白銀の時計
第39話 白銀の時計
戦争から数日が過ぎた。王都には、いつもの朝が戻っていた。
市場では野菜を並べる声が響き、煤鳩亭の前ではミナが看板を拭いている。王都討祓軍本部にも、慌ただしさは残っているものの、あの夜のような張り詰めた空気は薄れていた。第一部隊の隊舎にも、久しぶりにゆるい時間が流れていた。
広間では、バルトが椅子に深く腰掛けて足を投げ出している。ノルは窓際で新しい長銃の手入れをしていた。ルカはテーブルに頬杖をつき、眠そうに果実水を飲んでいる。セレスは湯気の立つ茶を両手で包み、ルシアンは棚の上を整えていた。そんな光景を見ながらエディンは朝から果実酒を嗜んでいる。
アルドは椅子の背に腕を引っかけ、ぼんやりと天井を見ていた。レイスはその隣で書類を読んでいる。
「休みの日に書類読むなよ」
アルドが言う。
「休みの日に寝転がって天井を見るよりは有意義だ」
「うるせぇな」
「事実だ」
いつものやり取りに、ルシアンが小さく笑う。その時、隊舎の入口で控えめなノックが響いた。
「はーい」
ルシアンが扉へ向かう。扉を開けた瞬間、彼女の声が少しだけ跳ねた。
「えっ、ジークさん?」
その名前に、広間の空気が変わった。総隊長ローグレスの秘書官、ジーク。第一部隊の隊舎に彼が直接来ることは、滅多にない。
ジークはいつものように落ち着いた身なりで、丁寧に一礼した。
「突然の訪問、失礼いたします。皆様にお伝えしたいことがありまして」
「あ、はい。どうぞ、広間へ」
ルシアンが少し慌てながら案内する。ジークが広間へ入ると、全員の視線が集まった。バルトが足を下ろす。
ノルは銃の手入れを止める。ルカは眠そうだった目を開いた。アルドも椅子から身体を起こす。
「珍しいですね、ジークさん」
「はい。今回は、ローグレス様からの正式なお誘いを預かっております」
「誘い?」
アルドが眉を上げた。ジークは懐から一枚の封筒を取り出した。厚みのある白い紙。
封蝋には、王都討祓軍総指揮官の印が押されている。ジークはそれを両手で差し出した。
「先日の合同作戦における第一部隊の功績を労うため、ローグレス様より、会食の招待でございます」
一瞬、広間が静まり返った。次の瞬間、バルトが声を上げた。
「飯か!」
「飯ですね」
ルカが少しだけ目を輝かせる。
「ローグレスさんがご馳走してくれるってこと?」
セレスも驚いたように聞いた。ジークは穏やかに頷く。
「はい。皆様全員をご招待したいとのことです」
「すごいじゃん!」
ルシアンが嬉しそうに笑った。ノルも少しだけ口元を緩める。
「珍しいね」
「ローグさんが労ってくれるってことだろ。ありがたく行こうぜ」
アルドも素直に笑った。だが、レイスが封筒を受け取り、中の招待状へ目を通した瞬間、表情がわずかに固まった。
「……待て」
「なんだよ」
アルドが覗き込む。そこには、会場となる店の名前が記されていた。
白銀の時計。ラルジャン・オロロージュ。アルドの顔も固まった。
「……ここ、聞いたことあるぞ」
ルシアンが不安そうに首を傾げる。
「有名なお店なの?」
「有名どころじゃない」
レイスが招待状を机に置く。
「王城近くにある完全会員制の超高級レストランだ。王族や大貴族、国の重鎮が使うような店だ、一食で庶民が一ヶ月弱暮らせる」
広間が再び静まった。今度は、喜びではない。恐怖に近い沈黙だった。
「え」
ルカが小さく言う。
「完全会員制?」
「王族?」
「超高級?」
バルトが三つの単語を順番に繰り返した。セレスが自分の服を見下ろす。
「……これで行ったら駄目なやつだよね」
「駄目だな」
レイスが即答する。ノルがゆっくりと銃の手入れ道具を置いた。
「服、ない」
「私もないかも……」
ルシアンが少し青ざめる。バルトが腕を組んだ。
「俺様もねぇな!」
「堂々と言うな」
アルドが突っ込む。ジークは微笑みを崩さないまま、落ち着いて言った。
「参加の可否を確認するよう申しつかっております。もちろん、ご都合が悪ければ――」
「行きます!」
ルシアンが勢いよく言った。直後に、自分でも驚いたように口を押さえる。
「あ、いえ、その……せっかくローグレスさんが誘ってくださったので」
「私も行く」
ノルが短く言った。
「服ないんじゃなかったのか」
バルトが言う。
「買う」
「俺様も行く!」
「買う服あるの?」
セレスが聞く。
「今から買う!」
「でしょうね」
ルカは少し悩んだ後、手を上げた。
「僕も参加します。こういう店、緊張しますけど……行ける機会なんてなさそうですし」
ゴードは静かに頷いた。
「参加する」
セレスも続いた。
「私も行く。怖いけど」
エディンは皆の様子を見ながら、少し残念そうに頬に手を当てた。
「あらぁ……とっても魅力的なお誘いなんだけど、おねぇさん、その日は野暮用があるのよぉ」
「え、エディンさん来ないんですか?」
ルシアンが残念そうに聞く。
「ごめんなさいねぇ。みんなで楽しんできて」
「野暮用ってなんだよ」
バルトが聞く。エディンはにっこり笑った。
「野暮用は野暮用よぉ」
「それ言わないやつだな」
「そういうこと」
ジークは全員の返答を確認し、丁寧に頭を下げた。
「承知いたしました。エディンさんは不参加、他の皆様は参加でローグレス様へお伝えいたします」
「お願いします」
アルドが言う。ジークが隊舎を出て行く。全員は、しばらくその背中を見送った。扉が閉まる。数秒の沈黙。
次の瞬間、広間が一斉に動いた。
「服!」
「ドレス!」
「スーツ!」
「靴もいるんじゃない?」
「髪どうすんだよ!」
「俺様、何着りゃいいんだ!?」
「バルトはまず叫ぶのをやめて」
ルシアンとセレスは自室へ走り、ノルは無言で財布を確認した。ルカは一度自分の服装を見下ろし、ため息をつく。バルトはなぜか筋肉を見せれば何とかなるのではないかという顔をして、レイスに冷たく却下された。
アルドは自分の上着を見た。
「……俺も買うか」
「お前は買え」
レイスが即答する。
「お前はあるのかよ」
「最低限はある」
「腹立つな」
「準備していないお前が悪い」
ゴードは静かに立ち上がった。
「俺も確認する」
「兄弟は似合いそうだな、ちゃんとした服」
「お前も着ろ」
「着るって!」
第一部隊の隊舎は、突然の高級レストラン騒動で、戦場とは別の意味で混乱に包まれていた。
◇
同じ頃。王城の奥、王の間。高い天井から差し込む光が、磨かれた床に淡く広がっている。
玉座には、セリュヴェイン王国の王、オルディスが座していた。年輪を重ねた顔には、厳しさと静けさが同居している。王冠の輝きよりも、その目の奥にある思慮深さの方が、よほど人を黙らせる力を持っていた。
その前で、ローグレスが跪いている。
「以上が、今回の合同作戦に関する私の所感です」
ローグレスの声は落ち着いていた。国軍の勝利。共和国軍の別働隊。墓地への進軍。第一部隊の防衛。
中級夜骸の発生。前線でのノル、ルシアン、セレスの働き。すべてを整理し、必要な部分だけを過不足なく報告した。
オルディスは手元の書類を読み終えると、近くに控えていた使用人へそれを渡した。使用人は静かに一礼し、下がる。王の間に、わずかな沈黙が落ちた。
「よく持ちこたえたな」
オルディスが言った。
「国軍も、討祓軍も」
「はい」
「特に第一部隊の働きは大きかったようだ」
ローグレスは頭を下げたまま答える。
「彼らは、よくやってくれました」
その声は平静だった。
だが、オルディスはわずかに目を細めた。
「嬉しそうだな、ローグレス」
「……恐れながら、顔に出ておりましたか」
「顔には出ておらん」
オルディスは少しだけ口元を緩めた。
「声に出ていた」
ローグレスは一瞬だけ言葉に詰まった。王は穏やかに続ける。
「自分の子供のように見ている第一部隊が大活躍したのだ。親としては嬉しかろう」
「……否定はいたしません」
ローグレスは静かに言った。
「彼らは未熟なところも多い。問題も起こします。勝手に突っ走る者もいますし、報告書から逃げる者もいます」
「それは大変だな」
「はい。非常に」
ローグレスの声に、ほんの少しだけ疲労が混じった。
だが、そこには温かさもあった。
「それでも、彼らは守るべきものの前では決して退きません。今回も、それを示してくれました」
「よい部隊だ」
オルディスは言った。
「王家直属の軍として、民の夜を守る者達。国軍とは違う役割を持つ者達。その価値を、改めて国軍にも示した形だな」
「はい」
「労ってやるがよい」
「そのつもりです」
ローグレスはわずかに顔を上げた。
「数日後、白銀の時計を手配しております。第一部隊を連れていく予定です」
オルディスの表情が、少しだけ動いた。
「ほう、白銀の時計か」
「はい」
「あそこはよい店だ」
王は懐かしむように目を細めた。
「我も久しく行っておらんな」
「必要であれば、手配を」
「よい。今回はお前達の席だ」
オルディスは静かに首を振った。
「だが、第一部隊にはよい経験になるだろう。あの店の料理は、ただ高いだけではない。もてなしとは何かを知っている」
「彼らが緊張しすぎないことを願います」
「無理だろうな」
王の声に、わずかな笑みが混じった。
「黒豹と呼ばれる者達が、王族の使う店で皿を前に固まる姿か。少し見てみたいものだ」
「陛下のお時間のある時にご報告させていただきます」
「ふっ、楽しみにしている」
オルディスは玉座の肘掛けに手を置いた。
「ローグレス」
「はい」
「よく支えている」
その言葉に、ローグレスは静かに頭を下げた。
「過分なお言葉です」
「過分ではない。王家直属の軍を預かる重責。お前はよく耐えている」
ローグレスは答えなかった。答えられる言葉が、すぐには見つからなかった。オルディスはそれ以上踏み込まない。
「行け。第一部隊を労ってやれ」
「はっ」
ローグレスは深く頭を下げ、王の間を後にした。背筋はいつも通り伸びている。だが、その胸の奥には、王に見抜かれた小さな喜びが、確かに残っていた。
◇
会食当日。白銀の時計――ラルジャン・オロロージュは、王城の近く、静かな石畳の通りに佇んでいた。派手な看板はない。
ただ、白銀の文字で小さく店名が刻まれた扉と、磨き抜かれた真鍮の取っ手があるだけだった。それだけで、ここが普通の店ではないことが分かる。
店名の由来は、実直なものだった。すべての客に、時を忘れるほど至高の瞬間を提供する。魔法の光や派手な演出に頼らない。
最高峰の料理人の技術。一流の給仕、メートル・ドテルによる洗練されたもてなし。王族すら迎えるための、静かな格。
そのすべてが、扉の前から漂っていた。そこに、第一部隊の面々が集まっていた。
アルドは黒を基調にした仕立ての良い礼服を着ていた。普段より髪も整えられている。本人は落ち着かないのか、何度も襟元を触っていた。
レイスは濃紺の礼服を難なく着こなしている。腹立たしいほど自然だった。
ルシアンは柔らかな淡い青のドレス。派手ではないが、彼女の穏やかさによく合っていた。
ノルは深緑の細身のドレスに、肩掛けを羽織っている。新しい銃と似た色だと指摘され、本人は「偶然」とだけ言った。
セレスは白に近い淡水色のドレス。本人は緊張しているが、背筋を伸ばすと妙に華があった。ルカは買ったばかりの礼服に袖を通し、やや落ち着かない様子で手袋を直している。
バルトはどうにか礼服を着ていた。ただし、肩と胸が苦しそうだった。
「これ、動きづれぇ」
「動く店じゃない」
レイスが冷たく言う。
「戦闘になったらどうすんだよ」
「ならない」
「分かんねぇだろ」
「この店で戦闘になったら、お前が原因だ」
「なんでだよ!」
ゴードは濃い灰色の礼服を静かに着ていた。驚くほど似合っている。バルトがそれを見て、少し悔しそうに言った。
「兄弟、なんでそんな自然なんだよ」
「着ただけだ」
「それができねぇんだよ」
ノルがぼそりと呟く。
「バルト、服に着られてる」
「うるせぇ!」
その時、通りの向こうからローグレスが歩いてきた。落ち着いた礼装に身を包み、いつもの軍服とは違う柔らかさがある。全員が少し緊張して姿勢を正した。
「お待たせしました」
アルドが軽く頭を下げる。
「ローグさん、本日はお招きいただきありがとうございます」
レイスも続く。
「ローグ様、ありがとうございます」
ルシアン、ノル、セレス、ルカ、バルト、ゴードも、それぞれ丁寧に礼を言った。
「ローグレスさん、ありがとうございます」
ローグレスは穏やかに笑った。
「今日は任務ではない。あまり堅くならなくていい」
「無理ですね」
ルカが正直に言った。ローグレスは少しだけ笑う。
「そうか。では、料理に助けてもらおう」
扉が開く。中から、黒い正装に身を包んだ給仕が現れた。
「ローグレス様。お待ちしておりました」
深い一礼。無駄のない動き。その一つだけで、第一部隊の数名がさらに緊張した。
「本日はよろしく頼む」
「かしこまりました。皆様、どうぞこちらへ」
一行は白銀の時計の中へ入った。
◇
店内に入った瞬間、空気が変わった。明るすぎない。暗すぎない。
蜜蝋のキャンドルだけが、静かに空間を照らしていた。魔法の光ではない。
職人が手作業で作った最高級の蜜蝋燭。煙も煤もほとんど出ず、料理の香りを邪魔しない。壁には控えめな銀細工。
床は磨き上げられ、足音すら柔らかく吸い込む。テーブルには、王室御用達の職人がこの店のためだけに焼き上げた金彩磁器。縁に淡い金の線が入り、皿そのものが静かに輝いている。
カトラリーは、すべて磨き抜かれた純銀製だった。バルトがそれを見て、小声で言う。
「これ、触っていいのか?」
「食事用ですから」
ルカが小声で返す。
「高そうだぞ」
「高いでしょうね」
「落としたら?」
「絶対に落とさないでください」
ノルが椅子に座りながら呟く。
「バルトの前だけ木の匙にした方がいい」
「おい」
給仕が静かに椅子を引く。その自然な動きに、ルシアンが小さく「ありがとうございます」と言うと、給仕は柔らかく一礼した。緊張と期待が混ざる中、最初の皿が運ばれてきた。
アミューズ。初摘みサフランの冷製ロワイヤル。
小さな白磁の器に、淡い黄金色のなめらかな卵料理が入っている。表面には、細いサフランの赤が一筋だけ浮かび、上には透明な香草の雫が落とされていた。スプーンを入れると、抵抗がほとんどない。
ルシアンがそっと口へ運ぶ。次の瞬間、目が丸くなった。
「……なにこれ」
小さな声だった。
「卵……だよね? でも、すごくなめらかで、花の香りがする」
セレスも一口食べ、息を止めた。
「冷たいのに、香りが温かい……」
ノルは無言で二口目を食べた。それを見たバルトが笑う。
「ノル、気に入ったな」
「うるさい」
アルドも口に運び、少し驚いた顔をした。
「最初の一口でこれかよ」
ローグレスはその反応を見て、満足そうに微笑んだ。次に運ばれてきたのは、オードブル。至高の白トリュフと、熟成純血豚のパテ・アン・ルート。
薄く切られた黄金色のパイ生地の中に、赤みを帯びた肉の層と香草が美しく重なっている。皿の上には、紙のように薄く削られた白トリュフが雪のように散らされていた。香りが、先に来た。
大地。森。熟成された肉。焼きたての生地。バルトが耐えきれず、目を輝かせる。
「これは絶対うまいやつだ」
「声を落とせ」
レイスが小声で言う。バルトは一口食べた。そして、黙った。
「……バルト?」
ルシアンが心配そうに覗き込む。バルトはゆっくりと皿を見た。
「肉なのに、肉じゃねぇ」
「どういう意味?」
セレスが笑いそうになる。
「いや、肉なんだけどよ。うま味が……こう、ずっといる」
「分かる」
アルドが頷いた。
「噛むたびに香りが変わる」
レイスも静かに口に運んだ。
「パイの塩気が肉の脂を切っている。白トリュフの香りで重くならない」
「お前、急に詳しいな」
「味の感想を言っただけだ」
ノルは小さく呟いた。
「ずるい味」
「ずるい?」
「美味しくないわけがない組み合わせ」
全員が納得した。続くスープは、深海貝コンガのダブル・コンソメ。透明な琥珀色の液体が、金彩の器に注がれている。
見た目は驚くほど澄んでいた。だが、一口飲んだ瞬間、海の記憶が舌に広がった。ただの魚介ではない。
潮の奥にある深い甘み。貝の凝縮された旨味。そこに、野菜と肉の出汁が重なり、薄いはずなのに底が見えない。
ルカが目を閉じた。
「……これ、ずっと飲めますね」
「分かる」
ルシアンが頷く。
「優しいのに、すごく強い」
ゴードが静かに器を置いた。
「深いな」
彼がそう言うだけで、なぜか全員が納得した。ポワソンは、岩礁の女王と呼ばれるシードラードの鱗焼き。
皮目の鱗を立たせるように焼き上げられ、表面は白銀の花のように開いている。下には野生ハーブのエマルジョン。淡い緑の泡が、魚の白身を包むように添えられていた。
ナイフを入れると、鱗がかすかに音を立てた。ぱり、と。その下から、湯気を含んだ白身が現れる。
アルドが一口食べて、思わず眉を上げた。
「皮が菓子みたいに軽いのに、中はふわっとしてる」
セレスは感動したように両手を合わせた。
「ハーブの香りがすごい……魚の匂いが全然嫌じゃない」
「魚ってこんなに綺麗な味になるんだね」
ルシアンが言う。ノルは静かにもう一口食べた。
「これ好き」
「珍しく素直だな」
バルトが言う。
「今は邪魔しないで」
「そんなにかよ」
次に、グラニテ。高山産野イチゴと、蔵出し極辛口白葡萄酒の氷菓。小さな銀の器に盛られた淡い紅色の氷は、キャンドルの光を受けて宝石のように輝いていた。
口に含むと、冷たい。だが、その冷たさはただ舌を刺すものではない。
野イチゴの酸味が、これまでの料理の余韻をきれいに洗い流す。後から、白葡萄酒の鋭く澄んだ香りが鼻へ抜ける。バルトが驚いた顔をした。
「甘いのに、飯の途中で食うのか」
ローグレスが穏やかに説明する。
「口を整えるための一皿だ」
「口を整える……」
バルトは真剣にもう一口食べた。
「俺様の口、整った気がする」
「それはよかったな」
レイスが淡々と言う。そして、アントレ。王領地産、特選白牛のフィレ肉ロースト。
セドルの燻香を纏わせて。蓋付きの銀皿が運ばれ、給仕が静かに蓋を上げた瞬間、薄い香りが広がった。煙ではない。
香りだけが、肉の上に薄い衣のように纏っている。白牛のフィレは、中心が淡い薔薇色に焼き上げられ、表面には美しい焼き目がある。添えられているのは、根菜の小さなピュレと濃縮された赤いソース。
バルトはすでに目を輝かせていた。
「来た」
「戦いみたいに言うな」
アルドが呟く。全員がナイフを入れる。肉は、抵抗なく切れた。口に入れた瞬間、沈黙が落ちる。柔らかい。
だが、ただ柔らかいだけではない。
噛むと、肉の旨味がじわりと広がる。セドルの燻香が鼻へ抜け、脂の甘みを締める。ソースは濃いのに重すぎず、肉の味を覆わない。
バルトが天井を見た。
「……王族、毎日これ食ってんのか?」
ローグレスが少し笑う。
「毎日ではないと思う」
「毎日食ってたらずるいぞ」
「何に対して怒っているんだ」
レイスが言う。ルカは感動したように呟いた。
「今まで食べていた肉と、同じ食材とは思えないですね」
「肉にも階級があるんだね」
セレスが言う。
「悲しい発見」
ノルが小さく返した。デセールは、南方諸島産カカオのテリーヌと、ゲランド初塩のアイスクリーム。
黒に近い艶を持つカカオのテリーヌは、薄く切られて皿に置かれている。隣には白いアイスクリーム。上にほんの少しだけ、結晶のような塩が散っていた。
ルシアンが一口食べた瞬間、目を輝かせた。
「濃い……! でも苦いだけじゃない。甘いのに、塩で味が締まる」
ノルがゆっくり頷く。
「危険」
「何が?」
「いくらでも食べられる」
セレスが笑った。
「それは危険だね」
最後に、飲み物が選ばれた。修道院の秘伝ハーブティー。または、砂漠の黄金珈琲。
ルシアンとセレス、ゴードはハーブティーを選んだ。湯気には、花と薬草の穏やかな香りが混ざっている。アルド、レイス、ノル、ルカは黄金珈琲。
深く焙煎された香りに、わずかな香辛の余韻がある。バルトは悩みに悩んだ末、両方頼めるか聞き、レイスに睨まれた。給仕は微笑みを崩さず、「少量ずつであれば」と答えた。
バルトは心の底から感動していた。
「この店、神か?」
「店だ」
レイスが言う。食事が進むほど、最初の緊張はほどけていった。最初はカトラリーの順番に怯えていたバルトも、給仕がさりげなく導いてくれるおかげで、なんとか大事故を起こさずに済んでいる。
ルシアンは料理のたびに目を輝かせ、セレスは味の組み合わせに驚き、ノルは口数が少ないまま確実に気に入った皿を記憶していた。アルドは時折ローグレスへ礼を言い、レイスは料理の構成を妙に冷静に分析しながら食べていた。
ローグレスは、その全員を穏やかに見ていた。戦場で命を張った者達が、今は皿の上の一口に驚き、笑っている。その光景だけで、十分だった。
◇
その頃。総隊長室、ローグレスの執務室には、薄明かりだけが灯っていた。客人用の席に、ジークが座っている。
その向かいに、エディンがいた。煤鳩亭や隊舎で見せる、艶のある笑みはない。足を組む姿は同じでも、空気が違う。
声も違った。
「以上が、ここ数日の第一部隊の状態です」
エディンは静かに言った。その声に、甘さはなかった。冷たく、平坦で、必要な情報だけを渡すための声。
ジークは手元の紙に目を落とす。
「アルド隊長の精神状態は」
「安定。ルシアンへの反応で揺れは出るが、任務判断を壊すほどではありません。戦場後の回復も早い」
「レイス副隊長は」
「過負荷気味。ただし表面には出しません。報告書と判断を抱え込みすぎる傾向は継続」
「ノル」
「新銃により戦闘価値が大きく上昇。本人は浮ついていません。むしろ威力を把握し、使い分けを考えています」
ジークは頷く。
「ルシアン、セレスは」
「ルシアンは防御と治療で自信を得ました。アルドとの関係は特別なものでしょう。セレスは、自分の役割を少し掴み始めています。国軍側からの評価が効いているかと」
「バルトは」
エディンはわずかに目を伏せた。
「まだ軽微。ただし違和感は残ります。本人は隠しているつもりはないでしょうが、笑いで流しています」
「監視継続」
「はい」
ジークは筆を止めた。
「あなた自身の所感は」
エディンは少しだけ沈黙した。それから、静かに答える。
「第一部隊は、強くなっています。それだけ、互いを見る時間も増えています」
「任務判断への影響は」
「今のところ問題ありません」
エディンは即答した。
「ただ、変化は見ておいた方がいいでしょうね」
ジークは小さく頷いた。
「ローグレス様には」
「必要な形で伝えてください。全部を言う必要はないかと」
「承知しました」
エディンはゆっくり立ち上がる。その顔には、もういつもの柔らかな笑みが戻りかけていた。
「では、おねぇさんはそろそろ戻るわぁ。みんなが帰る前に、何食わぬ顔で隊舎にいたいもの」
「お気をつけて」
「ええ」
エディンは扉の前で一度だけ振り返った。
「ジーク」
「はい」
「あの子達、今夜はちゃんと笑っているわ」
ジークは少しだけ目を細めた。
「それは、よい報告です」
「そうね」
エディンは静かに部屋を出た。廊下へ出た瞬間、その背中にはまた、第一部隊の“エディンさん”の気配が戻っていた。
◇
白銀の時計を出る頃には、夜は深くなっていた。王城近くの通りには、人通りが少ない。月明かりが石畳を淡く照らし、白銀の時計の扉から漏れるキャンドルの光が、静かに背後へ遠ざかっていく。
「美味しかった……」
ルシアンが夢を見るように呟いた。
「うん」
セレスが深く頷く。
「しばらく普通のご飯に戻れるかな」
「戻れ」
ノルが言う。
「でも、あの魚は忘れられない」
「分かる」
バルトは腹を押さえながら満足そうに歩いていた。
「俺様、王族の飯を食ったぞ」
「王族の飯ではない」
レイスが訂正する。
「王族も食う飯だろ。ほぼ王族の飯だ」
「違う」
「細けぇなぁ」
「細かくない」
ルカは少し眠そうにしながらも、満足げだった。
「食器を落とさなかっただけで、今日はかなり頑張った気がします」
「そこかよ」
アルドが笑う。
「大事ですよ。あの銀のやつ、絶対高いです」
「それはそうだな」
ゴードは静かに歩きながら、一言だけ言った。
「良い食事だった」
「兄弟が言うと重みがあるな」
バルトが笑う。ローグレスは少し前で足を止め、皆を振り返った。自然と、第一部隊の面々も立ち止まる。
「改めて、皆。先日の任務、本当にご苦労だった」
その声は、任務中の総隊長のものではなかった。もっと柔らかく、近い。
「国軍前線を支え、墓地を守り、中級夜骸を討祓した。皆の働きがなければ、被害はもっと大きくなっていただろう」
ルシアンが少し照れたように目を伏せる。ノルはそっぽを向く。セレスは胸元で手を握る。
ルカは背筋を伸ばし、バルトは照れ隠しのように鼻を鳴らした。ゴードは静かに頷いた。アルドはローグレスを見る。
「ローグさん、ご馳走様でした」
「こちらこそ、よい時間だった」
「また連れてきてください」
バルトが言った。レイスが即座に睨む。
「調子に乗るな」
ローグレスは小さく笑った。
「また皆が、それだけの働きをした時にはな」
「よし、次も頑張るぞ!」
「動機が雑すぎる」
ノルが呟く。そのやり取りに、皆が笑った。
「では、今日はここで解散としよう。真っ直ぐ隊舎へ戻って、しっかり休め」
「はい」
全員が返事をする。ローグレスは一人一人の顔を見た。そして、最後にアルドへ視線を向ける。
「アルド」
「はい」
「皆を頼むぞ」
アルドは少しだけ表情を引き締めた。
「任せてください」
ローグレスは頷き、王城方面へ歩いていった。その背中を見送ってから、第一部隊は隊舎への道を歩き出す。月明かりの中、礼服やドレスの裾が静かに揺れる。
戦場とは違う夜。血の匂いもしない。魔法の轟音もない。ただ、仲間の足音だけが並んでいる。
「なあ」
バルトが言った。
「明日の朝飯、普通の飯で満足できると思うか?」
「できる」
レイスが即答する。
「俺様は自信ねぇ」
「じゃあ食べなくていい」
「食うけどな!」
ルカが眠そうに笑う。
「結局食べるんですね」
ルシアンとセレスが笑い、ノルが小さく息を吐く。ゴードは黙って、その後ろを歩く。アルドは、少し前を歩く皆の背中を見た。
バルトがまだ何か言っている。ルカが返し、ノルが呆れた声を挟む。その横でルシアンとセレスが笑っていた。
「置いてくぞ、アルド」
レイスの声に、アルドは足を速めた。第一部隊は、そのまま隊舎へ続く夜道を帰っていった。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




