緋色の相棒
アルドは、目を開けた。朝だった。正確には、朝になる少し前だった。
窓の外はまだ青暗く、鳥の声もまばらだ。隊舎の中も静かで、廊下を歩く足音すら聞こえない。寝台の上で、アルドは仰向けのまま天井を見ていた。
目は、バキバキに冴えていた。
「……寝れなかった」
ぽつりと呟く。昨日、寝台に入った。目も閉じた。疲れていた。
森で野営し、廃村で戦い、王都へ戻って報告もした。普通なら泥のように眠るはずだった。なのに、眠れなかった。
理由は一つしかない。新しい剣が完成した。明日、受け取れる。
そのことを考え始めた瞬間、胸の奥がずっと鳴り続けた。目を閉じれば鍛冶屋の炉が浮かび、緋灼鉱石の赤が浮かび、まだ見ぬ剣の形が勝手に頭の中で何度も組み上がった。刃はどんな色だろう。
重さはどうだろう。炎を通した時、どんな音がするのだろう。握った瞬間、手に馴染むだろうか。
馴染むに決まっている。いや、でも、初めて握る剣だ。少し違和感があるかもしれない。
でも、それもいい。
馴染ませていけばいい。これから一緒に戦うのだから。そこまで考えて、アルドは勢いよく上体を起こした。
「よし!」
声が大きかった。隣室から壁を叩く音がした。
「うるさい!」
ノルの声だった。
「悪い!」
アルドは反射的に謝った。
だが、顔は笑っていた。
笑うなと言われても無理だった。今日、剣を迎えに行く。それだけで、体の奥から火がついたようだった。
◇
食堂へ降りる頃には、アルドは完全に仕上がっていた。寝不足のはずなのに、足取りは軽い。目は妙に輝いている。
髪は少し跳ねていたが、本人は気づいていない。食堂にはすでに何人か集まっていた。ルシアン、セレス、ノル、ゴード、ルカ。
少し遅れてバルトが大あくびをしながら入ってくる。エディンは窓際の席で、いつの間にか茶を飲んでいた。レイスは最後に入ってきた。
アルドを見るなり、足を止める。
「寝てないな」
「心は寝た」
「意味が分からん」
レイスは呆れた顔で席についた。ルカが首を傾げる。
「アルドさん、何かいいことあったんですか?」
アルドは待ってましたと言わんばかりに振り返った。
「聞いてくれ」
「聞かなくても分かるけどね」
ノルが茶を啜りながら言う。
「新しい剣でしょ」
「そうだ!」
アルドの声が食堂に響いた。
「今日、受け取りに行く!」
ルシアンの表情がぱっと明るくなる。
「完成したんだ! おめでとう、アルド」
「おめでとう」
セレスも笑った。ゴードが静かに頷く。
「よかったな」
「ありがとうございます!」
ルカも嬉しそうに身を乗り出した。
「どんな剣なんですか?」
「まだ見てない!」
「見てないのにそんなに嬉しいんですか?」
「完成したんだぞ!」
「なるほど!」
ルカは妙に納得した。バルトがどかっと椅子に座る。
「ついにカシラの新武器か! そりゃめでてぇな!」
「ありがとう、バルト」
「俺様も新しい拳帯でも作るか!」
「それは自分で勝手にやって」
ノルが雑に返す。エディンは頬杖をつきながら笑っていた。レイスは呆れた顔のまま、けれどほんの少しだけ口元を緩めていた。
「浮かれすぎて転ぶなよ」
「転ばない」
「店まで走るなよ」
「走らない」
「嘘だな」
「少しだけなら」
「走る気だろ」
食堂に小さな笑いが広がった。その時、奥から香ばしい匂いが流れてきた。甘い。
けれど甘いだけではない。焦げた醤のような香りに、肉の脂が溶けた匂いが重なる。鼻先を撫でた瞬間、全員の視線が厨房の方へ向いた。
料理番が大皿を持って出てくる。白い飯の上に、艶のある肉がたっぷり乗っていた。薄く切られたメルティファングの肉。
甘辛いタレが絡み、表面は照り照りと輝いている。熱で溶けた脂が飯へ染み込み、湯気と一緒に濃い香りを立てていた。
「昨日のメルティファングだ」
料理番が得意げに言う。
「朝から重いかとは思ったが、肉が良すぎる。新鮮なうちに甘辛く炒めて飯に乗せた」
バルトが立ち上がった。
「神か?」
「座れ」
レイスが言う。だが、レイスの目も皿から離れていなかった。全員の前に椀が置かれる。
メルティファングの甘辛肉飯。箸を入れた瞬間、肉がほろりと沈んだ。アルドは一口食べた。その瞬間、止まった。肉が、舌の上でほどけた。
噛んだというより、触れた瞬間に溶けた。脂は甘い。
だがしつこくない。
甘辛いタレの香ばしさが脂を包み、飯の熱が旨味をふわりと持ち上げる。噛むたびに肉の奥から濃い汁が染み出し、飯粒一つ一つに絡んでいく。飲み込むのが惜しい。
けれど、飲み込むと次の一口が欲しくなる。
「……うま」
アルドの声は震えていた。バルトはすでに泣きそうな顔をしている。
「俺様、迷ってよかった」
「よくない」
レイスが言った。
だが、レイスも二口目に入っていた。
ルカは目を丸くして、椀を見つめている。
「これ、肉なんですか?」
「肉以外に何だと思ったの」
ノルが言う。
「幸せです」
「感想がでかいね」
ルシアンは小さく口に入れ、すぐに両手で頬を押さえた。
「ん……!」
目がきらきらしている。
「おいしい……すごい。脂が甘いのに、全然重くない」
セレスも一口食べて、しばらく無言になった。
「これは……だめね」
「何が?」
「朝から食べたら、一日これのこと考える」
ゴードは黙って食べていた。
だが、いつもより箸の進みが明らかに早い。
エディンは上品に口元を押さえながら、目を細めた。
「んふふ。これは罪な味ねぇ」
ノルは椀を持ったまま、しばらく固まっていた。
「ノル?」
ルシアンが声をかける。
「……悔しい」
「何が?」
「昨日の馬鹿どもを責めたいのに、肉がうますぎる」
馬鹿どもが同時に胸を張った。
「俺たちの勝利だな」
「カシラ、分かってるじゃねぇか!」
「はい!」
「調子に乗るな」
レイスが冷たく言った。しかし、椀は空になりかけている。
誰も止まらなかった。
甘辛い肉。脂の染みた飯。焼けた香ばしさ。噛むたびに広がる旨味。食堂の空気が、幸せで満たされていく。
昨日の森の疲れも、廃村の灰も、一瞬だけ遠くなった。完食した後、誰もすぐには動かなかった。全員が椅子に座ったまま、ぼんやりしている。
バルトは天井を見上げていた。
「俺様、もう一回迷ってもいい」
「よくない」
レイスの声に力がない。ルカは両手を合わせている。
「ごちそうさまでした……」
ルシアンは幸せそうに息を吐いた。
「本当においしかったね」
「うん」
アルドも椅子にもたれていた。体の奥まで満たされている。メルティファング。恐ろしい肉だった。
あまりの旨さに、頭の中が一度空になる。空になって。数秒後。
アルドは椅子から跳ね上がった。
「剣!!」
食堂中がびくっとした。ノルが耳を押さえる。
「急に叫ぶな!」
「忘れてた!」
「忘れてたのかよ」
バルトが笑う。
「メルティファングが強すぎた!」
「それは分かる」
レイスが立ち上がる。
「行くなら準備しろ。走るな。店に迷惑をかけるな。受け取ったら振り回すな」
「分かってる!」
「絶対分かってない顔だな」
アルドはすでに食堂を出ようとしていた。ルシアンが少し遅れて立ち上がる。その表情に、ほんの小さな迷いがあった。
◇
アルドの部屋は、いつもより少し散らかっていた。
昨夜、疲れて帰ってきたまま寝台に倒れ込んだせいだ。壁際には鍛冶屋から借りた代わりの剣が立てかけられている。机の上には手袋や整備布が置かれたままだった。
アルドは外出用の上着を羽織り、財布を確認し、代わりの剣を持つ。
「いくらだったっけ……? 確か高かったよな。金、先払いだったっけ? 一応ありったけ持ってくか……」
完全に浮かれていた。そこへ、扉が控えめに叩かれる。
「ア、アルド」
「ん?」
扉を開けると、ルシアンが立っていた。両手を前で軽く握っている。少し頬が赤い。
「あ、あのね」
「うん」
「鍛冶屋、私もついていっていい?」
「あぁ、いいぞ!」
即答だった。アルドは財布の中身を確認しながら答えていた。ほとんど話を聞いていない。
「……本当に?」
「もちろん! なんで?」
「ううん、何でもない!」
ルシアンはぱっと笑った。その笑顔は、さっきメルティファングを食べた時とは違う種類の明るさだった。
「じゃあ、準備してくるね!」
「おう!急げ!」
アルドはまだ何か荷物を確認している。ルシアンは部屋を出ると、扉を閉めた。そして廊下で、そっと両手でガッツポーズをした。
嬉しそうに、けれど声には出さずに笑う。
「よかったね」
横から声がした。
「ひゃっ」
ルシアンが肩を跳ねさせる。廊下の壁にもたれて、ノルがいた。
「ノル!?」
「盗み聞きじゃないよ。通りかかっただけ」
「今、絶対聞いてたよね?」
「通りかかっただけ」
ノルはにやにやしている。ルシアンの顔がさらに赤くなった。
「べ、別にそういうのじゃ」
「鍛冶屋デート、楽しんできな」
「ノル!」
「はいはい」
ノルは手をひらひら振って歩いていく。ルシアンはしばらくその場に立っていたが、やがて小さく笑った。そして、少し急いで自室へ戻った。
◇
王都の朝は明るかった。前線の煙も、廃村の灰も、ここにはない。
石畳の通りには露店が並び、パンの匂い、焼き菓子の匂い、果物の匂いが混ざっている。荷馬車が通り、子供たちが走り、店先では商人が声を張っていた。アルドは早足だった。
ほとんど駆け出しそうな勢いである。ルシアンはその隣を歩きながら、楽しそうに見上げた。
「そんなに楽しみ?」
「楽しみ!」
即答だった。
「どんな剣だと思う?」
「見てからのお楽しみじゃない?」
「分かってる。でも考えるだろ。親父さんが言ってたんだ。緋灼をただ混ぜるだけじゃ駄目だって。芯と刃の間に通り道を作って、炎を流して、余分な熱を逃がすって」
「うん」
「つまり、俺の炎をただ耐えるんじゃなくて、剣の力に変える剣なんだ」
アルドの声が弾んでいる。ルシアンはその横顔を見て、自然と笑った。
「すごく嬉しそう」
「そりゃ嬉しいだろぉ!」
「うん。よかったね」
その言葉に、アルドは少しだけ照れたように視線を前へ戻した。
「ああ」
二人は鍛冶屋へ向かった。道中、アルドはほとんど剣の話をしていた。緋灼鉱石のこと。
柄に入れる導線のこと。古い剣が限界だったこと。炎を通した時、刃が暴れないようにする工夫。
ルシアンは一つ一つに楽しそうに相槌を打った。内容の全部が分かるわけではない。でも、アルドが嬉しそうに話していることが嬉しかった。
◇
鍛冶屋の扉を開けた瞬間、熱が頬を撫でた。炉の奥では火が赤く燃えている。金属の匂い。
炭の匂い。叩かれた鉄がまだ空気の中に残しているような、硬い熱。鍛冶師は作業台の奥にいた。
アルドを見ると、にやりと笑う。
「来たか」
「来ました!」
「早ぇな」
「朝一で来るって決めてたので」
「顔見りゃ分かる。寝てねぇだろ」
「少し寝ました」
「嘘つけ」
鍛冶師は鼻で笑い、奥へ歩いていく。
「待ってろ」
アルドはその場で固まった。ルシアンは店内を見回す。
壁には剣や短剣、槍の穂先、小型の斧、細身の刃物などが並んでいた。実用品が多いが、中には装飾の美しいものもある。アルドが鍛冶師の戻る方をじっと見ている間に、ルシアンはそっと棚へ近づいた。
細剣が一本、目に入る。細く、軽そうな剣だった。柄には控えめな銀の飾りがあり、刃はすらりと伸びている。
ルシアンは少し迷って、それを手に取った。近くにあった鏡の前で、そっと構えてみる。
「……似合うかな」
小さく呟く。その頃、鍛冶師は長い布に包まれたものを持って戻ってきた。アルドの喉が鳴る。
「落とすなよ」
「落としません」
「振り回すなよ」
「分かってます」
「今はな」
鍛冶師は作業台の上に布包みを置いた。ゆっくりと布を開く。そこに、剣があった。長剣。形は奇をてらっていない。
アルドが扱ってきたものと大きくは変わらない。
だが、存在感が違った。
刃は銀だけではない。光の角度によって、奥に緋色の筋が走る。表面に塗られた色ではなく、鋼の内側に火の道が眠っているようだった。
鍔は黒みを帯びた鋼で、無駄な装飾はない。柄は手に馴染むよう細く絞られ、握りの奥には熱を逃がすための細い線が幾重にも刻まれていた。
派手ではない。けれど、強い。アルドは息を忘れていた。
「持て」
鍛冶師が言う。アルドは両手で柄を握った。持ち上げる。重い。
だが、重すぎない。
手の中に芯がある。剣がこちらを拒んでいない。むしろ、炎を待っているような感覚があった。
「……すごい」
言葉が漏れた。鍛冶師は満足そうに腕を組む。
「芯には耐久鋼材を使った。外側は熱を逃がしすぎず、溜め込みすぎない層にしてある。緋灼は刃全体にばら撒いちゃいねぇ。芯と刃の間、魔力の通り道に沿わせた」
アルドは剣から目を離せない。
「だから火を通しても暴れにくい。お前の炎を受け止めて、刃へ流す。余った熱は柄の導線から逃がす」
鍛冶師は柄を指で叩いた。
「ここだ。握りの奥に細工を入れてある。手元に熱が返りすぎない。だが逃がしすぎもしない。刃に残す熱は残す」
「炎を、剣の力に変える」
アルドが呟く。
「そうだ」
鍛冶師は頷いた。
「ただ耐える剣じゃねぇ。お前の炎を喰ってさらに燃え、斬る力に変える剣だ」
アルドは剣を軽く構えた。炉の赤が刃に映る。緋色の筋が、微かに光ったように見えた。
「火を通してみるか」
「ここでですか?」
「少しだけだ。暴れるかどうか見たい」
アルドは頷いた。息を整える。手の中に魔力を流す。火炎。
いつもよりも軽く剣の表面に薄く炎を纏わせる感覚だった。
だが明らかに違う。
炎が刃の上で暴れない。
鋼の内側へ細く吸い込まれ、緋色の筋に沿って走る。刃が赤く光る。熱はある。だが手元へ嫌な返り方をしない。
剣が震えない。炎が荒れない。なのに、前の剣の時より炎は強く、安定していた。
アルドの魔力が、刃の奥で形を持つ。それはまるで、剣が呼吸したようだった。
「……最高じゃないですか」
アルドは呟いた。鍛冶師が口の端を上げる。
「最高にしたんだよ。俺が」
アルドは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は使いこなしてから言え」
「はい!」
「あと、最初から全力で燃やすな。馴染むまで様子を見ろ。お前は調子に乗る」
「乗りません」
「乗る顔だ」
鍛冶師は呆れたように言った。その時、アルドの視界の端にルシアンが映った。鏡の前で、細剣を持っている。
細身の刃を少し照れたように構えていた。アルドは思わずそちらを見た。
「ルシアン」
「えっ」
ルシアンが慌てて細剣を下ろす。
「似合ってるな」
「そ、そう?」
「買うか?」
「え!?」
ルシアンが大きく首を振る。
「いらないいらない! 私は身軽な方がいいし、武器を持って動くのは慣れてないから」
「でも似合ってたぞ」
「似合うだけで買わなくていいの!」
ルシアンは顔を赤くして細剣を元の場所へ戻した。鍛冶師がそれを見て、少し笑った。
「買うなら安くしとくぞ」
「大丈夫です!」
ルシアンはさらに慌てた。アルドは少し残念そうに首を傾げたが、新しい剣を手にした喜びの方が大きく、すぐにそちらへ意識が戻った。
◇
鍛冶屋を出ると、王都の昼前の光が眩しかった。アルドは布に包んだ新しい剣を抱えている。抱えている、というより大事に持っている。
ルシアンはその隣を歩いた。
「このあと、どうするの?」
「隊舎に戻って、少し振ってみて、レイスに見せて、バルトに自慢して、ノルにうるさいって言われて」
「忙しいね」
「忙しい」
ルシアンは少し笑い、それから勇気を出すように口を開いた。
「その前にさ」
「うん」
「ご飯、食べに行かない?」
アルドは足を止めた。
「飯?」
「うん。ミナが教えてくれたお店が近くにあるの。お昼、おいしいんだって」
「いいぞ」
また即答だった。けれど、数歩歩いてからアルドは急に止まった。そして、ゆっくりルシアンを見る。
「……これ」
「うん?」
「もしかして、二人で飯食うやつか」
ルシアンは目をぱちぱちさせた後、にこっと笑った。
「今気づいたの?」
アルドの顔が少し赤くなる。
「いや、剣のことで頭が」
「知ってる」
「別に嫌とかじゃなくて」
「知ってる」
「その、急に」
「デートっぽいって思った?」
ルシアンが楽しそうに言う。アルドは視線を逸らした。
「……まあ」
「ふふ」
「笑うなよ」
「かわいいなって思って」
「かわいくない」
アルドは急によそよそしい歩き方になった。ルシアンはその横で笑っている。
さっきまで剣の話で勢いよく歩いていたのに、今は妙に背筋が伸びている。手の置き場に困っているようにも見えた。
「アルド」
「何だ」
「普通にしていいよ」
「普通だよ」
「全然普通じゃないよ」
ルシアンは楽しそうだった。
◇
ミナが教えてくれた店は、広場から少し奥へ入った通りにあった。木の看板には、野菜と魚の絵が描かれている。
中は明るく、窓から光が差し込んでいた。昼前ということもあり、席は半分ほど埋まっている。商人らしき客、買い物帰りの女性たち、若い兵士が何人か。
アルドとルシアンは奥の席に案内された。
「ミナがね、ここの昼煮込みがおいしいって」
「昼煮込み?」
「魚と野菜を白い汁で煮たやつ。あと焼きたての丸パン」
「うまそうだな」
「でしょ」
注文を終えると、二人は向かい合って座った。アルドは新しい剣を壁側に置いている。視線がちらちら剣へ行く。
ルシアンはそれを見て笑った。
「剣、気になる?」
「気になる」
「正直」
「嘘ついてもバレるだろ」
「うん」
料理が運ばれてくる。白い湯気を立てる煮込み。
柔らかく煮えた野菜と、ほろりと崩れる白身魚。丸パンは外が少し硬く、中はふわふわだった。ルシアンが一口食べる。
「おいしい」
アルドも食べた。
「うまい」
「よかった。ミナ、こういうお店詳しいんだ」
「女子会で?」
「うん。前に教えてくれたの。今度アルドと行ってみたらって」
アルドがむせかけた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
ルシアンはにこにこしている。
「ミナ、そういうの好きだから」
「そういうのって」
「内緒」
他愛のない話が続いた。最近の女子会の話。マリエルが思ったより甘いものを食べる話。
フィオナが辛口のコーヒーを平然と飲む話。ルカがまた療養院で看護師に怒られそうだという話。バルトが完全復活を何回言うか予想する話。
アルドは笑い、ルシアンも笑った。
◇
食事を終えた二人は、露店の並ぶ通りへ出た。昼を過ぎ、通りはさらに賑やかになっている。果物。
布飾り。焼き菓子。小さな魔具。旅人向けの護符。子供用の木剣。
ルシアンは一つ一つ楽しそうに見ていた。アルドは新しい剣を抱えながらついていく。
「これ、かわいい」
ルシアンが小さな髪飾りを手に取る。
「似合うな」
「まだ付けてないよ」
「似合うと思う」
「またすぐ買おうとする」
「駄目か?」
「駄目ではないけど、今日は見るだけ」
ルシアンは笑って髪飾りを戻した。その少し先に、装飾品の露店があった。指輪や首飾り、耳飾りが並んでいる。ルシアンの足が、そこで止まった。見ていたのは、一つの指輪だった。
細い銀色の輪。
中央には淡い青色の小さな宝石がはめ込まれている。派手ではない。けれど、光を受けると内側から水面のように揺れる。
露店の商人がすぐに声をかけた。
「お目が高いね、お嬢さん。それは魔力を増幅する細工が入ってる指輪だよ。派手な戦闘用じゃないけど、回復や支援を使う人には相性がいい」
ルシアンの目がわずかに輝く。
「魔力を……」
「石の質もいい。銀細工も丈夫だ。普段使いにもできる」
ルシアンは値札を見た。そして、固まった。
「十八万セリオ……」
声が小さくなる。商人が苦笑した。
「安くはないね。でも品はいいよ」
「き、綺麗ですね」
ルシアンは慌てて指輪から手を離した。
「見るだけで大丈夫です」
そう言って、にこっと笑う。けれど、目は名残惜しそうだった。アルドはそれを見ていた。
「次、あっち見よう」
ルシアンはすぐに別の露店へ向かった。焼き菓子を見て、布飾りを見て、子供用の小さな魔具に笑っている。アルドは少しだけ遅れて、さっきの露店を振り返った。
淡い青の指輪が、光の中で静かに揺れていた。
◇
その後、二人は広場の遊戯屋台へ寄った。的当ては、木製の小さな魔石玉を投げて、吊るされた的を落とす遊びだった。アルドは自信満々だった。
「任せろ」
「得意なの?」
「こういうのは力加減なんだ」
一投目。魔石玉は的を大きく外れ、後ろの布に当たった。
「……滑った」
「うん」
二投目。今度は力が強すぎて、的の横の支柱に当たり、店主が「あぶねぇ!」と声を上げた。
ルシアンが慌てて頭を下げる。
「すみません!」
「アルド、力加減」
「分かってる」
三投目。
ようやく的の端に当たり、かすかに揺れた。
落ちない。ルシアンがくすくす笑っている。
「笑うなよ」
「ごめん。かわいくて」
「かわいくない」
次はルシアンが投げた。ふわりとした軌道で、魔石玉が的の真ん中に当たる。ころん、と的が落ちた。
「……」
アルドが無言になる。店主が笑った。
「お嬢さんの勝ちだな」
ルシアンは得意げに胸を張る。
「力加減だよ、アルド」
「覚えた」
「本当かな」
次に投げ輪へ行った。輪は軽い木でできており、小さな景品の棒へ引っかける遊びだった。アルドは今度こそ慎重に投げた。
慎重すぎて、手前に落ちた。ルシアンは口元を押さえて笑っている。
「笑ってるだろ」
「笑ってない」
「笑ってる」
「ちょっとだけ」
結局、二人で何度も挑戦し、小さな青い布飾りを一つ取った。ルシアンはそれを大事そうに持った。
「今日の記念だね」
「それでいいのか?」
「うん」
ルシアンは笑った。
「すごく楽しい」
アルドはその笑顔を見て、少しだけ胸が詰まった。
◇
夕方、二人は王都を一望できる高台へ向かった。石段を上がると、王都の屋根が広がって見える。赤く染まった空。
遠くに白祈塔。街道を行き交う人々。商店街の明かりが一つ、また一つと灯っていく。
風は少し冷たかった。ルシアンは手すりに近づき、王都を見下ろした。
「楽しかったね」
声が柔らかい。
「うん」
「アルド、最初は剣のことしか考えてなかったけど」
「悪かった」
「怒ってないよ。楽しそうだったから」
ルシアンは振り返って笑った。
「でも、途中からちゃんとデートだった」
アルドは視線を逸らした。
「……そうだな」
「今日、すごく楽しかった」
その言葉に、アルドはしばらく黙った。そして、懐に手を入れた。
「ルシアン」
「うん?」
アルドは、さっきの指輪を取り出した。淡い青の石が、夕方の光を受けて小さく揺れる。ルシアンの目が大きく開いた。
「えっ」
「さっき見てただろ」
「え、でも、これ……十八万セリオ……」
「欲しそうだったし、今日のお礼」
「お礼で買う値段じゃないよ!?」
「魔力、増幅するって言ってた」
「そうだけど!」
アルドは指輪をケースのまま差し出そうとした。
「ほら」
ルシアンは受け取らなかった。頬を膨らませる。
「アルド」
「何だ」
「ちゃんと渡して」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
アルドは数秒考えた。それから、ようやく意味に気づいたように顔を赤くした。
「……ここで?」
「ここで」
「人いるぞ」
「少しだけだよ」
「いや…」
「ちゃんと」
ルシアンは頬を赤くしながらも、真っ直ぐ見ていた。アルドは観念したように息を吐いた。そして、ゆっくりと片膝をついた。
周囲にいた何人かが、ちらりとこちらを見る。アルドの耳が赤くなる。
それでも、ルシアンの左手を取った。
ルシアンの指は少し震えていた。アルドは指輪を、左手の薬指へ通した。淡い青の石が、ルシアンの手の上で静かに光る。
ルシアンはそれを見つめていた。顔は真っ赤だった。
でも、笑っていた。
泣きそうなくらい、嬉しそうに。
「……ありがとう」
声は小さかった。
「大事にする」
アルドは返事をしようとして、うまく言葉が出なかった。急に恥ずかしさが込み上げる。ゆっくり立ち上がると、そっぽを向いた。
「帰るぞ」
ぶっきらぼうな声だった。ルシアンは、指輪をつけた左手を胸に寄せる。
「うん!」
声は元気だった。アルドはつかつかと先に歩き出す。その背中を、ルシアンが小走りで追いかける。
「アルド、待って」
「待ってる」
「歩くの早いよ」
「早くない」
「照れてる?」
「照れてない!」
「ふふ」
「笑うな」
二人の声が、高台の風に溶けていく。その背後で、夜の空が静かに広がっていた。王都の屋根の向こう。
白祈塔のさらに上。綺麗な満月が、淡く輝いていた。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




