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高台の三射線

 戦場は、すでに人の形を失っていた。夜の闇を裂くように、遠距離魔法の光が幾筋も飛び交う。


 赤い火炎が土を抉り、青白い水流が泥を跳ね上げ、雷荷の光が一瞬だけ兵士達の顔を照らす。怒号、悲鳴、金属音、爆ぜる魔法音。それらが混ざり合い、ただ巨大な轟きとなって大地を震わせていた。


 最前線では、国軍兵達が泥にまみれながら剣を振るっていた。綺麗な戦いではない。盾で押し合い、肩でぶつかり、足を取られ、泥水を浴び、息を荒げ、それでも前へ出る。


 敵兵の剣を受けた国軍兵が、歯を食いしばりながら至近距離で火炎魔法を叩き込む。別の兵士は槍で敵を押し返しながら、大地魔法で足場を盛り上げ、かろうじて自分の隊列を保っていた。王都討祓軍の戦いとは違う。


 派手な一撃で夜骸を断つ戦いではない。泥の中で、命と命を削り合う戦いだった。


「前線右、押されてる!」


「支援回せ!」


「回復班、こっちだ! 足をやられた!」


「防御魔法、切らすな!」


 後方では、国軍の魔導支援部隊が必死に魔力を飛ばしていた。強化魔法。防御魔法。


 応急の回復魔法。崩れそうになる前線を、後ろから無理やり支えている。


 だが、共和国軍の数は多かった。


 闇の向こうから押し寄せる敵兵の列は、いくら倒しても薄くならない。前線の兵士達は一歩、また一歩と下がり始めていた。泥を踏みしめる足音が乱れる。


 剣を振る腕が鈍る。息が続かない。一人の国軍兵が、敵の押し込みに耐えきれず足をもつれさせた。


「ぐっ……!」


 泥の中に背中から倒れ込む。視界の端で、味方の背中が遠ざかる。目の前に、敵兵が立っていた。共和国兵は何も言わなかった。ただ、刃を振り上げる。


 兵士は反射的に腕で顔を庇った。


 間に合わない。


 そう思った瞬間。乾いた銃声が、戦場を切り裂いた。敵兵の胸が跳ねた。


 刃を振り下ろす寸前だった体が、泥の上で不自然に止まる。次の瞬間、その兵士は膝から崩れ落ちた。


「……っ!」


 倒れていた国軍兵は、何が起きたのか分からないまま息を呑む。


 だが、考えている暇はなかった。


「立て!」


 横から別の国軍兵が腕を掴み、引き起こす。


「後ろを見るな! 前だ!」


「あ、ああ!」


 救われた兵士は泥を吐き、剣を握り直した。


         ◇


 高台の上。ノルは新しい長銃を構えたまま、片目を細めていた。深みがかった緑の銃身が、夜の中でわずかに光を返す。


 銃口は三つ。下に二つ、上に一つ。親父が得意げに見せた時は、少しだけ笑いそうになった。


 けれど今、その三つの銃口は、確かに戦場を変えていた。


「前線左、味方が下がる」


 ノルは短く呟いた。すぐ横で、国軍の観測兵がはっとして旗を動かす。ノルはそれを待たない。


 右側から差し込まれた専用弾倉。その中に収まっている三角形のトライアングルケース。一つのケースに、弾が三発。


 レバーを引くたび、三発の弾が三つの薬室へ同時に送られる。普通なら、一度の射撃で三発が同じ方向へ飛ぶ。夜骸《やがい》相手なら、それでいい。


 三発を一点に重ねれば、分厚い外殻も肉も骨もまとめて撃ち抜ける。低級なら一撃で動きを止められる。中級相手でも、狙い所を間違えなければ十分に通るだろう。


 だが、今撃っているのは夜骸ではない。


 人間だ。三発を一人に叩き込めば、威力が過剰すぎる。だから、ノルは使い方を変えた。


「旋風壱式 導弾《どうだん》」


 引き金を引く。三つの銃口から、三発の弾丸が同時に放たれた。


 だが、三発は同じ軌道を進まない。


 銃口を離れた直後、ノルの旋風魔法が弾丸の威力を底上げしつつ標的に吸い込まれるように誘導する。一発は正面の敵兵の肩へ。一発は右へ流れ、別の敵兵の太腿へ。


 一発はわずかに上へ跳ね、後方で魔法を構えようとしていた敵兵の腕へ。三人が同時に崩れた。即死ではない。


 だが、足が止まる。


 腕が止まる。魔法が止まる。その一瞬があれば、前線の国軍兵には十分だった。


「今だ!」


「押せ!」


 泥にまみれた国軍兵達が吠え、動きを止めた敵へ刃を叩き込んでいく。ノルはその様子を見ても、表情を変えなかった。


 敵は走る。屈む。味方と重なる。泥が跳ね、煙と魔法の光が視界を乱す。


 ノルは小さな急所を追わなかった。


 肩。太腿。魔法を構える腕。


 今必要なのは、一人を綺麗に仕留めることではない。前線へ届くはずだった敵の一手を、先に止めることだった。


「次」


 ノルは弾倉の残りを指先で確かめる。親父の言っていた通り、装填は悪くない。重さも、反動も、想定内。


 いや。想定より少し、楽しい。ノルは小さく息を吐いた。再び銃声。


 三発の魔弾が、別々の風をまとって夜を裂いた。


         ◇


 ノルより少し前方。セレスは泥の飛ぶ戦場の縁に立っていた。支援部隊の位置より前。


 けれど最前線ほど近くはない。戦場の流れが見える場所。敵の進軍路が見える場所。そこに、彼女はいた。


「……私にできること」


 小さく呟く。第一部隊の中で、自分だけの強みが分からない。ずっと、そう思っていた。


 アルドの炎のように前を焼けるわけではない。レイスのように複数の魔法を当然のように扱えるわけでもない。ノルの銃のような絶対的な精密さもない。


 ルシアンのように、誰かを救える手もない。バルトの拳のような破壊力も、ゴードの盾のような安心感も、ルカの速さも、エディンの底知れなさもない。


 けれど。セレスは目の前の泥を見た。踏み荒らされた土。跳ね上がる水。兵士の足を奪うぬかるみ。


 それは、戦場にとって邪魔なものだった。なら。邪魔なものを、味方にすればいい。


「水地弐式 泥衣《でいい》」


 セレスの足元から、水が薄く広がった。ただの水ではない。泥と混ざり、地面の表面を柔らかく変えていく。


 敵兵がそこへ踏み込んだ瞬間、足が沈んだ。


「なっ……!」


 膝までは沈まない。


 だが、足首を奪うには十分だった。


 進軍速度が落ちる。隊列が詰まる。後ろの敵兵が前の兵にぶつかり、陣形が乱れる。


 そこへ国軍兵の魔法弾が降り注いだ。


「今のは……!」


 近くにいた国軍魔導士が驚いたようにセレスを見る。セレスは答えない。指先を横へ流す。


「大流参式 沈沼《しずみぬま》」


 敵軍の進行方向、その少し先の土が黒く湿った。ただの泥ではない。踏み込めば、足を取られる。


 無理に抜こうとすれば、姿勢が崩れる。敵兵の一人がそこへ足を入れ、膝をついた。隣の兵が助けようとして、同じように足を取られる。


 二人、三人。流れが詰まった。


「右へ迂回しろ!」


 共和国側の指揮官が叫ぶ。


 だが、セレスはその声を聞いていた。


「大流弐式 陥泥孔《かんでいこう》」


 右へ回ろうとした敵兵の足元に、泥が沈む。深くはない。殺す穴ではない。


 だが、走る兵士の足を奪うには十分だった。


 一人が転ぶ。後ろが巻き込まれる。敵の進軍線が、歪んだ。セレスは大きく息を吸う。胸が苦しい。


 怖くないわけではない。目の前では人が倒れている。自分の魔法で足を止められた敵が、味方の刃で斬られていく。


 それでも、手を止めれば味方が死ぬ。


 だから止めない。


「セレス殿!」


 国軍兵の声が飛ぶ。


「敵、中央突破を狙っています!」


「見えています!」


 セレスは両手を前へ出した。水の膜が、地面を這う。泥を読み、傾斜を読み、人の流れを読む。


 戦場そのものが、少しずつ形を変えていく。


「水地参式 泥蓮陣《でいれんじん》」


 敵の足元に、円を描くように大きく泥の花が広がった。中心へ進もうとするほど、足が沈む。外へ逃げようとするほど、泥が横から絡む。


 倒れた兵士を避けようとした別の兵士が足を取られ、隊列が大きく崩れた。国軍兵達が吠える。


「押し返せ!」


「敵の足が止まったぞ!」


「今だ、前へ!」


 泥にまみれた国軍兵達が、再び前へ出た。セレスはその光景を見つめた。自分は、誰かのようには戦えない。


 でも。


 誰かが戦える場所を作ることはできる。その感覚が、ほんの少しだけ胸の奥に残った。


         ◇


 後方支援地点。ルシアンは、息を整える暇もなかった。


「負傷者、三名!」


「こっちへ!」


「防御魔法、左が薄い!」


「分かってる!」


 国軍の治療兵達が走り回る中、ルシアンは両手を動かし続けていた。水で汚れを落とし、清癒膜で出血を抑える。深い傷には応急処置だけを施し、動ける兵士はすぐに後方へ送る。


 助けられる命。今はまだ手を出せない命。その判断を、一瞬ごとに迫られる。胸が痛い。けれど、迷っている時間はなかった。


「水流弐式 清癒膜《せいゆまく》」


 青い水の膜が負傷兵の脇腹を覆った。痛みに歪んでいた兵士の呼吸が、少しだけ整う。


「この人は後方へ。歩かせないで、担架でお願いします」


「了解!」


 治療兵が頷き、兵士を運んでいく。その時だった。遠くで、敵の魔導士達が一斉に向きを変えた。


 ルシアンは気づいた。高台。ノルの位置。


「ノル!」


 叫ぶより早く、敵の遠距離魔法が放たれた。火炎の矢。雷荷の槍。


 圧縮された水弾。石礫をまとった大地魔法。それらが、高台へ向かって一斉に飛ぶ。狙いは明らかだった。ノルを潰す。


 あの狙撃を止める。ルシアンは地面を蹴った。左手の薬指に嵌められた指輪が、淡く光る。


 アルドから渡された指輪。魔力を増幅する、小さな輪。あの日、高台で照れながら渡されたそれが、今は確かに彼女の魔法を押し上げていた。


「水流参式 護水壁《ごすいへき》!」


 高台の前方に、厚い水の壁が立ち上がる。火炎の矢が水へ沈み、白い蒸気を噴いた。続いた雷槍が表面を裂き、石礫が壁を大きくへこませる。


「っ……!」


 ルシアンは両足を踏ん張った。指輪の青い石が強く光り、水量が一気に増す。崩れかけた壁が持ち直し、そのまま左右へ広がった。


 高台だけではない。


 その後ろの遠距離魔導部隊。刻印石へ魔力を注ぐ砲撃班。負傷兵を運ぶ治療兵。


 支援地点ごと覆うように、水壁が弧を描く。


「なんだ、あの広さ……!」


 近くの国軍魔導士が息を呑んだ。


 次の火炎がぶつかる。水面が爆ぜ、蒸気が上がる。石礫が食い込み、雷が表面を走る。


 それでも、ルシアンは壁を切らさなかった。


 腕が震える。額から汗が落ちる。指輪だけが、淡い青の光を保っていた。


「……すごい」


 近くの治療兵が呟いた。ルシアンは聞いていない。額に汗が滲む。腕が重い。けれど、視線は逸らさない。


「ノル!」


 ルシアンが叫んだ。


「守るから、撃って!」


 高台の上で、ノルが一瞬だけこちらを見た。それから、口元をわずかに上げる。


「言われなくても」


 翠穿の三つの銃口が、再び夜へ向けられた。


         ◇


 ノルは敵の遠距離魔導士達を見ていた。こちらを狙った。つまり、こちらを脅威と認識した。それは悪いことではない。むしろ、分かりやすい。


「場所、割れたね」


 ノルは呟く。背後でルシアンの防御膜が高台を包んでいる。正面から魔法が飛んでくる。


 けれど、届かない。厚い水壁が受け止め、流れに沿って横へ逃がす。その下で、ノルは何事もないように銃を構えた。


 右側の弾倉を抜く。新しい弾倉を差し込む。レバーを引く。三発、装填。乾いた銃声。


 敵の遠距離魔導士が一人、肩を撃ち抜かれて杖を落とした。


 もう一発が隣の兵の膝を砕く。


 最後の一発は、後方で合図を送ろうとしていた伝令の手元を弾いた。


「次」


 また撃つ。敵の魔導士が崩れる。別の兵が怯んだところへ、国軍の遠距離魔法が降る。


 さらに撃つ。三つの銃口から放たれた弾丸が、風に乗って別々の命へ向かう。高台の上のノルは、戦場全体から見れば小さな影だった。


 だが、その小さな影が引き金を引くたびに、敵の流れが止まる。指揮が乱れる。魔法が途切れる。


 前線の国軍兵が、息を吹き返す。


         ◇


 セレスの泥が敵の足を奪う。ノルの弾丸が敵の動きを止める。ルシアンの防御が味方の後方を守る。


 三つの支援は、それぞれ別の場所で起きていた。


 だが、戦場では一つに噛み合っていた。


 敵が進もうとすれば、セレスの泥に足を取られる。足を止めた敵を、国軍兵が押し返す。押し返そうと後方の魔導士が動けば、ノルの弾丸がそれを撃ち抜く。


 敵が高台を潰そうと魔法を放てば、ルシアンの防御がそれを防ぐ。国軍兵達の声が変わっていった。絶望ではない。


 怒号でもない。前へ出るための声だった。


「押せ!」


「崩れてるぞ!」


「高台が敵の魔導士を落としてくれてる!」


「泥に入るな、左へ押し込め!」


 泥だらけの前線兵士達が、再び剣を振るう。支援部隊の魔導士達が、強化魔法を重ねる。負傷者はルシアンの守る後方へ運ばれ、また別の兵士が前へ出る。


 完全な勝利などではない。


 誰も傷つかない戦いでもない。


 泥の中には、動かない者が何人もいる。敵も、味方も。


 それでも、戦場の流れは変わった。


 共和国軍の前進が止まる。指揮官の声が乱れる。後方部隊が下がり始める。


 やがて、敵陣の奥で撤退の合図が上がった。共和国兵達が少しずつ後退していく。最初は数人。


 次に小隊。そして、前線全体が引き始めた。


「敵、後退!」


「追いすぎるな! 陣形を崩すな!」


「国軍、前線維持!」


 ガレス中将の怒鳴る声が、伝令を通じて戦場へ広がる。勝った。少なくとも、この戦場では。


 国軍兵達の間に、押し殺した歓声が広がっていく。


 だが、ノルはすぐには銃を下ろさなかった。


 撤退する敵の中に、反撃の気配がないかを見る。倒れたふりをしている敵はいないか。伝令が別方向へ走っていないか。


 魔導士が最後の一撃を準備していないか。銃口を下げるのは、それを確認してからだった。


「……終わり?」


 ルシアンが後ろから声をかける。防御膜を維持していたせいか、少し息が上がっている。ノルはようやく銃を下ろした。


「こっちはね」


 そう答えてから、戦場の向こうを見る。まだ遠くで、魔法の残光が揺れている。泥の匂い。血の匂い。焼けた土の匂い。


 新しい銃の銃身は、熱を持っていた。ノルはその熱を手のひらで感じる。


「どうだった?」


 ルシアンが聞いた。


「新しい銃」


 ノルは少しだけ考えた。それから、いつもの調子で言った。


「悪くない」


 その言葉に、ルシアンは笑った。


「ノルのそれ、かなり気に入ってる時の言い方だよね」


「うるさい」


 少し離れた場所で、セレスが膝に手をついて息を整えていた。泥にまみれた地面を見下ろす。自分が作った泥。


 自分が変えた戦場。その中で、味方は生き延び、敵は退いた。


 セレスは泥の残る手を一度握り、開いた。指先はまだ冷たい。それでも、もう背中へ隠す気にはならなかった。


「セレス!」


 ルシアンが呼ぶ。セレスは顔を上げた。


「大丈夫?」


「……ええ」


 セレスは少しだけ笑った。


「大丈夫」


 ノルが銃を肩に担ぎ、ぼそりと言う。


「セレス、今日かなり嫌な魔法使ってたね」


「嫌な魔法……?」


「敵からしたら最悪。足場が信用できないの、相当きつい」


 セレスは目を瞬かせた。褒められているのか分からない。だが、ノルの言い方はいつも通りで、だからこそ嘘ではないと分かった。


「……ありがとう」


「褒めてるかは知らない」


「そこは褒めてよ」


 ルシアンが笑う。セレスもつられて、小さく笑った。その時、後方の国軍兵達が一斉に声を上げた。


 勝利の声。生き残った者達の声。ノルはその声を聞きながら、遠くの闇へ目を向けた。


 前線は押し返した。


 だが、夜はまだ終わっていない。


 ノルは銃口を下げず、墓地の方角へ一度だけ目を向けた。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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