王国と共和国
暗がりの中に、寝台が一つ置かれていた。窓はない。灯りも、壁に掛けられた小さな燭台が一つだけだった。
炎は揺れているのに、部屋の闇はほとんど薄まらない。まるでそこだけ、夜が壁の内側へ染み込んでいるようだった。寝台の上では、一人の青年が眠っていた。
胸は静かに上下している。顔には苦しみがない。その寝台を、夜より暗い外套を纏った人間たちが囲んでいた。
外套の一人が、懐から短いナイフを取り出した。刃は黒かった。
ただ黒いのではない。灯りを受けても、鈍くも光らない。炎の色さえ拒むような、吸い込まれるほど暗い刃だった。
その刃先が、眠る青年のこめかみに添えられる。青年は目を覚まさない。外套の者は、ほんのわずかに息を吸った。
そして、黒い刃を静かに沈めた。音はなかった。悲鳴もなかった。青年の胸が、一度だけ小さく上下する。それから、動かなくなった。
外套の一人が、燭台の炎を見た。
もう一人が、淡い青の棺を運び入れる。
月夜に照らされた海のような色をした棺だった。蓋には、月と海をかたどった白天還教の紋が刻まれている。文字はない。名もない。ただ、誰かが白き天へ還るための棺だった。
青年の体は、黒いナイフと共に棺へ納められた。これ以上、月に呑まれないように。これ以上、誰かを傷つけないように。
蓋が閉じられる。淡い青が、闇の中で沈んだ。その部屋には最後まで、青年の名を呼ぶ声はなかった。
◇
セリュヴェイン王国軍参謀室には、紙をめくる音だけが響いていた。
壁には東部国境一帯の地図が広げられている。山脈、街道、河川、補給路、砦、野戦治療所。赤と青の駒が幾つも置かれ、いくつかの地点には黒い印が打たれていた。
黒い印は、失われた場所を示す。砦。村。補給拠点。そして、墓地。
作戦参謀エルヴィオ中佐は、革表紙の報告書を手に、机の前で背筋を伸ばしていた。その向かいに座る老人は、セリュヴェイン王国軍参謀総長、クラウス大将である。
白髪混じりの短い髪。深く刻まれた皺。年齢の重さを感じさせる顔つきだが、その目だけは鈍っていない。地図を見つめる視線は静かで、冷えていた。
感情がないのではない。感情だけで兵を動かせば、兵が死ぬと知っている目だった。
「東部第二補給路、昨夜の時点で復旧率は六割。第三野戦治療所への搬送は継続中です。ただし、泥濘による荷馬車の遅延が出ています」
エルヴィオが淡々と読み上げる。
「共和国軍は、クレイダ街道北側の高地に魔法砲撃陣地を再構築。こちらの偵察班によれば、少なくとも三基の刻印砲台を確認しています。射程は王国側前線土塁の外縁まで届く見込みです」
「こちらの損耗は」
クラウスが短く問う。
「直近三日で、戦死百七十二。重傷四百二十六。軽傷者は集計中です」
「補充兵は足りるか」
「数だけならば」
エルヴィオは一瞬だけ言葉を切った。
「ただし、練度は落ちます」
クラウスは目を細めた。それは分かりきっていた答えだった。
セリュヴェイン王国軍。国軍。この国における昼の守りを担う軍である。
街道を守り、盗賊を追い、国境を固め、他国との戦争に立つ。軍務大臣の管轄にあり、王国の領土と民を守るために動く。夜骸を討つ王都討祓軍とは、根から違う。
王都討祓軍は王家直属の軍だ。王家の軍であって、国軍ではない。
国軍から要請はできる。協力もできる。だが命令はできない。
夜間作戦や、夜骸の危険が絡む戦場では、王都討祓軍の知見が必要になることもある。とりわけ第二部隊は、戦場に夜が落ちる時、国軍の作戦立案に顔を出すことがあった。
だが、それはあくまで夜骸のためだ。
国境で共和国軍とぶつかり、塹壕で泥を噛み、補給路を維持し、砦を奪い合うのは国軍の仕事だった。
「ガレス中将からの報告では」
エルヴィオは次の紙を開く。
「現戦線の維持は可能、とのことです。東部方面軍は、現地兵の士気も高く、国境村落からの志願補助も続いています」
「高い、か」
クラウスが呟いた。
「怒りで立っている士気は、長くは持たん」
「はい」
エルヴィオは否定しなかった。
「参謀室側の分析では、共和国軍が砲撃陣地をさらに南へ伸ばした場合、現戦線維持の負担は急激に増します。補給路の寸断、治療所への搬送遅延、民間人避難の停滞を考慮すると――」
その時だった。参謀室の扉が、荒く開いた。
「前線を下げるか?」
低く、太い声が室内を打った。
入ってきた男は大柄だった。軍服の肩には中将の階級章。顔には細かな傷がいくつも走り、短く刈った髪には灰が混じっている。
東部方面軍司令、ガレス中将。現場指揮官の頂点に立つ男だった。エルヴィオが姿勢を正す。
「ガレス中将」
「答えろ、エルヴィオ中佐。今、前線を下げると言おうとしたな」
「参謀室側の分析として、状況悪化時には検討が必要と申し上げるつもりでした」
「検討?」
ガレスの眉間に深い皺が寄る。
「現地の兵には、まだ戦える者がいる。村を焼かれた者がいる。墓を砕かれた者がいる。家族の骨すら拾えなかった者がいる。その者たちに、参謀室は何と言うつもりだ。勝つために下がれ、とでも?」
「必要ならば、そう言う」
クラウスが静かに答えた。ガレスの視線が、クラウスへ向いた。室内の空気が重くなる。
「クラウス大将」
「ガレス。怒鳴るために来たのなら、時間の無駄だ。座れ」
「座って聞ける話ならな」
「立ったままでも構わん。だが聞け」
クラウスは地図の上に置かれた黒い印を指した。
「ここが落ちれば、第三補給路は死ぬ。ここを砲撃で潰されれば、負傷兵は治療所へ届かない。ここで民間人避難が詰まれば、次に夜が来た時、どれだけの混乱が起きると思う」
「だから下がるのか」
「違う。下がらずに済む条件を確認している」
ガレスは歯を噛んだ。
「現場は持ちこたえている」
「知っている」
「兵は逃げていない」
「知っている」
「ならば、なぜだ」
ガレスの拳が震えていた。
「なぜ、ここで下がる話が出る。共和国軍に背を見せれば、あいつらはまた踏み込んでくる。あいつらは墓地を撃った。死者の眠る場所を撃ったんだぞ」
その言葉に、エルヴィオの指が紙の端を押さえた。クレイダ墓場災害。その名を知らぬ国軍兵はいない。
八年前のある日中、共和国軍の爆撃があった。国軍は大きな被害を受け、墓地も壊滅的な損傷を受けた。その夜、墓場に夜骸が現れた。
日中の爆音と衝撃によって、夜に夜骸が集まったのだ。祈りの場所が壊された。死者の眠る場所が踏みにじられた。
そして、生き残った者たちは、夜の地獄を見た。その災害を生き延びた者の中に、現在の黒豹にいる男が一人いる。ゴード。
彼の名は、国軍の中でも知られていた。墓場災害を生き延びた男。それは、英雄譚としてではなく、あの夜の凄惨さを語る傷跡として残っている。
「共和国側は、現在もあの砲撃を軍事上必要な攻撃だったと主張しています」
エルヴィオが言った。
「王国軍施設への攻撃であり、墓地への損害は副次的なものだった、と」
ガレスが鼻で笑った。
「副次的か」
その声には、憎悪よりも深い疲労が滲んでいた。
「あいつらにとっては、そうだろうな。王も持たず、議会だの合理だのを掲げ、軍部が国を動かす連中だ。死者への祈りも、葬送の意味も、何も分からん」
「共和国側から見れば」
エルヴィオは慎重に言葉を選んだ。
「我が国は宗教文化に縛られた王政国家です。墓地や葬送への配慮を軍事行動より優先することを、非合理と見る者も多い」
「だから撃っていいのか」
「いいとは言っておりません」
「ならば何だ」
「敵を知るための分析です」
ガレスがエルヴィオを睨む。若い作戦参謀は、その視線を受けても目を逸らさなかった。
「メルグラント共和国は、単なる野蛮な敵ではありません。軍事国家化しているとはいえ、彼らにも彼らの理屈がある。合理性、補給効率、国境線の安定、議会への成果報告。彼らはそれに従って動いています」
「死者を踏みにじる理屈など、俺は認めん」
「認める必要はありません」
クラウスが口を挟んだ。
「だが、理解はしろ。理解しなければ勝てん」
ガレスの表情が固まった。クラウスは続ける。
「怒りで剣を振るう兵は強い。だが怒りだけで補給路は繋がらん。怒りだけで治療所は動かん。怒りだけで避難民は守れん。共和国が合理で攻めてくるなら、こちらは怒りを抱いたまま合理で受けねばならん」
「墓を撃たれてもか」
「墓を撃たれたからだ」
クラウスの声が、わずかに低くなった。
「我々は死者を軽んじる国にはならん。だからこそ、生者を無駄に死なせるわけにはいかん」
参謀室に沈黙が落ちた。外では、伝令兵が廊下を走る音が聞こえている。戦争は机上だけにない。
地図の赤い線の向こうでは、今も兵が泥に膝を沈めている。砲撃魔法の煙を吸い、遠距離魔法の弾幕に身を伏せ、負傷した仲間を土塁の影へ引きずっている。そして夜が来れば、別の恐怖が口を開ける。
夜骸。戦場で死んだ者。墓地を壊された者。祈りを奪われた者。
何も知らない兵士たちは、それでもただ、夜を恐れる。
「王都討祓軍への追加要請は」
クラウスが問う。エルヴィオが別紙を確認する。
「第二部隊副隊長が、次回夜間作戦の立案協議に参加予定です。作戦本体には第二部隊の一部が同行する見込み。ただし、王都討祓軍側からは、主戦力としての投入ではなく夜骸対応および民間人保護支援であると明記されています」
「当然だ」
クラウスは頷いた。
「あれは王家直属の軍だ。国軍の穴埋めに使うものではない」
ガレスが苦い顔をする。
「現場の兵からすれば、黒豹でも巨象でも鉄狼でも、来てくれるだけで士気は上がる」
「士気を上げるために、指揮系統を混ぜるな」
「分かっている」
ガレスは吐き捨てるように言った。
「分かっているが、現場は綺麗事では回らん」
「綺麗事で回しているつもりはない」
クラウスは椅子からゆっくり立ち上がった。老人の体は大きくない。
だが立ち上がると、部屋の空気が変わった。
「ガレス。お前は前線を見ている。兵の顔を見ている。だから下がれと言われれば怒る。それは正しい」
クラウスは地図へ目を落とす。
「だが私は、王国全体を見ねばならん。補給を見て、治療を見て、避難を見て、次の一月を見て、次の冬を見ねばならん。ここで怒りに任せて戦線を伸ばし、補給が切れれば、兵は餓える。治療所が潰れれば、助かる者も死ぬ。民の避難が遅れれば、夜に何が起きるか分からん」
ガレスは何も言わなかった。言えなかったのではない。言えば、そこから先は感情だけになると分かっていた。
「前線を下げるのは敗北ではない」
クラウスが言う。
「だが、下げ方を誤れば敗北になる。共和国に押されたのではなく、こちらが選んで下がる形にせねばならん。防御陣地を整え、補給線を短くし、避難民を逃がし、夜間の危険区域を減らす。その上で、共和国軍の伸びた補給を叩く」
エルヴィオが素早く地図上に駒を置き直した。
「後退ではなく、誘引ですか」
「そうだ」
クラウスはガレスを見る。
「お前の兵に、無駄死にしろとは言わん。だが、怒りのために死ねとも言わん」
ガレスの拳が、ゆっくりと緩んだ。だが、その顔から怒りが消えたわけではない。
「兵たちは納得しない」
「だろうな」
「遺族もだ」
「分かっている」
「国境の村の者たちは、また見捨てられると思う」
クラウスの目がわずかに伏せられた。
「ならば、見捨てない形を作る」
「どうやって」
「避難路を軍が守る。補給の帰り荷を空にせず、子供と老人を乗せる。教会にも協力を要請する。墓守にもだ。死者の移送が必要なら、国軍が護衛を出す」
ガレスが目を細める。
「墓まで動かす気か」
「必要ならば」
「……共和国が聞いたら笑うだろうな。戦争中に墓の心配か、と」
「笑わせておけ」
クラウスは静かに言った。
「それがセリュヴェイン王国だ」
その一言で、エルヴィオは手元の紙から目を上げた。セリュヴェイン王国。王を戴き、白天還教の祈りと共に死者を送る国。
月を恐れ、夜を恐れ、それでも死者に祈ることをやめられない国。一方のメルグラント共和国は、王を持たない。議会を掲げ、軍部が実権を握り、合理と軍事を優先する国。
どちらにも理屈がある。どちらにも守りたいものがある。だからこそ、ぶつかった時、傷は深くなる。
「エルヴィオ」
クラウスが呼んだ。
「はい」
「前線再配置案を三つ作れ。一つは現状維持。一つは限定後退。一つは民間人避難を最優先した大幅再配置だ。各案に必要な補給、治療所移設、王都討祓軍への要請範囲、教会への協力要請を付けろ」
「承知しました」
「ガレス」
「……何だ」
「現場指揮官として、限定後退時に守るべき地点を出せ。参謀室の机上案だけでは、兵が死ぬ」
ガレスはしばらく黙っていた。やがて、地図へ歩み寄る。太い指が、赤い駒の一つを押さえた。
「ここは捨てられん」
「理由は」
「水場がある。負傷兵を一時的に置ける石造りの倉庫も残っている。ここを失えば、南側の避難路が細る」
エルヴィオが素早く書き取る。
「では、こちらの丘は」
「見晴らしはいいが、守る価値は低い。共和国に取られても、魔法砲撃陣地として使うには足場が悪い。罠に使える」
クラウスは頷いた。
「続けろ」
ガレスは苦い顔のまま、地図に指を滑らせた。怒りは消えていない。クレイダ墓場災害で失われた兵。
墓を砕かれた遺族。夜に響いた悲鳴。それらが消えることはない。
それでも、怒りを地図に落とし込まなければならない。憎しみを補給線に変えなければならない。死者への祈りを、生者を逃がす道に変えなければならない。
それが、国軍の戦争だった。
◇
参謀室の外では、夕暮れが王都の屋根を赤く染めていた。その頃、東部前線では王国兵も共和国兵も、それぞれの陣地で夜の支度を始めている。
負傷兵を下げる者がいる。土嚢を積み直す者がいる。家族から届いた手紙を胸元へしまい、次の砲撃に備える者もいる。
地図の上では赤と青に分けられた兵たちも、夜が来れば同じように空を見上げる。泥に沈んだ塹壕の上へ、白い月が昇ろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
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