言わなければならない。


「月酔いの疑いがあります」


 ローグレスの目がわずかに細くなった。


「この前のように、どこかの村の人間か」


 アルドの顔が、苦しげに歪んだ。ほんの一瞬。すぐに戻す。


 だが、その一瞬だけで、ローグレスは察しかけていた。アルドは低く言った。


「バルトです」


 執務室の空気が、落ちた。ローグレスは何も言わなかった。ただ、机に両手をつき、そのまま顔を落とした。


 額が、重い音もなく机に近づく。肩が震えていた。アルドは唇を噛む。レイスも目を伏せた。しばらく、誰も話さなかった。


 やがて、レイスが静かに口を開く。


「症状を報告します」


 ローグレスは顔を上げなかった。


 だが、拒まなかった。


 レイスは続けた。


「数日前から微細な違和感がありました。戦闘中の反応遅延、普段なら避ける傷の増加。昨日の任務で明確に異常が出ています。味方の声への反応遅れ、敵ではない方向への攻撃、魔力制御の乱れ、月を見た瞬間の呼吸停止。さらに、ルカへの誤射に近い拳撃未遂」


 アルドの拳が強く握られる。レイスの声は揺れない。揺らさないようにしている。


「今朝以降は、情緒の波が目立ちます。静かになったかと思えば、急に怒鳴り、すぐに謝罪。その後、急に明るく戻る。食事中の反応も普段とは違います」


 ローグレスは黙って聞いていた。顔を伏せたまま。肩だけが、小さく震えていた。


 レイスが言い終えると、長い沈黙が落ちた。やがて、ローグレスがゆっくり顔を上げた。目元に濡れたものはない。


 だが、表情は痛みを押し殺していた。


「段階は分かるか」


 声は低かった。アルドが答える。


「正確には分かりません。けど……第二段階の末期。最悪、第三段階の初期です」


 ローグレスは再び顔を伏せた。今度は、机に額を押しつけるように。


 誰も、何も言わなかった。


 外の廊下を歩く兵士の足音だけが、遠く聞こえる。王都討祓軍総隊長。王家直属の軍を束ねる者。


 数えきれないほどの月酔いを見てきた者。制度を知り、現実を知り、どうにもできないものがあることを知っている者。その男が、今はただ、机に顔を伏せていた。


 ようやく、ローグレスが顔をあげ口を開いた。


「この件は、一度俺が預かる」


 声はかすれていた。


 だが、言葉ははっきりしていた。


「お前たちは、バルトを頼む」


 アルドは頷く。


「はい」


 レイスも短く答えた。


「承知しました」


 ローグレスは深く息を吐く。


「今すぐ第五部隊へ回すような話にはしない。だが、見落とすな。無理もさせるな。本人が笑っていても、笑いだけで判断するな」


「分かってます」


 アルドの声は硬かった。


「分かってるつもりでも、見逃す時はある」


 ローグレスはアルドを見る。いつもの上官の目だった。だが、その奥に、抑えきれない痛みがあった。


「だから、一人で見るな。全員で見ろ」


「はい」


 アルドとレイスは頭を下げた。二人は扉へ向かう。その背中に、ローグレスの声が落ちた。


「アルド。レイス」


 二人が足を止める。ローグレスは静かに言った。


「後悔は残すな」


 短い言葉だった。それだけで、十分だった。アルドは小さく答える。


「はい」


 レイスも続けた。


「……はい」


 二人は部屋を出た。扉が閉まる。執務室に、ローグレス一人が残る。


 彼はしばらく椅子に座ったまま、動かなかった。机の上には、未処理の書類が積まれている。国軍からの報告。


 討祓軍の配置表。村からの救援要請。王城への提出文書。どれも大事なものだった。


 だが、その上にあるはずのない名前が、今は頭から離れない。バルト。豪快に笑う男。


 飯をうまそうに食う男。仲間を兄弟と呼び、痛みを笑い飛ばす男。ローグレスは片手で顔を覆った。


 声は出さない。泣きもしない。ただ、肩だけが、小さく震えていた。


         ◇


 隊舎へ戻ると、空気が騒がしかった。いつもの騒がしさではない。嫌なざわめきだった。扉を開けた瞬間、ルシアンが振り向く。顔が青い。


「アルド」


「どうした」


 アルドの声が低くなる。ルシアンは唇を震わせた。


「バルトがいない」


 その言葉を聞いた瞬間、アルドは走り出していた。


「アルド!」


 レイスが追おうとする。


 だが、アルドは振り返らない。


 隊舎を飛び出し、王都の通りへ走る。人混みを避け、路地を抜け、広場を横切る。頭の中に、いくつもの場所が浮かぶ。


 煤鳩亭。夜の店。訓練場。武器屋。昨日の猫の路地。


 どこだ。どこに行く。バルトが一人で行きそうな場所。月が見える場所。胸の奥が、嫌な音を立てる。


 アルドは走った。何度も人にぶつかりかけ、謝る余裕もなく走った。王都の中心から少し外れた場所。


 古い公園がある。昼間は子供達が遊び、夜は人通りが減る。木々の間に古いベンチがいくつかあり、空が広く見える場所。


 アルドは足を止めた。そこにいた。バルトは、ベンチに寝そべっていた。


 片腕を頭の後ろに回し、もう片方の手を腹の上に置いている。まるで昼寝でもしているような姿勢。けれど、その目は閉じていない。


 月を見ていた。雲ひとつない夜空に、綺麗な満月が浮かんでいる。白く、丸く、あまりにも静かに。


 アルドはゆっくり近づいた。足音を立てないように。近づきすぎないように。ベンチの横で立ち止まる。


「隣、座っていいか」


 バルトは月を見たまま、少し間を置いて答えた。


「あぁ」


 アルドは隣に座った。しばらく、何も言わなかった。夜風が木の葉を揺らす。


 遠くから、王都のざわめきが微かに聞こえる。バルトは月を見ている。アルドは、月を見なかった。


 ただ、隣にいるバルトを見ていた。


「……煤鳩亭」


 やがて、バルトが口を開いた。声は静かだった。


「楽しかったな」


「ああ」


 アルドは短く答える。


「あの店、いつ行ってもうるせぇんだよな。ドランはすぐ肉出してくるし、ミナは笑ってるし。俺が飲みすぎると、ルカが丁寧に刺してくる」


 バルトは少しだけ笑った。


「バルトさん、飲みすぎです。明日また文句言いますよ、ってな」


「言いそうだな」


「あいつのツッコミ、けっこう好きなんだよ」


 バルトは月を見たまま言う。


「丁寧なのに、刺さるだろ。テンポがいい。俺が何言っても、すぐ返してくる」


 アルドは黙って聞いていた。


「姐さんは強ぇなぁ」


 エディンのことだった。


「あの人、笑ってるのに全然隙がねぇ。冗談言いながら、全部見てる。たぶん本気出したら、俺でも怖ぇよ」


「だろうな」


「ルシアンはさ」


 バルトの声が少し柔らかくなる。


「しっかりしてるようで、意外と抜けてるから。見ててやれよ、カシラ」


「……ああ」


「あいつ、変なところで無理するだろ。自分が痛くても、先に人の手当てする。笑って誤魔化すの、俺だけじゃねぇんだよな」


 アルドは拳を握った。


「ノルは口悪ぃけど、優しいよな」


 バルトは小さく息を吐く。


「絶対認めねぇけど。あいつ、見てないふりして見てる。面倒くさそうにしながら、ちゃんとそこにいる」


「ああ」


「レイスはうるせぇ」


 アルドは少しだけ笑った。


「確かに」


「細けぇし、口うるせぇし、すぐ正論で刺してくる。でも、あいつが言うことって、だいたい間違ってねぇんだよな」


「本人に言ったら調子に乗るぞ」


「言わねぇよ」


 バルトも少し笑った。けれど、その笑いはすぐに消えた。


「ゴードの兄弟は、何も言わねぇけど、ちゃんと見てる」


 声が少し低くなる。


「俺が笑ってても、たぶん一番気づいてる。何も聞かねぇで隣にいるから、余計に逃げられねぇ」


 アルドは何も言わない。


「セレスはさ」


 バルトは少しだけ目を細めた。


「飯作ってる時も、誰かの皿が空いてる時も、よく見てんだよ。戦場でもそうだ。あいつ、本人が思ってるより周り見えてるよな」


 夜風が吹いた。木の葉が揺れる。


「昨日の飯も、美味かった」


 バルトはぽつりと言った。


「ちゃんと、そう言えばよかったな」


 アルドの喉が詰まる。何か言えそうで、言えなかった。バルトは続けた。


「第一部隊って、うるせぇよな」


「ああ」


「朝から晩まで誰かしら喋ってるし、飯は取り合いになるし、ノルはすぐ邪魔って言うし、レイスは細けぇし、ルカは丁寧に刺してくるし」


 バルトは月を見たまま、少しだけ笑った。


「でも、俺……あそこ好きだわ」


 その一人称が、アルドの胸に刺さった。俺様ではなかった。いつもの大きな声でもなかった。虚勢を張るための言葉ではなかった。ただの、バルトの声だった。


 アルドはしばらく黙っていた。励ましの言葉は、出てこなかった。大丈夫だとも、何とかなるとも言えなかった。


 そんな軽い言葉で、今のバルトを繋ぎ止められる気がしなかった。だから、アルドは立ち上がった。バルトの前に立ち、手を差し出す。


「帰ろう」


 バルトは月から目を離した。アルドの手を見る。少しだけ迷うように、指が動いた。それから、その手を取った。


「あぁ」


 アルドはバルトを引き起こした。二人は並んで歩き出す。王都外れの公園を抜け、隊舎へ向かう道へ。


 公園を出るところで、バルトは一度だけ足を止めた。振り返りかけた顔を、そのまま前へ戻す。


「カシラ」


「なんだ」


「……いや。帰るか」


「ああ」


 二人は隊舎へ向かって歩き続けた。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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