いつものバルト
朝の第一部隊隊舎には、いつもの匂いがあった。焼いたパン。薄く塩を利かせたスープ。
温め直した肉の残り。それに、セレスが試しに焼いたという小さな芋餅の香ばしい匂い。食堂には、いつもの顔が揃っていた。
アルドは片手でパンを割りながら、向かいのレイスが広げている書類を見て顔をしかめている。
「朝飯中くらい書類閉じろよ」
「読んでいるだけだ」
「それが邪魔なんだよ」
「お前の食べ方の方が邪魔だ」
「何だと」
いつもの言い合い。ルシアンはそれを見て小さく笑いながら、皆の皿に芋餅を置いていく。
ノルは窓際で水を飲みながら、新しい長銃用の弾倉をいじっていた。ルカはまだ少し眠そうな顔で、湯気の立つ杯を両手で包んでいる。ゴードは壁際の席で静かに食べていた。
エディンは朝から小さな杯に果実酒を注ぎ、優雅に口をつけている。セレスは厨房側から顔を出し、少し緊張した顔で聞いた。
「芋餅、硬くない?」
「大丈夫だよ。おいしい」
ルシアンがすぐに答える。ノルも一口食べ、短く頷いた。
「好き」
「本当?」
「うん」
セレスの顔が少し明るくなる。ルカも芋餅を見ながら言った。
「外が少しカリッとしていて、中が柔らかいですね。僕も好きです」
「よかった」
セレスがほっと息を吐く。バルトはいつもより少し遅れて食堂へ入ってきた。昨日のタ村任務で負った傷には、ルシアンが巻いた包帯が残っている。
肩。脇腹。胸元。服の下にもいくつか。致命傷ではない。
どれも浅い。だが、普段のバルトなら、こんな数の傷は負わない。
「おう」
バルトはいつものように片手を上げた。声は明るい。けれど、どこか薄かった。
「遅い」
ノルが言う。
「寝てたんだよ」
「寝坊?」
「休みの日くらい寝坊してもいいだろ」
「今日は休みじゃない」
「任務がなきゃ休みみてぇなもんだ」
バルトは笑って席についた。その笑い声は、いつもより少しだけ短かった。ルシアンが皿を置く。
「バルト、傷は?」
「ああ。平気平気」
バルトは芋餅を掴み、豪快に口へ放り込んだ。
「うまいな、これ」
「本当?」
セレスが嬉しそうに聞く。
「おう」
バルトは頷いた。けれど、その声にはいつもの大げさな熱がなかった。普段なら、もっと騒いだはずだった。
うめぇ。セレス、お前店出せるぞ。俺様が毎日食いに行ってやる。
そういう雑な褒め言葉を、きっと並べたはずだった。でも、バルトはただ「うまい」と言っただけで、次の芋餅を口に運んだ。セレスは少しだけ瞬きをした。
何かを言おうとして、やめた。ルカがバルトの肩の包帯へ目を向ける。
「バルトさん、肩は本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって」
バルトは軽く答える。
「昨日からそればっかだな、お前ら」
「心配になりますよ。あんなに傷が多かったんですから」
「低級十体もいたんだ。ちょっとくらい食らうだろ」
「バルトさんなら、普段はあんなにもらいません」
ルカの声は静かだった。バルトは一瞬だけルカを見た。すぐに笑う。
「お前、俺様を買いかぶりすぎだろ」
「買いかぶりではないです」
ルカは珍しく引かなかった。その横で、セレスも言う。
「脇腹の傷もまだ開くかもしれないよ。今日はあんまり動かない方がいいと思う」
「セレスまでかよ」
「だって、昨日のあれは普通じゃなかった」
食堂の空気が、少しだけ重くなる。バルトは芋餅を噛みながら、視線を落とした。
「普通じゃなかった、ね」
小さな声だった。誰かが聞き返す前に、バルトはまた笑った。
「まあ、ちょっと寝不足だったんだよ。猫探しで歩き回ったし、任務もあったしな」
「寝不足だけじゃないだろ」
アルドが言った。バルトはアルドを見る。アルドの目は真っ直ぐだった。怒ってはいない。ただ、見ている。
それが、バルトには少しだけ重かった。
「カシラまで心配性になったのかよ」
「昨日、自分で言っただろ」
アルドは静かに返す。
「なんか変だって」
バルトの手が止まった。食堂が、ほんの少し静かになる。レイスは何も言わず、書類を閉じていた。
ゴードは食事の手を止め、バルトを見ている。エディンは杯を揺らすのをやめていた。ルシアンは、バルトの前に立ったままだった。
「……あれは」
バルトは口を開く。けれど、言葉が続かない。ルシアンがそっと言った。
「バルト。本当に大丈夫なの?」
優しい声だった。責める声ではない。追い詰める声でもない。ただ、純粋に心配している声。
「昨日だって、ルカに拳が向きかけたし、月を見た時も――」
「大丈夫だって言ってんだろ!」
怒鳴り声が、食堂を叩いた。時間が止まった。ルシアンの肩が、小さく跳ねる。セレスが息を呑む。ルカの表情が固まる。
ノルは弾倉を持つ手を止めた。アルドが立ち上がりかける。レイスの目が細くなる。ゴードは動かない。エディンだけが、笑みを消していた。
バルト自身も、そこで初めて自分の声に驚いたように目を見開いた。口がわずかに開く。怒りの熱が、すぐに引いていく。
残ったのは、青ざめた顔だった。
「……悪ぃ」
低い声だった。
「今のは、違う。ルシアンに怒るつもりじゃ……なかった」
ルシアンは少しだけ唇を結んだ。けれど、すぐに首を横に振る。
「ううん、大丈夫」
そう言って、無理に笑った。
「私も言いすぎたね。ごめんね」
バルトは何か返そうとした。
でも、言葉が出なかった。
怒られる方が、まだよかった。謝られる方が、ずっと苦しかった。
「……飯、冷めるぞ」
バルトはそう言って、視線を皿へ落とした。
誰もすぐには返せなかった。
食堂には、さっきまでと同じ朝食が並んでいる。焼いたパンも、スープも、芋餅もそのままだった。バルトの前のスープだけが、手をつけられないまま少しずつ湯気を失っていった。
◇
その日の午前中、バルトは静かだった。全く喋らないわけではない。誰かに話しかけられれば、返事はする。
ルカが武器の手入れをしている横を通る時には、「新しい短剣、馴染んだか」と聞いた。ノルに「邪魔」と言われれば、「いつも通りだな」と笑った。
セレスが棚の整理をしている時には、上の段の荷物を取ってやった。ルシアンが包帯の替えを持ってくると、「ありがとな」と受け取った。
けれど、どれも少しだけ遅かった。言葉が出るまでに間がある。笑うまでに、半拍遅れる。
目が、相手ではなく少し遠い場所を見ている。心がここにない。そんな感じだった。
アルドは広間の椅子に座り、何度もバルトへ視線を向けた。声をかけようとして、やめる。何を言えばいいのか分からなかった。
レイスはその様子を見ながら、低く言った。
「声をかけるなら、言葉を選べ」
「分かってる」
アルドは拳を握る。
「俺が何か言ったら、余計に追い詰めそうで嫌なんだよ」
「なら今は見ていろ」
「それしかできねぇのか」
「今はな」
レイスの声は冷たく聞こえた。
だが、その目もまた、バルトを見ていた。
ルシアンは何度かバルトへ近づこうとした。そのたびに、セレスがそっと袖を引いた。
「ルシアン」
「……うん」
ルシアンは頷く。分かっている。今、近づけば、またバルトを苦しめるかもしれない。
でも、離れていることも苦しかった。
ノルは窓際で長銃を拭いていた。いつもなら、面倒そうにしているだけに見える。だが今日は、手が少し止まるたび、バルトの方を見ていた。
ルカはその隣に座っていた。
「ノルさん」
「何」
「昨日のこと、怒ってますか」
「何に」
「バルトさんの拳が、僕に向きかけたことです」
ノルは少しだけ考えた。
「怒ってない」
「そうですか」
「でも、怖かった」
ルカは目を伏せた。
「……はい」
「ルカが怖かったなら、それでいいと思う」
「いいんですか」
「怖くないふりする方が、たぶんよくない」
ルカは黙った。それから、小さく頷いた。
「そうですね」
広間の端で、エディンはその会話を聞いていた。いつものように口を挟まない。ただ、果実酒の入っていない杯を指先で転がしている。
ゴードは壁際に立ち、バルトを見ていた。
何も言わない。
何も聞かない。
ただ、その場にいた。
◇
昼を少し過ぎた頃だった。バルトが急に立ち上がった。椅子が床を擦る音に、広間の何人かが顔を上げる。
「兄弟」
バルトはゴードを見た。
「筋トレ行こうぜ」
声は、朝より明るかった。さっきまでの静けさが嘘のように。バルトは拳を軽く鳴らし、いつもの笑顔を浮かべている。
「身体動かしてぇんだ。じっとしてると腐る」
ゴードはバルトを見た。短い沈黙。そして頷く。
「分かった」
「よし!」
バルトの顔がぱっと明るくなる。
「さすが兄弟! 話が早ぇ!」
ルシアンが少しだけ立ち上がる。
「バルト、傷は――」
「大丈夫だって」
今度の声は怒鳴りではなかった。いつもの軽さがあった。
「軽く流すだけだ。な、兄弟」
「無理はさせない」
ゴードが言う。
「ほら、ゴードもこう言ってる」
「それ、安心していいのかな」
セレスが不安そうに言った。
「心配すんな。ちょっと汗かいてくるだけだ」
バルトは笑い、隊舎の入口へ向かう。ゴードもその後に続いた。扉が閉まる。重い音だった。広間に、静けさが落ちる。
誰もすぐには話さなかった。
バルトが明るかった。それはいいことのはずだった。
でも、あまりにも急だった。
朝の静けさも、怒鳴ったことも、遠い目も。全部なかったかのように、いつものバルトが戻ってきた。だから、誰も安心できなかった。
「……今の」
ルカが小さく言う。
「いつものバルトさんに見えましたね」
「見えたな」
アルドが答える。レイスは静かに言った。
「見えた、だけだ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
◇
バルトとゴードが帰ってきたのは、夕方近くになってからだった。扉が開く音がする。全員が顔を上げる。
先に入ってきたのはバルトだった。汗をかいている。顔色は悪くない。むしろ、朝よりずっと元気そうだった。
「戻ったぜ」
明るい声。いつもの調子。
「軽く流すだけって言ってたのに、結構やったんじゃない?」
セレスが聞く。
「まあな。兄弟が思ったより付き合ってくれたからよ」
「無理はしてない?」
ルシアンが聞く。
「してねぇよ」
バルトは笑う。
「ちょっと身体動かしたら、だいぶすっきりした」
そう言って、そのまま階段へ向かう。
「バルト?」
アルドが呼ぶ。
「あ?」
「飯、もう少しでできるぞ」
「先に汗流してくる」
バルトは短く答えた。
「後で行く」
それだけ言って、自室の方へ消えていった。足音が遠ざかる。少し遅れて、ゴードが広間へ入ってきた。
その顔はいつも通りだった。
だが、どこか重い。
全員の視線が、自然とゴードに集まる。アルドが聞いた。
「どうだった」
ゴードはすぐには答えなかった。椅子に座ることもせず、広間の中央で立ち止まる。
「いつもの明るいバルトだった」
低い声だった。
「よく笑い、よく動いた。筋力も落ちていない。魔力も荒れてはいなかった。俺の冗談にも返した。疲れた様子も、痛がる様子もなかった」
ルシアンの表情が、少しだけ緩みかけた。
だが、ゴードは続けた。
「本当に、何一つ異常がなかった」
そこで、言葉が止まる。広間の空気が、また重くなる。ゴードは静かに言った。
「だから異常だった」
誰も笑わなかった。
誰も、安心しなかった。
レイスが目を伏せる。
「波がある、ということか」
「おそらく」
ゴードは短く答えた。
「戻ったように見える時間がある。だが、戻ったわけではない」
ルシアンは胸元で手を握った。
「どうしたらいいのかな」
誰も、すぐには答えられなかった。
ノルが小さく言う。
「分からない」
その一言は、いつもの投げやりではなかった。本当に、分からない声だった。エディンは窓の外を見ていた。
夕方の空が、少しずつ暗くなっていく。
「まずは、見落とさないことねぇ」
いつもの柔らかい声だった。
でも、その奥は冷えている。
「明るい時も、静かな時も。どちらもバルトちゃんだから」
その言葉に、ルシアンが唇を噛んだ。
◇
夕食は、セレスが作った。以前から少しずつ練習していた料理だった。白銀の時計のような高級料理ではない。
けれど、野菜を丁寧に刻み、肉を焼きすぎないように火を見て、香草を少しだけ使った。温かい煮込み。焼いた芋。
小さな肉の包み焼き。第一部隊の食卓に似合う、素朴で優しい料理だった。
「今日は私が作ったから、味がおかしかったら言ってね」
セレスが少し緊張しながら言う。
「おいしそうだよ」
ルシアンが微笑む。
「匂いはいい」
ノルも言った。
「匂いだけ?」
「まだ食べてないから」
「それはそうだけど」
ルカは皿を見て頷いた。
「すごいですね。ちゃんと料理屋さんみたいです」
「褒めすぎだよ」
セレスは照れたように笑う。けれど、視線は何度も階段の方へ向いていた。ルシアンが立ち上がる。
「バルト呼んでくるね」
誰も止めなかった。
ルシアンは階段を上がり、バルトの部屋の前に立った。扉を軽く叩く。
「バルト。ご飯できたよ」
少し間があった。扉の向こうから、低い声が返る。
「……ああ」
「来られる?」
「行く」
扉が開く。バルトが出てきた。髪は少し濡れている。汗は流したのだろう。
だが、昼の明るさはもうなかった。
目が少し遠い。ルシアンを見るまでに、わずかな間がある。
「大丈夫?」
ルシアンは聞きかけて、言葉を飲み込んだ。朝の怒鳴り声が、まだ胸に残っている。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……一緒に行こ」
ルシアンはそう言い直した。バルトは小さく頷いた。
「おう」
二人で広間へ戻る。バルトは黙って席についた。皆も、それぞれ席につく。食事が始まった。
最初は、ノルが肉の包み焼きを一口食べて言った。
「おいしい」
「ほんと?」
「うん」
セレスの顔が明るくなる。ルカも頷く。
「中の肉が柔らかいです。香草も強すぎなくていいですね」
「よかった」
ルシアンも煮込みを口に運び、嬉しそうに笑った。
「セレス、すごい。これ、私好き」
「ありがとう」
セレスは照れながらも、嬉しそうだった。アルドも食べる。
「美味いな」
「本当?」
「ああ」
「よかった……」
レイスも静かに口へ運ぶ。
「悪くない」
「レイスの悪くないは、かなり褒めてるやつだね」
ルシアンが言う。
「普通だ」
「ほら、普通って言った。もっと褒めなよ」
ノルがぼそりと言う。
「お前に言われたくない」
少しだけ笑いが起きた。バルトも皿に手を伸ばす。肉の包み焼きを取る。口へ運ぶ。
「……うまい」
短い言葉だった。セレスは少し安心したように笑った。
「よかった」
バルトは頷く。そして、黙って食べ続けた。いつものように大げさに騒がない。セレスを褒めちぎらない。次の皿へ手を伸ばし、ただ食べる。
早い。味わっているというより、空腹を埋めているだけのようだった。途中、手が杯に当たった。
木の杯が倒れる。水が食卓へ広がった。
「あ」
バルトが小さく声を漏らした。すぐに手を伸ばして杯を起こす。
「悪ぃ」
その声は、ひどく小さかった。
「大丈夫大丈夫」
セレスがすぐに布巾を取る。
「水だし、気にしないで」
ルシアンも手伝おうとするが、セレスが笑って手を振った。
「平気。私やるよ」
水はすぐに拭き取られた。何でもないことだった。誰にでもある失敗だった。
けれど、食卓の誰もが、その小さな失敗に過敏に反応してしまった。バルトはそれに気づいていた。気づいて、また笑いそうになった。
でも、うまく笑えなかった。
「……ごちそうさん」
バルトは皿を空にすると、椅子を引いた。
「もういいの?」
ルシアンが聞く。
「ああ。腹いっぱいだ」
「まだ少しあるよ」
「今日はいい」
バルトはセレスへ視線を向けた。
「うまかった」
「うん。ありがとう」
セレスは笑った。バルトはそれ以上何も言わず、食堂を出ていった。足音が階段へ向かう。
自室の扉が閉まる音がした。食卓には、まだ料理が残っている。温かい湯気も、少しだけ残っている。セレスは手元の皿を見つめた。
「……きっと、口に合わなかったんだよ」
小さな声だった。
「初めて作ったから。ちょっと、味が薄かったかも」
「違うよ」
ルシアンが言おうとするより早く、アルドが口を開いた。低い声だった。セレスが顔を上げる。
アルドは皿に残った料理を見ていた。それから、ゆっくりと言った。
「美味いよ」
誰も茶化さなかった。
アルドは続けた。
「セレスの飯は、美味かった」
セレスは何か言おうとして、言えなかった。食堂に、静かな湯気だけが残っている。
誰も、バルトを責めなかった。
セレスも、それ以上「味」の話をしなかった。バルトがいた席には、倒した杯を拭いた跡がまだ少し湿っている。料理の湯気が薄くなるまで、誰もすぐには次の話を始めなかった。
今回もお読みいただきありがとうございました。
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