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帰る場所

 墓地の防衛戦は終わった。


 だが、夜はまだ終わっていなかった。


 共和国軍の残影が闇の奥へ消えてからも、アルド達はすぐには動かなかった。古い石壁。墓地門。


 崩れた外壁。静かに並ぶ墓標。そこに異常がないかを、一つずつ確認していく。


 ゴードは門の前に残り、盾を担いだまま石畳の傷を見ていた。ルカは崩落箇所の周辺を素早く回り、敵兵の残りや潜伏がないかを確かめる。バルトは息を荒げながらも、拳を開いたり閉じたりしていた。エディンは少し離れた場所で、暗闇の奥を見つめている。


 アルドは剣を握ったまま、墓地の中へ視線を向けた。敵の足跡は届いていない。石壁には小さな焦げや傷がある。


 だが、墓標は崩れていない。


 眠る場所は、守られていた。


「損傷は軽微だ」


 レイスが周囲を確認しながら言う。


「墓地内部への侵入痕もない。今のところ、夜骸の兆候も見えない」


「そうか」


 アルドは短く息を吐いた。身体が重い。防衛戦の中で、魔力をかなり使った。剣を握る手にも疲れが残っている。


 だが、まだ終わりではない。


「国軍の展開地点へ戻るぞ」


 レイスが言った。


「ノル達と合流する。前線の状況も確認しないといけない」


「ああ」


 アルドは頷く。遠くの戦場では、まだ小さく魔法の光が揺れていた。さっきよりは弱い。


 だが、完全に静まったわけではない。


「ルシアン達、大丈夫だよな」


「しつこい」


 レイスが即座に返す。


「分かってる」


「分かってるなら歩け」


「お前、ほんと可愛げねぇな」


「必要ない」


 そんな短いやり取りを交わしながら、一行は墓地を離れた。背後に、静かな墓標が並んでいる。死者の眠る場所を守り抜いたという事実だけが、疲れた身体の奥にかすかな熱として残っていた。


         ◇


 国軍の展開地点へ戻る道は、思った以上に静かだった。道の左右には、低い草と黒い土が広がっている。遠くではまだ兵の声が聞こえるが、この辺りには人影が少ない。


 先頭を歩くのはアルドとレイス。少し後ろにゴードとバルト。ルカは左右へ視線を走らせながら歩き、エディンは最後尾近くをゆるやかに進んでいた。


「静かすぎますね」


 ルカが小さく言った。


「敵の残党か?」


 アルドが聞く。


「分かりません。でも、さっきまであれだけ騒がしかったので、逆に嫌ですね」


「嫌な勘は当たることが多い」


 レイスが言う。


「やめろよ」


 バルトが顔をしかめた。


「そういうこと言うと本当に出るだろ」


 その瞬間だった。道の先、黒い木々の影が、不自然に揺れた。風ではない。


 地面が、ずるりと鳴る。土と枯葉と獣の骨を巻き込むように、闇の中から何かが這い出してきた。それは、低級よりも大きかった。


 四足に見える。だが、背中からは鳥の翼のような歪んだ骨が生え、頭部は狼にも猛禽にも見える形でねじれている。首の片側には別の獣の顎が半分だけ埋まり、開閉するたびに耳障りな音を立てていた。


 複数の低級が混じったような異形。中級夜骸《やがい》。


「……最悪だな」


 アルドが低く呟く。中級夜骸は、こちらを見た。複数の目が、ばらばらに動く。


 そのうちのいくつかが、アルド達を捉えた。次の瞬間、夜骸が地面を蹴った。


「散れ!」


 レイスの声が飛ぶ。全員が左右へ散る。夜骸の前脚が、さっきまでアルドが立っていた地面を抉った。


 土が跳ねる。アルドは剣に炎を纏わせ、横から斬り込む。


「火炎弐式 焔刃《えんじん》!」


 炎の刃が夜骸の側面を裂く。


 だが、浅い。


 硬い外殻と肉の層が、炎を押し返すように蠢いた。


「ちっ」


 アルドはすぐに下がる。そこへレイスが水流を走らせた。


「水流弐式 縛水《ばくすい》」


 水が夜骸の脚へ絡む。続けて雷荷が落ちる。


「雷流弐式 絡縛《らくばく》」


 雷が水を伝って夜骸の身体を走った。肉が痙攣する。


 だが、止まりきらない。


 夜骸は強引に脚を引き抜き、咆哮した。声ではない。骨と泥と肉が擦れるような、不快な音だった。


「魔力が残ってねぇ時に中級かよ!」


 バルトが拳を構える。


「文句を言うな。来たものは倒すしかない」


 レイスの声にも、わずかに疲労が混じっていた。ゴードが前へ出る。


「受ける」


 短く言って、大盾を構えた。夜骸が突進する。ゴードの盾に、異形の前脚が叩きつけられた。


 重い衝撃。ゴードの足が地面を削り、後ろへ半歩滑る。


 だが、倒れない。


 盾の向こうで、ゴードが歯を食いしばる。


「今だ」


 その一言で、バルトが飛び込んだ。


「大地弐式 砕岩拳《さいがんけん》!」


 拳が夜骸の脚へ叩き込まれる。鈍い音。夜骸の体勢がわずかに崩れた。


 ルカがその隙を逃さず、側面へ回り込む。小銃を二発。撃ち込んだ弾が目の一つを潰した。


 続けて壁のように突き出た骨を蹴り、跳躍する。空中でナイフを抜き、別の目へ突き立てた。


「硬いなぁ……!」


 ルカは顔をしかめ、すぐに離脱する。夜骸の背中から伸びた歪な翼骨が、鞭のようにしなった。ルカの身体を掠める。


「ルカ!」


 アルドが叫ぶ。


「掠っただけです!」


 ルカは地面を転がりながら立ち上がる。


 だが、腕の袖が裂け、血がにじんでいた。


 アルドは奥歯を噛む。決定打がない。防衛戦で魔力を使いすぎた。炎は出せる。レイスもまだ動ける。


 バルトも、ゴードも、ルカも、エディンも戦えている。だが、中級を一気に落とすほどの余力が薄い。押し負けはしない。


 しかし、倒しきれない。そのもどかしさが、戦場に重くのしかかっていた。


「アルド、焦るな」


 レイスが言う。


「分かってる!」


「分かってない声だ」


「うるせぇ!」


 アルドは剣を握り直す。夜骸が再び地面を蹴った。今度はゴードを避け、横から抜けようとする。


「逃がすな!」


 バルトが追う。


 だが、脚がわずかに遅れた。


 防衛戦の疲労。ここ数日、本人にも説明できないまま残っている小さな違和感。それが一瞬だけ、動きを鈍らせる。


「バルトさん、下がってください!」


 ルカが飛び込む。夜骸の前脚を銃で弾き、ナイフで軌道をずらす。


 だが、重量差がありすぎる。


 ルカの身体が弾き飛ばされた。


「ぐっ……!」


 地面を転がるルカ。アルドの中で、焦りが燃え上がった。


「火炎肆式――」


「やめろ、アルド!」


 レイスが鋭く止める。


「今の距離で広範囲はルカを巻き込む!」


「っ……!」


 アルドの魔力が揺れる。夜骸が、倒れたルカへ頭を向けた。複数の顎が開く。その瞬間。乾いた銃声が、夜を貫いた。


 音は一発。


 だが、衝撃は一発分ではなかった。


 夜骸の胴体が、内側から弾けた。肉と外殻がまとめて吹き飛び、胴に大きな風穴が開く。異形の身体が不自然にのけぞり、そのまま地面へ叩きつけられた。


 土が跳ねる。全員が、一瞬だけ動きを止める。


「……なんだ、今の」


 バルトが呟いた。夜骸はまだ死んでいない。胴を撃ち抜かれながらも、前脚を震わせて起き上がろうとする。


 だが、その隙をアルドは逃さなかった。


 炎を纏わせた剣を握り直し、アルドは一気に踏み込んだ。


「火炎弐式 焔刃《えんじん》!」


 炎の刃が、夜骸の首を斜めに断つ。夜骸の身体が大きく痙攣する。複数の目がばらばらに動き、やがて光を失った。


 夜骸は動かなくなった。戦闘が、終わった。


         ◇


「アルド!」


 道の奥から、声がした。アルドは弾かれたように顔を上げた。ルシアンが走ってくる。


 息を切らし、治療鞄を抱えたまま、こちらへ向かって一直線に駆けてくる。その後ろから、セレスとノルも小走りで続いていた。ノルの肩には、深みがかった緑の長銃。


 銃身からは、まだわずかに熱が立っているように見えた。


「ルシアン!」


 アルドの表情が、一気に明るくなる。さっきまでの焦りも苛立ちも、ほんの一瞬だけ消えた。


「無事か」


「うん。こっちは大丈夫。アルド達は?」


「見ての通りだ」


「見ての通りって、ルカ怪我してる!」


 ルシアンはすぐにルカの方へ走った。


「大丈夫です。掠っただけですよ」


「掠っただけでも怪我は怪我」


「はい……」


 ルカは素直に腕を差し出した。ルシアンが水流魔法で傷を洗い、応急処置を始める。その横で、セレスが周囲を見渡した。


「中級……だよね」


「ああ」


 レイスが短く答える。


「かなり消耗していた。正直、助かった」


 その声には、珍しくはっきりとした驚きが混じっていた。レイスはノルを見た。


「今の規格外の一発は、ノル、お前が撃ったのか」


「うん」


 ノルは少しだけ照れたように、長銃を持ち直した。


「新しい銃の試し撃ち。対夜骸用」


「試し撃ちで中級の胴を抜いたのか」


「私もびっくりしてる」


 ノルは銃身を軽く撫でる。


「さっきの戦場では、人間相手だったから三発をばらして撃ってた。でも夜骸相手なら、一点にまとめてもいいと思って」


「三発を同じ場所へ撃ち込んだのか」


「正確には、三つの銃口から出た弾を、旋風魔法で強化。三発分の衝撃を、同時に同じ場所へ叩き込む感じ」


 ノルは少し間を置いてから、ぽつりと言った。


「……あんな威力になるとは思わなかったけど」


 バルトが夜骸の死骸を見て、口を開けた。


「いや、思わなかったって威力じゃねぇだろ。腹に穴空いてんぞ」


「見れば分かる」


「怖ぇな、お前の新しい銃」


「褒め言葉として受け取る」


 ノルはいつもの調子で返す。


 だが、頬がわずかに赤い。


 ルシアンがルカの治療を終えながら笑った。


「ノル、すごかったよ。遠くから見ても分かった」


「うるさい」


「褒めてるのに」


「分かってるからうるさい」


 セレスも頷いた。


「あれ、敵だったら絶対に受けたくないね」


「味方でよかったでしょ」


「本当にね」


 ノルは少しだけ満足そうに銃を肩に担いだ。レイスはまだ夜骸の胴に開いた穴を見ていた。表情は冷静だ。


 だが、その目には明らかな衝撃がある。


「三発同時射撃。それを分散すれば対人支援。一点収束すれば中級がほぼ一撃の高火力……」


 レイスは小さく呟く。


「厄介なものを手に入れたな」


「褒めてる?」


「褒めてる。今の一発がなければ、もう少し面倒だった」


「なら素直にそう言ってよ」


「今言っただろ」


「言い方がひねくれてる」


 ノルが少しだけ口を尖らせる。そのやり取りに、ルシアンが笑った。アルドは仲間達を見渡した。ルシアン。ノル。


 セレス。全員、生きている。疲れている。傷もある。


 だが、ここにいる。


「……戻るぞ」


 アルドが言った。


「国軍の司令室キャンプへ。報告しないといけないことが増えた」


 レイスが頷く。


「共和国軍が墓地を狙った件、中級夜骸と遭遇した件。どちらも国軍側へ共有する必要がある」


「面倒くせぇな」


 バルトが言う。


「面倒でもやる」


 レイスが返す。エディンは少し離れた場所で、動かなくなった夜骸を見ていた。その微笑みは、いつもより薄い。


「夜は、本当に忙しいわねぇ」


 誰も、すぐには笑わなかった。


         ◇


 国軍の司令室キャンプは、夜明け前にもかかわらず慌ただしかった。負傷兵が運び込まれ、伝令が走り、魔導士達が消耗した刻印石を点検している。


 勝利の気配はある。


 だが、浮かれた空気はない。


 共和国軍は後退した。しかし、墓地を狙った別働隊がいた。その事実が、上層部の顔を硬くしていた。


 作戦卓には、ガレス中将、クラウス大将、エルヴィオ中佐が揃っていた。そこへ、アルドとレイス、そして王都討祓軍の面々が報告に入る。


「墓地方面へ共和国軍の部隊、約三百が侵攻しました」


 レイスが淡々と告げる。


「第一部隊で迎撃。墓地への侵入は阻止。墓地内部に損傷はありません」


 エルヴィオのペンが、一瞬止まった。ガレスの顔が険しくなる。


「三百だと」


「はい」


「第一部隊だけでか」


「墓地警護に当たっていた六名で迎撃しました」


 室内の空気が、わずかに変わった。エルヴィオが顔を上げる。ガレスはしばらく言葉を失い、次に低く唸った。


「六人で三百を止めたのか」


 アルドは少しだけ肩をすくめた。


「止めるしかありませんでしたので」


「そういう話ではない」


 ガレスは作戦卓に置かれた地図を見る。墓地周辺の地形。開けた平地。遮蔽物は少ない。そこへ三百。


 普通なら、警備隊規模の部隊では押し潰される。まして、墓地を背にして退けない状況ならなおさらだった。クラウスが静かに息を吐いた。


「王都討祓軍第一部隊……黒豹か」


 その声には、冷静な分析だけではないものがあった。純粋な驚き。そして、評価。


 ガレスはアルド達を見渡した。


「墓地が無事だったのは、お前達のおかげだ」


 彼は深く頭を下げはしなかった。


 だが、その声には確かな敬意があった。


「国軍を代表して礼を言う。よく守ってくれた」


 アルドは少しだけ目を瞬かせ、それから姿勢を正した。


「当然の任務を果たしただけです」


 レイスも短く頭を下げる。


「墓地に被害がなかったことが何よりです」


 エルヴィオは記録を再開しながらも、まだ驚きを隠せていなかった。


「前線後方支援地点からも報告が上がっています。王都討祓軍第一部隊のノル殿、ルシアン殿、セレス殿の支援により、国軍前線の崩壊が防がれたと」


 ノルが少しだけ眉を動かす。ルシアンは驚いたように目を丸くした。セレスも小さく息を呑む。


「特に高台からの射撃支援は、敵魔導士と伝令を的確に止め、前線の兵の命を何度も救ったとのことです」


 エルヴィオはノルを見る。


「前線兵の中には、あなたの銃声を聞いて踏みとどまれた者もいたそうです」


「……そう」


 ノルは短く答えた。表情はいつも通り薄い。


 だが、少しだけ視線を逸らしていた。


 ガレスは次にルシアンを見た。


「後方の魔導部隊からも報告が来ている。敵の集中砲火を防ぎ、治療班と砲撃班を守ったと。あの防御がなければ、こちらの遠距離支援は止まっていた」


 ルシアンは慌てて背筋を伸ばした。


「いえ、私はできることをしただけです」


「そのできることに、何十人もの兵が救われ、それにより戦場全体が救われた」


 ガレスの声は重かった。ルシアンは言葉を失う。それから、小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


 クラウスはセレスへ目を向けた。


「そして、敵の進軍を泥で止めた複合魔法。あれも大きかった。足を奪われた敵は、隊列を維持できなくなった。正面の兵達が押し返せたのは、君の支援があったからだ」


 セレスは少し驚いたように目を開いた。


「私の魔法が……ですか」


「ああ」


 クラウスは頷く。


「戦場では、敵を直接倒す力だけが戦果ではない。味方が戦える場所を作る力も、十分な戦力だ」


 その言葉に、セレスは胸の奥を軽く押さえた。自分の強みが分からない。ずっとそう思っていた。


 けれど今、国軍の老将が、自分の魔法を戦力だと言った。その言葉は、思っていた以上に深く届いた。


「……ありがとうございます」


 セレスは静かに頭を下げた。ガレスは第一部隊全員を見渡した。


「前線を支え、墓地を守り、中級夜骸まで討祓した。今回の作戦が勝利で終わったのは、国軍だけの成果ではない」


 その場にいた国軍士官達が、自然と姿勢を正した。


「王都討祓軍第一部隊に、セリュヴェイン王国軍として感謝する」


 アルドは少しだけ困ったような顔をした。褒められることに慣れていないわけではない。だが、国軍の将軍から正面切って礼を言われると、どうにも落ち着かない。


 横でレイスが淡々と言った。


「感謝は受け取ります。ただ、今後も同じ状況が起きる可能性があります」


「分かっている」


 ガレスの顔が引き締まる。クラウスも頷いた。


「共和国軍が墓地へ部隊を回した意図。夜間戦闘時の墓地警戒。国軍と王都討祓軍の連携。すべて見直す必要がある」


 レイスは地図へ視線を落とした。


「帰路で中級夜骸一体とも遭遇しました。討祓済みです」


「中級まで出たのか」


 ガレスが眉を寄せる。


「戦闘音と死者の気配に引かれた可能性はあります。詳細は不明です」


 レイスは断定しない。分からないものは分からない。その姿勢を崩さなかった。会議はそこから長引いた。共和国軍が墓地へ部隊を向けた意図。


 今後、戦場近くの墓地をどう守るか。国軍と王都討祓軍の連絡体制。夜間作戦時の墓地警戒。墓守の避難基準。撤退判断。


 何度も地図が広げられ、何度も印が書き込まれた。夜は少しずつ薄くなっていく。兵達の声も、次第に疲れを帯びていった。


 そして、朝。東の空が白み始めた頃、ようやくクラウスが静かに言った。


「今回の作戦はここまでとする。国軍は段階的に撤退。王都討祓軍も王都へ戻れ」


 ガレスは不満そうではあったが、反論はしなかった。勝った。


 だが、追いすぎるべきではない。


 それは現場を知る者ほど分かっていた。


「了解しました」


 アルドが答える。レイスも静かに頭を下げた。部屋を出る直前、ガレスがもう一度声をかけた。


「黒豹」


 アルド達が足を止める。


「前線の兵達にも、俺から伝えておく。お前達に助けられたと」


 少し間を置いて、ガレスは続けた。


「だが、兵達自身も分かっているはずだ。昨夜、自分達がなぜ生き残れたのかを」


 ルシアンがそっと目を伏せる。ノルは何も言わない。セレスは小さく息を吸った。アルドは静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 長い夜が、ようやく終わろうとしていた。


         ◇


 王都へ戻った頃には、昼を少し過ぎていた。馬も、人も、疲れ切っていた。国軍の泥と血の匂いが、まだ服に残っている。


 王都の門をくぐった瞬間、街のざわめきが耳に戻ってきた。パンを売る声。子供の笑い声。


 荷車の軋む音。それらが、少しだけ現実味を失って聞こえた。


「ローグさんに報告してくる」


 アルドが言う。レイスも隣に並んだ。


「俺も行く。ローグ様への報告は早い方がいい」


「だろうな」


 アルドは振り返る。


「お前らは先に煤鳩亭行ってろ」


 バルトがぱっと顔を上げた。


「飯か!」


「飯だ」


「よし!」


 ノルが呆れたように言う。


「切り替え早すぎ」


「腹減ってんだよ」


「私もお腹は空いた」


 セレスが小さく笑った。ルシアンはアルドを見た。


「アルド、あとでちゃんと来てね」


「ああ。報告が終わったら行く」


「レイスも」


「行く。閉店までには」


「それ、遅くなるやつじゃない?」


「努力はする」


 ルシアンが少しだけ眉を寄せる。アルドが横から言った。


「引きずってでも連れてくる」


「お前が先に捕まる可能性もある」


「うるせぇ」


 小さなやり取りに、皆が少しだけ笑った。そして、アルドとレイスは本部へ。残りの面々は、煤鳩亭へ向かった。


         ◇


 総隊長室では、ローグレスが二人を待っていた。机の上にはすでに国軍からの簡易報告が届いているようだった。だが、ローグレスは紙ではなく、二人の顔を見た。


「戻ったか」


「はい、ローグさん」


 アルドが答える。


「全員、生きて戻りました」


 その一言に、ローグレスの表情がわずかに緩んだ。


「それが一番だ」


 レイスが報告書を差し出す。


「ローグ様、詳細です。国軍前線は勝利。墓地方面には共和国軍の別働隊約三百が侵攻。第一部隊で迎撃し、墓地損傷は軽微。帰路で中級夜骸一体と遭遇、討祓済みです」


 ローグレスは書類へ目を通しながら、眉を寄せた。


「墓地を狙ったか」


「少なくとも、結果としてはそうです」


 レイスが答える。


「意図的だったかどうかは断定できません。ただ、部隊の進路は明確に墓地方面でした」


「国軍側はどう見ていた」


「今後の夜間作戦では、墓地周辺の警備強化が必要という認識です。国軍だけでは対応しきれないため、討祓軍との連携を増やす方向になるかと」


 ローグレスはしばらく黙った。書類の同じ一行へ視線を置いたまま、指先だけが一度、机を叩く。


「戦争が深くなれば、夜も深くなるか」


 低い声だった。アルドは何も言わなかった。ローグレスは書類を置く。


「国軍側の報告では、第一部隊への感謝がかなり強く書かれている」


「国軍からも直接言われました」


 アルドが少しだけ困ったように言う。


「墓地を守ったことも、前線を支えたことも、かなり驚かれてました」


「当然だ」


 ローグレスは静かに言った。


「三百の別働隊を六人で退け、前線では崩れかけた国軍を支え、中級夜骸まで討祓した。驚かれない方がおかしい」


「……まあ、そう言われると派手ですね」


「派手で済ませるな」


 ローグレスは少しだけ呆れたように息を吐いた。


 だが、すぐに表情を和らげる。


「ノル、ルシアン、セレスの働きも大きかったようだな」


「はい」


 レイスが頷く。


「ノルは高台から敵魔導士と伝令を狙撃し、前線の崩壊を防ぎました。ルシアンは後方支援地点全体を守り、治療班と遠距離魔導部隊を維持。セレスは複合魔法で敵の進軍を止め、国軍の押し返しを助けています」


「よくやったな」


 ローグレスの声に、親のような温度が滲む。


「全員、よくやった」


 その言葉に、アルドは少しだけ口元を緩めた。


「ローグさんからも言ってやってください。みんな喜ぶと思います」


「そうだな。後で直接伝える」


 ローグレスは椅子へ背を預ける。


「今日はもう休め。報告の続きは明日でいい」


「いいんですか」


 アルドが聞く。


「お前達の顔を見れば十分だ。細かいことは書類で追う」


 ローグレスは穏やかに言った。


「煤鳩亭へ行くんだろう」


「……まあ」


「行け。あの店の飯を食って、くだらない話をして、隊舎へ帰れ」


 アルドは少しだけ笑った。


「命令ですか」


「命令だ」


「生きて戻った日は、ちゃんと生きている顔をしろ」


 アルドとレイスは、一瞬だけ言葉を失った。それから、アルドが小さく頷く。


「分かりました」


「レイス」


「はい、ローグ様」


「お前もだ。報告書を抱えて隊舎に戻るな」


「……分かりました」


 レイスが少しだけ不服そうに答える。アルドが横で笑う。


「言われてるぞ」


「お前もだ」


「俺は行く気だった」


「どうだか」


 二人は総隊長室を後にした。廊下へ出ると、ようやく肩の力が抜けた気がした。


         ◇


 煤鳩亭は、すでに賑やかだった。扉を開けた瞬間、肉の焼ける匂いと酒の香りが押し寄せてくる。


「遅い!」


 真っ先に声を上げたのはバルトだった。片手に大きな肉串を持っている。


「もう始めてんぞ、カシラ!」


「見れば分かる」


 アルドが呆れる。ドランが厨房の奥から顔を出した。


「おう、主役が遅れてきたな」


「主役じゃねぇよ」


「今日は全員主役だ。座れ座れ」


 ミナも皿を運びながら笑っている。


「黒豹さん達、お疲れ様です! 今日はたくさん食べてくださいね」


 ルシアンが席から手を振った。


「アルド、こっち!」


 その隣にはセレス。向かいにはノルが座り、新しい長銃を椅子の横に大事そうに立てかけている。ルカはジュースを片手に、すでに少し眠そうな顔をしていた。


 ゴードは静かに水を飲んでいる。エディンは頬杖をつきながら、皆を眺めていた。


「あらぁ、やっと来たわねぇ。アルドちゃん、レイスちゃん」


「報告が長引いたんですか?」


 ルカが聞く。


「それなりにな」


 レイスが答える。


「ローグさんに褒められたぞ」


 アルドが席につきながら言った。その一言に、ルシアンが目を明るくする。


「本当?」


「ああ。全員よくやったってさ」


「ローグレスさんが?」


 セレスも嬉しそうに聞き返した。


「後で直接言うって言ってた」


 ノルは視線を逸らしながら、水を飲む。


「別に、直接じゃなくてもいいけど」


「絶対嬉しいやつだ」


 バルトが笑う。


「うるさい」


「ノルは褒められると顔に出るからな!」


「出てない」


「出てるよ」


 ルシアンが笑う。ノルはさらに顔を逸らした。バルトが肉串を掲げる。


「なら細けぇ話は明日だ! 今日は飲め!」


「お前はもう飲んでるだろ」


「俺様は先に始めてただけだ!」


「同じだ」


 ノルがぼそりと言う。セレスが笑った。


「バルト、帰り歩ける?」


「余裕だ!」


「それ、歩けない人の言い方だよ」


 ルシアンが心配そうに言う。ゴードが短く口を開いた。


「担がないぞ」


「兄弟、そこは担げよ!」


 そのやり取りに、皆が笑った。アルドとレイスも席につく。すぐに皿が並べられた。焼いた肉。温かいスープ。


 香草を混ぜた芋。厚切りのパン。誰かが乾杯をしようと言い出す前に、バルトが杯を持ち上げた。


「全員生きて帰ったことに!」


「雑だな」


 ノルが言う。


「いいだろ、分かりやすくて!」


 ルシアンが笑いながら杯を持つ。


「でも、それが一番だね」


 アルドも杯を持ち上げた。


「全員、生きて帰った」


 レイスも小さく杯を上げる。皆が、それぞれの飲み物を掲げた。


「乾杯!」


 声が重なる。木の杯がぶつかる音が、煤鳩亭の中に響いた。その後は、もう騒がしかった。


 バルトは自分がどれだけ敵を吹き飛ばしたかを大げさに語り、ルカが横から細かく訂正する。


「そこ、バルトさんの後ろから来てた敵は僕が撃ちましたよ」


「細けぇ!」


「細かくないです」


「援護も俺様の活躍の一部だろ!」


「勝手に含めないでください」


 ノルは新銃の話を聞かれ、面倒そうにしながらも少しだけ嬉しそうに説明する。


「三発をばらすと便利。一点に寄せるとすごい」


「説明が雑」


 セレスが言う。


「分かりやすいでしょ」


「分かるけど」


 ルシアンは、負傷兵の治療でどれだけ慌ただしかったかを話しながらも、途中でアルドの皿に肉を一切れ置いた。


「食べてる?」


「食ってる」


「少ない」


「見てたのかよ」


「見てたよ」


 アルドは少しだけ顔を逸らしながら、その肉を食べた。ミナは忙しく動き回りながらも、時折その輪を見て笑っていた。ドランは厨房から大皿を追加で出しながら、低く笑う。


「よく食うな、お前ら」


「戦ったからな!」


 バルトが胸を張る。


「食べる理由だけは立派だね」


 ノルが呟く。


「だけってなんだ!」


 また笑いが起きる。戦場の泥。血の匂い。夜骸の咆哮。それらは、まだ完全には消えていない。


 服の奥にも、身体の奥にも、残っている。


 それでも、今ここには温かい飯がある。


 仲間の声がある。笑い声がある。生きて帰ってきた者達が、同じ卓を囲んでいる。


 それだけで、十分だった。


         ◇


 宴が終わる頃には、夜は深くなっていた。バルトはかなり上機嫌だったが、どうにか自分の足で歩いていた。ゴードが横で無言の圧をかけていたからかもしれない。


 ルカは眠そうに何度も目を擦り、セレスに「転ばないでよ」と言われていた。ノルは新しい長銃を大事そうに肩へかけ、ルシアンは治療鞄を抱え直している。


 エディンは少し後ろから、その全員を見守るように歩いていた。アルドとレイスは、並んで先頭付近を歩く。王都の夜道は静かだった。


 煤鳩亭の灯りが背後で小さくなっていく。前方には、第一部隊の隊舎がある。我が家のような場所。


「疲れたな」


 アルドが言う。


「当然だ」


 レイスが答える。


「明日は休みか?」


「ローグ様が許せばな」


「許せよ」


「俺に言うな」


 その後ろで、ルシアンが笑った。


「明日はみんなでゆっくりしたいね」


「昼まで寝る」


 ノルが即答する。


「俺様は朝飯食ってから寝る」


「順番がおかしい」


 セレスが笑う。


「僕は普通に寝たいです……」


 ルカが小さく呟く。ゴードが低く言った。


「まず帰れ」


「はい」


 皆がまた笑った。夜風が吹く。遠い戦場の音はもう聞こえない。


 王都の石畳を、第一部隊の足音が並んで進む。少し遅れた者がいれば歩調が緩み、笑い声が上がれば、すぐ隣から呆れた声が返る。やがて、見慣れた隊舎の灯りが見えてきた。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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