三十万
甘い女子会と悪夢の男子会の日から、王都にまた幾度か月が昇った。王都の空は変わらず白く、夜になれば街の屋根を淡く照らす。第一部隊の隊舎にもいつもの朝が巡り、誰かが寝坊し、誰かが食堂で騒ぎ、誰かが任務へ出て、誰かが帰ってきた。赤い短鎖の盗賊たちのことは、まだ分からないままだった。レイスはローグレスに呼ばれることが増え、ノルは射撃場にいる時間が少し長くなった。アルドは代わりの鉄剣にまだ慣れず、鍛冶屋へ行っては追い返されていた。バルトは脇腹の傷を「もう治った」と言い張り、そのたびにルシアンに睨まれていた。
それでも、日常は続いていた。そしてその日、隊舎の調理場には甘い香りが広がっていた。
「これくらいでいいのかな」
ルシアンは小さな鍋の中を覗き込んだ。薄く切ったリンゴが、砂糖と一緒に柔らかく煮えている。湯気には甘酸っぱい香りが混ざり、そこにほんの少しだけ、ミナに教えてもらった香草の匂いがあった。入れすぎると香りが強くなってしまう。だから、ほんの少し。リンゴを煮る時に一緒に入れて、最後に取り出す。
女子会の席で、ミナが嬉しそうに教えてくれたことを、ルシアンは何度も思い出していた。
「いい香りね」
隣でセレスが言った。今日は非番だった。任務用の外套ではなく、落ち着いた色の上着を着ている。それでも、立ち姿はきれいで、調理場にいてもどこか品があった。
「本当?」
「ええ。甘すぎないわ。たぶん、ミナの言っていた隠し味も上手く入っていると思う」
「よかった」
ルシアンはほっと息をついた。焼き上がったパイ生地は、きつね色に膨らんでいる。表面には薄く卵が塗られ、光を受けてつやつやしていた。ロアンのためのアップルパイだった。旧材木道近くの盗賊騒ぎで、ロアンはルシアンを助けた。命令を破り、飛び出し、肩を斬られた。
無茶だった。叱られるべき行動だった。それでも、あの時ロアンが飛び込まなければ、ルシアンは短剣を受けていたかもしれない。だから、ちゃんとお礼をしたかった。お礼なんていらない、とロアンは言った。
けれど、アップルパイが好きだと即答した顔が、ルシアンの中に残っていた。
「喜んでくれるといいな」
「きっと喜ぶわ」
セレスはそう言ってから、少しだけ首を傾げた。
「一人で行くつもりだったの?」
「うん。村までだから大丈夫かなって」
「その考えは少し危ないわね」
「え?」
「盗賊騒ぎがあったばかりよ。村道は安全確認済みとはいえ、念のため誰かが一緒に行った方がいい」
セレスは当然のように言った。
「私も行くわ」
「いいの?」
「非番だもの。それに、ルシアンのアップルパイを無事に届ける役目なら、悪くないわ」
ルシアンは少し笑った。
「ありがとう、セレス」
「味見役の責任もあるしね」
「あ、味見まだだった」
「それは大問題ね」
セレスが真面目な顔で言うので、ルシアンは笑ってしまった。小さく切った端を二人で味見した。甘い。けれど、ただ甘いだけではない。香草の香りがほんの少しだけ後から来て、リンゴの甘酸っぱさを柔らかくしていた。
「美味しい」
セレスが微笑んだ。ルシアンの顔が明るくなる。
「よかった」
丁寧に包んだアップルパイを籠に入れ、布をかける。ルシアンはその籠を両手で持った。温かい。手のひらに、その温度がじんわり伝わってくる。王都を出た二人は、南西の村道を歩いた。
盗賊騒ぎの後、国軍による確認が入り、道の周囲にはしばらく見回りが増えている。森の奥に残っていた盗賊の痕跡も片付けられ、旧材木道の危険区域には改めて注意札が立てられていた。それでも、森は静かだった。ルシアンは籠を抱き直した。
「少し、緊張する」
「ロアンに会うのが?」
「うん。ちゃんとお礼を言えるかなって」
「もう言ったじゃない」
「そうだけど。あの時は慌ただしかったから」
セレスは横目でルシアンを見る。
「ロアンは喜ぶわ。あの子、分かりやすかったもの」
「そうかな」
「アップルパイが好きです、って顔に全部出ていたわ」
「ふふ、たしかに」
二人はそんな話をしながら村へ向かった。村が見えた時、ルシアンは少しだけ歩調を速めた。あの日、怪我人が集められていた広場は、今は静かだった。荷馬車が一台、広場の端に停められている。子供が二人、井戸のそばで遊んでいた。年配の女が洗濯物を抱えて歩き、遠くで畑仕事の声が聞こえる。平穏に見えた。
だが、ロアンの家へ近づくにつれて、空気が変わった。騒がしい。楽しそうな騒がしさではなかった。何人かの村人が家の前に集まっている。扉は開いていて、中から焦った声が聞こえた。何かが倒れる音。誰かをなだめる声。泣き声。ルシアンとセレスは顔を見合わせた。
「……何かあったのかしら」
セレスの声が低くなる。ルシアンは籠を抱えたまま、駆け出した。
「すみません!」
玄関先にいた村人が振り返る。
「あ、あんた達は……!」
「王都討祓軍第一部隊のルシアンです。こちらはセレス。ロアンさんにお礼を持ってきたんですけど……何があったんですか?」
村人の顔が歪んだ。すぐには答えなかった。その沈黙だけで、ルシアンの胸が少し冷えた。家の中から、明るすぎる声が聞こえた。
「だから平気だって! 俺、全然元気だし! むしろ昨日より身体軽いくらいだって!」
ロアンの声だった。ルシアンは扉の方を見る。家の中では、ロアンが椅子の上に片足を乗せ、母親らしき女性に向かって大きく笑っていた。肩にはまだ包帯が巻かれている。だが、その動きは怪我人のものではなかった。
目が異様に明るい。頬は紅潮し、呼吸は少し速い。声が大きく、笑い方が軽すぎる。母親は泣きそうな顔でロアンの腕を掴んでいた。
「お願い、座って。ロアン、お願いだから……」
「座ってる暇なんてないって! 畑も見に行かないと。あと叔父さんの荷車も直さないと。盗賊がまた来てもいいように、見張り台も作らないと駄目だな。俺がやるよ!全部やる!」
「ロアン!」
叔父が怒鳴った。前に包帯を巻いていた中年の男だった。あの日より傷は癒えているが、顔色は悪い。
「いい加減にしろ!」
「何で怒るんだよ、叔父さん。俺、ちゃんとやるって言ってるだろ」
「だから、それが変だって言ってるんだ!」
ロアンはきょとんとした。その顔が、あまりにも噛み合っていなかった。ルシアンは籠を抱える手に力を入れた。『月酔い』。その言葉が、頭に浮かんだ。
セレスも同じことを思ったのだろう。顔から血の気が引いていた。家の奥で、ロアンの妹らしき少女が泣いていた。父親らしき男は壁際に座り込み、両手で顔を覆っている。ルシアンは一歩、中へ入った。
「ロアンさん」
ロアンが振り向く。顔がぱっと明るくなった。
「あ、ルシアンさん! セレスさんも!」
声は嬉しそうだった。あの日と同じように。いや、あの日よりずっと明るく、軽かった。
「来てくれたんですね! あれ、何ですか? もしかしてアップルパイですか!?」
ルシアンは言葉に詰まった。籠の中には、まだ温かいアップルパイがある。そのために来た。お礼を言うために。笑って食べてもらうために。
なのに、家の中の空気は、それを出せるものではなかった。ロアンの母親が、ルシアンに縋るような目を向けた。
「討祓軍の方……この子、変なんです。最初はちょっと落ち込んでただけだったのに、昨日の夜から、急に……寝ないで、ずっと喋って、何かしようとして……止めても止まらなくて……」
叔父が奥歯を噛みしめる。
「月酔いだって、村の医者が……第三段階だって……」
言葉が落ちた。第三段階。躁鬱錯乱。ルシアンの喉が乾いた。ロアンは首を傾げる。
「何だよ、みんな暗い顔して。俺、元気だって言ってるだろ? むしろ前よりいい。全然眠くないし、何でもできる気がする」
それがもう、答えだった。元気なのではない。眠っていない身体は疲れているはずなのに、ロアン自身には止まる様子がない。ルシアンはゆっくりと籠をテーブルに置いた。布をかけたまま。ロアンの母親がその籠を見たが、何も言えなかった。
アップルパイの甘い匂いだけが、場違いに家の中へ広がる。
「ルシアン」
セレスが小さく呼んだ。どうするの、と言わなかった。言わなくても、分かっていた。ルシアンは拳を握った。王都討祓軍の隊員として。
月酔い患者を見つけた者として。そして、ロアンに助けられた者として。言わなければならないことがあった。
「……ご家族の方に、説明します」
家の中が静かになった。ロアンだけが、落ち着かない様子で椅子から立ち上がろうとする。
「説明? 何の?」
「ロアンさんは、少し座っていてください」
「いや、俺も聞きますよ」
「ロアンさん」
ルシアンの声は優しかった。けれど、揺れなかった。
「お願いです。座っていてください」
ロアンは少しだけ不思議そうにしてから、笑った。
「ルシアンさんに言われたら仕方ないなぁ」
そう言って椅子に座った。足は落ち着きなく揺れていた。ルシアンは家族の方を向いた。
「月酔いが第三段階まで進んだ場合、家で看ることはできません」
母親の肩が震えた。
「そんな……」
「第三段階では、気分の高ぶり、錯乱、衝動的な行動が強くなります。本人に悪気がなくても、自分を傷つけたり、周囲を傷つけたりする可能性があります」
「兄はそんなことしません!」
妹が泣きながら叫んだ。ルシアンは目を伏せた。
「そう信じたいです」
その言い方が、いちばん痛かった。
「でも、月酔いは本人の優しさや意思だけでは止まりません」
ルシアンは事務的に続ける。そうしなければ崩れてしまいそうだった。
「第二段階に入った時点で、第五部隊への引き渡し対象になります。けれど、第三段階まで進んだ場合は、それ以上家で看ることはできません。原則として、引き取りになります」
父親が顔を上げた。
「引き渡すって……どこへ連れていくんだ」
「王都の管理施設です。そこで、状態を確認して、隔離と管理を受けます」
「治るのか」
その問いに、ルシアンはすぐ答えられなかった。治る。そう言えたらよかった。でも、言えない。嘘になる。
「……今の制度では、第三段階まで進んだ月酔いを、家庭で回復させることはできないとされています」
「そんな言い方じゃ分からん!」
叔父が叫んだ。
「戻ってくるのかって聞いてるんだ!」
ルシアンの唇が震えた。セレスが隣に立った。何も言わず、ただそこにいた。それだけで、ルシアンはもう一度息を吸えた。
「戻ってきた話は……聞いたこと……無いです……」
家族の顔が崩れた。母親がその場に座り込み、妹が泣き出す。父親は何かを言おうとして、言葉にならなかった。ロアンだけが、首を傾げていた。
「え、俺どっか行くの? 何で?」
そのおどけた明るい声が、部屋の中にひどく浮いていた。ルシアンは続けなければならなかった。
「第五部隊への引き渡しが決まった場合、家族には見舞金が支払われます」
「金……?」
父親が呟く。
「三十万セリオです」
その数字が、家の中に落ちた。三十万。あまりにも具体的で、あまりにも無機質な金額だった。母親が顔を上げた。
「いりません」
震える声だった。
「そんなお金、いりません。ロアンを連れていかないでください」
「お母さん……」
ルシアンは言葉を失いかけた。だが、制度はそこで止まらない。
「拒否することも、できません」
言った瞬間、自分の声が自分のものではないように聞こえた。
「第三段階の患者を隠した場合、家族にも、村にも危険が及びます。夜間の錯乱で外へ出ることもあります。人を傷つけてしまうこともあります。ロアンさん自身が、もっと苦しむことになるかもしれません」
「でも、家族なんです!」
妹が叫んだ。
「連れていかれるって分かってて、はいって言えるわけない!」
「……はい」
ルシアンは頷いた。
「言えないと思います」
「だったら!」
「でも、決めなければいけません」
部屋が静まり返った。ルシアンの声は、どこまでも優しかった。だからこそ、逃げ場がなかった。
「ロアンさんをこのまま家に置くことは、できません」
母親の嗚咽が聞こえた。父親は床を見つめている。叔父は壁を拳で叩いた。ロアンは椅子に座ったまま、落ち着きなく足を揺らし続けている。
「俺、別に平気なのに〜」
誰も返事ができなかった。ルシアンは胸の奥が潰れるようだった。助けてくれた人だ。アップルパイを楽しみにしてくれていた人だ。村のために走った人だ。
その人を、今、自分は制度の側から連れていく話をしている。ロアンの家族は、長い時間をかけて話し合った。話し合いというより、泣き、怒り、沈黙し、また泣く時間だった。ルシアンとセレスは、家の隅で待った。アップルパイはテーブルの上に置かれたままだった。
誰も布を取らなかった。やがて、父親がゆっくりと顔を上げた。
「……明日の朝で、いいんですか」
その声は、老人のように掠れていた。
「はい」
ルシアンは答えた。
「今から王都へ戻って、ローグレス総隊長と第五部隊に報告します。引き取りは、明日の朝になります」
「今夜だけは」
母親が泣きながら言った。
「今夜だけは、家にいさせてください」
「……はい」
ルシアンは頭を下げた。
「明日の朝、来ます」
ロアンは明るく言った。
「明日また来るんですか? じゃあ、アップルパイは明日みんなで食べましょうよ!俺、今ちょっとやること多いですし、ネ!」
ロアンはルシアンとセレスにカッコ良くウインクを決める。家族の誰も笑わなかった。ルシアンも、セレスも笑えなかった。
「そう……ですね……」
無理やり貼り付けた笑顔を保つのが、精一杯だった。ルシアンとセレスは、王都へ戻った。道中、ほとんど会話はなかった。夕方の森は静かだった。鳥の声も少なく、足音だけがやけに大きく聞こえた。ルシアンは何度も手を見た。
さっきまでアップルパイの籠を持っていた手。今は何も持っていない手。温かさだけが、もう消えかけている。
「ルシアン」
セレスが呼んだ。
「うん」
「あなたは、必要な説明をしたわ」
「……うん」
「決して、間違ってはいない」
「うん」
ルシアンは頷いた。頷いたけれど、涙はこぼれた。
「でも、嫌だね」
セレスは少しだけ目を伏せた。
「ええ」
それ以上は言わなかった。王都に戻った二人は、そのままローグレスへ報告した。総隊長室からすぐに第五部隊への連絡が走った。ローグレスは報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「ロアン……あの勇敢な青年か」
低く呟く。あの盗賊任務の報告書にも、ロアンの名は残っていた。案内役。命令違反。ルシアン救助。
肩口負傷。村人。それらの文字が、今は別の意味を持って重くなっている。
「正式な依頼書はこれから出す。明朝引き取りだ」
「はい」
ルシアンの声は小さかった。ローグレスはその顔を見て、何かを言おうとした。だが、慰めの言葉は出てこなかった。代わりに、静かに言った。
「今日はもう休め」
「……はい」
セレスが軽く頭を下げ、ルシアンを連れて部屋を出た。廊下を歩く二人の背中が見えなくなってから、ローグレスは深く息を吐いた。机の上には、第五部隊への引き取り依頼書が置かれている。記入欄の一つに、金額があった。三十万セリオ。
ローグレスはしばらく、睨みつけるかのようにその数字を見つめていた。翌朝。王都の空は薄く曇っていた。第五部隊の馬車は、まだ朝靄の残る門前に停まっていた。簡素で、飾り気のない馬車だった。外から中が見えないよう、窓には厚い布がかけられている。第五部隊員は三人。
一人は書類と金銭箱を持つ細身の隊員。一人は馬車の管理と拘束具を確認する無口な隊員。もう一人は周辺警戒のため、短い槍を持っていた。誰も笑っていない。だが、誰も乱暴ではなかった。
ただ、慣れていた。その慣れが、かえって痛かった。
「おねぇさんも行くわ」
エディンが静かに言った。いつもの飄々とした笑みは薄い。柔らかさはあるが、軽さはなかった。レイスはすでに馬のそばに立っている。
「非番だが、同行する」
虚ろな表情のルシアンが顔を上げた。
「レイス……」
「昨日の報告は聞いた。第五部隊だけで行かせるより、第一部隊の顔があった方が家族も少しは話しやすい」
言い方は冷静だった。けれど、それだけではないことをルシアンは分かっていた。ルシアンが縋るようにあたりを見回す。
「ア、アルドは……?」
「あいつには知らせていない。今日は単独任務だ。このことを知れば、全部放り出してこっちへ来るだろう。それは駄目だ」
ルシアンは泣きそうになりながら呟く。
「そう……だね……」
セレスが隣に立つ。
「私も行くわ。昨日、説明の場にいたから」
エディンがルシアンの肩にそっと手を置いた。
「ルシアンちゃん、一人で抱えるものじゃないのよぉ」
ルシアンは唇を噛んだ。
「ありがとうございます」
第五部隊員が出発を告げる。馬車は王都を出て、南西の村へ向かった。村に着いた時、ロアンの家の前には昨日より多くの村人が集まっていた。誰も大きな声を出さない。誰も近づきすぎない。
ただ、遠巻きに見ている。ロアンの家の扉は開いていた。中から、明るい声が聞こえる。
「おお、すごいな! 馬車まで来てる! 俺、そんなに大事になってるのか?」
ロアンが出てきた。昨日と同じように、いや、昨日よりもさらに元気に見えた。髪は乱れ、目はぎらぎらと明るい。顔には疲れがあるのに、表情だけが妙に晴れている。家族はその後ろにいた。母親は目を真っ赤にしている。
妹は泣き疲れたように黙っていた。父親は昨日よりさらに背中が丸く見えた。叔父は腕を組み、唇を固く結んでいる。
「ルシアンさん! また来てくれたんですね!」
ロアンが大きく手を振った。ルシアンは胸が詰まりそうになるのを抑えて、微笑んだ。
「はい。来ました」
「昨日のアップルパイ、まだ食べてないんですよ。今日帰ってきたら食べましょう」
帰ってきたら。その言葉に、母親の顔が歪んだ。第五部隊の細身の隊員が、家族へ丁寧に頭を下げた。
「王都討祓軍第五部隊です。ロアンさんの引き取りに参りました」
声は事務的だった。だが、乱暴ではない。
「昨日、説明は受けていますね」
父親が頷いた。声は出なかった。隊員は書類を開く。
「月酔い第三段階到達者の引き取りに伴い、規定により見舞金をお渡しします」
金銭箱が開かれる。袋に入った硬貨が、机の上に置かれた。重い音がした。三十万セリオ。庶民の月収がおよそ十万セリオであることを考えれば、決して小さな額ではない。
それでも、その袋を見た家族の顔には、喜びなど欠片もなかった。母親は袋を見ようともしなかった。父親は震える手で受け取り、すぐに机の端へ置いた。まるで、触れているだけで罪になるもののように。
「確かに、受け取りました」
父親の声は掠れていた。ロアンはその様子を見て、明るく言った。
「何だよ、金もらえるのか? すごいな。俺、何か当てたみたいだな!」
妹が口元を押さえて泣いた。叔父が顔を背ける。第五部隊員は表情を変えなかった。慣れている。慣れてしまっている。
レイスはその横顔を見て、わずかに目を伏せた。ルシアンはロアンの前に立った。
「ロアンさん」
「はい!」
「馬車に乗る前に、ご家族と話してください」
「え、でもすぐ戻るんですよね?」
ルシアンは答えられなかった。ロアンは不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑って母親の方を向いた。
「母さん、そんな顔しなくていいって!俺、ちょっと行ってくるだけだからさ!帰ってきたら見張り台の続きやるし、もちろんアップルパイも食べる!!」
母親がロアンを抱きしめた。強く。ロアンは少し驚いた顔をした。
「母さん?」
「ごめんね」
「何が?」
「ごめんね、ロアン」
「だから、何で謝るんだよぉ」
母親は答えず、泣き続けた。父親がロアンの肩に手を置いた。
「……言うことを聞け」
「うん」
「暴れるな」
「ハハッ!暴れないって!」
「飯は食え」
「あぁ、たくさん食うよ!」
「寒かったら、ちゃんと言え」
「子供じゃないんだから〜」
ロアンは笑った。父親は笑えなかった。妹はロアンの服の裾を掴んだ。
「兄ちゃん」
「どうした?」
「帰ってきてね」
「当たり前だろ?」
その言葉は、優しすぎた。叔父が最後に前へ出た。何か言おうとして、何度も口を開けて閉じた。結局、拳でロアンの頭を軽く叩いた。
「痛いって〜叔父さん」
「痛くしてんだよ」
「またそれかよ!」
「……馬鹿野郎」
「うん。ごめん」
ロアンは笑った。あの日と同じように。泥だらけで帰ってきた時と同じように。少し困ったように、でも明るく。第五部隊員が拘束具を手にした。
ロアンはそれを見て目を輝かせる。
「何ですか、それ。すごいな。俺に使うんですか?」
「安全のためです」
無口な隊員が短く答えた。
「へぇ。第五部隊って、こういうの使うんですね。重いですか? 痛くないですか?」
「痛くはしません」
「ならよかった!」
ロアンは本当に安心したように笑った。その明るさが、場にいる全員の胸を刺した。エディンが少しだけ目を細める。
「ロアンちゃん」
「はい、エディンさん!」
「馬車の中では、おとなしくしているのよぉ」
「はい!」
「いい返事ねぇ」
エディンは笑った。けれど、その笑みはいつもよりずっと薄かった。セレスは母親のそばに立ち、小さく頭を下げた。
「昨日、アップルパイを一緒に作りました。ルシアンが、とても丁寧に」
母親は涙の中で、テーブルの上を見た。布をかけられた籠があった。昨日、ルシアンが置いた場所から動いていない。
「……ありがとうございます」
母親はそう言った。けれど、布を取ることはなかった。ルシアンは、その籠を見ないようにした。見たら、立っていられなくなりそうだった。やがて、ロアンは第五部隊員に付き添われ、馬車へ向かった。
村人たちが道を空ける。誰も声をかけられない。ロアンだけが、明るく手を振った。
「みんな、心配しすぎだって! 俺、すぐ戻るから!」
誰も返事をしなかった。ロアンは少し不思議そうにしながらも、馬車の前で振り返った。
「ルシアンさん!」
ルシアンは顔を上げる。
「アップルパイ、ちゃんと食べますから!」
喉が詰まった。ルシアンは頷いた。
「……はい」
「絶対先に食べないでくださいよ!楽しみにしてたんだから!」
ロアンは笑った。そして、意気揚々と馬車に乗り込んだ。扉が閉まる。重い音だった。第五部隊員が周囲を確認し、馬車がゆっくりと動き出す。
レイス、ルシアン、セレス、エディンはその後に続いた。村人たちは動かなかった。ロアンの家族も、扉の前に立ったまま、馬車が見えなくなるまで見送っていた。馬車の中から、ロアンの声がかすかに聞こえた。
「王都って、どこまで行くんですか? 俺、第五部隊の隊舎って見たことないんですよ。あ、質問多いですか?」
第五部隊員の低い返事は聞こえなかった。レイスは黙って歩いていた。セレスも、エディンも、何も言わなかった。ルシアンは一度だけ振り返った。ロアンの家の扉はまだ開いていた。
その奥に、テーブルが見えた。昨日から変わらぬ位置に、布をかけられた籠が置かれている。ロアン家のテーブルには、手のつけられていないアップルパイがあった。もう、温かくはなかった。
お読みいただきありがとうございます。
今回で第一章は完結になります。
この作品の世界観が伝わっていたらいいなと思ってます。
第一章は自己紹介みたいなものでこれからどんどん展開が動いていきます!
これからもお付き合いいただけると嬉しいです!
せっかくなので第二章も引き続き毎日20時頃更新にします。
続きが気になる!ずっと毎日更新しろ!と思ってくださった方は、ぜひ【★評価】や【ブックマーク】で応援をよろしくお願いします!




