↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/165

夜明け前の黒豹

 アルドは、しばらく何も言えなかった。第一部隊隊舎の食堂。


 朝食の時間はとうに過ぎている。机の上には冷めた茶が一つ置かれ、窓の外では訓練場から剣戟の音が遠く聞こえていた。けれど、アルドの耳にはほとんど入っていなかった。


 向かいにはレイスが座っている。その隣に、ルシアンがいた。


 ルシアンは両手で杯を包んだまま、視線を落としている。いつもの柔らかい笑みはない。泣いてはいない。ただ、泣いた後のような静けさがあった。


 レイスが、昨日あったことを話した。ロアンが月酔い《つきよい》第三段階に達していたこと。ルシアンとセレスがそれを知ったこと。


 第五部隊へ報告したこと。翌朝、レイス、ルシアン、セレス、エディンが同行し、ロアンを引き渡したこと。家族が三十万セリオを受け取ったこと。


 話し終えた後、レイスは余計な言葉を足さなかった。アルドは拳を握っていた。怒りだった。


 誰に向けたものか、自分でも分からない。月酔いという病にか。ロアンを引き取った制度にか。


 それとも、自分だけが何も知らされず、朝になってから聞かされたことにか。


「……なんで」


 声が低く出た。ルシアンの肩が、わずかに揺れる。それに気づいた瞬間、アルドは言葉を飲み込んだ。


 違う。今、責める相手はルシアンではない。


 あの場にいたルシアンは、きっと自分よりずっと苦しかった。アップルパイを作って、礼を言いに行って、そこでロアンの症状を知ったのだ。どんな顔で帰ってきたのか。


 どんな気持ちで報告したのか。それを考えたら、喉の奥が詰まった。


「ルシアン」


 アルドは、できるだけ声を柔らかくした。


「大丈夫か」


 ルシアンは少しだけ顔を上げた。笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。


「……うん。大丈夫、ではないけど」


 杯を包む指に力が入る。


「でも、私が泣いてばかりいる話でもないから」


「そんなことないだろ」


 アルドはすぐに言った。ルシアンが瞬きをする。


「泣いていいだろ。怒ってもいい。……あんなの、平気なわけない」


 ルシアンは何かを言おうとして、口を閉じた。その代わりに、ほんの小さく頷いた。沈黙が落ちる。


 レイスはその沈黙を壊さなかった。アルドは視線をレイスへ向けた。胸の中に、まだ熱が残っている。


「なんで俺に言わなかった」


 責める声になった。分かっていても、止められなかった。レイスは目を逸らさなかった。


「言えば、お前は来ただろ」


「当たり前だ」


「だから言わなかった」


 淡々としていた。その淡々さに、アルドの怒りが一瞬だけ膨らむ。


「俺が邪魔だったってことか」


「そうだ」


 即答だった。ルシアンが顔を上げる。アルドも黙った。レイスは続ける。


「お前が来れば、ロアンの家族は余計に迷った。お前は止めようとしたかもしれない。止めないにしても、納得できない顔をしただろ。その顔を見た家族は、選べなくなる」


「……」


「それに、ロアン本人にも何を言うか分からなかった。お前が悪いという話じゃない。だが、あの場には向いていなかった、それにそもそもお前には任務があった」


 アルドの拳が震える。


「お前は」


 言葉が詰まった。怒りたい。怒鳴りたい。


 けれど、レイスの言っていることが間違っていないと分かってしまう。自分がそこにいたら、きっと黙っていられなかった。ロアンの家族が苦しんでいるのを見て、制度の正しさより、目の前の痛みに反応した。


 それが悪いとは思いたくない。けれど、その場で最善だったかと言われれば、分からない。アルドは奥歯を噛んだ。


「……ルシアンは」


 レイスが視線だけを動かす。


「ルシアンは、止めなかったのか」


 ルシアンは静かに首を振った。


「止められなかった」


 声は小さかった。


「止めたかった。でも、ロアンのお父さんもお母さんも、妹さんも……みんな、もう限界だった。ロアンさんも、すごく明るくて、怖いくらい元気で」


 ルシアンの指が震える。


「私が何か言ったら、たぶん余計に苦しませるだけだった」


 アルドは何も言えなかった。テーブルの上の冷めた茶に、薄い光が映っている。日常のはずの食堂が、ひどく遠く感じた。


「悪い」


 アルドは呟いた。レイスが少しだけ眉を動かす。


「何がだ」


「怒ったこと」


 アルドは深く息を吐いた。


「お前の判断は、たぶん正しかった。俺に言わなかったことも。……それでも腹は立ったけど」


「それは知っている」


「知ってるって何だよ」


「お前は顔に出る」


 いつものような言い方だった。少しだけ、食堂の空気が戻った。ルシアンが小さく息を漏らす。


 笑ったのか、泣きそうになったのか、どちらにも見えた。アルドは頭を掻いた。


「悪かった、レイス」


「謝罪は受け取る」


「偉そうだな」


「副隊長だからな」


 レイスは涼しい顔で茶を飲んだ。アルドは少しだけ笑った。レイスは涼しい顔のまま茶を飲んでいる。


 ルシアンもまだ目元は赤い。アルドは二人を見て、ようやく冷めた茶へ手を伸ばした。


         ◇


 昼前、アルドとレイスは総隊長室へ呼び出された。ローグレスは窓際に立っていた。


 机の上には数枚の報告書が置かれている。いつものように山積みというほどではないが、紙の端にはいくつも印が付けられていた。アルドが入ると、ローグレスは振り返った。


「来たか」


「はい」


 アルドは返事をした。声は普段より少し重かった。


 ローグレスはそれに気づいたのだろう。すぐに本題には入らなかった。


「聞いたか」


 何を、とは言わなかった。アルドは一瞬だけ黙り、頷いた。


「聞きました」


「そうか」


 ローグレスは目を伏せた。


「辛かっただろう」


「俺は、聞いただけです」


「それでも辛いものは辛い」


 ローグレスの声は静かだった。上官としてではなく、年長者としての声だった。


「月酔いに関する制度は必要だ。そう言うことはできる。必要だから続いている。必要だから、王都の民も、周辺の村も、どうにか生きている」


 アルドは拳を握った。


「はい」


「だが、必要な制度だからといって、傷つかなくていいわけではない」


 ローグレスは机の上の報告書へ視線を落とした。


「傷つく者がいる。納得できない者がいる。怒る者がいる。そういうものを全部なかったことにしてしまえば、我々はただ命令を処理するだけの人間になる」


 アルドは何も言わなかった。ローグレスは少しだけ表情を和らげる。


「お前が怒ったなら、それは悪いことではない」


「でも、俺が行ってたら邪魔だったって、レイスに言われました」


「レイスらしいな」


 ローグレスが苦く笑った。


「そして、おそらく正しい」


「……はい」


「だが、お前が怒ったことも間違いではない」


 アルドは顔を上げた。ローグレスはまっすぐに見ていた。


「間違っていない感情と、正しい判断が、同じ場所に並ぶことはある。どちらかを捨てれば楽だが、捨てられない者ほど苦しむ」


 アルドの胸に、その言葉が静かに落ちた。ローグレスは椅子に腰を下ろす。


「さて」


 声が少しだけ仕事のものへ戻った。


「慰めだけで呼んだわけではない」


 レイスが一歩前へ出る。


「任務ですか」


「ああ」


 ローグレスは机上の報告書を一枚取った。


「東部前線付近の集落が一つ、昨日の戦闘で廃村となった。共和国軍の攻撃により家屋の大半が焼失。住民は避難済みだが、被害は大きい」


 アルドの表情が変わる。泥と煙の向こうで焼かれた村。紙の上では、ただの被害報告になっている。


「その村へ、第一部隊を派遣する」


「夜骸ですか」


 アルドが問う。


「可能性が高い」


 ローグレスは短く答えた。


「廃村になったなら国軍の後処理では?」


 レイスが言った。


「現地調査だけなら、第二部隊でも十分でしょう。むしろ第一部隊を出すには大袈裟です」


「そうだな」


 ローグレスは認めた。


「通常なら第二部隊、あるいは国軍と第四部隊の連携で済ませる」


「では、なぜ第一部隊を?」


 ローグレスは一拍置いた。その目に、わずかな重さが宿る。


「嫌な予感がする」


 レイスが眉を寄せた。


「勘ですか」


「勘だけなら君たちを動かさない」


 ローグレスは報告書の端を指で押さえた。


「この村には中規模の墓地がある。前の異常個体の例もあるからな、通常の廃村調査では済まない可能性がある」


「墓地……」


 アルドが低く呟く。


「念の為夜骸発生の危険区域として扱う。任務は現地調査、残留民の確認、万が一の時は夜骸発生時の討伐。」


「了解しました」


 アルドは答えた。レイスはまだ納得しきっていない顔だったが、それ以上は言わなかった。ローグレスが第一部隊を出す。


 その判断に、軽さはない。アルドは拳を握り直した。


「すぐ出ます」


「頼む」


 ローグレスは少しだけ声を落とした。


「それと、アルド」


「はい」


「ルシアンをよく見てやれ」


 アルドの目がわずかに揺れた。


「……はい」


「お前自身もだ」


 その言葉には答えられなかった。アルドは頭を下げた。


         ◇


 出発の支度は早かった。第一部隊の隊舎前に、黒い隊服の面々が集まる。アルド、レイス、ルシアン、バルト、ノル、セレス、ゴード、ルカ、エディン。


 まだ朝の空気が残る中、馬の鼻息が白く揺れていた。ルシアンはいつもより口数が少ない。


 セレスがそっと隣に立ち、何も言わずに荷紐を整えてやっていた。ルシアンは小さく「ありがとう」と言った。ノルは銃の状態を確認している。


 ゴードは盾の留め具を締め直していた。ルカは周囲の空気を見て、何か喋ろうとして、やめている。重い空気だった。


 仕方のない重さだった。そこへ、バルトが大きく伸びをした。


「よぉし! ようやく俺様の完全復活だな!」


 声が隊舎前に響いた。何人かが、反射的にそちらを見る。バルトは脇腹を軽く叩いた。


「見ろ、この仕上がり! 傷も塞がった! 飯も食った! 拳も硬く燃える! つまり俺様が最強!」


「朝からうるさい」


 ノルが即座に言った。


「うるさいとは何だ、ノル! 復活祝いだぞ!」


「一人で祝ってろ」


「冷てぇな!」


 バルトは大げさに肩をすくめる。ルカが少しだけ笑った。


「バルトさん、傷、本当に大丈夫なんですか?」


「おう! ルカ、お前も心配してくれるようになったか。俺様の偉大さに気づいたな?」


「いや、途中で倒れたら運ぶの僕たちなので」


「そこは感動するとこだろ!」


 セレスが小さく笑う。


「バルト、無茶はしないでよ」


「セレスまで母ちゃんみてぇなこと言うなよ」


「誰が母ちゃんよ」


 空気が、少しだけ軽くなった。バルトはそれを分かっているのか、分かっていないのか、胸を張って馬に乗る。


「さあ行くぞ、カシラ! 俺様の完全復活任務だ!」


「俺の任務だ」


 アルドが返す。


「第一部隊の任務は俺様の任務でもある!」


「はいはい」


 ルシアンが小さく笑った。それを見て、アルドは少しだけ安心した。


「出発する!」


 アルドの声で、第一部隊は王都を出た。


         ◇


 東部へ向かう道中、空気は少しずつ戻っていった。最初は誰もが口数少なかった。


 前線に近づくほど、道端には焦げた荷車や、避難民が残していった荷物が増えていく。遠くの空には、薄い煙がまだ残っていた。ルシアンはそれを見るたび、少しだけ表情を曇らせた。


 アルドは隣に馬を寄せる。


「きつかったら言えよ」


「うん」


「無理するな」


「アルドもね」


 返されて、アルドは言葉に詰まった。ルシアンは少しだけ笑った。その笑みは弱かったが、確かにそこにあった。


 少し後ろでは、バルトがルカに何かを話していた。


「いいか、ルカ。完全復活した俺様の拳というのはな、まず構えから違う」


「はい」


「こう、どっしりと構える。大地を踏む。すると土が応える」


「はい」


「そこに炎を乗せる」


「はい」


「つまり最強」


「説明が雑です」


 ルカの真顔の返しに、ノルが吹き出した。


「ルカ、よく言った」


「おいノル! 今のは感動するとこだろ!」


「どこに?」


「全部だ!」


 セレスが呆れたように笑い、ゴードが低く喉を鳴らした。エディンは馬上でゆったりと笑っている。


「バルトちゃん、元気なのはいいけど、着く前に疲れないでねぇ」


「姐さんまで!」


「おねぇさんは心配してるのよぉ」


「心配の仕方が軽いんだよな!」


 少しずつ、いつもの第一部隊が戻っていく。悲しみが消えたわけではない。ロアンのことも、戦争の煙も、誰の胸からも消えていない。


 それでも、バルトの声がある。


 ノルの雑なツッコミがある。ルカの真面目すぎる返事がある。セレスの笑いがあり、ゴードの静かな気配があり、エディンの飄々とした声がある。


 アルドは前を向いた。救われるというのは、忘れることではないのかもしれない。抱えたまま、もう一度歩けるようになることなのかもしれない。


         ◇


 村に着いたのは、夕方に近い時刻だった。かつて家屋が並んでいた場所は、黒く焼けていた。


 屋根は落ち、壁は崩れ、井戸の周りには灰が積もっている。風が吹くたび、焦げた木片が小さく転がった。人の声はない。


 家畜の鳴き声もない。わずかに生活の匂いだけが、焼け跡の中に薄く残っている。ルシアンが口元を押さえた。


「ここが……」


「戦争……か……」


 アルドが低く言った。ゴードが周囲を見回す。


「足跡は多い。国軍と避難民、それに痕跡から見て共和国兵のものも混じっているな」


 ノルは膝をつき、灰の中に残った靴跡を見た。


「新しいのもある。昼間、誰か来てるね」


「残留民か、国軍の回収班か」


 レイスが周囲を確認する。


「日没まで時間がない。残留者確認を優先する。ルカ、ノル、高所を見ろ。ゴードさん、セレスは西側。バルト、エディンさんは東。アルドとルシアンは中央を確認」


「了解!」


 隊員たちが散る。焼けた家屋の間を歩くたび、足元で炭が砕けた。アルドは村の中央へ向かった。


 井戸のそばに、小さな玩具が落ちていた。焦げて半分だけになった木彫りの馬。アルドはそれを見て、しばらく動けなかった。


「アルド」


 ルシアンがそっと声をかける。


「大丈夫だ」


 答えた直後、アルドは奥歯を噛んだ。ルシアンは何も言わず、その横へ一歩だけ近づく。


 それでも進むしかない。


 村の奥には、少し広い墓地があった。木の柵は倒れ、いくつかの墓標が砕けている。地面は爆風か何かで抉られ、土が不自然に掘り返されていた。


 アルドは眉を寄せた。


「……ひどいな」


 ルシアンは何も言わなかった。言えなかったのだろう。その時、風が止まった。レイスが顔を上げる。


「アルド」


「ああ」


 空気が変わった。焼け焦げた村の中に、別の匂いが混じる。湿った土。


 獣の息。夜の底から這い上がるような、不快な気配。ノルの声が飛んだ。


「北側! 来る!」


 崩れた家屋の影から、低い唸り声が響いた。最初に現れたのは、狼に似た低級夜骸だった。


 ただし、普通の狼ではない。肩から木の根のような筋が伸び、背の毛は焦げた藁のように逆立っている。口の奥には、黒い泥のようなものが溜まっていた。


 さらに二体。低級が三体。その後ろ、墓地の崩れた柵の向こうに、大きな影が二つ見えた。


 片方は、猛禽と獣を無理に繋ぎ合わせたような姿をしていた。翼に見えるものは骨と皮でできており、羽ばたくたびに灰が舞う。


 もう片方は、鹿のような角と、虎に似た胴を持っている。首の片側だけが異様に膨らみ、そこから複数の細い口が開いていた。中級夜骸、二体。


 レイスの目が細くなる。


「低級三、中級二」


「現地調査にしては豪華だね」


 ノルが銃を構える。レイスは一瞬だけ、王都の方角を思った。ローグレスは、この規模を読んでいたのか。


 ただの廃村調査ではない。初めから、ここで何かが起こると見ていた。


「流石だな」


 レイスは小さく呟いた。


「何が?」


 アルドが剣を抜く。


「なんでもない。来るぞ」


 中級の一体が、咆哮した。その声に合わせて、地面の灰が巻き上がり、鋭い灰の刃となって前方へ飛んだ。


「散開!」


 アルドが叫ぶ。灰の刃が焼け跡を裂いた。


 ゴードが大盾を構え、ルシアンの前に出る。盾に灰刃がぶつかり、甲高い音を立てて砕けた。


「重いな」


 ゴードが低く言う。


「防げます?」


 ルシアンが問う。


「防ぐ」


 短い答えだった。低級三体が前へ出る。ただ突っ込んでくるだけではない。


 三体が横に広がり、中級二体の前を塞ぐように動いた。


「前衛かよ!」


 バルトが拳を鳴らす。


「上等だ! 完全復活の俺様が――」


 言い終わる前に、狼型の低級が跳んだ。速い。バルトは大地魔法で拳を強化させる。


「大地弐式 砕岩拳《さいがんけん》!」


 拳が低級の顎を打ち上げた。骨の砕ける音。低級が宙に浮く。


 だが、倒れない。


 空中で体を捻り、背中から伸びた根のような筋を鞭のように振った。


「ちっ!」


 バルトの頬が浅く裂ける。


「バルト!」


「軽い!」


 バルトは笑った。


「この程度で止まる俺様じゃねぇ!」


 アルドは剣に炎を纏わせた。


「火炎壱式 炎刃《えんじん》!」


 炎の刃が夜骸の前脚を斬る。低級がよろめいた。そこへノルの弾丸が飛ぶ。正面ではない。


 崩れた井戸の石に当たり、跳ねた弾が夜骸の側面へ突き刺さる。


「横、空いた!」


「もらう!」


 ルカが地面を蹴った。


 地面を蹴って一気に距離を詰める。双銃を抜き、低級の顔面へ連射。弾丸が眼窩に食い込み、夜骸が仰け反る。


 ルカはそのまま短剣を抜き、敵の肩に突き立てた。足で柄を蹴り込む。刃が深く沈んだ。


 だが、後方の中級が首を震わせた。


 複数の細い口から、黒い音が漏れる。次の瞬間、地面から黒い棘が突き出した。


「ルカ、下!」


 セレスが叫ぶ。水流魔法が地面を滑り、ルカの足元を押し流した。ルカの体が横へずれ、黒い棘は空を突く。


「助かりました!」


「油断しない!」


 セレスの腕にも、灰刃でできた浅い傷がある。


 それでも動きは止まらない。


 レイスが雷を纏い、低級の一体へ斬り込む。剣が通る。


 だがその瞬間、猛禽型の中級が翼を振った。


 灰混じりの風が渦になり、レイスの視界を奪う。


「鬱陶しい」


 レイスは舌打ちし、旋風魔法で視界を裂いた。そこへ低級が横から噛みつく。レイスは蹴りで距離を作ったが、牙が袖を裂き、腕に血が滲んだ。


「レイス!」


「軽傷だ。前を見ろ」


 アルドは中級へ向かおうとした。


 だが低級二体が進路を塞ぐ。


 まるで後ろを守るように。中級はその背後から骸技だけを放ってくる。低級が前衛。


 中級が後衛。夜骸にしては、嫌な動きだった。


「こいつら、やりにくいな!」


 アルドが剣を構える。


「中級を落とさないと削られる」


 レイスが言う。


「分かってる!」


「なら、おねぇさんが道を開けましょうか?」


 エディンがふわりと前へ出た。走ったようには見えなかった。


 だが、気づけば低級の側面にいる。


 藤色の髪が灰の中で揺れた。


「たまには、おねぇさんも働かないとねぇ」


 エディンは笑っていた。いつものように、飄々と。低級がエディンへ向かって爪を振る。エディンは半歩だけ身を引いた。本当に半歩だけだった。


 爪が隊服の前を掠める。掠めたはずなのに、布は裂けていない。エディンの指先に、水の薄膜が光った。次の瞬間、低級の足元が滑る。


 体勢が崩れたところへ、エディンの踵が静かに入った。蹴った、というより置いたような動きだった。それだけで低級の巨体が横へ流れる。


 ノルの射線が開いた。


「ノルちゃん、今よぉ」


「分かってる!」


 ノルが撃つ。弾丸は低級の開いた口へ吸い込まれた。低級が大きく仰け反る。エディンはすでにそこにいない。灰刃が飛んでくる。


 エディンは焼け落ちた柱を足場に、軽く体を浮かせた。風が足元を撫でる。灰刃が下を通り過ぎる。


「危ないわねぇ」


 声は緩い。


 だが動きには無駄がなかった。


 エディンは着地と同時に、大地魔法で崩れた石片を跳ね上げる。石片は中級の視界を遮り、その隙に雷の小さな閃きが走った。雷は中級を倒すほどではない。


 ただ、翼の動きを一瞬だけ止めた。


「アルドちゃん」


 エディンが振り返らずに呼ぶ。


「道、開いたわよぉ」


「助かります!」


 アルドが駆けた。レイスが横につく。


「合わせろ」


「分かってる!」


 二人が低級の間を抜ける。中級が咆哮し、黒い棘を前方へ放つ。ゴードが盾を投げるように前へ出した。棘が盾に突き刺さる。


 その一瞬、ルシアンの旋風がアルドの背を押した。


「アルド!」


「行く!」


 アルドは跳んだ。炎を纏った剣が、猛禽型中級の翼の付け根へ振り下ろされる。


「火炎弐式 炎牙《えんが》!」


 炎が牙の形に裂け、肉と骨を噛み砕いた。中級が絶叫する。翼が落ちる。


 だがもう一体が、複数の口を開いた。


 黒い音が重なる。今度は全方位へ棘が走った。


「防御!」


 レイスが叫ぶ。ゴードが盾を構え、ルシアンが水流の膜を重ねる。セレスも反対側から水壁を張った。


 棘が防御を叩く。いくつかが抜けた。ノルの肩を掠める。ルカの太腿に浅く刺さる。バルトの腕にも傷が走った。


「痛ってぇな!」


 バルトが吠える。


「お返しだ!」


 大地魔法で硬化されたバルトの拳に炎が膨れ上がる。火と土。重さと熱。


「大炎弐式 熔拳《ようけん》!」


 赤熱した岩が拳を覆う。バルトはその重さごと低級の胸へ叩き込み、硬い外皮を砕いた。熱が割れ目から内部へ食い込む。


 低級の体が崩れた。


「一体!」


 ルカが叫ぶ。


「二体目も落とす!」


 ルカは痛む足を無視して跳んだ。ノルの弾丸が低級の脚を撃ち抜く。セレスの水が足場を滑らせる。


 ルカが短剣を首元へ突き立て、双銃を至近距離で撃ち込んだ。二体目が倒れる。残る低級が暴れる。


 レイスが雷を纏わせた剣でその動きを止め、アルドが炎で斬り伏せた。前衛が消えた。中級二体が露出する。


 猛禽型は翼を失い、地面で暴れている。角を持つ中級はなおも口を震わせ、骸技を放とうとしていた。


「今だ!」


 アルドの声に全員が動く。ゴードが盾で猛禽型を押さえる。バルトがその頭部へ拳を叩き込む。


 セレスが水流で足元を封じつつ短剣で腱を切る。ノルの弾丸が角の中級の口を一つ潰す。ルカが背後へ回り、短剣を突き刺す。


 レイスの雷が、その短剣を伝って中級の体内へ走った。中級が硬直する。最後に、アルドの炎が奔った。


「火炎弐式 炎牙!」


 炎の牙が中級の首を断つ。巨体が倒れた。残る猛禽型が最後の咆哮を上げる。灰が舞う。視界が白く濁る。


 その中を、エディンが歩いていた。その手には彼女がいつも背負っている大剣があった。エディンはまるで風の薄い道を知っているように、灰刃の間を抜けていく。


 傷一つない。歩いているように見えるのに異様に速い。汚れもほとんどない。


「おねぇさん、服が汚れるのはあんまり好きじゃないのよねぇ」


 軽い声。猛禽型の前に立つと大剣を一度だけ振るう。同時に中級夜骸の胴体が二つに別れる。


 戦闘が終わった。


         ◇


 誰も、無傷ではなかった。


 一人を除いて。


「エディンさん、怪我は?」


 ルシアンが治療道具を手に駆け寄る。エディンはにこりと笑って、袖をひらひらさせた。


「おねぇさんは平気よぉ。みんなを見てあげて」


「……本当に大丈夫ですか?」


「本当に」


 ルシアンは少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに他の隊員へ向かった。ノルの肩。ルカの太腿。


 レイスの腕。バルトの頬と腕。セレスの手首。


 ゴードの肩にも、盾越しの衝撃で青痣ができていた。アルドも脇腹に浅い裂傷がある。軽傷ばかりだ。


「低級が壁になって、中級が後ろから撃ってくるとはな」


 アルドが息を吐く。


「普通に面倒だったね」


 ノルが肩を押さえながら言う。


「面倒で済むならいい」


 レイスは腕の傷を見た。


「第二部隊だけなら大きな被害が出ていた可能性がある」


「ローグレスさん、すごいですね」


 ルカが素直に言った。レイスは王都の方を見た。


「ああ」


 短い返事だった。だがその声には、確かな信頼と感心があった。


「流石だ」


         ◇


 夜が明けるまで、第一部隊は廃村に残った。残留民はいなかった。焼け跡の確認を終え、周辺に他の夜骸の気配がないことを確かめる。


 朝になる頃には、空が薄い灰色に変わっていた。ルシアンとセレスが中心になって、全員の傷の手当てをした。ゴードは黙って包帯を巻かれ、ノルは消毒に顔をしかめ、ルカは「痛くないです」と言った直後に肩を跳ねさせた。


 バルトは頬に貼られた布を指でつついている。


「俺様の美貌に傷が」


「元からそういう顔でしょ」


 ノルが言う。


「おい!」


 ルカが笑いを堪え、セレスが肩を震わせる。ルシアンも、今度はちゃんと笑った。アルドはそれを見て、少しだけ息を吐く。


 ロアンのことは消えない。戦争の煙も消えない。この焼けた村も、元には戻らない。


 それでも、朝は来る。


 手当てをして、休んで、また歩き出す時間が来る。昼頃、第一部隊は帰路についた。焼け落ちた村を背に、王都へ向かう道を進む。


 馬の蹄が乾き始めた土を叩いた。前ではバルトがまだ何か騒ぎ、ノルが雑に返している。ルカが横から口を挟むと、セレスが笑った。


 ルシアンは少し疲れた顔をしていたが、隣を進むアルドに気づくと、小さく頷く。アルドも頷き返した。蹄が道を叩くたび、焼けた村が少しずつ遠ざかっていく。


 アルドは仲間の声を聞きながら、王都へ続く道を進んだ。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。