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なんか変だわ

 翌朝。第一部隊の隊舎には、いつも通りの朝が来ていた。食堂には焼いたパンの匂いが漂い、湯気の立つスープが並んでいる。


 ルカは眠そうに席へつき、両手で杯を包み込んでいた。ノルは窓際の席で水を飲みながら、新しい長銃の弾倉を指先で確認している。ルシアンは皿を配り、セレスは棚から追加の布巾を取っていた。


 ゴードは壁際の椅子に静かに座り、食堂全体を見ている。エディンは朝から果実酒の入った小さな杯を揺らしながら、楽しそうに皆を眺めていた。


 アルドは椅子に浅く腰掛け、パンを手で割っている。レイスは食卓の端で、食後に読むつもりなのか、横に書類を置いていた。その中で、ひときわ大きな声が響いた。


「この前の肉、もう一回食いてぇな!」


 バルトだった。いつものように豪快に笑いながら、木の杯を片手に持っている。


「あの白牛ってやつ、やべぇだろ。あれ食ったら普通の肉に戻れねぇぞ」


「戻れ」


 ノルが即答した。


「飯に階級を持ち込むな」


「持ち込んできたのはあの店だろ!」


「違いますよ、バルトさん」


 ルカが苦笑する。


「でも、気持ちは分かります。あれは本当に美味しかったですね」


「だろ! ルカは分かってる!」


 バルトは嬉しそうに笑った。その手の中で、木の杯が小さく鳴った。ぎし、と。レイスの目が、わずかに動いた。


 ゴードも、ほんの少しだけ視線を上げた。エディンは杯を唇へ運びかけたまま、動きを止める。バルトはまだ笑っている。


「もう一回行きてぇなぁ。なあ、カシラ。今度ローグレスの旦那にまた頼んでくれよ!」


「自分で頼め」


 アルドがパンをかじりながら言う。


「俺様が頼んだら怒られそうだろ」


「分かってるなら言うな」


「カシラならいけるって」


「いけねぇよ」


 バルトが笑うたび、杯がまた小さく軋んだ。今度は、ルシアンも気づいた。


「バルト、その杯……」


「あ?」


 バルトが手元を見る。木の杯には、指の形に沿うような薄いへこみができていた。


「おお。危ねぇ危ねぇ」


 バルトは軽く笑い、杯を机に置く。


「白銀の時計の話してたら力入っちまった」


「そんな力の入り方ある?」


 ノルが眉を寄せる。


「あるだろ。肉の思い出ってのは強ぇんだよ」


「意味分からない」


 セレスが少し笑いながらも、杯を見ていた。


「でも、バルト。今の、結構危なかったよ」


「大丈夫だって。潰してねぇだろ」


「潰しかけたんだよ」


 アルドが言う。


「朝から元気すぎるんだよ、お前」


「俺様はいつでも元気だぜ」


 バルトは笑った。いつものように。大きく、雑で、何も気にしていないように。


 だが、レイスはその手元から目を離さなかった。ゴードは無言のまま、バルトの指を見ている。エディンはゆっくり杯を置き、にこりと笑った。


「あらぁ、バルトちゃん。おねぇさんの杯は握らないでねぇ」


「握らねぇよ!」


「ふふ。なら安心」


 声はいつものエディンだった。けれど、その目だけは少しも笑っていなかった。


         ◇


 食後。バルトは食堂から出ようとして、扉の横の壁へ肩をぶつけた。鈍い音がした。


「いて」


 本人は軽く言っただけだった。


 だが、壁の方が少し揺れた。


「バルト」


 レイスが声をかける。


「なんだよ」


「大丈夫か」


「寝不足だ」


 バルトは片手をひらひら振った。


「昨日ちょっと街を歩きすぎた。猫ってのはすばしっこいな」


 アルドが顔を上げる。


「猫?」


「ああ。お姉さんに頼まれてな。逃げた猫を捕まえてやったんだよ」


 バルトは得意げに腕を見せた。そこには、細い爪痕がいくつも残っている。


「ほら、勲章だ」


「結構傷になってるよ」


 ルシアンが心配そうに近づく。


「手当てしようか?」


「いらねぇいらねぇ。こんなの傷のうちに入らねぇよ」


「でも」


「ルシアンは心配性すぎるんだよ」


 バルトは笑う。


「大丈夫だ。俺様は頑丈だからな」


 ルシアンはまだ何か言いたそうだった。セレスも近づき、バルトの腕を覗き込む。


「猫の爪って、意外と深く入るんだよ。洗った?」


「洗った洗った」


「本当?」


「たぶん」


「それ洗ってないやつでしょ」


 セレスが呆れる。ルカもバルトの肩を見て、少し眉を寄せた。


「壁にぶつかった方も大丈夫ですか?」


「お前まで何だよ。お前ら、俺様を何だと思ってんだ」


「放っておくと怪我を増やす人です」


「否定できねぇな!」


 バルトはまた笑った。けれど、その笑いの奥にあるものを、ゴードは黙って見ていた。長く。


 普段よりも、少しだけ長く。


「兄弟?」


 バルトが気づく。


「なんだ?」


「……いや」


 ゴードは短く答えた。


「気をつけろ」


「おう。猫にはな」


「猫だけじゃない」


 バルトは一瞬だけ目を瞬かせた。すぐに笑う。


「お前ら、ほんと心配性すぎるって」


 その笑い声は、いつもと同じ大きさだった。ただ、少しだけ乾いていた。エディンは食堂の入口にもたれたまま、その背中を見送っていた。


「……バルトちゃん」


 誰にも聞こえないくらいの声で、そう呟いた。


         ◇


 昼過ぎ。王都討祓軍本部から、第一部隊へ任務が届いた。王都南西にあるタ村。


 田んぼと家畜小屋、穀物貯蔵庫が並ぶ小さな村で、ここ数日、夜になると家畜が襲われ、貯蔵庫の周辺で不自然な泥と骨片が見つかっているという。昨夜、村の見張りが低級と思われる夜骸の群れを目撃した。


 数は多い。雑級五体。低級十体。


 村の柵を越えられれば、家畜だけで済まない。討伐は今夜。第一部隊が出ることになった。


「数が多いな」


 アルドが報告書を読みながら言う。


「低級十、雑級五。村の規模を考えると放置はできない」


 レイスが地図と情報が刻まれている留帳を広げる。


「タ村の北側に家畜小屋、東側に穀物貯蔵庫。夜骸は北の雑木林から出てくる可能性が高い。村へ入る前に止める」


「了解」


 ルカが頷く。


「僕は外周を回ります。低級が散ったら面倒ですから」


「ノルは貯蔵庫の屋根か」


「そこが一番見える」


 ノルが地図を覗き込んだ。


「撃ち漏らしは任せて」


「ルシアンは村人の避難確認と治療待機。セレスは足場を崩せ。雑級は泥に混じりやすい。水流で流れを読んでくれ」


「うん」


「分かった」


 セレスが頷く。


「ゴードさんは家畜小屋側の防衛。柵を抜ける個体が出たら止めてください」


「分かった」


 ゴードが低く答える。


「エディンさんは村内側の遊撃をお願いします。村人の避難路と、背後に回る個体の警戒を」


「ええ。任せてちょうだい」


 エディンはいつものように微笑んだ。


「迷子の夜骸ちゃんがいたら、おねぇさんが案内してあげるわぁ」


「討祓してください」


「もちろんよぉ」


 レイスは最後にバルトを見る。


「バルトさん」


「なんだ」


「今日は突出しすぎないでください」


「またそれかよ」


「数が多い。低級十体を相手に単独で突っ込まれると、援護が乱れます」


「分かってるって」


 バルトは拳を鳴らした。


「俺様が正面を潰してやるよ」


「だから――」


「大丈夫だって」


 バルトは笑った。明るく。いつものように。


「俺様を誰だと思ってんだ」


 レイスはそれ以上言わなかった。ただ、眉間の皺だけが深くなった。ノルは地図から目を離し、バルトを見た。


「今日、変な動きしたら撃つよ」


「味方撃つな!」


「足元」


「それでも嫌だわ!」


 ルカが苦笑する。


「撃たれたくなかったら、ちゃんと周りを見てください」


「お前まで言うか」


「言います」


 セレスも頷いた。


「今日はみんなで見るよ。バルトが突っ込みすぎないように」


「監視されてんのか、俺様」


「されてる」


 ノルが即答した。バルトは不満そうに鼻を鳴らした。そのやり取りを、アルドは黙って見ていた。


 笑って流せる空気。


 でも、完全には笑えない空気。


         ◇


 夜。タ村の空には、薄い雲が流れていた。月は見えたり隠れたりを繰り返している。


 村人達はすでに家の奥へ避難していた。家畜小屋の周辺には、第一部隊が配置についている。湿った土の匂い。


 家畜の不安げな鳴き声。遠くの雑木林から聞こえる、枝の擦れる音。アルドは剣の柄に手を置いた。


「来るぞ」


 言葉の直後、雑木林の奥から影が這い出した。泥をまとった雑級が五体。その後ろから、獣の形を歪めた低級が十体。


 狼に似たもの。猪に似たもの。大きな爪を持つもの。鳥の翼のような骨を引きずるもの。どれも真っ直ぐ村へ向かってくる。


「雑級五、低級十。報告通りだ」


 レイスが冷静に告げる。


「始めるぞ」


 アルドの剣に炎が灯る。


「火炎弐式 焔刃《えんじん》!」


 炎の刃が先頭の雑級を斬り裂いた。泥が焼け、黒い煙が上がる。ノルの銃声が続く。


 屋根の上から放たれた弾丸が、低級の脚を撃ち抜いた。ルカが外周を走り、群れから外れようとした一体の進路を塞ぐ。セレスの水流が地面を滑り、雑級の泥の流れを村の外側へ押し戻した。


 ルシアンは家畜小屋の近くで防御膜を張り、万が一に備える。ゴードは家畜小屋の門前に立ち、大盾で突っ込んできた低級を真正面から受け止めた。


「通さん」


 短い声。盾が夜骸の勢いを殺す。すぐ横からエディンが滑るように入り、細い風の刃で低級の脚の腱に当たる部分を切った。


「あらぁ、ごめんなさいねぇ」


 夜骸が体勢を崩す。そこへゴードの盾がもう一度押し込まれ、低級が柵の外へ弾き飛ばされた。


「助かる」


 ゴードが短く言う。


「どういたしましてぇ、ゴードちゃん」


 エディンは笑った。全員がそれぞれの役割で動いている。いつもの第一部隊の戦いだった。


 だが、バルトだけが、少しだけ違っていた。


「おらぁ!」


 バルトの拳が低級の頭部へ叩き込まれる。骨が砕け、夜骸が横へ吹き飛ぶ。そこまではよかった。


 次の一歩。バルトの踏み込みが、わずかに深すぎた。


「バルトさん、右から来ます!」


 ルカの声が飛ぶ。バルトには届いていた。はずだった。


 だが、その声が、妙に遠かった。


 水の底から聞こえるみたいに。何を言っているのか、少し遅れて分かる。


「……あ?」


 振り向くのが遅れた。低級の爪が、バルトの肩を裂いた。血が跳ねる。


「バルト!」


 アルドが叫ぶ。バルトは笑った。


「掠っただけだ!」


 そう言いながら、拳を振るう。だが、その拳は低級ではなく、何もない横の空間を打った。空振り。


 地面が大きく抉れる。ノルの銃声が止まった。狙いを変えかけて、バルトを見た。


「……今の」


「バルトさん!」


 レイスの声が鋭くなる。


「敵はそっちじゃありません!」


「分かってる!」


 バルトは言い返した。けれど、本当に分かっているのか、自分でも一瞬分からなかった。目の前にいるはずの夜骸の輪郭が、少し遅れて見える。


 味方の声が遠い。地面の感触が曖昧だ。拳に纏わせた魔力が、いつもより荒い。


 火炎が指先で弾け、制御しきれずに腕の外側へ散る。


「くそっ」


 バルトは低級の突進を肩で受け止めた。普段なら、避けるか、拳で横へ逸らす。


 だが今は、受けてしまった。


 衝撃で足が滑る。脇腹に別の低級の牙が掠る。さらに背中へ爪。一つ一つは致命傷ではない。


 だが、傷が多い。


 多すぎる。


「バルト、下がれ!」


 アルドが怒鳴る。


「まだやれる!」


「下がれって言ってんだろ!」


「うるせぇな!」


 バルトは笑っていた。怒鳴りながら。血を流しながら。笑っていた。


「俺様はまだ――」


 その時、雲が切れた。月が出た。白い光が、タ村の畑に落ちる。バルトの顔にも、その光が触れた。呼吸が止まった。


「……っ」


 音が消えた。夜骸の咆哮も、仲間の声も、ノルの銃声も、何も聞こえない。月だけが見えた。


 白い。やけに白い。胸の奥で、何かがざらりと擦れた。ガルトだけで十分だった。お前は必要なかった。


 お前は俺の失敗作だ、余計だった。声がした。ここにはいないはずの声。昨日の路地に消えた、あの男の声。


「バルト!」


 ルシアンの声で、世界が戻った。目の前に、低級の顎が迫っていた。バルトは反射的に拳を振り上げる。


 だが、その軌道の先に、一瞬、ルカの姿が入った。援護に飛び込んできたルカ。バルトの拳が、味方へ向かいかけた。


「――っ!」


 寸前で止めた。止めた拳の魔力が暴発し、横の地面を吹き飛ばす。土が跳ねる。


 ルカが目を見開いた。


「バルトさん……?」


 エディンの表情から、笑みが消えた。彼女は村内側の遊撃位置から、その一瞬を見ていた。味方へ向きかけた拳。


 止めた直後の暴発。バルトの目。そのすべてを、見落とさなかった。その隙を夜骸が突く。低級の爪が、バルトの胸元を裂いた。


 血が飛ぶ。


「バルトさん!」


 ルシアンが駆け出しかける。


「行くな!」


 レイスが止めた。


「まだ群れが残ってる!」


 セレスが即座に水流を伸ばした。


「ルシアン、こっちは私が止める!」


 水が地面を這い、ルシアンへ向かいかけていた雑級の泥を横へ流す。ノルが屋根の上から撃つ。雑級の核を貫き、泥が崩れた。


「行くなら今」


 ノルの声が飛ぶ。ルシアンは短く頷いた。


「ありがとう!」


 アルドが前に出た。炎を纏った剣が、バルトへ迫っていた低級を斬り伏せる。


「バルト、後ろだ!」


 今度は、アルドの声が届いた。バルトは振り返り、残った低級へ拳を叩き込む。


「大地参式 爆岩拳《ばくがんけん》!」


 地面が割れた。低級が吹き飛ぶ。


 だが、魔力の流れが荒い。


 爆ぜた土が必要以上に広がり、ノルの射線を一瞬塞いだ。


「邪魔」


 ノルが低く言い、すぐに位置を変えて撃つ。セレスが水流で土煙を流し、ルカが外へ逃げようとした低級の進路を断つ。ゴードは家畜小屋前で最後の一体を盾で押し留めた。


「アルド」


「分かってます!」


 アルドが炎を走らせ、その低級を斬った。エディンは村の避難路側へ抜けようとしていた雑級を、影のように近づいて刃で裂いた。


「あらぁ、そっちは駄目よぉ」


 いつもの声だった。


 だが、表情は戻っていない。


 レイスは全体を見ながら、必要最小限の魔法で残りを封じた。


「ノル、右奥」


「見えてる」


 銃声。


「ルカ、逃がすな」


「はい」


 ルカが走る。


「セレス、泥を村外へ流せ」


「分かった!」


 セレスの水流が足場を整える。


「ルシアン、負傷確認は後だ。今は防御を維持」


「うん!」


 ルシアンは唇を噛みながら、防御膜を張り直した。戦い自体は、長くなかった。雑級五体。


 低級十体。第一部隊なら、十分に討てる規模だった。実際、村に被害は出なかった。


 家畜小屋も、貯蔵庫も守られた。夜骸はすべて討祓された。任務は成功だった。


 だが、誰もすぐには笑わなかった。


         ◇


「バルト、座って」


 ルシアンの声は、いつもより強かった。戦闘後、バルトは家畜小屋の外壁にもたれるように座らされた。肩、脇腹、胸元、背中。


 浅い傷が多い。普段のバルトなら、こんなに傷を負わない。ルシアンは水流魔法で傷を洗い、止血していく。


「平気だって」


 バルトは笑った。


「低級相手にちょっと遊びすぎただけだ」


「遊びすぎでこんなに怪我しない」


 ルシアンが言う。バルトは返事に詰まった。セレスはルシアンの横で布を渡しながら、傷の数を見ていた。


「バルト、右肩も見せて」


「そこは平気だって」


「見せて」


 セレスの声がいつもより硬い。バルトは少しだけ黙り、肩をずらした。ノルは少し離れた屋根の上から降りてきた。


 銃を肩にかけたまま、バルトを見る。


「今日、動き変だった」


「ノルまで言うのかよ」


「言う」


 ノルの声は短い。


 でも、軽くない。


 ルカも近くに立っていた。いつものように冗談で流す顔ではない。


「さっき、僕の方に拳が来かけました」


 バルトの笑みが、わずかに固まる。


「……悪ぃ。あれは、止めただろ」


「止めました。でも、来かけました」


 ルカは静かに言った。責める声ではなかった。だからこそ、痛かった。


 レイスは腕を組み、バルトを見下ろしている。


「寝不足だけでは説明できません」


「だから、ちょっと調子が悪かっただけだって」


「なら、何が悪いんですか」


 バルトは答えられなかった。ゴードが、少し離れた場所で黙って立っている。その視線が、朝よりも重かった。


 エディンはその隣に立ち、扇情的な笑みも軽口も消したまま、バルトを見ていた。


「バルトちゃん」


 いつもより静かな声だった。


「月を見た時、止まったわねぇ」


 バルトの喉が動いた。アルドがエディンを見る。


「エディンさん」


「見間違いじゃないわぁ」


 エディンはバルトから目を逸らさない。


「一瞬、呼吸まで止まっていた」


 空気が重くなる。バルトは笑おうとした。いつものように。


 大きく笑って、雑に流して、心配を吹き飛ばそうとした。


「お前ら、ほんと心配性すぎるんだよ。俺様は――」


 言葉が途中で止まった。月が、また雲の間から見えた。白い光。胸の奥が、ざらつく。喉が詰まる。


 呼吸が、少しだけ遅れる。バルトは拳を握った。さっき握り潰しかけた杯の感触を思い出した。


 壁に肩をぶつけたこと。声が遠くなったこと。拳がルカへ向かいかけたこと。傷が多いこと。月を見た瞬間、身体が止まったこと。


 笑ってごまかせると思っていた。いつも通りに戻せると思っていた。


 でも。


 戻らない。何かが、戻らない。アルドが静かに近づいた。


「バルト」


 怒鳴らなかった。低く呼ばれただけなのに、それまでよりずっと返事がしづらかった。バルトは顔を上げる。


 笑った。いつものように笑おうとした。けれど、その目だけは、笑っていなかった。


「……なあ、カシラ」


 声が掠れた。夜風が、血と土の匂いを運んでいく。バルトは拳を握ったまま、ぽつりと言った。


「俺様、なんか変だわ」

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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