猫と二人の休日
白銀の時計での会食から、数日が過ぎた。王都には、穏やかな昼が降りていた。
戦争の気配は、街の隅々から完全に消えたわけではない。国軍兵の姿は以前より多く、掲示板には戦況に関する知らせが貼られ、広場では共和国軍への警戒を促す声も聞こえる。
それでも、人は腹が減れば飯を食う。
洗濯物は干され、商人は値を張り、子供達は路地を走る。王都は今日も、王都として生きていた。そんな街の通りを、バルトは一人で歩いていた。
大きな身体に、いつもの豪快な足取り。道行く人々が自然と少し道を空ける。本人は気にもしていない。
「さて、と……」
昼飯にはまだ早い。
隊舎に戻っても、レイスに何かしら小言を言われる気がする。ノルには「邪魔」と言われる気がする。ルカには苦笑され、ルシアンには「食べすぎないでね」と言われる気がする。
それも悪くない。悪くないが、今日は少し街をぶらつきたい気分だった。
「バルトちゃーん」
甘い声が、横から飛んできた。バルトの足が止まる。振り向くより早く、顔がにやけた。
通りの角に立っていたのは、夜の店でよくお世話になってる女だった。艶のある髪を片側へ流し、昼間だというのに、どこか夜の灯りを纏っているような雰囲気がある。
「おお、お姉さんじゃねぇか!」
バルトは大股で近づいた。
「こんな昼間に会うなんて珍しいな」
「ふふ。バルトちゃんは昼間でも元気ねぇ」
「俺様はいつでも元気だぜ」
「頼もしいわぁ」
女は困ったように眉を下げた。
「実はね、お願いがあるの」
「お願い?」
バルトは胸を張った。
「任せろ。お姉さんの頼みなら、だいたい聞いてやる」
「だいたいなの?」
「内容による!」
女はくすりと笑った。
「うちの子が逃げちゃったの」
「子?」
「猫。白くて、尻尾の先だけ黒い子。名前はミルカ。窓を開けた隙に飛び出しちゃって」
「猫探しか」
バルトは腕を組んだ。夜骸でも盗賊でもない。猫。
第一部隊の任務とは比べものにならないほど平和な頼みだった。
だが、女は本当に困っているようだった。
「探すのを手伝ってくれない? バルトちゃん、背も高いし、路地裏にも詳しそうだし」
「まあな。俺様にかかれば猫の一匹や二匹、すぐだ」
バルトはにやりと笑う。
「で、報酬はあるのかい?」
「あら」
女は一歩近づいた。ふわりと甘い香りがした。次の瞬間、バルトの頬に柔らかな感触が触れる。
ちゅ、と軽い音。女は赤い唇を離し、バルトの頬に残った口紅の跡を指先でなぞった。
「見つけてくれたら、いいことしてあげる」
バルトの顔が、一瞬でだらしなく崩れた。
「……任せろ」
「本当?」
「俺様が今から王都中ひっくり返してでも見つけてきてやる」
「頼もしいわ!」
女は嬉しそうに手を合わせる。バルトは頬にキスマークをつけたまま、胸を張って歩き出した。
「白くて尻尾の先が黒い猫だな! 待ってろ、お姉さん! すぐ連れて帰ります!」
その背中は、無駄に頼もしかった。
◇
同じ頃。第一部隊の隊舎では、アルドが珍しく落ち着かない顔をしていた。広間にはルシアンがいた。
彼女は棚の整理を終え、窓際で小さな布巾を畳んでいる。いつも通りの穏やかな横顔。アルドはしばらくその様子を見ていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「ルシアン」
「ん?」
ルシアンが振り返る。
「今日、暇?」
「うん。急ぎの用事はないよ」
「なら……街、行かない?」
「街?」
「ああ」
アルドは少しだけ視線を逸らした。
「飯食ったり、店見たり。まあ、その……二人で」
ルシアンは一瞬だけきょとんとした。それから、顔がふわりと明るくなる。
「うん。行きたい」
即答だった。アルドは小さく咳払いをした。
「じゃあ、準備を……」
「準備してくるね!」
ルシアンはアルドの言葉を最後まで聞くことなく嬉しそうに自室へ向かった。そのやり取りを、広間の隅から見ていた者がいた。ノルだった。
彼女は椅子の背もたれ越しに、じっとアルドの背中を見ている。口元が、少しだけ上がっていた。
「……デート」
小さく呟く。その声を、通りかかったルカが聞いた。
「ノルさん、何をやっているんですか?」
ノルはゆっくり振り向いた。悪い顔をしていた。
「アルドとルシアンがデートする」
「へえ」
「しかもアルドが誘ってた、照れてた」
ルカは一瞬、素直に微笑んだ。
「珍しいですね。楽しそうでいいじゃないですか」
「つける」
「はい?」
「デートを尾ける」
ノルは当然のように言った。ルカは数秒だけ黙った。
「……それ、怒られませんか?」
「見つからなければ怒られない」
「見つかったら?」
「怒られる」
「駄目じゃないですか」
ノルは少しだけ身を乗り出した。
「ルカも来る?」
ルカは悩んだ。とても悩んだ。普通に考えれば、行かない方がいい。
アルドとルシアンの邪魔をするべきではない。まして尾行など……
だが。
アルドが珍しくルシアンを誘った。ルシアンは嬉しそうだった。それを少し離れた場所から見守るだけなら。
「……楽しそうですね」
「でしょ」
「見つからないようにしましょう」
「話が早い」
二人は妙な共犯関係を結んだ。
◇
王都の昼下がり。アルドとルシアンは、並んで通りを歩いていた。普段の任務中とは違う。
急ぐ必要もない。敵を探す必要もない。ただ、二人で歩く。それだけの時間だった。
「ここ、前から気になってたんだ」
ルシアンが焼き菓子屋の前で足を止める。店先には、小さな丸い焼き菓子が並んでいた。表面に蜂蜜が塗られ、砕いた木の実が散らされている。
「買うか」
「いいの?」
「そのために来たんだろ」
アルドがそう言うと、ルシアンは嬉しそうに笑った。二人は焼き菓子を一つずつ買い、店の横にある小さな立ち台で食べた。ルシアンは一口かじり、目を細める。
「甘い。木の実が香ばしいね」
「うまいな」
「アルド、甘いの平気だったっけ?」
「嫌いじゃない」
「そうなんだ」
「何だよ」
「ううん。また一つ知らないこと知れて嬉しいなって」
アルドは少しだけ言葉に詰まった。
「……大げさだろ」
「大げさじゃないよ」
ルシアンはにこにこと笑っている。その少し離れた路地の陰。ノルとルカが、二人を覗いていた。
「平和」
ノルが呟く。
「平和ですね」
ルカも頷いた。
「アルドさん、あんな顔するんですね」
「する」
「知ってたんですか?」
「ルシアンといる時だけ、たまに」
「へえ」
ルカは少しだけ嬉しそうに目を細めた。任務中のアルドは、いつも先頭に立つ。強く、荒く、頼れる。
でも今は、ただ一人の女の子の隣で、少し不器用に焼き菓子を食べている。それが妙に良かった。見ているだけで、胸の奥が温かくなる。
「つけてよかったでしょ」
ノルが言う。
「はい。少し悪いことをしている気もしますけど」
「してる」
「認めるんですね」
「でも幸せ」
「それは、分かります」
二人はその後も、距離を取りながらアルドとルシアンを追った。小物屋。花売り。
古い本を並べた露店。ルシアンが小さな青いリボンを手に取ると、アルドは「似合うよ」とぶっきらぼうに言った。ルシアンは顔を赤くして、それを買った。
アルドは何も言わずに代金を出そうとして、ルシアンに「今日は自分で買う」と止められた。そのやり取りを、ノルとルカは壁の陰から見ていた。
「甘い」
ノルが言う。
「甘いですね」
「焼き菓子より甘い」
「上手いこと言いますね」
「でしょ」
ノルは少し得意げだった。やがて二人は、噴水のある広場へ向かった。アルドとルシアンは噴水の縁に腰掛け、買った飲み物を飲んでいる。
少し離れた木陰で、ノルとルカも立ち止まった。そこで、ノルがふと思い出したように言った。
「ルカ」
「はい?」
「この前、エディンに短剣買ってもらってたよね」
ルカの肩が、ぴくりと跳ねた。
「ただ、武器屋で見ていたら、エディンさんが勧めてくれただけですよ」
「買ってもらった」
「まあ、結果的にはそうですけど」
「好きなの?」
ルカが飲み物を噴きかけた。
「な、何を言っているんですか」
「エディンのこと」
「いや、違います。そういうのではないです」
「慌ててる」
「慌てますよ。急にそんなこと聞かれたら」
ルカは耳まで赤くしている。ノルはじっと見た。
「じゃあ嫌い?」
「嫌いなわけないじゃないですか。エディンさんには色々教えてもらっていますし、助けてもらうことも多いですし」
「好きじゃん」
「だから、その言い方をやめてください」
「好きにも種類がある?」
「あります」
「ふーん」
ノルはにやにやしていた。ルカはため息をつく。
「ノルさん、意外とこういう話好きですよね」
「好き」
「即答ですか」
「人の恋の話は面白い」
「自分の話は?」
「しない」
「ずるいですね」
「ずるくていい」
そんなやり取りをしていた時だった。
「何してんだ、お前ら」
背後から声がした。ノルとルカの身体が同時に跳ねた。振り向く。そこに、アルドが立っていた。
腕を組み、呆れた顔で二人を見下ろしている。
「……散歩」
ノルが言った。
「俺達の後ろをずっとか?」
「偶然」
「偶然で三軒も店の影に隠れるか」
ノルは黙った。ルカは観念したように頭を下げる。
「すみません。少しだけ、気になりまして」
「少しだけって距離じゃなかったぞ」
「はい……」
アルドはため息をついた。
「お前らな」
その時、少し離れたところからルシアンが歩いてきた。怒っている様子はない。むしろ、少し楽しそうだった。
「ノル、ルカ。二人も一緒にご飯食べる?」
「えっ」
ルカが顔を上げる。ノルも目を瞬かせた。
「いいの?」
「うん。せっかくだし。ね、アルド」
「……まあ、見つけちまったしな」
アルドは頭をかいた。
「来るなら来い」
ノルとルカは、少し気まずそうに顔を見合わせた。尾行していた手前、堂々とは喜べない。
だが、誘いは嬉しい。
「……ご一緒させて頂きます」
ルカが丁寧に言った。
「する」
ノルも短く頷いた。ルシアンは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、四人で行こう」
そうして、二人きりのデートは、途中から四人の早めの夕食になった。アルドは少し不満そうな顔をしていたが、ルシアンが楽しそうにしているので、それ以上は何も言わなかった。
ノルとルカは、最後まで少しだけ気まずそうだった。
それでも、卓は穏やかだった。
◇
その頃、バルトは王都の路地裏を歩き回っていた。
「ミルカちゃーん」
似合わないほど甘い声を出している。
「出てこい、怖くないぞー。俺様は猫にも優しい男だぞー」
路地の奥から、返事はない。バルトは樽の裏を覗き、木箱をどかし、屋根の上を見上げた。猫探しなど簡単だと思っていた。
だが、猫は夜骸より厄介だった。
呼んでも来ない。姿を見せても逃げる。こちらの都合など知ったことではないという顔で、細い隙間へ消えていく。
「ちっこいくせにやるじゃねぇか」
バルトは額の汗を拭った。頬のキスマークは、まだ薄く残っている。それを見るたびに、少し元気が出た。
「いいこと、いいこと……」
口元が緩む。その時だった。白い影が、塀の上を走った。尻尾の先だけが黒い。
「いた!」
バルトは身を低くした。猫は塀の上で立ち止まり、こちらを見下ろしている。丸い目。
ふわふわの白い毛。尻尾の先だけ黒。間違いない。
「ミルカだな」
バルトはじりじりと近づいた。
「よしよし。いい子だからこっち来い。俺様に捕まれば、お姉さんからいいことが――」
猫は逃げた。
「待て!」
バルトは走った。細い路地を抜け、階段を駆け上がり、洗濯物の下をくぐる。猫は身軽に箱の上へ飛び、屋根の縁へ乗り、再び地面へ降りる。
バルトは悪戦苦闘しながら追った。大柄な身体には狭すぎる道。途中で肩を壁にぶつけ、樽に足を取られ、干してあった布を頭にかぶりそうになる。
だが、諦めない。
「俺様の報酬がかかってんだよ!」
猫が、小さな広場の隅で立ち止まった。古い井戸の横。周囲に逃げ道は少ない。バルトは足音を殺した。
大きな身体に似合わず、ゆっくりと、慎重に。猫は背を向けている。尻尾が揺れる。
今だ。バルトは飛びかかった。
「捕まえた!」
「ぎゃあああ!」
猫がものすごい声で鳴いた。爪が腕に食い込む。足が暴れる。尻尾が顔を叩く。
「痛ぇ! 痛ぇって! 暴れんな! 助けてやってんだろうが!」
バルトは両腕で猫を抱え込んだ。逃がさない。絶対に逃がさない。報酬がかかっている。
「よし、よし。これでお姉さんに……」
にやけた顔で振り返った時だった。広場の入口に、一人の男が立っていた。ぼろぼろの外套。伸びた髪。痩せた頬。
薄汚れた服。年老いた男だった。
だが、バルトの顔から、笑みが消えた。
腕の中で猫が暴れている。爪が刺さる。
それでも、痛みを感じなかった。
「……親父」
声が、勝手に漏れた。男は、冷めた目でバルトを見た。懐かしさはない。驚きもない。怒りすらない。
ただ、見る価値のないものを見たような目だった。バルトの喉が、ひどく乾いた。
「親父、なんで……」
男は答えなかった。ただ、少しだけ口を開いた。
「ガルトだけで十分だった」
バルトの胸が、止まったように感じた。
「お前は必要なかった」
猫が暴れる。腕の中で、必死に逃げようとしている。白い毛が舞う。
男の声だけが、やけにはっきり聞こえた。
「お前は俺の失敗作だ、余計だった」
それだけ言うと、男は背を向けた。何事もなかったかのように。道端の石を避けるよりも雑に。バルトを置いて、歩き去っていく。
「……待てよ」
声が出た。
だが、弱かった。
「待てって……」
男は振り返らない。路地の奥へ消えていく。バルトは追えなかった。足が動かなかった。腕の中で、猫だけが暴れていた。
「……痛ぇな」
ようやく、爪の痛みが戻ってきた。
バルトは猫を抱え直した。逃げないように。傷つけないように。
自分の腕に爪が食い込むのも構わず、ただ抱えた。
「暴れんなよ」
声は、さっきよりずっと小さかった。
「ちゃんと帰してやるから」
広場には、誰もいなかった。昼の王都の喧騒だけが、遠くから聞こえていた。
◇
女の家の前に戻る頃には、バルトの頬のキスマークは少し滲んでいた。猫はまだ不満そうに鳴いている。女はバルトの姿を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「ミルカ!」
バルトの腕から猫を受け取ると、彼女はぎゅっと抱きしめた。
「よかった……! 本当に見つけてくれたのね、バルトちゃん!」
「ああ」
バルトは笑った。いつものように。豪快に。少し得意げに。
「俺様にかかれば、猫の一匹くらい余裕さ」
「本当にありがとう。腕、傷だらけじゃない」
「勲章だな」
「もう。無茶するんだから」
女は猫を抱えながら、嬉しそうに微笑んだ。
「約束通り、明日お店に来てね。ちゃんとお礼するから」
バルトは口角を上げた。頬が引きつる。笑えているか、自分では分からなかった。
「もちろんさ」
「待ってるわ、本当にありがとう!」
女はもう一度礼を言い、猫を抱いて家の中へ戻っていった。扉が閉まる。バルトはしばらく、その扉を見ていた。
頬に残った口紅の跡。腕に残った猫の爪痕。耳の奥に残った父親の声。ガルトだけで十分だった。お前は必要なかった。
俺の失敗作だ。
「……は」
バルトは小さく笑った。誰に向けたものでもない。ただ、音だけの笑いだった。
「何だよ、それ」
答える者はいない。通りの人々は、彼の横を普通に通り過ぎていく。
誰も気づかない。
王都はいつも通りだった。バルトはゆっくりと歩き出した。第一部隊の隊舎へ。
兄弟と呼ぶ男がいて、うるさいと怒る副隊長がいて、カシラがいて、仲間達がいる場所へ。夕方の光が、彼の影を長く伸ばしている。バルトは一度だけ、傷だらけの腕を見下ろした。
「猫にやられた、か」
呟いてから、口角を持ち上げる。頬のキスマークもまだ残っている。これなら、聞かれても話すことには困らない。
もう一度笑ってみる。
今度はさっきより、いつもの顔に近かった。バルトはそのまま隊舎へ向かった。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




