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泥の前線

 墓標の前に、バルトが立っていた。朝はまだ浅い。王都の空には薄い雲がかかり、石畳も、並んだ墓標も、どこか湿った色をしていた。


 白天還教《はくてんかんきょう》の墓地は静かだった。遠くで墓守が落ち葉を掃く音がしている。風が吹くたび、淡い青の小さな祈り布が墓標の脇で揺れた。


 バルトは何も言わなかった。いつものように胸を張ることもない。誰かをからかうこともない。俺様、と笑う声もない。


 ただ、黒い隊服の背中だけがそこにあった。広い背中だった。大きな拳を持ち、土や炎を纏い、低級の夜骸《やがい》程度なら真正面から殴り砕く男の背中だった。


 けれどその朝、その背中はひどく静かだった。墓標の前には、花が一輪だけ置かれていた。不器用に茎を切られた、赤い花だった。


 バルトの手には、まだ土が少しついている。花を挿す時に触れたものか、墓標の根元を整えたものかは分からなかった。墓標に刻まれた文字を、彼はじっと見ていた。


 指先が、ほんの一度だけ動く。触れようとして、触れなかった。代わりに、拳が握られる。握られて、緩む。それだけだった。


 泣いているのか。怒っているのか。それとも、ただ空っぽになっているのか。


 近くに誰もいなかった。バルトは、それを望んだのだろう。仲間に見せる顔ではない。弟が兄に見せる背中でもない。


 戦争で誰かを奪われた人間が、墓の前で立ち尽くしているだけだった。やがて、風が少し強く吹いた。赤い花が揺れる。


 バルトはゆっくりと息を吐いた。


「……行ってくる」


 声は、ほとんど風に消えた。墓標は何も答えない。死者は、何も返さない。


 それでもバルトはしばらくそこに立ち続けた。背を向けるまでに、長い時間がかかった。


         ◇


 東部前線の朝は、泥の臭いがした。雨は降っていない。


 それでも塹壕の底には濁った水が溜まり、兵士たちの靴底を重く濡らしていた。踏みしめるたびに、ぐちゃり、と嫌な音がする。土塁の向こう側から、低い振動が響いた。


「伏せろ!」


 誰かが叫ぶ。その声が終わるより早く、空が赤く裂けた。共和国軍の砲撃魔法だった。


 高地に構築された魔法砲撃陣地から、巨大な火球が尾を引いて飛来する。火球は王国側の前線土塁に叩きつけられ、爆ぜた。土が跳ねる。


 石片が飛ぶ。防御魔法の淡い膜が一瞬だけ浮かび、火と衝撃を受け止める。だが受け止めきれなかった熱が、塹壕の内側へ流れ込んだ。


「ぐあっ!」


 若い兵士が腕を押さえて倒れた。袖が焼け、皮膚が赤く爛れている。隣の兵士がすぐに肩を掴んだ。


「立て! 治療所まで下がれ!」


「まだ、行けます!」


「腕が焼けてる奴が何を行くんだよ!」


 怒鳴りながらも、声は震えていた。その上を、次の魔法弾が通り過ぎる。


 黄色い雷の槍が空を裂き、土塁の外側へ突き刺さった。大地が砕け、乾いた土が湿った泥と混ざり合う。王国軍の兵士たちは、塹壕の中で身を低くしていた。


 ここでは、一人の突出した力だけで戦線は動かない。土嚢を積み、負傷者を運び、途切れた伝令を繋ぎ、隣の兵が撃てるように頭を上げる。


 ここにいるのは、そうして前線を支える国軍の兵士たちだった。魔法を使う。剣も使う。


 槍も使う。けれどそれは、英雄譚のような美しい戦いではなかった。


 部隊単位で魔法弾を撃ち、土塁の影に隠れ、泥に足を取られながら前へ出る。防御魔法を張る者が声を枯らし、後方の魔法砲撃班が刻印石に魔力を流し込む。誰か一人が強くても、戦線は動かない。


 誰か一人が死んでも、戦線は止まらない。それが戦争だった。


「第一防御膜、薄いぞ!」


「魔力切れです!」


「交代しろ! 後列、前へ!」


 塹壕の奥で、隊長格の男が叫んでいた。声は嗄れている。何度も同じ命令を出し続けた声だった。


 背後では、伝令兵が泥の中を走っている。胸には筒状の伝令入れ。腰には短剣。顔は泥と煤で汚れ、まだ十代にも見えた。


「東側土塁、損傷大! 共和国軍、歩兵前進の兆候!」


「魔法弾幕を厚くしろ! 槍隊、準備!」


 指示が飛ぶ。塹壕の縁に兵士たちが並んだ。杖を持つ者。剣を持つ者。槍を持つ者。


 全員が同じように震えていた。恐怖で震えている者もいる。寒さで震えている者もいる。怒りで震えている者もいる。


 それでも、誰もそこを離れなかった。


 離れれば、後ろの村に火が届く。離れれば、避難中の民に共和国軍が追いつく。離れれば、夜までに負傷兵を下げきれない。


 それを知っているから、兵士たちは泥の中に踏みとどまっていた。土塁の向こうから、共和国軍の号笛が鳴った。低く、短い音。


 次いで、地面を叩く足音が近づいてくる。


「来るぞ!」


 王国軍の兵士が叫んだ。


「撃て!」


 塹壕から、一斉に魔法弾が放たれた。火炎《かえん》の弾。水流《すいりゅう》の刃。旋風《せんぷう》の槍。雷荷《らいか》の閃き。


 大地《だいち》の礫。色の違う魔法が、汚れた朝の空を走る。向こう側からも魔法が返ってきた。


 共和国軍の魔法は、王国軍より整っていた。


 兵士個人の華やかさはない。だが、列が乱れない。撃つ間隔が揃っている。前列が膝をつき、後列がその肩越しに魔法を放つ。さらに後ろから、魔法砲撃班が広範囲の弾幕を重ねる。


 効率的に人を殺す。冷たいほどに。王国兵の一人が、土塁から顔を出した瞬間、肩を撃ち抜かれた。


 後ろに倒れ、泥水の中に背中から落ちる。


「ラウル!」


 隣の兵士が叫ぶ。


 だが返事はない。


 呼ばれた兵士は目を見開いたまま、空を見ていた。口が動いている。母を呼んでいるのか、神を呼んでいるのか、誰にも聞こえなかった。


「引っ張れ!」


 二人がかりで彼を塹壕の奥へ引きずる。その足が泥に沈む。靴が片方脱げた。


 誰も拾えなかった。


 拾っている余裕がなかった。


「撃て! 止めろ!」


 隊長の声が飛ぶ。王国軍の魔法弾がさらに厚くなる。


 火球が共和国兵の列に落ちた。悲鳴が上がる。人影が倒れる。倒れた体を、後続の兵士が踏み越えていく。


 止まらない。共和国兵も人間だった。恐れている者もいる。血を流している者もいる。


 だが、隊列は崩れない。


 軍靴が泥を蹴り、銃を持つ兵が後列から補助射撃を放つ。銃声は魔法弾の轟きに比べれば小さい。それでも、金属弾は防御魔法の薄い隙間を抜け、王国兵の頬を裂いた。


「銃だ! 頭を下げろ!」


 叫びが遅れた兵士が一人、額を押さえて崩れた。周囲が一瞬だけ固まる。次の瞬間、別の兵士がその体を蹴るようにして横へずらした。


「詰めろ! 穴を空けるな!」


 声が裏返っていた。仲間の死体を蹴りたかったわけではない。


 だが、そこが空けば敵が入る。


 敵が入れば、さらに死ぬ。だから足を使った。だから後で吐く。


 それでも今は、戦うしかなかった。


 共和国軍の前列が、王国軍の外縁土塁へ到達した。


「白兵戦、来るぞ!」


 王国兵が剣を抜いた。土塁を越えて、共和国兵が飛び込んでくる。


 最初に入ってきた兵士は、短い槍を構えていた。泥に足を滑らせながらも、突きを放つ。王国兵が剣で受ける。金属がぶつかり、火花が散った。


 至近距離で、火炎魔法が爆ぜる。爆発ではない。


 掌に集めた小さな火を、相手の胸元へ叩き込むだけの粗い魔法だった。それでも布と皮膚を焼くには十分だった。共和国兵が呻く。


 だが倒れる前に、腰の短剣を抜いて王国兵の腿を刺した。


「ぐっ、あああ!」


 王国兵が膝をつく。そこへ別の共和国兵が踏み込む。槍が下がる。


 その瞬間、横から水流魔法が叩きつけられた。共和国兵の体が壁へ押しつけられ、泥水の中に落ちる。


「立て!」


 水流魔法を放った王国兵が叫ぶ。腿を刺された兵士は、歯を食いしばって立とうとした。立てなかった。


 彼は自分の足を見た。血が流れていた。温かいはずの血は、すぐに泥水と混ざって色を失った。


「立てって言ってんだろ!」


「無理だ!」


「無理でも立て!」


 怒鳴っている兵士の目にも涙が浮かんでいた。怒鳴らなければ、手が止まる。手が止まれば、目の前の人間が死ぬ。


 もしかすると、自分も死ぬ。だから怒鳴る。だから泣く暇もない。


 塹壕の上では、王国軍の魔法砲撃班が反撃を始めていた。刻印石を囲む四人の兵士が、両手を石に置いて魔力を流し込む。石に刻まれた紋が赤く輝き、そこから太い火柱が空へ伸びた。


「座標、北東高地!」


「角度、二十七!」


「撃て!」


 火柱が曲がり、遠くの高地へ落ちる。遅れて、爆発音が響いた。共和国軍の砲撃陣地の一角から黒煙が上がる。


 王国兵たちから短い歓声が上がった。


 だが、それはすぐに潰された。


 別の高地から、共和国軍の砲撃魔法が返ってきたからだ。黄色い雷光が降る。それは火球ではなかった。


 雷荷系統の広域魔法だった。土塁の上で弾けた瞬間、空気そのものが震える。防御魔法を張っていた兵士が目を見開き、鼻血を垂らした。


「防御膜、維持しろ!」


「無理です! 魔力が――」


 言い切る前に、防御膜が割れた。雷の余波が塹壕へ流れ込む。兵士たちが倒れた。体が痙攣する。声にならない声が泥の中で跳ねる。


 エルヴィオが参謀室で紙に記すなら、それは「雷荷砲撃による損耗」となるのだろう。戦死何名。重傷何名。


 軽傷何名。


 だが、塹壕の中では数字ではなかった。


 焼けた匂い。泥水に落ちた歯。震える指。呼吸の音。助けてくれと伸ばされた手。


 その手を掴めず、敵へ剣を向けなければならない兵士の顔。それが戦争だった。


         ◇


「第三塹壕、持ちません!」


 伝令兵が司令壕へ飛び込んだ。


 顔は真っ青だった。肩で息をし、片膝をつく。泥が床に落ちた。


 司令壕の中央には、簡易地図が広げられている。東部方面軍の前線指揮官たちが、その周囲に集まっていた。地上の砲撃音が土壁を震わせるたび、地図の上の駒がわずかに揺れる。


「共和国軍は?」


「北東高地からの砲撃継続! 歩兵二個中隊規模が第三塹壕外縁に到達! 王国側の防御膜が一部崩壊しています!」


「予備隊を出す」


「予備隊は第二補給路の護衛に回っています!」


「なら第四から回せ!」


「第四も負傷兵の搬送で手が足りません!」


 指揮官の一人が机を叩いた。


「何もかも足りんではないか!」


 誰も答えなかった。


 足りない。それが答えだった。兵が足りない。魔力が足りない。治療術士が足りない。


 荷馬車が足りない。乾いた包帯が足りない。眠る時間が足りない。祈る時間さえ足りない。


「第一塹壕の一部を薄くする」


 前線指揮官が言った。


「そこから第三へ回せ」


「第一が抜かれます」


「今第三が抜かれれば、南側の避難路が撃たれる」


「第一を薄くすれば、共和国軍がそこを突きます」


「突かれる前に第三を持ち直す」


 無茶だった。だが戦場には、無茶と不可能しか残らない時がある。伝令兵が顔を上げた。


「命令を」


 指揮官は息を吸った。短い沈黙。その間にも、外で誰かが死んでいる。


「第一塹壕より二個小隊を第三へ回す。防御魔法班を優先。槍隊は残せ。第二補給路の護衛には手をつけるな。避難民を止めるな」


「了解!」


 伝令兵が立ち上がる。その背中へ、指揮官が声をかけた。


「走れるか」


 伝令兵は振り返らなかった。


「走ります」


 それだけ言って、泥の中へ戻っていった。


         ◇


 第三塹壕では、すでに戦線という言葉が形を失っていた。敵味方が近すぎた。魔法弾幕は撃てない。


 撃てば味方ごと巻き込む。だから剣が鳴った。槍が突き出された。拳が飛んだ。


 近接魔法が、肉と布と泥の距離で炸裂した。王国兵の一人が、共和国兵と組み合っていた。


 互いに兜はずれ、顔は泥だらけだった。どちらも若い。どちらも泣きそうな顔をしている。


 王国兵が相手を押し倒そうとする。共和国兵が腰の短剣を抜く。王国兵はその手首を掴んだ。二人は泥の中でもつれた。


「離せ!」


「お前が離せ!」


 言葉は通じる。


 だが話が通じない。


 死にたくない。殺されたくない。ただそれだけだった。共和国兵が膝を入れる。王国兵の息が詰まる。


 短剣が少しずつ近づく。刃先が王国兵の首元へ向く。その時、横から別の王国兵が剣を振り下ろした。


 共和国兵の動きが止まる。王国兵は泥の中に転がったまま、何度も息を吸った。助けた兵士は、彼に手を貸さなかった。


 貸せなかった。すぐ次の敵が来ていた。王国兵は自力で起き上がり、泥に落ちた剣を拾った。


 指が震えている。剣の柄を握っているのか、しがみついているのか、自分でも分からなかった。少し離れた場所で、治療術士が負傷兵の腹に手を当てていた。


 淡い水流の光が傷口を覆っている。


「止まれ、止まれ、止まれ……!」


 治療術士は祈るように呟いていた。血は止まらなかった。負傷兵の目は、治療術士ではなく空を見ている。


「母さん」


 かすれた声だった。


「母さん、畑……水……」


「喋るな!」


「麦……まだ……」


「喋るなって言ってるだろ!」


 治療術士の声が震えた。負傷兵の手が空を掴む。何かを握ろうとして、握れずに落ちた。


 治療術士は、しばらくその手を見ていた。すぐ隣で別の兵士が叫ぶ。


「こっちもだ! 腹をやられた!」


 治療術士は顔を上げた。涙を拭う暇はない。母を想う兵士は開かれたままの目で天を見つめていた。


 彼は次の負傷兵へ手を伸ばした。それが、戦場の治療だった。


         ◇


 昼前、王国軍は第三塹壕を維持した。維持した、という言葉だけなら簡単だった。


 だが、そのために外縁土塁は半分崩れた。


 水場へ続く道は砲撃で抉れた。第三野戦治療所は負傷兵で溢れ、包帯を洗う水すら濁り始めていた。王国軍の旗は、まだ立っている。


 泥に汚れ、端が焼け、布地に穴が空いている。


 それでも立っている。


 兵士たちは、それを見上げて息をしていた。勝ったわけではない。押し返したわけでもない。


 ただ、今日の午前を生き残っただけだった。共和国軍も退いていない。


 北東高地には、まだ煙が上がっている。砲撃陣地の一角は潰した。だが別の砲台が動いている。


 向こうもまた、兵を失っていた。担架が運ばれている。死体が布で覆われている。


 命令を待つ兵士が、泥の中で座り込んでいる。国が違うだけだった。着ている軍服が違うだけだった。


 死ぬ時の顔は、同じだった。王国軍の塹壕で、一人の兵士が泥だらけの手で小さな祈り紐を握っていた。白天還教のものだった。


 唇が動いている。声は出ていない。祈っているのか、家族の名を呼んでいるのか、本人にも分からなかった。


 近くで別の兵士が笑っていた。壊れたような笑いだった。


「生きてる」


 彼は何度も言った。


「俺、生きてる。生きてるぞ」


 誰も返事をしなかった。


 返事をする力がなかった。その時、遠くで号笛が鳴った。王国軍のものではない。共和国軍のものだった。


 塹壕の中にいた兵士たちの顔が、一斉に上がる。また来る。


 誰もがそう思った。


 だが、共和国軍は前進しなかった。


 代わりに、北東高地のさらに奥から、ゆっくりと黒煙が上がった。魔法砲撃の煙ではない。もっと低く、広く、湿った煙だった。


「何だ……?」


 誰かが呟く。前線指揮官が遠眼鏡を覗いた。彼の顔から、色が引いた。


「後方集落だ」


「え?」


「共和国軍が、後方集落へ火を入れた」


 塹壕の中に沈黙が落ちた。集落には、まだ人がいた。避難途中の老人。荷造りの遅れた家族。家畜を捨てられなかった者。


 墓を置いていけなかった者。


「第三を抜けなかったから、後ろを焼く気か」


 兵士の一人が低く言った。その声には、怒りよりも先に、理解できないという震えがあった。前線指揮官は唇を噛んだ。


「救援を出す」


「兵が足りません」


「それでも出す」


「今出せば、第三が薄くなります」


「分かっている!」


 叫んだ後、指揮官は目を閉じた。彼も分かっていた。ここを薄くすれば、共和国軍に突かれる。


 だが後方集落を見捨てれば、民が焼ける。


 どちらを選んでも、誰かが死ぬ。それを選ぶために、彼はそこにいた。


「防御班を残せ。動ける剣兵と水流持ちを集めろ。火を抑える。民を出す。無理に交戦するな」


「了解!」


 兵士たちが動き出した。疲れ切っている。足元はふらついている。


 それでも動く。


 塹壕の外へ出る兵士の一人が、泥の中に落ちていた片方の靴を拾った。朝、誰かが脱げ落とした靴だった。彼はそれを見つめた。


 誰のものか分からなかった。生きている者のものか、死んだ者のものかも分からなかった。数秒だけ迷い、彼は靴を土塁の端に置いた。


 持っていけない。


 でも、踏み潰せなかった。


 それだけだった。


         ◇


 集落へ向かう道は、煙で霞んでいた。王国兵たちは低く身をかがめながら走る。泥。


 煙。灰。遠くから聞こえる泣き声。家屋の屋根が燃えていた。水流魔法を使える兵士たちが前へ出る。


「水流壱式 流壁《りゅうへき》!」


 水の膜が燃える家の前に広がる。火勢が一瞬だけ弱まった。


「中に人がいる!」


 叫びを聞いた兵士が扉へ駆け寄る。扉は熱で歪んでいた。剣で叩き割る。中から煙が噴き出した。


「子供だ!」


 兵士が咳き込みながら中へ飛び込む。すぐに、小さな体を抱えて出てきた。子供は泣いていなかった。


 泣く力がないのか、煙を吸いすぎたのか、ぐったりとしていた。


「治療班!」


「後ろへ!」


 別の兵士が子供を受け取る。その瞬間、集落の外縁から魔法弾が飛んできた。共和国兵がいた。


 火を放った部隊の一部が、まだ周辺に残っていたのだ。


「伏せろ!」


 火球が地面を抉る。子供を抱えた兵士が倒れ込む。背中で爆風を受けた。


 それでも、子供は離さなかった。


「交戦するなと言われただろ!」


「撃たれて黙ってられるか!」


 王国兵が反撃する。旋風の刃が飛び、共和国兵の足元を裂いた。


 別の王国兵が煙に紛れて走り込み、槍で相手の杖を弾き飛ばす。至近距離で殴り合いになった。魔法も、軍服も、国家も関係ない。ただ目の前の相手を倒さなければ、自分の後ろにいる子供が死ぬ。


 集落の中央では、老婆が地面に座り込んでいた。燃える家を見ている。


「行きましょう!」


 兵士が腕を掴む。老婆は動かなかった。


「あそこに、あの人が」


「誰ですか!」


「墓が」


 兵士は一瞬、言葉を失った。家の裏手に、小さな墓があった。木の柵に囲まれた、家族の墓だった。火はそこにも迫っている。


「今は命が先です!」


「でも、あの人を置いて」


「生きてください!」


 兵士は叫んだ。怒鳴った。怒鳴らなければ、老婆を引きずれなかった。


「生きてください! 頼むから!」


 老婆は泣いていた。声を出さずに泣いていた。兵士はその体を抱え上げる。軽かった。あまりにも軽かった。


 背後で、家が崩れた。墓の柵も、炎に呑まれた。老婆の手が空を掴む。


 何も掴めない。


 兵士は走った。泣く暇はなかった。


         ◇


 夕刻、前線に雨が降り始めた。細い雨だった。火を消すには遅すぎる雨だった。


 泥はさらに深くなり、負傷兵を運ぶ担架の足元を奪った。兵士たちは無言で担架を押し上げ、滑り、また立ち上がった。第三塹壕の旗はまだ立っている。


 後方集落からは、半数ほどの民を逃がせた。半数ほど。それが報告の言葉だった。


 救えた者の数と、救えなかった者の数を、同じ口で言わなければならない。前線指揮官は泥だらけの手で報告書を受け取った。しばらく読んで、紙を閉じる。


「夜までに負傷者を下げろ」


「全員は無理です」


「分かっている。動かせる者からだ」


「共和国軍が再攻撃してきた場合は」


「持たせる」


「どうやって」


 指揮官は答えなかった。答えがないからだ。西の空が暗くなっていく。雨雲の向こうで、夜が近づいていた。兵士たちはそれを知っている。


 昼の敵は共和国軍だ。


 だが夜には、別の恐怖がある。


「遺体回収班は」


「出ています。ただ、外縁の何名かはまだ」


「日没までに戻せ」


「敵の射線内です」


「それでもだ」


 指揮官の声は掠れていた。


「置いていくな」


 その命令に、誰も異を唱えなかった。合理だけなら、置いていくべきだった。生者を優先するなら、諦めるべきだった。


 だが王国軍の兵士たちは、泥の中へ戻っていった。撃たれるかもしれない。次の砲撃が来るかもしれない。


 それでも、死者を置いて夜を迎えることを、誰も簡単には選べなかった。雨が降る。泥が跳ねる。


 担架が軋む。遠くで共和国軍の号笛が鳴る。そして、雲の切れ間から、白い月が覗きかけた。


 王国兵の一人が、それを見上げた。泥と血で汚れた顔に、雨粒が落ちる。


「……まだ、夜になるなよ」


 誰に向けた言葉でもなかった。祈りですらなかった。ただ、疲れ切った人間の願いだった。月は何も答えない。前線の泥の上に、夜が降りてくる。


 王国と共和国の戦争は、まだ終わらない。

今回もお読みいただきありがとうございました。

引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。

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